第十六話
3.構築─色鮮やかな世界
あれからとは、まともに顔を合わせられなくなっていた 。
今までと変わらないよう接するというのは、今までと変わった部分を隠す必要があるということ。
今までにない感情が表に出ないよう必死に押し殺すのは、とんでもない労力だった。
そして、押し殺そうとするその枷を外せば、その奥からどんな感情が飛び出てくるのかどうか。
ユーリ自身にも想像がつかず、それが恐ろしかった。
幸い、逃げるための口実は山ほどあった。社会人なりたての身として、あくせく働き、
実際慣れない環境や厳しい職務を飲み込むため、時間も体力も消費されていった。
けれどこれは覚悟はていた事、望んでいた事。
夢を叶えるため、ユーリは休んでいる暇はない。今は踏ん張り時というやつだった。
自身、現在受験生だという事もあり、お互い忙しくやってる。顔を合わせる時間は少ないのが幸いして、なんとかやり過ごせている。
適当に外出の理由をつけたり、必要以上に残業したりと、自然を装ってスルリと逃げる事も出来た。
──今のところ、綻びは出てないはずだった。
現在午前九時半。昨夜は帰宅も遅くなった上に、今日が休日だという気の緩みもあり、起床時間が結構遅れた。
平日のこの時間には、もうは学校に出かけているはずだ。
ベットから降りて、覚醒しきらない寝ぼけ眼で居間へと出る。
すると、そこにはあるはずのないものがあった。──いるはずのない人間がいた。
「おはよう、ユーリ」
聞きなれた柔い声が聞こえて、ぎょっと目を見開いた。
いるはずのない人間…がそこに座っていたのだ。
窓から入る朝日がその白い肌に落ちて溶けこみ、美しいと思った。
驚愕の反応に加えて、美しいと思ってしまった気まずさから、更に挙動不審なる。
……最悪だ。平然を装うどころか、かつてない程露骨に拒絶的な反応を示してしまった。これまでの努力が水の泡になるような失態だと、内心で舌打ちする。
は一瞬だけ驚く素振りを見せた後、ふとどこか諦めたように笑っている。
「お、はよう…」
ここで無視をするのもおかしいだろう。普通のふりを装ったって今さらかもしれないけれど、せめて声がひっくり返らないように、取ってつけたように挨拶を返した。
が、ふいと逸らした視線はあからさまだったと我ながら思う。
いつもはもう少しさりげなくやれている、はずだった。
けれど、不意を突かれた動揺の余波で、かなり繕えなくなってるらしい。
ユーリの動揺はの目にはどう映っているのだろうか、は静かに謝った。
「…ごめんね、今日休校日なの、伝え忘れてて」
「…は?なんで謝るんだ」
思わずユーリは顔を上げて、真っすぐに問いただしていた。
変な態度を取るなとユーリが責められる事はあったとして、家にいてごめんとが謝るのはおかしいだろう。何も悪い所などない。
ユーリの色々複雑な心境のせいで、反応に困っているだけで。
はそうは思えないようで、内省猛省を繰り返しているようだ。酷く心苦しそうな顔をしながら、遠慮がちに言った。
「私の顔、見たくなかったでしょう。毎日疲れてるだろうし…気疲れしちゃうのも分かるよ」
だから、そんなに気まずそうにしなくてもいいよ、と諭された。
やっぱり、ユーリの挙動不審は見抜かれていたようだった。
今に限らず、最近ずっとどこか余所余所しかった事に、薄っすら勘づいていたのだろう。
ユーリは愕然とした後、湧き出た感情を堪えきれず、バッと立ち上がった。
そしてのその手を両手で取って救い上げた。
「気疲れなんかするか!!むしろ毎日会いたいし顔がみたい!」
──衝動的な行動だった。当然、後先なんて当然考えていない。
それをした事で、がどんな反応をするかとか。自分がに触れて、どう感じるかとか…。
ユーリの勢いに圧倒されて、きょとんと目を丸くしているの姿がユーリの視界に広がった。
無防備なその姿が愛しく、庇護欲がそそられた。自分の手に収まるこの小さな手が可愛い。
今までになく自然に、に対して慈しむような感情がわいてくる。
可愛い、と褒める度に「とってつけたような感じがする」と反発され続けてきた理由がわかったかもしれない。
確かに、今までは、他の何かの感情を、可愛いと言い変えたに過ぎなかったかもしれない。
けれど、今は違う。握った手が暖かい事が。困惑しつつも、小さく握り返される事が。
健気で、尊くて、可愛くて、愛おしいと思う。
…そう。その表情が。温度が。手が。………手が。
そろりと両手の平に視線をおろして、自分の行いを見つめた。
冷静になって自分の行動を振り返ると、ザァッと血の気が引いてくる。
顔を見るのすら抵抗があって、散々避けてきた女子の手を取るなんて、自殺行為だった。
今度こそ完璧に動揺を殺すように努め、出来るだけ静かに身を引いた。
離した手にの熱が移ったような気がする。そんな風に考える事すら気恥ずかしくて、何かを逃がそうと手の平をひらめかせた。
「あ…ご、ごめん」
「?なんで謝るの」
「だって、…いや……」
突然謝られ、訳が分からないといった様子で困惑しているをみて、少し安心した。
下心を持って握った訳じゃないけれど、触れた後に抱いた下心が筒抜けになっていないか不安だったのだ。エスパーじゃないのだから、心の声は聞こえないだろうが。
は比較的、他人の機微に敏い人間だとユーリは認識してる。
自分の行動と発言の一つ一つから何を見透かされるのだろうかと思うと、一挙手一投足が慎重になった。
そもそもの話、いきなり手を握られて、喜ぶ人間がどこにいるだろう。
恋人同士でもあるまい。ユーリとの関係性はそうじゃないのだから。
「か、かわいい妹の顔だぞ、見たいし、会いたいだろ…ふつう…」
視線を逸らしつつ、小さな声で言い訳がましく繕う。最早挙動不審を隠せる自信がなくなってきていた。
「…私もユーリに会いたかったよ。毎日」
を意識してからと言う物の、どんどん言葉が出てこなくなる。
それに反して、は今まで通り、ひたすら素直だった。
恥ずかし気もなく好意を表に出す。遠慮がちな性格をしていながらも、出し惜しみをするような性格はしていない。駆け引きを知らず、真っすぐで誠実というのがユーリの印象だった。
今までは、ユーリだってそうだったはずなのだ。…今までは。
ユーリは苦虫を噛み潰したような顔をして、問いかけた。
「……ボクが、兄だから?」
がユーリに対して抱くその好意や親しみは、勿論たった一人の特別な異性に対して抱くもの…という訳ではないだろう。
ならば、答えは決まり切っている。「家族だから」「兄だから」
きっとそうだろうと予期できる。
それでも、聞かずにいられない。これでは、自ら傷を深める自傷行為のようなものと変わらないなと思った。
今までなら、「そうだよ」と頷かれたとしても、まぁそうだろうなとしか思わなかっただろう。
けれど、今この状況で、もしそれを認められてしまったら、何かが壊れて耐えられなくなる気がした。
「──ユーリのこと、お兄ちゃんだと思ったこと、ないよ」
けれど、はきっぱりと断言した。
それにどこか安心したのもつかの間で、次の瞬間には、疑問と困惑で胸中が支配される。
「じゃあ、にとってボクは…、…ボクたちは、何なんだ」
兄として見ていないなら。ヨルの事も、姉として慕っていないなら。
この関係をなんて表せばいいのか。
これからどうやってに接していけばいいだろう。思いを殺して、これ以上育たないように縛り付け、出来る限り接触を減らす。
いつか完全にを美しいと思わなくなるその日まで、断絶し続ける。
それしか思いつかなかなかった。ただ一つしか選択肢のない、苦しい状況に置かれている。
抜け出せない迷路に迷い込んだかのような気分だった。
──そこに、思いもよらぬ光明が差したような気がした。
ユーリが感情を押し殺し、停滞させる以外の、たった一つの可能性が示唆される。
「ヨルさんも、ユーリも。私にとって、世界で一番大事な人だよ」
──に、ユーリの事を好きになってもらうという選択肢だ。
「今朝も会えてうれしいし、声が聞けて嬉しいし。元気でいてくれてうれしい、
…ついでに明日も元気でいてくれて、またおはようって言えたら嬉しいな」
がユーリに向ける、この絶対的な信頼と情。
それが、ユーリと同じ色になり、同じ温度を灯すようになればいい。
それは姉の願いにもピッタリと添う形だ。
そんな一番の理想形でありつつも、しかし限りなくゼロに低い可能性しかない、ただの理想論だと思っていた。
けれど、兄として見ていないのだときっぱり断言するをみて。世界で一番大事だと宣言した姿を見て。
──相手の心を育てるのは、水を上げる自分の努力次第ではないだろうかと。前向きに考えられるようになっていた。
家族だから信頼してるのではない。育ててくれたから恩人なのではない。型にはまった捉え方はしていない。
ヨル自身、ユーリ自身の人間性をシンプルに認めている。そう思ったのだ。
正式に家に迎えてしまったのは、頭の痛い問題ではあるけれど。
──そう、自分達は、もとより血の繋がらない赤の他人同士なのだ。
普通であれば突き放す意味合いを含んで使われる、赤の他人というフレーズ。それが、今のユーリにとっては、無限大の可能性を秘めた響きに聞えた。
抑え込むのを止めば、案外気持ちを育てるのは簡単そうだった。
手を握るだけで、あんなにも緊張して、内心で愛しい可愛いを連呼していたのだから。
けれど、だからと言って何をどうしたらいいのだろうか。
育ち切っていない今現在は、今までとは違うようにを愛しく感じるようになっても、結婚したいとまでは思えない。
「ボクだって……大事だよ…二人とも…」
「ありがとう。大事にしてもらえてうれしい」
「………」
心底嬉しそうに、ユーリの言葉を受け入れる姿勢が愛しい。
本当に、大事な存在だ。いや、大事な存在になってきているのだ。
そんな存在相手に、一縷の望みにかけて博打を打てというのか。もしかしたらお互いがボロボロに傷付く悲惨な終わりを迎えるかもしれないのに。
そのままユーリは黙り込んで、すっかり冷めてしまった食事を黙々と摂り始めた。
もそれに倣うように食事を再開した。
──思えばユーリは何をしてもしなくても、自然と人に愛され受け入れられてきた。
今は亡き両親も実の子であるユーリを深く愛してくれたし、姉であるヨルも言わずもがな。
そしてユーリも家族を愛した。も恩人だと言ってユーリを慕ったし、クラスメイトも教師も、なんやかんや言いながらも、勤勉なユーリに親しみを抱いた。
好きになってもらう努力をした事がない…と言ったら傲慢な物言いだ。
けれど、好意を獲得するために必死になる人生は送ってこなかったのは間違いない。
姉であるヨルは、ユーリ達を育てるために働き尽くしで、26歳になる今も未婚のままだ。恋人ができたという報告も聞いたことがない。
人望がないのではなく、ユーリが未来のために必死に勉強だけに打ち込んでいたのと一緒で、ヨルもまた、仕事にのみ打ち込んだ。その結果だろう。
ヨルは華やかで、凛々しく、艶やかで、輝かしい。何歳になっても変わらず眩しく見える。いや、その華やぎには年々磨きがかかっているとも言える。
そんな事をぼうっと考えているうちに、「お前、今いくつだっけ」と、突拍子もない質問をしてしまった。
「…?この間誕生日会してくれたばっかりなのに、忘れちゃったの…?ケーキにろうそくも立ててくれたのに…」
心底不思議そうな返事が返ってくるまで、自分が上の空で変な質問をした自覚もなかった。
「17歳になった。花の女子高生だよ」
その瞬間、手から力が抜けて、握っていた銀食器がすり抜けた。
ガチャンと大きな音を立てて転がり落ちていく。
自身もこんな質問をされるとは思ってもみなかったのだろうが、ユーリもこんな言い回しでもって返答されるとは思わず、手が震えた。
は美しく可憐な花である。それを改めて、本人の口から宣言され、意識をさせられる事になるとは。
──17歳。それは女の子が花咲き輝く、青い春のような年頃。
丁度、目の前にいるの年頃。
「………は、花、の……」
「…?あんまり聞いたことないかな?この言い回し。私はよく聞いたことがあったけど……」
何か妙な事を言ったのだろうかと、はちらりと上目にユーリの反応を伺っていた。
「よく、知ってる」
震える手を拳を握ることで止め、ため込んだ怨念を吐くかのように切り返した。
本当に、よく知ってる。心底知ってる。女性は花にも例えられる事。姉は花のように眩い事。
そしてもまた花のように美しく、その魅力に自分がどうしようもなく惹かれ始めていること。
もう降参だ、お手上げだと思った。
抑圧された感情は、ストレスによって痛めつけられ、爆発した時が怖い。
押し殺そう、消し去ろそうと暗示する程に形は歪み、助長される可能性の方が高いだろう。
機械ではないのだから、消そうという選択をして、綺麗に消える可能性の方がきっと低い。
だとしたら、花は花のままに。芽生えた感情は自然なままに。
のびのびと育ててやればいいのかもしれない。その方が害のない気がした。
人に好きになってもらう努力というものがどのような物か、ユーリはまだ知らない。
けれど、避けるのはもうやめよう。今まで通り、可愛いいと感じれば可愛いと知らせ、愛しいと思ったとき愛しいと告げようと思った。
ユーリは姉に対する態度を見れば分かるように、本来好意を隠す方ではなかった。
その決意方針は決して悪い手ではなかったけれど、現状を打開するための良策でもなかっただろう。
3.構築─色鮮やかな世界
あれからとは、まともに顔を合わせられなくなっていた 。
今までと変わらないよう接するというのは、今までと変わった部分を隠す必要があるということ。
今までにない感情が表に出ないよう必死に押し殺すのは、とんでもない労力だった。
そして、押し殺そうとするその枷を外せば、その奥からどんな感情が飛び出てくるのかどうか。
ユーリ自身にも想像がつかず、それが恐ろしかった。
幸い、逃げるための口実は山ほどあった。社会人なりたての身として、あくせく働き、
実際慣れない環境や厳しい職務を飲み込むため、時間も体力も消費されていった。
けれどこれは覚悟はていた事、望んでいた事。
夢を叶えるため、ユーリは休んでいる暇はない。今は踏ん張り時というやつだった。
自身、現在受験生だという事もあり、お互い忙しくやってる。顔を合わせる時間は少ないのが幸いして、なんとかやり過ごせている。
適当に外出の理由をつけたり、必要以上に残業したりと、自然を装ってスルリと逃げる事も出来た。
──今のところ、綻びは出てないはずだった。
現在午前九時半。昨夜は帰宅も遅くなった上に、今日が休日だという気の緩みもあり、起床時間が結構遅れた。
平日のこの時間には、もうは学校に出かけているはずだ。
ベットから降りて、覚醒しきらない寝ぼけ眼で居間へと出る。
すると、そこにはあるはずのないものがあった。──いるはずのない人間がいた。
「おはよう、ユーリ」
聞きなれた柔い声が聞こえて、ぎょっと目を見開いた。
いるはずのない人間…がそこに座っていたのだ。
窓から入る朝日がその白い肌に落ちて溶けこみ、美しいと思った。
驚愕の反応に加えて、美しいと思ってしまった気まずさから、更に挙動不審なる。
……最悪だ。平然を装うどころか、かつてない程露骨に拒絶的な反応を示してしまった。これまでの努力が水の泡になるような失態だと、内心で舌打ちする。
は一瞬だけ驚く素振りを見せた後、ふとどこか諦めたように笑っている。
「お、はよう…」
ここで無視をするのもおかしいだろう。普通のふりを装ったって今さらかもしれないけれど、せめて声がひっくり返らないように、取ってつけたように挨拶を返した。
が、ふいと逸らした視線はあからさまだったと我ながら思う。
いつもはもう少しさりげなくやれている、はずだった。
けれど、不意を突かれた動揺の余波で、かなり繕えなくなってるらしい。
ユーリの動揺はの目にはどう映っているのだろうか、は静かに謝った。
「…ごめんね、今日休校日なの、伝え忘れてて」
「…は?なんで謝るんだ」
思わずユーリは顔を上げて、真っすぐに問いただしていた。
変な態度を取るなとユーリが責められる事はあったとして、家にいてごめんとが謝るのはおかしいだろう。何も悪い所などない。
ユーリの色々複雑な心境のせいで、反応に困っているだけで。
はそうは思えないようで、内省猛省を繰り返しているようだ。酷く心苦しそうな顔をしながら、遠慮がちに言った。
「私の顔、見たくなかったでしょう。毎日疲れてるだろうし…気疲れしちゃうのも分かるよ」
だから、そんなに気まずそうにしなくてもいいよ、と諭された。
やっぱり、ユーリの挙動不審は見抜かれていたようだった。
今に限らず、最近ずっとどこか余所余所しかった事に、薄っすら勘づいていたのだろう。
ユーリは愕然とした後、湧き出た感情を堪えきれず、バッと立ち上がった。
そしてのその手を両手で取って救い上げた。
「気疲れなんかするか!!むしろ毎日会いたいし顔がみたい!」
──衝動的な行動だった。当然、後先なんて当然考えていない。
それをした事で、がどんな反応をするかとか。自分がに触れて、どう感じるかとか…。
ユーリの勢いに圧倒されて、きょとんと目を丸くしているの姿がユーリの視界に広がった。
無防備なその姿が愛しく、庇護欲がそそられた。自分の手に収まるこの小さな手が可愛い。
今までになく自然に、に対して慈しむような感情がわいてくる。
可愛い、と褒める度に「とってつけたような感じがする」と反発され続けてきた理由がわかったかもしれない。
確かに、今までは、他の何かの感情を、可愛いと言い変えたに過ぎなかったかもしれない。
けれど、今は違う。握った手が暖かい事が。困惑しつつも、小さく握り返される事が。
健気で、尊くて、可愛くて、愛おしいと思う。
…そう。その表情が。温度が。手が。………手が。
そろりと両手の平に視線をおろして、自分の行いを見つめた。
冷静になって自分の行動を振り返ると、ザァッと血の気が引いてくる。
顔を見るのすら抵抗があって、散々避けてきた女子の手を取るなんて、自殺行為だった。
今度こそ完璧に動揺を殺すように努め、出来るだけ静かに身を引いた。
離した手にの熱が移ったような気がする。そんな風に考える事すら気恥ずかしくて、何かを逃がそうと手の平をひらめかせた。
「あ…ご、ごめん」
「?なんで謝るの」
「だって、…いや……」
突然謝られ、訳が分からないといった様子で困惑しているをみて、少し安心した。
下心を持って握った訳じゃないけれど、触れた後に抱いた下心が筒抜けになっていないか不安だったのだ。エスパーじゃないのだから、心の声は聞こえないだろうが。
は比較的、他人の機微に敏い人間だとユーリは認識してる。
自分の行動と発言の一つ一つから何を見透かされるのだろうかと思うと、一挙手一投足が慎重になった。
そもそもの話、いきなり手を握られて、喜ぶ人間がどこにいるだろう。
恋人同士でもあるまい。ユーリとの関係性はそうじゃないのだから。
「か、かわいい妹の顔だぞ、見たいし、会いたいだろ…ふつう…」
視線を逸らしつつ、小さな声で言い訳がましく繕う。最早挙動不審を隠せる自信がなくなってきていた。
「…私もユーリに会いたかったよ。毎日」
を意識してからと言う物の、どんどん言葉が出てこなくなる。
それに反して、は今まで通り、ひたすら素直だった。
恥ずかし気もなく好意を表に出す。遠慮がちな性格をしていながらも、出し惜しみをするような性格はしていない。駆け引きを知らず、真っすぐで誠実というのがユーリの印象だった。
今までは、ユーリだってそうだったはずなのだ。…今までは。
ユーリは苦虫を噛み潰したような顔をして、問いかけた。
「……ボクが、兄だから?」
がユーリに対して抱くその好意や親しみは、勿論たった一人の特別な異性に対して抱くもの…という訳ではないだろう。
ならば、答えは決まり切っている。「家族だから」「兄だから」
きっとそうだろうと予期できる。
それでも、聞かずにいられない。これでは、自ら傷を深める自傷行為のようなものと変わらないなと思った。
今までなら、「そうだよ」と頷かれたとしても、まぁそうだろうなとしか思わなかっただろう。
けれど、今この状況で、もしそれを認められてしまったら、何かが壊れて耐えられなくなる気がした。
「──ユーリのこと、お兄ちゃんだと思ったこと、ないよ」
けれど、はきっぱりと断言した。
それにどこか安心したのもつかの間で、次の瞬間には、疑問と困惑で胸中が支配される。
「じゃあ、にとってボクは…、…ボクたちは、何なんだ」
兄として見ていないなら。ヨルの事も、姉として慕っていないなら。
この関係をなんて表せばいいのか。
これからどうやってに接していけばいいだろう。思いを殺して、これ以上育たないように縛り付け、出来る限り接触を減らす。
いつか完全にを美しいと思わなくなるその日まで、断絶し続ける。
それしか思いつかなかなかった。ただ一つしか選択肢のない、苦しい状況に置かれている。
抜け出せない迷路に迷い込んだかのような気分だった。
──そこに、思いもよらぬ光明が差したような気がした。
ユーリが感情を押し殺し、停滞させる以外の、たった一つの可能性が示唆される。
「ヨルさんも、ユーリも。私にとって、世界で一番大事な人だよ」
──に、ユーリの事を好きになってもらうという選択肢だ。
「今朝も会えてうれしいし、声が聞けて嬉しいし。元気でいてくれてうれしい、
…ついでに明日も元気でいてくれて、またおはようって言えたら嬉しいな」
がユーリに向ける、この絶対的な信頼と情。
それが、ユーリと同じ色になり、同じ温度を灯すようになればいい。
それは姉の願いにもピッタリと添う形だ。
そんな一番の理想形でありつつも、しかし限りなくゼロに低い可能性しかない、ただの理想論だと思っていた。
けれど、兄として見ていないのだときっぱり断言するをみて。世界で一番大事だと宣言した姿を見て。
──相手の心を育てるのは、水を上げる自分の努力次第ではないだろうかと。前向きに考えられるようになっていた。
家族だから信頼してるのではない。育ててくれたから恩人なのではない。型にはまった捉え方はしていない。
ヨル自身、ユーリ自身の人間性をシンプルに認めている。そう思ったのだ。
正式に家に迎えてしまったのは、頭の痛い問題ではあるけれど。
──そう、自分達は、もとより血の繋がらない赤の他人同士なのだ。
普通であれば突き放す意味合いを含んで使われる、赤の他人というフレーズ。それが、今のユーリにとっては、無限大の可能性を秘めた響きに聞えた。
抑え込むのを止めば、案外気持ちを育てるのは簡単そうだった。
手を握るだけで、あんなにも緊張して、内心で愛しい可愛いを連呼していたのだから。
けれど、だからと言って何をどうしたらいいのだろうか。
育ち切っていない今現在は、今までとは違うようにを愛しく感じるようになっても、結婚したいとまでは思えない。
「ボクだって……大事だよ…二人とも…」
「ありがとう。大事にしてもらえてうれしい」
「………」
心底嬉しそうに、ユーリの言葉を受け入れる姿勢が愛しい。
本当に、大事な存在だ。いや、大事な存在になってきているのだ。
そんな存在相手に、一縷の望みにかけて博打を打てというのか。もしかしたらお互いがボロボロに傷付く悲惨な終わりを迎えるかもしれないのに。
そのままユーリは黙り込んで、すっかり冷めてしまった食事を黙々と摂り始めた。
もそれに倣うように食事を再開した。
──思えばユーリは何をしてもしなくても、自然と人に愛され受け入れられてきた。
今は亡き両親も実の子であるユーリを深く愛してくれたし、姉であるヨルも言わずもがな。
そしてユーリも家族を愛した。も恩人だと言ってユーリを慕ったし、クラスメイトも教師も、なんやかんや言いながらも、勤勉なユーリに親しみを抱いた。
好きになってもらう努力をした事がない…と言ったら傲慢な物言いだ。
けれど、好意を獲得するために必死になる人生は送ってこなかったのは間違いない。
姉であるヨルは、ユーリ達を育てるために働き尽くしで、26歳になる今も未婚のままだ。恋人ができたという報告も聞いたことがない。
人望がないのではなく、ユーリが未来のために必死に勉強だけに打ち込んでいたのと一緒で、ヨルもまた、仕事にのみ打ち込んだ。その結果だろう。
ヨルは華やかで、凛々しく、艶やかで、輝かしい。何歳になっても変わらず眩しく見える。いや、その華やぎには年々磨きがかかっているとも言える。
そんな事をぼうっと考えているうちに、「お前、今いくつだっけ」と、突拍子もない質問をしてしまった。
「…?この間誕生日会してくれたばっかりなのに、忘れちゃったの…?ケーキにろうそくも立ててくれたのに…」
心底不思議そうな返事が返ってくるまで、自分が上の空で変な質問をした自覚もなかった。
「17歳になった。花の女子高生だよ」
その瞬間、手から力が抜けて、握っていた銀食器がすり抜けた。
ガチャンと大きな音を立てて転がり落ちていく。
自身もこんな質問をされるとは思ってもみなかったのだろうが、ユーリもこんな言い回しでもって返答されるとは思わず、手が震えた。
は美しく可憐な花である。それを改めて、本人の口から宣言され、意識をさせられる事になるとは。
──17歳。それは女の子が花咲き輝く、青い春のような年頃。
丁度、目の前にいるの年頃。
「………は、花、の……」
「…?あんまり聞いたことないかな?この言い回し。私はよく聞いたことがあったけど……」
何か妙な事を言ったのだろうかと、はちらりと上目にユーリの反応を伺っていた。
「よく、知ってる」
震える手を拳を握ることで止め、ため込んだ怨念を吐くかのように切り返した。
本当に、よく知ってる。心底知ってる。女性は花にも例えられる事。姉は花のように眩い事。
そしてもまた花のように美しく、その魅力に自分がどうしようもなく惹かれ始めていること。
もう降参だ、お手上げだと思った。
抑圧された感情は、ストレスによって痛めつけられ、爆発した時が怖い。
押し殺そう、消し去ろそうと暗示する程に形は歪み、助長される可能性の方が高いだろう。
機械ではないのだから、消そうという選択をして、綺麗に消える可能性の方がきっと低い。
だとしたら、花は花のままに。芽生えた感情は自然なままに。
のびのびと育ててやればいいのかもしれない。その方が害のない気がした。
人に好きになってもらう努力というものがどのような物か、ユーリはまだ知らない。
けれど、避けるのはもうやめよう。今まで通り、可愛いいと感じれば可愛いと知らせ、愛しいと思ったとき愛しいと告げようと思った。
ユーリは姉に対する態度を見れば分かるように、本来好意を隠す方ではなかった。
その決意方針は決して悪い手ではなかったけれど、現状を打開するための良策でもなかっただろう。