第十九話
3.構築─スタートライン
姉と口論していたあの時には、深く考えていなかった。
離れ離れになるというのは口惜しくて、姉の所にだけ留まらせるのはなんだかズルい気がして。
が「二人の家を行き来する」という提案をした時は、妙案だと思ったものだ。
自身は、そうする事を心から望んでいたのではないと思う。
嫌ではないけど、部屋数を増やしたり、余計な出費を増やすのが苦しい。
そんな思考は見え透いていた。けれど、ヨルはの思う迷惑など苦にもならず、純粋に喜んでいたのだ。
…"二人暮らし"をするという事実を実感するまでは、ユーリも手放しに喜んでいた。
何故あんな大胆な選択を呑むしたのかと、ユーリは頭を抱えた。
一か月事に行き来するというのが条件だし、もユーリも学業と仕事がある。
との接点など、前にもまして減るのだろう。
けれどほんのわずかの時間でも、二人きりになる瞬間が訪れる。
その時、ユーリの心が動かされない自身がなかった。
姉に対して抱く愛情とはやはり違う、甘やかな恋情のような物は、ユーリを困らせていた。
「不束者ですが、今日からよろしくお願いします」
引っ越し当日。荷物を運び入れ、必要最低限の荷ほどきをして落ち着いた頃。
は正座をして、ユーリに向けてペコリと頭を下げた。
ユーリは立ちすくみ、無言で見下ろす他ない。
それをは少し困ったように、何か失言をしただろうかと伺い見ている。
なんてことはない。
まるで嫁入り前の少女だと思った自分は愚かだなと、苦々しく思っていだけだった。
「あのね、ヨルさんの家とユーリの家、行き来する度に物に必要な荷物を運ぶのって手間でしょう」
「ああ、そうだろうね。そんなの効率が悪すぎる。最初から最低限、どちらの家にも揃えておけばいいと思うよ」
の一挙手一投足、全ての言葉に過剰反応する訳ではなかった。こうして他愛のない話を振られたならば、なんて事なく答える事が出来る。
万が一常に身構えてしまうようであれば、流石に二人暮らしなど耐えられなかっただろう。
適当に理由をつけて…それこそ、やっぱり同性同士の方がいいだろう、などと言って、
お断りしていたに違いない。
「とりあえず歯ブラシと、化粧品と、…これだけで結構沢山あるるね…。…あ、あと、シャンプーも置いていい?」
「もちろん。ここはの家でもあるんだから、好きにしていいよ」
日常的なやり取りをする分には支障ない…どころか、肩の力が抜ける。癒されているのを感じる。
もうすっかり馴染んだ身近な存在だ。この世に二人しかいない、気を使わなくていい相手である。
鞄の中から一つ一つ中身を取り出し、机の上に並べる。
の丁寧な性格が垣間見えた。効率がいいとやり方とは言えないけれど、整理整頓しようと努める姿は、小動物的で愛らしかった。思わず笑みをこぼしながらその姿を眺めた。
その視線が気になったのか、ちらりとユーリの方を見やる。
微笑みを深める事で、なんでもないと言う意思を示した。
も曖昧に笑うことで返事をして、再び作業に戻る。
のんびりとした仕草を見ているのは、時間を忘れて観賞魚を眺めているときのような、どこか心安らぐものを感じた。
小物を並べ終わった後、荷の底から出てきたのは衣類だった。
さすがにそれを机に並べる事はなかったけれど、一枚だけ手に取って体に当てがった。
「…あ。それで、ユーリの家で着る専用のパジャマがこれ」
畳んであった服がすとんと降りた後、はどこか誇らしげに笑った。
「似合ってる?ヨルさんと一緒に選んだんだよ」
言葉通り、似合ってると褒めてほしい気持ちもあったのだと思う。
けれど、このしたり顔を見るに、姉を熱愛してるユーリをからかう意図の方が大きいと察した。確かに普段ならば、ヨルを独り占めするなんてズルい!と叫んでいた事だろう。
けれど、洋服を選ぶ買い物に男を連れていかなかった事情も理解できる。
その上、ワンピースの下にレギンスを合わせたその部屋着は、甘すぎずカジュアルすぎず、にとてもよく似合っていると思えた。
文句を言いたくなる気持ちは自然と失せて、代わりに肯定的な言葉がスルスルと口からこぼれ出る。
「すごくかわいい。その色、のイメージにぴったりだと思うよ」
「……え、と。い、イメージって…なに?」
「控えめな性格だけど、信念は固い。儚げな容姿をしているのに、結構悪戯っ子っぽいところもあって」
にピッタリのデザインだ、いやのために作られたに違いないと、やけに饒舌に語った自分に自分で驚いた。
けれど、気持ちを抑えるのをやめると決めた日から、程度の差はあれど、こんな感じなのだ。
姉に対して無限に愛の言葉を紡げるように、に対しての褒め言葉も、放っておけばつらつら並べられるようになってきていた。
バカの一つ覚えのように可愛い、しか言えなかった頃とは変わってきてる。
「すごく、すごくかわいいと思う」
けれど、可愛いという言葉は決して悪い文句ではないし、姉に対してもに対しても、今後も多用する事だろう。
実際、嘘偽りなく可愛いのだ。まるで口説いているようだなという複雑な思いと、口説いても過ちではない、という開き直りが同時に孕まれる。
あるがままに。芽生えるがままに。素直に感じたままに。そうして接していくうち、きっともっともっとを好きになる。
──その時は、ユーリの事を果たして好きになってくれるだろうか。
「この恋が叶わないというならば、私はもう死んでしまいたい」
テレビで放送されていた恋愛ドラマの文句が脳裏に過った。
主人公が愛を囁くこのシーンは、予告CMでもピックアップされていたくらいには見せ場だったらしい。このシーンにきっと視聴者は心動かされるのだろう。
ユーリは考える。多分、と両想いになれなくても、結婚できなくても。
ユーリは死にたくはならないだろうなと。
出来れば叶えばいいと思う。けれど、棚ぼたと同じくらいの歓喜なのだろう。
死んでしまいたい程に身を焦がす恋をする自分なんて、まるで想像もつかない。
けれど、ユーリは愛が好きだった。姉を愛するのが好きだった。家族を愛していた。
愛に生きた人生だ。を愛する事にも、とことんまで落ちてしまえば最早抵抗がなく、心地いいとも思う。
一方はと言えば、ユーリが愛に慣れて行けば行くほどに、動揺と困惑を強めていた。
そろりと手を伸ばして、ユーリの額に手を当てる。
「…熱、ないね。念のために聞くけど、酔ってないんだよね?」
「…なんだよその反応。可愛いと思ったから可愛いって言っただけで…そんないつもの事なのに、なんで今更」
「いつもの、事…」
まあ、多少無理がある言い訳だな、とはユーリも自覚していた。
昔から唱え続けた"可愛い"とは種が違ってきている。具体性を伴ってる。
熱に浮かされた心が生み出した口説き文句に違いないのだ。
疑惑の眼差しを向けられ、誤魔化されていれない事を察すると、ユーリはなんとなく話しを逸らした。
「お前の事が好きになりかけてる」と明かすのは、臆病じゃない性格をしているユーリでも、多少所ではない抵抗がある。
引っ越して来た初日から料理をするのは疲れるし、今日は出前を取って済ませようと提案すると、も頷いてくれた。
食の好みはかけ離れていない。ユーリのチョイスでいいと任せてくれたので、出前を頼んでいる間、先に風呂に入っていいと進めた。
が視界から消え、気配さえもなくなると、無意識に入っていた力が体から抜けていくのを感じた。
慣れていくのだろうか。こういう緊張にも。そうじゃなければずっとこうなのか。それとも、悪化するのか。
入用の時のため、リストアップしておいた出前の広告を取り出し、適当なものを選んで店に電話した。
が風呂から上がって、髪を乾かした後くらいには、到着するだろう。
この店舗はユーリの家から少し離れた場所にあるらしいと、住所の欄を見てザッと時間計算する。
長風呂という程ではないけれど、やはりも女子なので、男よりは身支度に時間がかかる。
「ユーリ、お待たせ」
先ほど話題にしたばかりのパジャマを着て、は風呂から出てきた。
やはり思った通りによく似合っているなと、ユーリは笑顔になった。
ほっこりとしたその心境を知っか知らずか。ソファーに座ったユーリの足元に座り込み、はドライヤーを手渡してきた。
「髪の毛かわかしてほしいな。…おねがい。ね?」
「う゛っ…!?」
その仕草は、姉であるヨルの癖だ。明らかに真似ている。
それが可愛いと知っているからこそ技を盗んだのだろう。
ユーリは姉のおねだりに弱かった。は中々あざといと、最近しみじみ実感する。
のソレは姉とは違い素ではなく、計算なのだろう。それを理解しても尚乱される。
それもこれも、元をたどれば姉が可愛すぎるのがいけない。天使をみて育った女は天使になろうとするのか。
そんなよく分からない思考がぐるぐると巡る。手の平を合わせて上目で見るその姿は、間違いなく"かわいい"。
そうは言ってもだ。はもしかして、結構テンションが上がっているのかもしれないと思った。
クールな高嶺の花といういつか聞いたあの噂も、まあ一理あると思う。
年の割には落ち着いてる。分別がつきすぎる。
よって、子供らしい行動をとろうとしない。たまにヨルの真似をしておねだり攻撃してきたり、ユーリをからかったりするけれど、その程度だ。
髪の毛を乾かしてほしいとねだられた事はないし、出来る事は自分でやるというのがモットーらしいがこんな形で甘えるのは珍しい。
引っ越しというのは、人生の中で何度もある事ではない。気分が高揚してもおかしくないだろう。
抗えぬまま、ユーリはコンセントを刺して、黙々とスイッチを入れた。
ゴオッという音が立ち、温風が生まれる。手の平で温度を確かめてから、恐る恐るの髪に触れた。
もしかしたら、これが初めてかもしれない。
ヨルはよく、お人形遊びでもするかのようにの髪を結ってあげていたものだ。
けれど、ユーリがそこまで世話する義理もなかったし、自身もそんな事は求めてはいなかった。
初めて触れた髪は想像よりも柔く細い。自分のものとは違う毛質。
繊細、という印象を抱いた。壊れ物のように接しなければならないと思う。
他人の髪に触り慣れていない人間は、誰しも大なり小なりこうして緊張するものだ。
けれどユーリはそれに加えて、意識をしている女性を相手にしているという条件が重なって、酷く慎重になっていた。
風に遊ばれている髪をどうにか指に絡めると、水滴が伝い落ちる。
そのまま首筋に滴り落ちそうになったので、流れを変えてやろうと根本から救い上げた。すると。
「…きもちい」
ホッとしたような呟きが聞こえて、思わずユーリの手は止まった。全身が硬直する。
ユーリの動揺など素知らぬは、まるで猫のように足に寄り掛かって、完全にくつろいでいた。
一瞬密着されてどきりとした物だけど、もしかしてと思い当たるところがあり、その高揚も落ちた。
これは異性とのスキンシップではなく、まるで子供のような甘えた状態なのだろう。
「…お前、…。もしかして眠いの?」
「ちょっとだけ」
やっぱり、今日は随分はしゃいでいたらしい。
荷ほどきで疲れただろうし、慣れない環境に緊張したり、高揚したり。
それがおねだりや甘えたと言ったはしゃいだ行動に繋がったのだろうと、ユーリは改めて理解した。
心のどこかに、落胆と安心が同時に生まれた。
夕ご飯もまだ到着していないけれど、ベッドに向かわせた方がいいのかどうか。
意趣返し、という程のことではないけれど、少しだけ意地悪をしてやる事にした。
「こんな所で寝ても、ボクは運んでやらないからな。自分でベットに行けよ」
「やだ。いじわる」
「ぐっ…!?」
ユーリのささやかに意趣返しに、改めてからかいでもってやり返された。
完敗だ。この確信犯は、あざとすぎる。
くすくすと笑うが体から力を抜いて、もたれかかってきた。
最早やり返す気力もわかず、呻く他ないユーリにこれ以上何をする気か。
はふと何かを思いついたようにくるりと体を反転させて、ユーリを見上げてきた。
真っすぐな視線から逃げる事が出来ない。
「ユーリ」
「な、なに?」
ドライヤーのスイッチを止めると、静寂に包まれた。
時計の秒針が進む音だけがカチコチと響く。
がすっと息を吸い込む音がやけに大きく聞こえる。今度のは真剣で、そこにかららかいの意図はない。
「ユーリ、大きくなったね。すごく成長した」
──心から、そう言っている。
そこに嘘偽りはない。真っすぐ、奥底まで射抜かれる。
「カッコよくなったよね。顔立ちが整ってるのは昔からだけど…この手も」
さっきまでの髪を情けなく、弱々しく触っていた手を両手で取って、まるで大事なものを慈しむように撫でた。
今のは確信犯ではない。計算で甘えているのではなく、世辞を言っているのでもない。
それくらいはユーリにもわかった。伊達に付き合いは長くないのだ。
──故に。
「つま先からてっぺんまで、あなたは魅力的。一人の人間として、完璧になった」
期待してしまった。望んでしまった。
兄としてでなく、家族としてでなく、恩人としてでなく。
一人の人間として、男として。も自分を愛してくれるのではないかと──
そう想像すると、ぶわりと身の毛がよだった。
愛される自分を想像するのは、快感だった。うっとり惚けてしまう程に魅力的だった。
大切な人を正しい形で愛し、愛される、相思相愛の平和な未来。
そんな未来が手に入ったなら…と。
常々考えていたビジョンがより鮮明になったこの瞬間、体を支配した幸福感は甘く、恍惚に震えた。
自分の顔は酷く熱くて、色づいているだろう事は、鏡を見なくても分かる。
何か言わなければ、と口を開こうとしても、乾いてしまって上手く声が出てこない。
は、社会人となったユーリを激励するための言葉を、今日という節目の日に贈ったのだろう。その事は理解していた。
チャイムの音が鳴り響き、注目していた食事が配達されたのだと気づき、自然な素振りでこの場を離れる。
玄関先で会計をしている間にも、ユーリは考えていた。
──兄として見たことはない。
──一人の人間として、完璧で魅力的。
の言葉が脳内に何度も浮かんでは消える。
ようやく一人の人間として、と向き合えるようになった。スタートラインに立つ資格を得られたのだろうと、今、確信していた。
──あながち、これは負け戦ではないのかもしれない、という事も。
3.構築─スタートライン
姉と口論していたあの時には、深く考えていなかった。
離れ離れになるというのは口惜しくて、姉の所にだけ留まらせるのはなんだかズルい気がして。
が「二人の家を行き来する」という提案をした時は、妙案だと思ったものだ。
自身は、そうする事を心から望んでいたのではないと思う。
嫌ではないけど、部屋数を増やしたり、余計な出費を増やすのが苦しい。
そんな思考は見え透いていた。けれど、ヨルはの思う迷惑など苦にもならず、純粋に喜んでいたのだ。
…"二人暮らし"をするという事実を実感するまでは、ユーリも手放しに喜んでいた。
何故あんな大胆な選択を呑むしたのかと、ユーリは頭を抱えた。
一か月事に行き来するというのが条件だし、もユーリも学業と仕事がある。
との接点など、前にもまして減るのだろう。
けれどほんのわずかの時間でも、二人きりになる瞬間が訪れる。
その時、ユーリの心が動かされない自身がなかった。
姉に対して抱く愛情とはやはり違う、甘やかな恋情のような物は、ユーリを困らせていた。
「不束者ですが、今日からよろしくお願いします」
引っ越し当日。荷物を運び入れ、必要最低限の荷ほどきをして落ち着いた頃。
は正座をして、ユーリに向けてペコリと頭を下げた。
ユーリは立ちすくみ、無言で見下ろす他ない。
それをは少し困ったように、何か失言をしただろうかと伺い見ている。
なんてことはない。
まるで嫁入り前の少女だと思った自分は愚かだなと、苦々しく思っていだけだった。
「あのね、ヨルさんの家とユーリの家、行き来する度に物に必要な荷物を運ぶのって手間でしょう」
「ああ、そうだろうね。そんなの効率が悪すぎる。最初から最低限、どちらの家にも揃えておけばいいと思うよ」
の一挙手一投足、全ての言葉に過剰反応する訳ではなかった。こうして他愛のない話を振られたならば、なんて事なく答える事が出来る。
万が一常に身構えてしまうようであれば、流石に二人暮らしなど耐えられなかっただろう。
適当に理由をつけて…それこそ、やっぱり同性同士の方がいいだろう、などと言って、
お断りしていたに違いない。
「とりあえず歯ブラシと、化粧品と、…これだけで結構沢山あるるね…。…あ、あと、シャンプーも置いていい?」
「もちろん。ここはの家でもあるんだから、好きにしていいよ」
日常的なやり取りをする分には支障ない…どころか、肩の力が抜ける。癒されているのを感じる。
もうすっかり馴染んだ身近な存在だ。この世に二人しかいない、気を使わなくていい相手である。
鞄の中から一つ一つ中身を取り出し、机の上に並べる。
の丁寧な性格が垣間見えた。効率がいいとやり方とは言えないけれど、整理整頓しようと努める姿は、小動物的で愛らしかった。思わず笑みをこぼしながらその姿を眺めた。
その視線が気になったのか、ちらりとユーリの方を見やる。
微笑みを深める事で、なんでもないと言う意思を示した。
も曖昧に笑うことで返事をして、再び作業に戻る。
のんびりとした仕草を見ているのは、時間を忘れて観賞魚を眺めているときのような、どこか心安らぐものを感じた。
小物を並べ終わった後、荷の底から出てきたのは衣類だった。
さすがにそれを机に並べる事はなかったけれど、一枚だけ手に取って体に当てがった。
「…あ。それで、ユーリの家で着る専用のパジャマがこれ」
畳んであった服がすとんと降りた後、はどこか誇らしげに笑った。
「似合ってる?ヨルさんと一緒に選んだんだよ」
言葉通り、似合ってると褒めてほしい気持ちもあったのだと思う。
けれど、このしたり顔を見るに、姉を熱愛してるユーリをからかう意図の方が大きいと察した。確かに普段ならば、ヨルを独り占めするなんてズルい!と叫んでいた事だろう。
けれど、洋服を選ぶ買い物に男を連れていかなかった事情も理解できる。
その上、ワンピースの下にレギンスを合わせたその部屋着は、甘すぎずカジュアルすぎず、にとてもよく似合っていると思えた。
文句を言いたくなる気持ちは自然と失せて、代わりに肯定的な言葉がスルスルと口からこぼれ出る。
「すごくかわいい。その色、のイメージにぴったりだと思うよ」
「……え、と。い、イメージって…なに?」
「控えめな性格だけど、信念は固い。儚げな容姿をしているのに、結構悪戯っ子っぽいところもあって」
にピッタリのデザインだ、いやのために作られたに違いないと、やけに饒舌に語った自分に自分で驚いた。
けれど、気持ちを抑えるのをやめると決めた日から、程度の差はあれど、こんな感じなのだ。
姉に対して無限に愛の言葉を紡げるように、に対しての褒め言葉も、放っておけばつらつら並べられるようになってきていた。
バカの一つ覚えのように可愛い、しか言えなかった頃とは変わってきてる。
「すごく、すごくかわいいと思う」
けれど、可愛いという言葉は決して悪い文句ではないし、姉に対してもに対しても、今後も多用する事だろう。
実際、嘘偽りなく可愛いのだ。まるで口説いているようだなという複雑な思いと、口説いても過ちではない、という開き直りが同時に孕まれる。
あるがままに。芽生えるがままに。素直に感じたままに。そうして接していくうち、きっともっともっとを好きになる。
──その時は、ユーリの事を果たして好きになってくれるだろうか。
「この恋が叶わないというならば、私はもう死んでしまいたい」
テレビで放送されていた恋愛ドラマの文句が脳裏に過った。
主人公が愛を囁くこのシーンは、予告CMでもピックアップされていたくらいには見せ場だったらしい。このシーンにきっと視聴者は心動かされるのだろう。
ユーリは考える。多分、と両想いになれなくても、結婚できなくても。
ユーリは死にたくはならないだろうなと。
出来れば叶えばいいと思う。けれど、棚ぼたと同じくらいの歓喜なのだろう。
死んでしまいたい程に身を焦がす恋をする自分なんて、まるで想像もつかない。
けれど、ユーリは愛が好きだった。姉を愛するのが好きだった。家族を愛していた。
愛に生きた人生だ。を愛する事にも、とことんまで落ちてしまえば最早抵抗がなく、心地いいとも思う。
一方はと言えば、ユーリが愛に慣れて行けば行くほどに、動揺と困惑を強めていた。
そろりと手を伸ばして、ユーリの額に手を当てる。
「…熱、ないね。念のために聞くけど、酔ってないんだよね?」
「…なんだよその反応。可愛いと思ったから可愛いって言っただけで…そんないつもの事なのに、なんで今更」
「いつもの、事…」
まあ、多少無理がある言い訳だな、とはユーリも自覚していた。
昔から唱え続けた"可愛い"とは種が違ってきている。具体性を伴ってる。
熱に浮かされた心が生み出した口説き文句に違いないのだ。
疑惑の眼差しを向けられ、誤魔化されていれない事を察すると、ユーリはなんとなく話しを逸らした。
「お前の事が好きになりかけてる」と明かすのは、臆病じゃない性格をしているユーリでも、多少所ではない抵抗がある。
引っ越して来た初日から料理をするのは疲れるし、今日は出前を取って済ませようと提案すると、も頷いてくれた。
食の好みはかけ離れていない。ユーリのチョイスでいいと任せてくれたので、出前を頼んでいる間、先に風呂に入っていいと進めた。
が視界から消え、気配さえもなくなると、無意識に入っていた力が体から抜けていくのを感じた。
慣れていくのだろうか。こういう緊張にも。そうじゃなければずっとこうなのか。それとも、悪化するのか。
入用の時のため、リストアップしておいた出前の広告を取り出し、適当なものを選んで店に電話した。
が風呂から上がって、髪を乾かした後くらいには、到着するだろう。
この店舗はユーリの家から少し離れた場所にあるらしいと、住所の欄を見てザッと時間計算する。
長風呂という程ではないけれど、やはりも女子なので、男よりは身支度に時間がかかる。
「ユーリ、お待たせ」
先ほど話題にしたばかりのパジャマを着て、は風呂から出てきた。
やはり思った通りによく似合っているなと、ユーリは笑顔になった。
ほっこりとしたその心境を知っか知らずか。ソファーに座ったユーリの足元に座り込み、はドライヤーを手渡してきた。
「髪の毛かわかしてほしいな。…おねがい。ね?」
「う゛っ…!?」
その仕草は、姉であるヨルの癖だ。明らかに真似ている。
それが可愛いと知っているからこそ技を盗んだのだろう。
ユーリは姉のおねだりに弱かった。は中々あざといと、最近しみじみ実感する。
のソレは姉とは違い素ではなく、計算なのだろう。それを理解しても尚乱される。
それもこれも、元をたどれば姉が可愛すぎるのがいけない。天使をみて育った女は天使になろうとするのか。
そんなよく分からない思考がぐるぐると巡る。手の平を合わせて上目で見るその姿は、間違いなく"かわいい"。
そうは言ってもだ。はもしかして、結構テンションが上がっているのかもしれないと思った。
クールな高嶺の花といういつか聞いたあの噂も、まあ一理あると思う。
年の割には落ち着いてる。分別がつきすぎる。
よって、子供らしい行動をとろうとしない。たまにヨルの真似をしておねだり攻撃してきたり、ユーリをからかったりするけれど、その程度だ。
髪の毛を乾かしてほしいとねだられた事はないし、出来る事は自分でやるというのがモットーらしいがこんな形で甘えるのは珍しい。
引っ越しというのは、人生の中で何度もある事ではない。気分が高揚してもおかしくないだろう。
抗えぬまま、ユーリはコンセントを刺して、黙々とスイッチを入れた。
ゴオッという音が立ち、温風が生まれる。手の平で温度を確かめてから、恐る恐るの髪に触れた。
もしかしたら、これが初めてかもしれない。
ヨルはよく、お人形遊びでもするかのようにの髪を結ってあげていたものだ。
けれど、ユーリがそこまで世話する義理もなかったし、自身もそんな事は求めてはいなかった。
初めて触れた髪は想像よりも柔く細い。自分のものとは違う毛質。
繊細、という印象を抱いた。壊れ物のように接しなければならないと思う。
他人の髪に触り慣れていない人間は、誰しも大なり小なりこうして緊張するものだ。
けれどユーリはそれに加えて、意識をしている女性を相手にしているという条件が重なって、酷く慎重になっていた。
風に遊ばれている髪をどうにか指に絡めると、水滴が伝い落ちる。
そのまま首筋に滴り落ちそうになったので、流れを変えてやろうと根本から救い上げた。すると。
「…きもちい」
ホッとしたような呟きが聞こえて、思わずユーリの手は止まった。全身が硬直する。
ユーリの動揺など素知らぬは、まるで猫のように足に寄り掛かって、完全にくつろいでいた。
一瞬密着されてどきりとした物だけど、もしかしてと思い当たるところがあり、その高揚も落ちた。
これは異性とのスキンシップではなく、まるで子供のような甘えた状態なのだろう。
「…お前、…。もしかして眠いの?」
「ちょっとだけ」
やっぱり、今日は随分はしゃいでいたらしい。
荷ほどきで疲れただろうし、慣れない環境に緊張したり、高揚したり。
それがおねだりや甘えたと言ったはしゃいだ行動に繋がったのだろうと、ユーリは改めて理解した。
心のどこかに、落胆と安心が同時に生まれた。
夕ご飯もまだ到着していないけれど、ベッドに向かわせた方がいいのかどうか。
意趣返し、という程のことではないけれど、少しだけ意地悪をしてやる事にした。
「こんな所で寝ても、ボクは運んでやらないからな。自分でベットに行けよ」
「やだ。いじわる」
「ぐっ…!?」
ユーリのささやかに意趣返しに、改めてからかいでもってやり返された。
完敗だ。この確信犯は、あざとすぎる。
くすくすと笑うが体から力を抜いて、もたれかかってきた。
最早やり返す気力もわかず、呻く他ないユーリにこれ以上何をする気か。
はふと何かを思いついたようにくるりと体を反転させて、ユーリを見上げてきた。
真っすぐな視線から逃げる事が出来ない。
「ユーリ」
「な、なに?」
ドライヤーのスイッチを止めると、静寂に包まれた。
時計の秒針が進む音だけがカチコチと響く。
がすっと息を吸い込む音がやけに大きく聞こえる。今度のは真剣で、そこにかららかいの意図はない。
「ユーリ、大きくなったね。すごく成長した」
──心から、そう言っている。
そこに嘘偽りはない。真っすぐ、奥底まで射抜かれる。
「カッコよくなったよね。顔立ちが整ってるのは昔からだけど…この手も」
さっきまでの髪を情けなく、弱々しく触っていた手を両手で取って、まるで大事なものを慈しむように撫でた。
今のは確信犯ではない。計算で甘えているのではなく、世辞を言っているのでもない。
それくらいはユーリにもわかった。伊達に付き合いは長くないのだ。
──故に。
「つま先からてっぺんまで、あなたは魅力的。一人の人間として、完璧になった」
期待してしまった。望んでしまった。
兄としてでなく、家族としてでなく、恩人としてでなく。
一人の人間として、男として。も自分を愛してくれるのではないかと──
そう想像すると、ぶわりと身の毛がよだった。
愛される自分を想像するのは、快感だった。うっとり惚けてしまう程に魅力的だった。
大切な人を正しい形で愛し、愛される、相思相愛の平和な未来。
そんな未来が手に入ったなら…と。
常々考えていたビジョンがより鮮明になったこの瞬間、体を支配した幸福感は甘く、恍惚に震えた。
自分の顔は酷く熱くて、色づいているだろう事は、鏡を見なくても分かる。
何か言わなければ、と口を開こうとしても、乾いてしまって上手く声が出てこない。
は、社会人となったユーリを激励するための言葉を、今日という節目の日に贈ったのだろう。その事は理解していた。
チャイムの音が鳴り響き、注目していた食事が配達されたのだと気づき、自然な素振りでこの場を離れる。
玄関先で会計をしている間にも、ユーリは考えていた。
──兄として見たことはない。
──一人の人間として、完璧で魅力的。
の言葉が脳内に何度も浮かんでは消える。
ようやく一人の人間として、と向き合えるようになった。スタートラインに立つ資格を得られたのだろうと、今、確信していた。
──あながち、これは負け戦ではないのかもしれない、という事も。