第十五話
3.構築相愛


ユーリは無事に目指していた外務省勤務が決まった。
一方そのころ私は気ままな学生のご身分だ。
受験生になろうとそれは変わらない。前世では一度通った道を再び歩んでいるだけ。
ある意味人生の分岐点に差し掛かったと言っても特にストレスを感じる事もなく、淡々と過ごしていた。
ユーリと同じように就職したいと主張したけれど、ヨルさんとユーリに反対意見でゴリ押された。
私はユーリのようになりたい職があった訳ではない。ならば、焦らなくていいと説得されてしまったのだ。
そして意外な事に、ヨルさんの過保護は私にだけ矛先が向く訳ではないようだった。
ユーリは就職を機に独り立ちをする事になるのかと思いきや、私が大学に進学するまでは保留にしようという話になった。
あと暫くの間だけ、お互いが助け合う、三人暮らしは続く事になりそうだ。

なので、立派になった弟が誇らしげなヨルさんの上機嫌も、働き始めのユーリの疲労っぷりも、どちらも傍で見守る事が出来た。

日本で暮らしていた時の友人知人の事を思い出す。
四年生の大学に通っていれば、22歳で社会人になる。高卒であれば18歳。短大で20歳。
早く自立したがっていたユーリの気持ちを鑑みれば、妥当な時期であったと言えるだろう。

平和な日々の中で、一つだけ気掛かりがある。
自分自身に関わる事ではない。ユーリの事についてだった。

──新社会人のストレスとは如何ほどのものだろうか、と考えずにはいられない。
私の学校生活の中での悩み事は特になく、最近の私の悩みといえば、それに尽きる。
ユーリの様子が、この頃おかしい。…ような、気がしていた。
──ストレスが溜まっているのだろうか。だから情緒不安定になっているのだろうか。
その疑念で頭を悩ませる事が多くなってきた。
学生同士であれば、生活リズムも合致する事が多かったけど、今現在顔を合わせる頻度が減るのは自然の道理だ。
ただ、ユーリ自身の意思で、あえて私と遭遇しないようにタイミングをズラされているようにも感じていた。
仮にそうだったとして、じゃあ一体何故そんな事をするのか?と原因を考えてみる事にする。
そして私は、"ストレスが溜まっているから"という仮の結論を出してみた。本当の所は本人に消えてみないと分かるまい。
ただ、慣れない生活で忙しくて、カリカリしている時に、わざわざ誰かと顔を合わせたくはならないかもしれない。
大天使ヨルさんの顔ならば、逆に拝んで癒されたくないかもしれないけど。相手はこの私なのだから。あり得ない話ではないだろう。



「おはよう、ユーリ」

寝ぐせをつけて起床してきたユーリにぎこちなく笑いかけると、相手はぎょっと目を見開いていた。まるでお化けでも遭遇したかのような反応だ。
わざと避けられていたという線が濃厚になったな、と思った。
いるとは思わなかった人間がいた時の驚き。まさにそういった顔をしていた。


「お、はよう…」


取ってつけたように挨拶を返すと、ユーリの視線はふいと逸らされた。
チクリと胸が痛む。人は誰かにネガティブな反応をされると、ネガティブな気持ちになるような作りになっている。
自己否定されれば、ストレスがたまるような仕組みが心には存在しているのだ。身体に傷ができれば痛むように。防衛本能というべきか反射というべきか。
どんな理由であれ、ユーリに避けられているという事実に、胸が痛んだのだった。


「…ごめんね、今日休校日なの、伝え忘れてて」
「…は?なんで謝るんだ」


言うと、今度は自然と目があって、不思議そうな顔をしていた。素で疑問に思った様子だった。
よかった。徹底して無視をされたり、頑なに視線を逸らされ続けたら、心が折れていたかもしれない。
ただでさえ私は精神的にもろいのだ、その自覚はある。
それは尊厳が傷つけられ、人格否定を繰り返され続けてきた、今世の幼少期の環境によって作られた産物だった。

「なんでって…」


今度は私の方が不思議に思い、首を傾げる番だった。

「ユーリ、一人になりたかったんだよね」
「……は」
「私の顔、見たくなかったでしょう。毎日疲れてるだろうし…気疲れしちゃうのも分かるよ」

だから、そんなに気まずそうにしなくてもいいよと理解を示したつもりだった。
新社会人としての苦労は、前世でも体験したことがある。鬱病になった友人知人も知っている。
それに比べたら、私のストレスというのは、軽く済んでいた方だったのだろう。
けれど、どれ程深刻になり得るのかという事は、知識としては知っているつもりだ。
ユーリは愕然として、しばらくするとバッと立ち上がった。
そして私の手を、両手で取った。

「気疲れなんかするか!!むしろ毎日会いたいし顔がみたい!」


そして、その勢いに圧倒され、今度は私が唖然とする番だった。
固く握られた手と、その強い叫び。繕いではなく、本心から出たものだということはヒシヒシと伝わってきた。

「ッあ…ご、ごめん…」
「?なんで謝るの」
「だって、…いや……」

ハッと我に返ったユーリは掴んでいた自分の手を放し、少し眺めて、こもった熱を逃がすように手のひらを振っていた。
手を握られたからと言って、怒るような思春期はとうの昔に過ぎ去った。
気にしなくていいのに、変な所で気を遣うんだなと感心した。


「か、かわいい妹の顔だぞ、見たいし、会いたいだろ…ふつう…」

視線を逸らされ、小さな声で発せられたその文句は、"繕い"であると分かった。
会いたい気持ちは本当だけど、この理由は嘘。
ユーリの気持ちも行動も、よくわからなくて、困惑する。


「…私もユーリに会いたかったよ。毎日」


笑いかけると、ユーリは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「……ボクが、兄だから?」

どこか身構えながら、判決を待つ被告人のように強張った表情でユーリは答えを待った。
私は首を振って即座に否定する。

「ユーリのこと、お兄ちゃんだと思ったこと、ないよ」


残念ながら、悲しい事に、これが10年以上変わらない本心だった。
他人だとは思ってない。居候させてもらっているうちの家主…と言ってのける程壁は作ってない。
けれど、家族だと言い切れる程、図々しく心は開けない。
本当は、甘えた方が可愛げがあったかもしれない。それができないのは、私自身の従来の性格と、前世から引き継いだ全てのせいだ。
もしかしたら、本当の兄や姉のように思っていると、世辞を言えば丸く収まったのかもしれない。
けれど相手が大事な人であるがこそ、真実を偽るのは不誠実に思えた。
私にとっては、正直でいる事が、彼らに対して出来る数少ない誠実な行いだったのだ。


「じゃあ、にとってボクは…、…ボクたちは、何なんだ」

どこかその返事を予期していたような、望んでいた答えをもらえてホッとしたような。
そんな表情でユーリは問いかけを続けた。
何、と名前をつけるのは難しい。けれどあえて言うならば。

「ヨルさんも、ユーリも。私にとって、世界で一番大事な人だよ」


今朝も会えてうれしい。声が聞けて嬉しい。元気でいてくれてうれしい。
明日も元気でいてくれて、尚且つまたおはようと挨拶が出来たら嬉しい。
言葉も好意も、惜しむものではない。
吶々とその気持ちを述べると、ユーリの頬にほんのりと朱がさした。
照れているのだろうか。珍しい。ヨルさんに言われたならまだしも、私からの陳腐な言葉でインパクトを感じられるとは思えないけど。

「ボクだって……大事だよ…二人とも…」
「ありがとう。大事にしてもらえてうれしい」
「………」


そのまま黙り込んで、すっかり冷めてしまった食事を黙々と摂り始めた。
私もそれに倣って手を動かすことにする。
食卓を囲みながら楽しく団らんするのはアットホームで幸せだけど、食事中のお喋りはマナー的にはよろしくない。
沈黙も苦ではないし、それはそれでよかった。


「…………お前、今いくつだっけ」
「…?この間誕生日会してくれたばっかりなのに、忘れちゃったの…?ケーキにろうそくも立ててくれたのに…」

年齢の数だけロウソクを立てるお約束を、ヨルさんもユーリも、喜んでやってくれた。
その時に一本一本数えていたはずなのに。
ユーリに限ってこんな簡単な数字をド忘れするとは思えない。
相当疲れているのだろうか。突然の脈絡ない問いかけを怪訝に思いつつ、減るものでもないので素直に答える。

「17歳になった。花の女子高生だよ」

ガチャンと、皿の上に銀食器が落ちる音が響いた。
ユーリは空になった手をひたすら震わせ、私はカラカラと音を立てて転がる銀を視線で追いかけた。

「………は、花、の……」
「…?あんまり聞いたことないかな?この言い回し。私はよく聞いたことがあったけど……」

どこで聞いたのだったけと思い出せば、主には前世の日本でだったと気が付いた。
まさか東国では不吉な意味合いが含まれる、忌避されるような比喩表現だとでも言うのか。同じ物や言葉でも、国や時代が違えば、吉や凶、真逆な意味合いとして認知されている事も少なくない。あるあるだ。
何かよくない事を言ったのだろうかと、ユーリの顔色をちらりと伺う。


「よく、知ってる」

握り拳を作って、血を吐くように苦悩した声でユーリは言った。


2022.7.27   修正不可能な年齢設定ミス。設定は色々ふんわり読み流してください