第二十二話
3.構築狡猾

グラスに入れた一杯目を飲みほす。
最初は少し饒舌になったかと思う程度の違和感だった。
五分経過すると、酔いがてっぺんまで回った様子。原因は本人の先天的な体質と、疲労度によるものと思われる。
最初は緊張していたが、楽しそうに笑うようになった。十分経過すると、時間感覚もなくなった様子。昼と夜とを間違える。
泣き上戸や怒り上戸を疑っていたが、笑い上戸の可能性が高いと思われる。
ユーリの発言は別紙にまとめる。


「……」


朝、机の上に置いてあったメモ帳を開くと、衝撃的なエピソードが綴られていた。
ある程度の事は覚悟していた。自分がこういう醜態を見せる可能性は高いと思った。そう危惧したからこそ、昨夜実験を行ったのだ。
誰に対してだって醜態は晒したくはないけれど、姉に見せるか、に見せるかの二択しかない現状では、ユーリは迷いなく後者を選択したのだ。


「……ひどい」


まだ昼の12時だとか、疲労回復がどうとかいう世迷言とか。それだけ酔っていて尚二杯目を欲している様子だとか。
見るに堪えない。姉であるヨルのような可憐な女性が見せる気の抜けた姿なら、まだ愛嬌と呼べるだろう。
けれどユーリのような大の男が潰れて絡む様子は害こそ生まれど、なんの需要も供給もないだろうと思う。
ペラペラとメモ帳をめくると、見慣れた筆跡の小さな文字が愛しくなった。
突然無茶ぶりをしたのにも関わらず、熱心に、細かに書いてくれたものだ。
本人の几帳面な気質もあるのだろうが、この細かな雛形の作り方は、ユーリが教えたものだった。
勉学のために仕込んだものが、酔っ払いの観察のために使用されるなど、幼少期のユーリ達は想像もしていなかった。

最後の一枚をめくると、「時間感覚を無くしている。寝かせるため、」という尻切れトンボな一文で終わっていた。
予想通り、酔った後の記憶を無くしていたユーリは、どういう流れがあり、どのタイミングで自分が寝落ちたのかを知らない。
きちんと寝室のベッドで眠っていたので、歩行できる状態ではあったのだとは思う。
小柄なに、酔っ払いの肩をもって介抱が出来るとは思えない。
頭こそ割れそうに痛いし、醜態も晒した。が、床で目が覚めることもなく、仕事に遅れることのな朝の6時に起床して、上々な結果が見れたのではないかと思った。

──机の上にメモ書いて置いた張本人、が自室に閉じこもり出てこなくなるまでは。



、昨日は迷惑かけてごめん」
「…」
「……朝食作ったから、出てきてほしい」

食べ物と、調理にかけた労力を無下には出来ないというの真面目な精神性が、引きこもりに終止符を打たせたらしい。
何度声をかけても沈黙で返し、こもりきりだったも、ようやく部屋から出てきてくれた。
既に制服を着ている。ユーリが起きるより前に洗面所を使って身支度をしていたようで、髪も整っていた。
けれど、俯いたまま顔を上げてくれない。いただきます、という声かけもないままに、無言で手を合わせてから、黙々と食事を摂り始めた。
真面目で律儀というのも損な性格なんだろうなと、他人事のように思いながら眺めた。


「……昨日のことだけど」


問いかけると、の手が一瞬だけ止まって、再び動き始めた。自然を装ったつもりなのだろうが、ユーリにはそれが見抜けた。
この様子では食事が終わればそそくさと逃げられてしまいそうだったので、食事中にカタをつけようと決める。


「最後のページ、書き途中だっただろう」
「……」
「その後何があった?ちゃんとベットで寝てたのはよかったけど。泥酔して、床で寝て起きる覚悟もしてたし」
「……」

はそこで手を止めてから、ふうと息を吐いてから口を開いた。なんだか百年ぶりに声を聞いたかのような気がした。


「ひとしきりお喋りして、気が済んだら眠くなったみたいで、自分でベッドに行ってたよ。千鳥足っていうほどにはフラフラしてなかったし、言うほど酔いは深くなかったのかも。一杯だけならこんなものかな。よかったね」


きちんと説明してくれるは本当に律儀だと思った。よかったね、というのは嫌味ではなく、単純に一杯で足が立たなくなったり暴走するほど泥酔する性質じゃなくてよかったねという感想なんだろう。
だけれど。


にとっては、何がよくない事だった?」
「……」


単刀直入にユーリが問いかけると、ぎょっとした目でみられた。
にとってよくない事…それこそ、引きこもりたくなるくらい嫌な事があったのは明白だろう。それに気が付かないはずがない。
このままの流れなら、長々と酔いどれの経過を説明するだけで、上手く誤魔化して終われると思ったのか。だからこそ口を開いたのかもしれなかった。
けれどやはりそう上手くはいかないと、観念して腹をくくったのか、は渋々と口を開いた。にとっての"よくない"事を。引きこもるに値する程の悪夢を。


「……、されたから」
「は?…何て言った?」
「されたから!」

珍しく声を大きくして、が睨みつけるようにして叫ぶ。

「ユーリがキスしたからいけないの!」


──上々の結果なんて言ったのは誰だろうか。
なんて、どこか他人事のように考えた。こんなのは最悪である。
クールな高嶺の花だなんて言われるような子が、こんなにも声を荒らげるなんて、そうみられるものではない。
少なくとも、この10年、ユーリは見た事がない。
顔を真っ赤にしたは、涙目になっている。抑え込んでいたものが爆発したかのようだった。一度タガの外れた感情はどんどん溢れだし、は動揺を露わにした。


「せ、西洋の文化とか、靴とか椅子とかベットとかそのくらいで」
「せいよう?」
「こ、こんなの聞いてない……ひどい…」


強い憤りのせいで支離滅裂になりながら捲し立て、しかし最終的に風船が萎むように、顔を覆いながら静かに項垂れてしまった。


「………ユーリ」
「は、はい」


しばらく沈黙が続いた後、低い声で名を呼ばれて、ユーリは思わず敬語で返事をした。


「東国には、キスする文化なんてないよね」
「ま、まあ……」


あるにはあるだろうけれど、少なくともブライア家では家族間でそういう事はしない。
なので、否定に近い曖昧な返事をした。
そうなると、なぜユーリがに対してそんな行動をとったのか、という話になる。
記憶にはないが、想像はつく。ユーリは頭を抱えたくなった。
漠然と醜態をさらすという危惧はしていたけれど、何故"こういう"行動に出るかもしれない、という心配はしなかったんだろう。
意識している可愛い女の子を相手にして、手を出す心配の方をすべきだった。


「…ま、まさかボクはに手を、」
「そんな訳ないでしょばか!」


そこまで言いかけた瞬間、食い気味に怒鳴られてしまった。
が、それを聞いてユーリは大きく安心する。どうやら軽いキス以上の一線は越えていないと聞いて、そこからは肩の力を抜いてスムーズに話せるようになった。
にとっては重たいスキンシップだったようだけれど、ユーリにとっては軽いものだ。


「…どうしてか、と聞かれても…記憶にないから説明できない、分からないとしか言いようがないけど」
「……」
「想像ならつくよ」


多分、恐らく、きっと。


「かわいいと思ったんだろう。の行動とか、言葉が」
「…………」


何か思い当たる事でもあったのだろうか。はぎくりと体を強張らせてから沈黙した。いかにも心当たりがありますと言った動作だった。
がどんな行動をとったのかは、ユーリには想像もつかない。は苦々しく顔を歪めて項垂れている。


「そういう、理由だったとして」
「うん」
「そう思ったからって、そんなに簡単にキスするの?キス魔なの?ユーリ、飲み会とかでない方がいいよ」


軽蔑や怒りの色を無くした代わりに、心底悲し気な顔をされた。
侮蔑され、嫌悪されるよりは、憐れまれる方がマシと呼べるのだろうか。あらぬ嫌疑がかかってしまった。ユーリにとってはとんでもなく不名誉な展開である。
ここで本当の事を言うのは簡単だった。一瞬で全てが終わる。トラブルは解決するだろう。
けれど、本当にに対して言ってもいいのだろうか。


「誰にでもするんじゃない。多分姉にだってしない。だからしたんだ」という一言を。

それはに抱く特別な好意を表す、決定的な一言だ。
それをはどう感じるだろう。受け入れてくれるか、拒絶されるかで、何もかもが変わる。
俗に言うフラれる、というやつだ。
赤の他人ならば、そのままお友達に戻りましょうとか、疎遠になるだとかして自然消滅できるだろう。
けれどこの二人の場合、血縁はなくても、完全に赤の他人とは言い切れない。
ブライア家がを家族同然に養ってきて、培われた絆と縁はそう簡単に切り離せるものではない。

リスクを恐れては結果は得られない、告白に踏み切らなければ望む未来は得られない。察してほしい、なんて姿勢では男が廃る。
そうは言えども、ここでユーリが保身に走ったのは、無理がない話だっただろう。


「…誰にでもじゃないよ。心配しなくていい」
「…」
「好きなひとにしか、しないだろうから」
「………すきな、ひと」


復唱するは、憤りも落ち着き、冷静に考えられるようになっているようだった。
我ながら狡猾な逃げ方をしたとユーリは思う。好きな人、という言い回しで濁して逃げれば、角は立たない。どうとでも捉えられる。
好きの範囲も種類もわからない。そのラインをユーリが明確に説明しないかぎり、解釈は相手任せだ。
の性格であれば、これ以上は追及しないだろうという予想がついていたから、こういう逃げ方をした。

その後お互い登校、出勤し、夜になれば今までと同じように振舞うようになった。
心のどこかにお互い気まずい物を抱え、そして出来る限り酒は接種しないよう生きるという共通認識も抱えながら。


2022.8.6