第二十三話
3.構築赤の他人

ユーリの酔いが回ったのは、お酒を口にしてからほんの数分経ってからのことだった。
最初の一口、二口目の段階では、少し陽気になったかな、というレベル。
次の三口、四口目には饒舌になってきて、そろそろアルコールが"少し"回ってきたのでは?と理解した時には、もう一杯目を飲みほしていた。
そして、たった一杯にして、ユーリは完全に酔っぱらってしまったのである。
その姿は、彼の姉であるヨルさんの姿とよく似ていた。
彼女もまた、酒癖が悪く、呂律が回らなくなったり、人に絡んだりと、アルコールに翻弄されるタイプだった。
それでもまだ、ヨルさんのような可憐な女性であれば、しな垂れかかれても満更でもないと思うし、暴れると言っても大した事は起こらない。
けれど成人男性であればどうなのだろうか。


〜!こっちこい〜」
「もうここにいる………」


後ろから抱きしめられ、メモ帳に書き記そうとする私の手を邪魔する。
観察してくれと言ったのはユーリなのに、「そんなものもうどうでもいいよ〜!は真面目だな〜えらいぞ〜!」と言ってにこにこと笑っていた。

正直、こんな風にスキンシップを取られた事は今まで一度もなかった。せいぜいが街中ではぐれないよう手を引かれたくらいの物か。
髪の毛を乾かしてほしいと、からかい半分でおねだりしたあの時が最大のスキンシップだったんじゃないだろうか。
酒の勢いがあれば、普段できないような事も出来るし、やらないような事もやってしまうものだ。
抱き枕代わりにされている事に関しては、苦しいなと思いこそすれど、それ以上の事は何も思わなかった。
酔っ払いのする事にいちいち目くじらを立てても不毛、その行動の理由を求めてもいけないと知っている。


「もう一杯飲もう!もう一杯!」
「だめ。これ以上はもういい。さっきもダメって言った」
「もうちょっと試してもいいだろ?今日すごい疲れてたのに、なんか元気出てきたし、これって一石二鳥じゃないか!」
「酔っててふわふわしてるだけだよ。お酒を疲労回復薬か何かだと思ってる?」

シラフであれば言わないような事を、ユーリはポンポンと口にした。
ヨルさんと約束をした週末まで、後一日しかない。
思い立ったが吉日というのか。後回しにしても仕方がないと思ったけれど、事を急いても仕損じるというのもまた真理である。
疲労困憊状態のユーリに呑ませるべきではなかったかもしれない。


「ねえ、ユーリ重い…ユーリもうお酒飲まないで…」
「えー?やだよ、美味しいし楽しいし」
「楽しいのは当事者だけ……」

そうしてあしらいつつも、どんどん重みは増していく。
最初は後ろから回されていただけの手はどんどん降りて、今度は腹に回される。
ホールドを強められて、どうやっても抜け出せない状態になってしまった。
まるで愛犬にでもするように頬ずりされて、支離滅裂な事を言われて。もうこれはダメだと思った。
強制終了させるしかない。つまり、寝かせて、時間経過で酒を抜くという事。
水を飲ませたり、風呂に行かせたい所だけれど、それは難しいだろう。
私は最終奥儀・ヨルさんのようなおねだりを繰り出す事にした。


「ユーリ、おねがい。心配してるんですよ。もう寝よう?ね?」


からかい半分でも、これをやってユーリが落ちなかったことはない。
私がわざと確信的にヨルさんの真似っこをしているだけだと分かっていながら、ユーリは悶絶するのだ。
ヨルさんのお願いはなんでも聞いてあげたい…というのはユーリが常日頃から主張している事である。
とすれば、ヨルの真似っこをした私の言う事も聞いてくれないだろうか。
実は、この時割と自信はあった。少なくとも五分五分。多分6:4くらいの割合でおねだりを聞いてくれると思ってた。ただ、成功しない可能性もある訳で。
そっちに転んでしまった場合、私にはもうユーリの暴走を止める事はできない。
絶対に失敗できないと思った。だからち、冷や汗をかきながら、真剣にヨルさんの真似をした。
その成果を見るために、そっとユーリと視線を合わせて、その反応を伺う。
すると、ユーリの顔がゆっくりと近づいて。

「え、なに、……え」


──ユーリの唇が、私の唇に重なった。
ほんの刹那。ほんの一瞬で離れるかと思ったソレは、私の息が苦しくなるまで重ねられ続けた。
離れていった瞬間、大きく息を吸い込む。
何もかもが突然だった。いったい何が起きてるのか理解できず、呆然としていたところ、頬をユーリの両手で掴まれ、顔をあげさせられた。
酒のせいか、この状況のせいか。頬が赤みをさしているユーリは、眠そうな目をとろりと細めている。
そして私の顔を覗き込んで、一言。

「かわいい」

今まで見たことのない、恍惚とした表情でそう言ったのだ。

「…照れてる?……はあ、ほんと…かわいいな…可愛すぎてかわいい…つまりかわいい…」

──照れてる。そう言われるまで、私は自分の顔が火を噴く程に熱くなっている事を自覚していなかった。
支離滅裂な事をひとしきり語って満足したようで、ユーリの手がそっと離れていく。
そのまま難なく立ち上がると、グラスを流しでサッと洗い、飲みかけのワインは戸棚にしまった。
そのまま軽く歯磨きをしてから、ユーリは「おやすみ」と言って自室に入っていってしまった。思考は酔って乱ているようだけど、体に支障はないようである。


「…………なんで」

一人きりになった部屋は随分と静かだ。その場にへたり込み、孤独に打ちひしがれた。
自分は本気のつもりだったのに、軽い気持ちで相手に遊び捨てられた女子の気分である。
きっとユーリは、今夜の事を覚えていない。明日の朝には私のメモ帳を頼りにして、
来るべき週末の誕生日会のために対策を立てるのだろう。
だけど、私はそうはいかない。熱くなった顔と、羞恥で震える体が収まらない。
この余韻は明日も明後日も残るだろうし、これから先長く苛まれる事になるのは目に見えた。こっちだけが必死になる、独り相撲にしかならないのだろう。

眠りは浅く、次の日の朝五時には自然と目が覚めた。ユーリより早く起きて、身支度を済ませる。そしてユーリと会わずに済むよう、出かける間際まで引きこもろうと思った。
けれど、朝食を作ったのだと声をかけられくれれば、出ないわけにはいかない。
どんな理由があったとして、ここではねのけるのは、作ってくれた人にも食材にも失礼だろう。


「………昨日のことだけど」


しばらく続いていた食事中の沈黙。さすがに何か聞かれるだろう事は予想はついていたものの、手が一瞬だけとまってしまった。
平静を装いつつ、再び動かす。


「最後のページ、書き途中だっただろう」
「……」
「その後何があった?ちゃんとベットで寝てたのはよかったけど。泥酔して、床で寝て起きる覚悟もしてたし」
「……」


どうして引きこもっていたのかとか、ボクはお前に何かしたか?という聞き方をされたら、何も答えられなかっただろう。
けれどそういう聞き方をしてくれるのであれば、難なく答えられる。
これ幸いと言わんばかりに口を開いた。

「ひとしきりお喋りして、気が済んだら眠くなったみたいで、自分でベッドに行ってたよ。千鳥足っていうほどにはフラフラしてなかったし、言うほど酔いは深くなかったのかも。一杯だけならこんなものかな。よかったね」


よかった。この流れなら、きっと飲酒に関する反省・分析をするだけで終わる。
気まずい事など何もなかったかのように、水に流されてくれる。
そうやってホッと気を抜いていた私は、なんて浅はかだったのだろう。


にとっては、何がよくない事だった?」
「……」


不意をつかれて、ぎょっとしてしまった。
けれどすぐに思い直す。引きこもりまでしたのに、追及されずに終わるなんて虫のいい話はないだろうなと。世の中上手い話などそうそう転がっていないものだ。
私は大きく息を吸って長く長く吐いた。ぺちりと両頬を叩いて気合をいれる。
もう私は腹をくくった。なんの問題もない。恰好悪い姿を見せていたんだと聞いて恥をかくのはユーリだけ。
私はただひたすら受け身に観察していただけで、悪い事なんて何一つしていなのだから。その強い開き直りと決意とは裏腹に、説明するために出てきた声はか細く小さい。
ユーリに聞き直されてしまう始末だった。


「……、されたから」
「は?今、なんて」
「されたから!」

一生懸命絞り出した言葉を聞き返された事になんだかカチンときてしまい、
珍しく大きな声を出した。ぎっと強く人を睨みつけたのは、相当久しぶりかもしれない。


「ユーリがキスしたからいけないの!」

──最悪だ。多分今の私の顔は、真っ赤になってる。涙目にだってなってるはずだ。
一度抑え込んでいたものが爆発すると、ストッパーはなくなって、どんどん溢れだす。
声の震えも動揺も止まらなかった。


「せ、西洋の文化とか、靴とか椅子とかベットとかそのくらいで」
「せいよう?」
「こ、こんなの聞いてない……ひどい…」

街並み、人々の、生活習慣、歴史文化。どれをとってみてもヨーロッパのようだと思った。
だけれど前世でよく見聞きしたように、キスやハグで親しい人に挨拶するという文化は東国ではないと思っていたのだ。
なのに、じゃあ、なぜ。昨夜"親しい"ユーリにされたキスはなんだったのか。
酔った勢いで、この10年間しなかった事をなぜ。顔を覆いながら項垂れてしまった。


「…ユーリ」
「は、はい」

ユーリは私の勢いに圧倒されたのか、敬語になっていた。


「東国にキスする文化なんてないよね」
「ま、まあ」


どうにも煮え切らない、けれど恐らく肯定に近い曖昧な返事をした。
そうなると、じゃあユーリは何故私に対してそんな行動をとったのか。
悶々と考えていると、ユーリはハッと閃いたようで、サッと青ざめた。


「…ま、まさかボクはに手を、」
「そんな訳ないでしょばか!」


突拍子のない事を言われ、食い気味に怒鳴ってしまった。
キスでさえあり得ない程の過剰なスキンシップだ。それ以上の事など起こり得るはずがない。


「…どうしてか、と聞かれても、記憶にないから説明できない、分からないとしか言いようがないけど」
「…」
「想像ならつくよ」


多分、恐らく、きっと。


「かわいいと思ったんだろう。の行動とか言葉が」
「……」


あの瞬間ユーリが何に対してかわいいと思ったのか。心あたりは十分あった。
かわいい、と思わせるためやった事。言わば私はあの時確信犯というヤツだったのだ。
けれどユーリは、いくら姉が可愛いからと言っても、キスをしたりしないだろう。
やはり腑に落ちないものがある。


「そういう、理由だったとして」
「うん」
「そう思ったからって、そんなに簡単にキスするの?キス魔なの?ユーリ、飲み会とかでない方がいいよ」


憤りはいくらか落ち着いてきたけれど、もしそうだとしたら、難儀な体質をしてるなと憐れんでしまった。
ユーリは口を噤んで、何かを思案している様子だった。


「…誰にでもじゃないよ。心配しなくていい」
「…」
「好きなひとにしか、しないだろうから」
「…すきなひと」


ユーリの大事な人は、この世に二人しかいない。自惚れた事を言うけれど、そのうちの一人が私だ。
ユーリが心底大切にしているのは"家族"。ユーリは家族が好きだった。
ユーリの行動原理は、いつだって姉のため、家族のため。
運よくそのテリトリーの中に私は入れてもらえただけ。
だから、あのキスに深い意味はない。「大好きな家族」に親愛をしめしただけだと言う。
だけど、…だけど。それじゃあ私はどうなる?私の立場がなくなってしまう。

「…ひどい、………ほんとに、ひどい…」


私はあの時、すごくドキドキした。
身体中が熱くなって、時間が止まったかのように感じた。
ユーリがほんの気まぐれで親愛を示し、和んでいたの対してだ。私は間違いなく、"異性"に心乱されていた。

──酷く後悔した。
これまでの人生を。ブライア家に迎えられてからの生き方を、思想を、行動を、何もかもを。
やはり彼らは、私にとっては家族とは思えない人達ったのだ。
恩人止まりの人達だ。そうやって私は壁を作って来た。
心の底から親しくはなれませんよという線引きをしていた、だからいけなかったんだ。
早く受け入れておけばよかったと、心底悔やんだ。悔やんでも悔やみきれない。

最初からユーリのことを、心から兄だと慕えていたならば、きっと私も照れる事なく、何ならば、親愛のキスを返せてすらいたのだろう。
ブライアの人たちは、所詮ただの赤の他人だという深層心理が身を滅ぼした。
きっかけがあれば異性として意識をしてしまうような、血の繋がらないひとたちだった。
私はこれからどうやって彼らと…いや、ユーリと過ごしていけばいいんだろう。
私は、あまり感情の起伏が激しい方ではない。今世では環境が影響して、殊更そうだった。
だったら、素知らぬ顔でこのまま暮らし続ける事は出来るだろうか。
今までと変わってしまった部分を隠し、偽り、素知らぬ顔で接していけるのか。

もしできなかったとしたら、きっと私は出て行かざるを得ない。
そうしたら、どうしても自立したい理由とは何なのかと、問いただされるだろう。
ヨルさん達が納得する答えを出せなければ、許されない。そうでなければ、家出同然に強制的に飛び出す他なくなる。
そんな不義理をして許される相手ではない。したいとも思わない。
なら、本当のことを話さなければならないのか──…

──ユーリを異性として意識をしてしまうのが恥ずかしいから、家を出たいのだという事を。
一線を越えた訳でもないのに、まるで生娘のようだと自分を憐れんだ。けれど唇に触れられて何も思わない程に鈍感ではないのだと言い訳する。
日本にもスキンシップを取る文化が浸透してれば、こんな事で悩まなかっただろうか。
後悔先に立たずである。


2022.8.9