第二十一話
3.構築二十歳


ユーリは20歳になっていた。前の家に三人で暮らしていた時には、欠かさず当日に祝っていた誕生日。
しかし就職に進学にと色々が重なり、加えて住む場所までも物理的に離てしまうと、ちょっと時間を作って祝いましょう、というのも難しくなっていた。
けれどいつかはお祝の席を設けようという話はしていた。
今度こそ具体的になりそうだった。日取りを決めるために、ヨルさんとユーリは電話をしていた。
今月中の私の住まいはユーリの家である。
もう時間も遅く、ご飯も風呂も済ませた私はもう寝る支度に入っていた。


「うん、うん…姉さん、ありがとう…!大丈夫!確かに忙しくしてるけど、元気だから!やりがいのある仕事だし…うん、名前もきちんしてるから」

嬉しそうに目を細め、とろける笑顔見せているユーリ。こんなにも甘い声を向ける相手はただ一人しかいない。
その横顔を、心底微笑ましく思いながら私は見守った。


「うん!それじゃあ、週末に会おうね。…わかってるってば!姉さんも風邪引かないように気を付けて」


ガチャンと受話器を下した音が耳に届き、何気なく視線をそちらに向けた時、信じられないものをみた。
ユーリの顔が、まるでスイッチでも入れたかのように急に真顔になったのである。
それだけと言えばそれだけの話だけれど、その移り変わりはあまりに異様すぎた。
キラキラした瞳と弾んだ声は、一瞬にして面影もなくなる。
どうしたの?と尋ねるべきか、触らなぬ神に祟りなしという格言を信じて寝室に逃げ込むか迷った。
時計の針はもう、後数分もすれば0時にまで届こうとしていた。
今日はユーリもヨルさんも帰宅が遅かったけれど、学生のご身分である私は今日も明日も通常通り。
朝はほどほどに早く授業が始まり、夜もほどほどに早く就寝する。
日本にいた頃ならスマホをいじって深夜まで夜更しもしたかもしれないけれど、
この時代のこの国にはそんな娯楽はない。
今日この時間まで起きていたのは、私もヨルさんと話がしたかったからだ。ユーリに受話器を渡す前に、私が先にヨルさんとお喋りしていたのだ。


「……

ユーリがその口を開いた瞬間、ああ、もう逃げるという選択肢はなくなってしまったなと悟った。
どうしようかと判断に迷った、その僅かな躊躇いの時間が自然界では命取りなのである。
安心安全なはずの我が家で、一体何故こんなに怯えるような事態に陥っているのだろうか。
返事の代わりに、ユーリの近くに歩み寄った。
視線で言葉の先を促す。ユーリは神妙な面持ちで私を見て、重たいその口を開いた。
ごくりと生唾を呑み、一体何を告げられるのだろうかと身構えたその時。


「今からボクは、酒を飲む」
「ん…!?」


聞こえたのは、もの凄くどうでもいい宣言だった。
死の宣告でもされるのかと思っていただけに、驚きは大きかった。ちょっとコーヒーでも飲んで息抜きでもするか、程度の話題を振られて脱力する。


「…あの、なんでいきなりお酒…というか、なんでそんなに深刻になってるの…?」
「ボクが週末、姉さんに20歳の誕生日を祝ってもらうからだよ」
「うん、それはもう知ってるけど。さっきの電話聞いてたし…」

週末に決まったのだろうと言う事はさっきの会話で察せた。
そして、成人しているからこそ、さぁ今から飲酒をしようという発想に繋がるというのも理解できる。仕事の後の一杯を嗜みたくなる事もあるだろう。
ただそれを今私に、こんなに真剣に宣言する理由が分からない。


「聞いてただろうけど…今週末に姉さんの家で誕生日を祝ってもらえる事になった。も予定をあけておいてほしい、姉さんも会いたがってるし」
「もちろん、一緒にお祝いしたい、けど…」

…けど。それとこれとどういう因果が…と言おうとして、ハッと閃いてしまった。
まさか、と言った視線を向けると、こくりと頷かれる。


「ユーリももうお酒を飲める年になったんですものね。私、一緒にお酒を飲めるのを楽しみにしていたんです!」

恐らく、ヨルさんに電話口で、こんな事を語られたのだろう。
そうしてユーリは平静を装い了承つつ、内心では冷や汗をかいていたに違いない。
そしてこう思ったはずだ。
──姉さんの前で、酒に酔って醜態を晒す訳にいかない…!と。
ここまでくれば、もう想像はついた。
何故ユーリがここまで恐れるのかと言えば、近親者のヨルさんが、酒癖が…なんというか、ちょっと悪いからだろう。二親等がアルコールに弱ければ、それが遺伝している確率は高いだろう。
そして敬愛する姉にかっこ悪いところを見せたくないというプライド。
確かに、記念すべき20歳の誕生日にぶっつけ本番をして失敗はしたくないだろう。
何年か経てば良い笑い話にもなるんじゃないかと他人事のように思ってしまう。けれど、本人からすれば切実な問題なのだ。
職場の飲み会は今までなかったのだろうかと疑問を抱いたけれど、酔う程に飲まなかったのか、それとも遠慮したのかどうか。

「…それで、私はどうしたらいいの?」


わざわざこうして打ち明けたからには、私にも役目があるのだろう。
私が眠った後、一人で飲んで実験する、という話では済まされない、その理由が。
ユーリは話が早くて助かると言わんばかりに、饒舌に計画の全貌を語りだした。


「まずボクが飲酒して記憶を無くした場合。明日の朝、どの量でどの程度アルコールが周り、どくらいの時間経過でどうやって潰れて行ったかの経過観察を教えてほしい」
「えと、待って、長い」
「つまり、ただ見守ってくれてればいい」
「それは端折りすぎなような…」


とりあえず一人で飲んだ後、記憶を無くした場合、酔っている間何があったのかは、監視カメラでもつけなければ分からない。
どんな行動をとるのかも予測がつかないので、愚かにも酔った勢いで姉にラブコールでもしようものなら止めてほしい、とも言われた。
ユーリはどうやら真剣なようなので、私も真面目に考えてみる。けれど私には荷が重いと思う。

「…止めようとしても止められない気がする…本気で暴れられたら止められないし」
「それは確かに…。…よしわかった、完全に底を見れなくていい。ボクに少しでも酔いが回った時点でこの実験は止めよう。当日も、そこで飲酒は済ませる」
「それが一番いいと思う、…けど」
「けど?」

ユーリの暴走を止められるとは思えなかったので、そこで妥協してもらえて助かった。
けれど、そのプランには少し問題があると思う。

「お酒ってコンディションによって回りが違うでしょう。例え私を相手にして呑んで、今夜一杯でほろ酔いになったとしても、週末ヨルさんを目の前にして一口飲んだだけで泥酔するかも」
「例え話にしたってそれは…極端すぎないか?」
「一滴も受け付けられない人もいるんだから、あり得る話だと思う」
「まあ、確かに」


今日のユーリは帰りも遅かった。よほどの激務だったのだろう、目に見えて疲労してる。
それだけで回りが早くなる要素になる。
けれど、一緒に呑む相手によっても回りは違う物と思われる。
目の前にいるのはヨルさんではなく私なのだ。それで相殺される気もするけれど、果たしてどうだろう。

「お前、詳しいんだな」
「え?なにに」
「アルコール」
「……未成年、だよ?ちゃんと守ってる」
「そこは姉さんもボクも信用してるけど」


思わずギクリとした。知ったような口を聞く未成年だなと思われたんだろう。
呑んだ事のある人間の語る経験則か、それとものん兵衛を間近で頻繁に見てきた人間の観点か。
今世では一滴も飲んでおらず、酒を嗜む大人も交友関係にはない。
ならばどうしてかと言えば、前世で見聞きしたというだけに過ぎない。けれどその理由を語る訳にはいかない。
「学校の課題で肝臓病について調べたときにちょっと色々と…」と言い訳した。
どんな課題を出されればピンポイントで肝臓について調べる事になるのだと、自分で自分につっこみたくなる。それでも、これ以上に最善の言い訳があったとも思えない。
ユーリにはそれで通用したらしく、特に深く突っ込まれることなく、そのまま冷蔵庫と戸棚から小ぶりな瓶を何本か取り出してもってきた。


「え、いつの間にそんなもの…」
「帰りに閉店間際の酒屋に駆け込んで買ってきた。ビールとワイン」
「ちゃんぽんするのはよくない気がする」
「ちゃんぽん?」
「………何種も合わせるのは肝臓によくないと聞きました」
「なんで敬語なんだよ」


ヨルさんは、当日にいいワインを用意すると電話口で張り切っていたという話を聞いた。
なら、今日もワインだけで試してみたらどうかな、と提案する事で受け流した。これ以上この変の話をするとボロを出すだけだ。
ワインの栓を抜こうとして、栓抜きがない事に気が付く。
ユーリは戸棚に置いたまま忘れてきたと言って、改めて取りに立ち上がった。
その隙に、ふうとため息を吐いて緊張を解く。ユーリの酔いが回るまでどれだけかかるかどうか。
長い夜になるかもしれないな、と覚悟した。
…ほんの、十分後までは。


***

結論から言うと、ユーリはほんの一杯で酔っぱらった。
少し酔いが回ったら、という話だったけれど、一気に回ってしまったら話にならない。少しも何もないだろう。
もしかして一滴でもダメな体質の人間だったのだろうか。
幸か不幸か、当初のユーリの願った通り、底を知る事は出来たのである。
やけに機嫌のいいユーリに抱きつかれながら、私は時計をみた。現在0時20分。
一杯目を飲んでから十分が経過した。メモ帳にカリカリとペンを走らせて、長くとも五分毎に経過を書き記すようにする。
ユーリは泣き上戸ではなく、どうやら笑い上戸に近いらしい。少なくとも今回は明らかに機嫌がよくなっているように見える。
簡易的に作ったお手製カルテの備考欄に記入した。


「もう一杯飲もう!もう一杯!」
「だめ。これ以上はもういい。さっきもダメって言った」
「もうちょっと試してもいいだろ?今日すごい疲れてたのに、なんか元気出てきたし、これって一石二鳥じゃないか!」
「酔っててふわふわしてるだけだよ。一石二鳥って…お酒が疲労回復薬か何かだと思ってる?」

落ち込んだ時にハイにしてくれる麻薬のように使ったり、睡眠薬代わりに寝酒を嗜んでしまったら、もうお終いである。
何かを酒で誤魔化せた、という成功体験を積むのは大変危険だ。
世の中の多くの人がそうしているように、毎晩の嗜み程度で済めばいいけど。アルコール依存症にでもなったら目も当てられない。

「ねえ、ユーリ重い…」


暴走したら止めきれない、という予想は間違っていなかった。回された腕と、圧し掛かってくる体重が重たすぎる。はがそうとしても、固い。
体格差も男女差もある。それに、私は密かにユーリが体を鍛えている事を知ってる。
抵抗できる要素が一つもない。
今のところ、私に絡む事だけで満足しているようだけど、もし電話をかけに行こうとしても止められないだろうし、外に出ようとしたらどうしたらいいのかと頭を悩ませられた。


「ユーリ…もうお酒飲まないで…」
「えー?やだよ、美味しいし楽しいし」
「こういうの、楽しいのは当事者だけ……」


15分経っても酔いは冷めない、と記入する。そしてユーリの発言もメモしておく。
明日の朝のユーリの姿を想像すると哀れになる。
今世の私の体質は知らないけど、前世の私は酒に弱くも強くもなく、興味すらなかったので、前後不覚になる程に酔った事がない。
酒に狂わされた人間の姿を見ると、余計に興味が失せるというもの。
罪なのはアルコール、そして憎むべきは本人の生まれ持った体質。
酔いに支配された後の己の罪の責任が取れないならば呑むべきではない。


「もうこれからは男友達とか、同僚の人と飲んでね。週末は…可哀そうだけど、控えた方がいいと思う…」
「何言ってるんだよ、お前も成人したら一緒に呑むんだぞ?姉さんとボクと三人で!楽しみだなあ!」
「え、い、いやだ……」

想像するだけで地獄だ。ヨルさんとユーリが酔い潰れた後の事後処理をするのは私だろう、そして万が一今世の私の酒癖が悪かった場合、誰もその暴走を止められないという事になる。そんなのは怖すぎる。


「ねえユーリ、もう寝たら。布団に入ったらすぐ寝れるよ、疲れてるんだし、もう遅いし」
「まだまだ時間はあるって!まだ昼間なんだし!」
「あの時計が差してるのは0時。ユーリが言ってるのは12時」

だめだ、時間感覚もなくすなんてもう最悪だ。回された両腕に妨害され大変書きづらい思いをしながら、メモ帳に書き記す。
これは…もう最終奥儀を出すしかないかもしれない。
酔いの回ったユーリの視界にフィルターがかかる事を期待しつつ、ユーリの方に顔を向けて、例のおねだりのポーズをとった。
出来るだけヨルさんの声色に似せて、仕草もテンポも似せて、精度を高めて…
これは私の前世、今世含めて、かつてないほどに真剣な、切実なおねだりだった。
天使のような和やかで楽し気な笑顔の下で、私は動悸をさせて、冷や汗をかいている始末だった。なので。


「ユーリ、おねがい。心配してるんですよ。もう寝よう?ね?」

ああ、ヨルさんの丁寧な口調と、私の素が入り混じって妙な事になってるな、と内心で悔しがりつつ、ユーリの反応を見るために顔を覗き込んで──…

「え、なに、……え」


──酷く後悔した。


2022.8.5