第十四話
2.愛情─開花
は、年を重ねるにつれて大人びた。少女が女性へと変貌する。世の中の女性が辿るその過程を正しく辿っていた。
それに伴い、異性に声をかけられる頻度がぐんと高まった。俗にいう、ナンパをされる回数が多くなったのだ。
だから、見かねたユーリは口うるさく繰り返すようになった。
出かける時は行き先を告げろ。愛想笑いは殺せ。同性の友達以外を寄せ付けるな。知らない人間からの干渉は無視しろ。
親よりも口うるさいユーリの小言も、はやや引き笑いしつつ、最終手には素直に受け入れた。
──だというのに。
がいくら氷のような表情を繕っても、声かけを無視という形で殺しても、粘着質な輩はそれでもコバエのようについて回るのである。
それこそ、ユーリが叩き落とすまで。
異性恐怖症という訳でもない。も、いつもであれば、適当に受け流す事は出来ていた。けれど、今回は何か条件が悪かったらしい。
スーパーに買い物に行った先での事だった。ほんと数分の買い物にわざわざ付き添わせなくてもいいと判断したのが仇となったようだ。
ユーリが買い物を終えて外に出た時に、どこからか大きな笑い声が響いてきた。
嫌な予感は当たるものだ。急ぎ足で声の方に向かえば、案の定妙な輩に絡まれているの姿を見つけた。
柄の悪い見た目に反して気性は荒くなかったようで、ユーリをツレだ認識すると、あっさりと解放してくれたけれど。
ユーリにとっては、日常の1コマにすぎない出来事だった。
それと同時に、にとってもそうであると思っていたのに。
その日から、は目に見えて落ち込むようになっていた。
ただ声をかけられただけ。あっされと解放された。引きずるような出来事ではなかった。そんな認識は甘かったようだ。
他人から見れば軽い事でも、本人からすれば深刻な問題だった、なんていう齟齬はよく生まれるものである。
「…何かあったのか?いや、何かされたのか?あの時」
ヨルもユーリも、からすれば相当な過保護に見えるらしい。
けれど、落ち込んでいるからと言って、根掘り葉掘り事情を聞きだそうとすのは"過干渉"だろう。
聞いてほしそうな素振りを本人が見せれば、その時聞けばいい。
ヨルとも相談し合って、そのサインを察知するまでは見守る姿勢を取ろうと結論を出して、早一週間以上。
ずっと見守っていたものの、意気消沈したからは、まるで感情がごっそり抜け落ちたかのようで、見ていられない。
見かねたユーリは、つい問いただしてしまった。
出会った頃のような無表情を称えたは、ユーリの疑問をあっさりと否定する。
「何もされてない。からかわれただけだし…沢山いたから、ちょっと怖かっただけ」
「だけ、にしては……」
この消沈ぶりは普通ではない。何もなかった、というのは無理がある。
タイミング的にも、あの日絡まれた事が原因だとしか思えない。
あの短い時間で、一体彼らはどういう手を使ってを傷つけたというのか。
自分が彼らだったら、どうやって短時間でここまで女子を落ち込ませる事が出来るだろう、とユーリが想像しても、これが結構難しかった。
殴る蹴るなどの暴行はなし。短いやり取りの間で精神的に打ちのめさなければならない。
決定的な一言が必要だ。本人が一番傷つくような、根底にある部分を抉りだすような…
そう思うと、案外これは根が深い問題だったのかもしれないと思い至った。
にとってされたくない事、言われたくない事、それがどいう物が何かは知らないけれど、運悪く彼らがそれを行使したのだとすれば…
──誰もが大なり小なり持っているはずの、トラウマのような物を偶然に抉ったのだとすれば。
「ユーリ、ちょっとこっちに来てくれる?」
ここまでくれば説明しない訳にはいかない、と腹をくくったのだろう。
小さく息をついてから、はソファーに座った。そしてユーリに向けて手招きする。
当然のように、話し合うために座ろうとしたユーリ。けれど、その行動はによってストップをかけられた。
「あ、違う。座らないで、そこにかがんで」
そしてが指さしたのは、自分自身の真正面。そして地面の上だった。
その地べたに座れ、という事だろう。これでは親に叱られる子供のような絵面になってしまう。
背もとうに伸びきった男が、小柄な女子の前に膝をつくという光景は滑稽だ。
どちらかと言えば、の方が委縮し、小く背を丸めてもおかしくない場面であるはずなのに。
腹を決めたは淡々としていて、やけに冷静だった。
「──初めて会ったとき、私痣だらけだったよね」
なんて涼やかな顔で、なんて残酷な話を切り出すのだろうと思った。
出会った頃の痛々しい姿は、ユーリも当然覚えている。
10年も前になるのだから、鮮明な記憶だとは言えないけれど。
積極的に口にしたくはない話だったけれど、頷いて切り返した。
「……体罰だったって」
「そう、体罰。悪い子だったから、教育されたの。躾だよ」
やけに含みのある言い方をするな、と思った次の瞬間、ユーリの息が止まった。
暴力を受けていたのは、今話した通り、出会った当初から知っていたことだ。
けれど、殴る蹴る以外の洗礼を受けていたかもしれない、という可能性については、なぜだか考えたことはなかった。
そんな話をしようとしてるとは思えない程に、は冷静だった。
それがユーリの想像に現実味を帯びさせない原因の一つだった。
姉は、ユーリがの笑顔を生んだのだと言っていた。可愛くしたのはユーリなのだと。
なのに、こうして作り上げたものは、一瞬にして瓦解した。
──こんなにも容易く壊れるのか。砂の城のように脆い、ただのハリボテでしかなかったのだろうか。
そうだとすると、ユーリがのためにしてやれた事など、自分が思っていたよりもほんの少しでしかなかったのかもしれない。
毎日が楽しくて仕方がないとばかりに輝いていたあの瞳が、今はなんて暗い色を湛えてるのだろうと、眉を寄せながら見つめた。
──その時だった。ユーリの視界の端で何かが動く。
それが何なのかを脳が理解した瞬間、酷く動揺した。が自分の制服のスカートに手をかける仕草をしていたのだ。
「なにを、して!」
「いいから」
一体なにをするつもりかと反射的に止めようとしたところで、に黙ってみていろと言わんばかりにストップをかけられた。
サッとがスカートを付け根ギリギリまでまくり上げる。日焼けのない、白い太ももが晒される。
そこには確かに、消えない傷跡があった。
行動した自身は照れるでもなく、ただどこか遠くを見ながら乾いた笑いを湛えている。
出会った頃のような、荒んだ色を浮かべるようになったの姿はあまりに痛々しい。
なのに、──なのに。
それを可哀そうだと思う前に。それに怒りを覚える前に。それに悲しむよりも前に。
──思考よりも先に、欲が動いた自分自身が信じられなかった。
何を考えるより先に、胸や顔、全身がカッと熱くなった。露骨な言い回しをするならば、それは"欲情"だ。
思わず、ユーリは熱くなった顔を手のひらで抑えた。その姿を冷静な眼でが見下ろしている。
──決して悟られてはならない、と思った。
傷に同情するより先に欲を抱いたなんて。妹のように可愛がっていた家族を色目で見たなんて。
──殺せ。押し殺せ。同情してみせろ。同情出来るはずだろう。泣いてもおかしくない場面だろう。さあ早く。
口元に手を当て、表情を覆うその姿は、想像を絶する光景に青ざめ絶句した、正義感の強い男の姿。
その実情は、怒りと同情と欲情にかき乱され、困惑している、そんな情けない有様なのだ。
はもしかしたら、自分自身を惨めだと思っているかもしれない。
けれど、一番惨めなのは、自分だろうとユーリは自嘲した。
認めたくない。けれど認めざるを得ない。
やはりとユーリは血の繋がらない他人なのである。
だから今ユーリは、をこう認識したのだ。
──最早この子は少女ではなく、色を秘めた一人の女性である、と。
とユーリが結婚して、皆でずっと一緒にいられたら…と夢を語った姉との会話を思い出した。
を魅力的には思えない、なんて、一体どの口が言っていたのだろう。無様だ。
──は今年で16歳になる。
──17歳。それは女の子が花咲き輝く、青い春のような年頃なのだと教えられた事がある。もうすぐはその年頃に差し掛かろうとしている。
あの時の事を、ユーリは再び思い出していた。
「お姉さんは、きっと今、一番華やかな年ごろなんだろうね。眩しくて、いやになる時もあるだろう」
「女が一番美しくなるときですよ」
旦那が語ると、妻が頷いた。ユーリは姉を…を、眩しくて嫌に思った事はない。
愛しいと慈しみこそすれど。
「17歳を超えると、次に凛とするの。その次には艶やかになる。あなたのお姉さんは、未来でどんどん魅力的になって、花のような人生を送るのですよ」
だから、その花が眩しすぎたからと言って、水をやるのを怠りなさるな。
多少のトゲがあなたを突き刺しても、可愛いものだと許してやりなさい。
そう言われたから、ユーリはを愛したし、許した。愛でてきた。自分が持つ限りの全てで潤した。
「17歳が一番華やかで輝かしいという話を聞きましたが。
じゃあ、花が咲くのはいつですか?どうやって愛でればいいでしょう」
そして、ユーリは改めて彼女達にこう問いかけた事があった。
その問いに対して、老夫婦は当時のユーリには理解の及ばない、抽象的な物言いでもって返した。
「開花したかどうかの見極めは、あなたの匙加減」
──今、その意味を心から理解した。つぼみは開いたのだと悟った。
ユーリがその花を美しいと思ったから。
今まで芽から愛でてきたその花のつぼみの色が、昨日とは違って見えたから。
これからは、美しい花のような人生送っていくだろう。
そこに影を一つ落としたまま。その影に光を照らし、笑顔にしてやりたいと願うのは、家族だから?
それとも…
それとも。万が一。もしかして。自分が違う形で愛し始めているのだとしたら…
────一体、いつからだ。
こんな形を望んだのではなかった。
禁忌を犯してしまったかのような背徳感と、子供に非道な行いをした大人へ殺意。
ぐらぐらと沸騰するように、色んな感情が煮え立って止まらない。
「私は…賢い子だって言われてた。角が立たない、立てようともしない子供だって」
逆らえば痛い目に合うと理解していたのだろう。俯いて痛みをこらえるの姿は想像できた。
大きな声が勝り、小さな声はかき消されるように出来ている、美しくも残酷な世界。
そこに生きているのだと、理解している賢い子供だった。
「だから、この痕をつけるのは、私じゃないとダメだった」
泣いて、感情のままに喚き散らす子供ではだめだった。
まるで今現在ののように、辛いという気持ちを押し殺して、淡々と説明出来る理性を持った子供でなければいけなかったのだ。腹立たしい。腹立たしくてたまらない。
けれど動悸が止まないのは、それだけが理由じゃない。止まれ、止まれと念じ続けても、叶わない。
「この間の人たち、…似てたから…それだけだから。そのうち、大丈夫になるよ。ちゃんと忘れる」
誰が誰に似ていたのか、なんて事は、もう想像できる。どうして落ち込んでいたのかも。
トラウマを抉られたのかも、という想像は間違いではなかった。
トラウマは話して楽になるという説もあれば、思い出すほど傷を深めるだけという説もある。
どうした?何かあったのか?などと追及しなければよかったのかもしれない。けれど聞いて正解だったのかもしれない。
どちらがにとっていい選択であったのかは、今のユーリには分からない。
どちらにせよ、これ以上この話を深堀しない方がいいという事だけは理解できた。
10年も前の出来事に、今さらどんな慰めの言葉が必要だというのだろう。
ただ話を聞いて、心を痛め、味方をしてあげるだけで良かったのだろうと思う。
難しい事ではない。悲しむふりなどしなくても、心底腹立たしい事だと怒っているし、心底悲しかった。
ただ、ユーリは"間違えた"と思っていた。
少なくとも自分にとっては過ちであったと。
この花が美しいなどと、気が付く瞬間が来なければよかった。
この先、年を重ねるごとに、ユーリの目には、は凛々しく、艶やかに映る事だろう。
これまでと同じようには過ごせないと思った。
を一人の女性として認めた所で、姉の願った通りの恋愛感情を育てていけるのかは、わからない。
そしてもしもユーリの中に恋愛という情が正しく育ったとしても、叶うかどうかは、の気持ち次第。
そんな未来は不確かすぎて、やはり気が付かない方が幸せだったのではないかと、ユーリは色んな思いを抱えて沈黙した。
2.愛情─開花
は、年を重ねるにつれて大人びた。少女が女性へと変貌する。世の中の女性が辿るその過程を正しく辿っていた。
それに伴い、異性に声をかけられる頻度がぐんと高まった。俗にいう、ナンパをされる回数が多くなったのだ。
だから、見かねたユーリは口うるさく繰り返すようになった。
出かける時は行き先を告げろ。愛想笑いは殺せ。同性の友達以外を寄せ付けるな。知らない人間からの干渉は無視しろ。
親よりも口うるさいユーリの小言も、はやや引き笑いしつつ、最終手には素直に受け入れた。
──だというのに。
がいくら氷のような表情を繕っても、声かけを無視という形で殺しても、粘着質な輩はそれでもコバエのようについて回るのである。
それこそ、ユーリが叩き落とすまで。
異性恐怖症という訳でもない。も、いつもであれば、適当に受け流す事は出来ていた。けれど、今回は何か条件が悪かったらしい。
スーパーに買い物に行った先での事だった。ほんと数分の買い物にわざわざ付き添わせなくてもいいと判断したのが仇となったようだ。
ユーリが買い物を終えて外に出た時に、どこからか大きな笑い声が響いてきた。
嫌な予感は当たるものだ。急ぎ足で声の方に向かえば、案の定妙な輩に絡まれているの姿を見つけた。
柄の悪い見た目に反して気性は荒くなかったようで、ユーリをツレだ認識すると、あっさりと解放してくれたけれど。
ユーリにとっては、日常の1コマにすぎない出来事だった。
それと同時に、にとってもそうであると思っていたのに。
その日から、は目に見えて落ち込むようになっていた。
ただ声をかけられただけ。あっされと解放された。引きずるような出来事ではなかった。そんな認識は甘かったようだ。
他人から見れば軽い事でも、本人からすれば深刻な問題だった、なんていう齟齬はよく生まれるものである。
「…何かあったのか?いや、何かされたのか?あの時」
ヨルもユーリも、からすれば相当な過保護に見えるらしい。
けれど、落ち込んでいるからと言って、根掘り葉掘り事情を聞きだそうとすのは"過干渉"だろう。
聞いてほしそうな素振りを本人が見せれば、その時聞けばいい。
ヨルとも相談し合って、そのサインを察知するまでは見守る姿勢を取ろうと結論を出して、早一週間以上。
ずっと見守っていたものの、意気消沈したからは、まるで感情がごっそり抜け落ちたかのようで、見ていられない。
見かねたユーリは、つい問いただしてしまった。
出会った頃のような無表情を称えたは、ユーリの疑問をあっさりと否定する。
「何もされてない。からかわれただけだし…沢山いたから、ちょっと怖かっただけ」
「だけ、にしては……」
この消沈ぶりは普通ではない。何もなかった、というのは無理がある。
タイミング的にも、あの日絡まれた事が原因だとしか思えない。
あの短い時間で、一体彼らはどういう手を使ってを傷つけたというのか。
自分が彼らだったら、どうやって短時間でここまで女子を落ち込ませる事が出来るだろう、とユーリが想像しても、これが結構難しかった。
殴る蹴るなどの暴行はなし。短いやり取りの間で精神的に打ちのめさなければならない。
決定的な一言が必要だ。本人が一番傷つくような、根底にある部分を抉りだすような…
そう思うと、案外これは根が深い問題だったのかもしれないと思い至った。
にとってされたくない事、言われたくない事、それがどいう物が何かは知らないけれど、運悪く彼らがそれを行使したのだとすれば…
──誰もが大なり小なり持っているはずの、トラウマのような物を偶然に抉ったのだとすれば。
「ユーリ、ちょっとこっちに来てくれる?」
ここまでくれば説明しない訳にはいかない、と腹をくくったのだろう。
小さく息をついてから、はソファーに座った。そしてユーリに向けて手招きする。
当然のように、話し合うために座ろうとしたユーリ。けれど、その行動はによってストップをかけられた。
「あ、違う。座らないで、そこにかがんで」
そしてが指さしたのは、自分自身の真正面。そして地面の上だった。
その地べたに座れ、という事だろう。これでは親に叱られる子供のような絵面になってしまう。
背もとうに伸びきった男が、小柄な女子の前に膝をつくという光景は滑稽だ。
どちらかと言えば、の方が委縮し、小く背を丸めてもおかしくない場面であるはずなのに。
腹を決めたは淡々としていて、やけに冷静だった。
「──初めて会ったとき、私痣だらけだったよね」
なんて涼やかな顔で、なんて残酷な話を切り出すのだろうと思った。
出会った頃の痛々しい姿は、ユーリも当然覚えている。
10年も前になるのだから、鮮明な記憶だとは言えないけれど。
積極的に口にしたくはない話だったけれど、頷いて切り返した。
「……体罰だったって」
「そう、体罰。悪い子だったから、教育されたの。躾だよ」
やけに含みのある言い方をするな、と思った次の瞬間、ユーリの息が止まった。
暴力を受けていたのは、今話した通り、出会った当初から知っていたことだ。
けれど、殴る蹴る以外の洗礼を受けていたかもしれない、という可能性については、なぜだか考えたことはなかった。
そんな話をしようとしてるとは思えない程に、は冷静だった。
それがユーリの想像に現実味を帯びさせない原因の一つだった。
姉は、ユーリがの笑顔を生んだのだと言っていた。可愛くしたのはユーリなのだと。
なのに、こうして作り上げたものは、一瞬にして瓦解した。
──こんなにも容易く壊れるのか。砂の城のように脆い、ただのハリボテでしかなかったのだろうか。
そうだとすると、ユーリがのためにしてやれた事など、自分が思っていたよりもほんの少しでしかなかったのかもしれない。
毎日が楽しくて仕方がないとばかりに輝いていたあの瞳が、今はなんて暗い色を湛えてるのだろうと、眉を寄せながら見つめた。
──その時だった。ユーリの視界の端で何かが動く。
それが何なのかを脳が理解した瞬間、酷く動揺した。が自分の制服のスカートに手をかける仕草をしていたのだ。
「なにを、して!」
「いいから」
一体なにをするつもりかと反射的に止めようとしたところで、に黙ってみていろと言わんばかりにストップをかけられた。
サッとがスカートを付け根ギリギリまでまくり上げる。日焼けのない、白い太ももが晒される。
そこには確かに、消えない傷跡があった。
行動した自身は照れるでもなく、ただどこか遠くを見ながら乾いた笑いを湛えている。
出会った頃のような、荒んだ色を浮かべるようになったの姿はあまりに痛々しい。
なのに、──なのに。
それを可哀そうだと思う前に。それに怒りを覚える前に。それに悲しむよりも前に。
──思考よりも先に、欲が動いた自分自身が信じられなかった。
何を考えるより先に、胸や顔、全身がカッと熱くなった。露骨な言い回しをするならば、それは"欲情"だ。
思わず、ユーリは熱くなった顔を手のひらで抑えた。その姿を冷静な眼でが見下ろしている。
──決して悟られてはならない、と思った。
傷に同情するより先に欲を抱いたなんて。妹のように可愛がっていた家族を色目で見たなんて。
──殺せ。押し殺せ。同情してみせろ。同情出来るはずだろう。泣いてもおかしくない場面だろう。さあ早く。
口元に手を当て、表情を覆うその姿は、想像を絶する光景に青ざめ絶句した、正義感の強い男の姿。
その実情は、怒りと同情と欲情にかき乱され、困惑している、そんな情けない有様なのだ。
はもしかしたら、自分自身を惨めだと思っているかもしれない。
けれど、一番惨めなのは、自分だろうとユーリは自嘲した。
認めたくない。けれど認めざるを得ない。
やはりとユーリは血の繋がらない他人なのである。
だから今ユーリは、をこう認識したのだ。
──最早この子は少女ではなく、色を秘めた一人の女性である、と。
とユーリが結婚して、皆でずっと一緒にいられたら…と夢を語った姉との会話を思い出した。
を魅力的には思えない、なんて、一体どの口が言っていたのだろう。無様だ。
──は今年で16歳になる。
──17歳。それは女の子が花咲き輝く、青い春のような年頃なのだと教えられた事がある。もうすぐはその年頃に差し掛かろうとしている。
あの時の事を、ユーリは再び思い出していた。
「お姉さんは、きっと今、一番華やかな年ごろなんだろうね。眩しくて、いやになる時もあるだろう」
「女が一番美しくなるときですよ」
旦那が語ると、妻が頷いた。ユーリは姉を…を、眩しくて嫌に思った事はない。
愛しいと慈しみこそすれど。
「17歳を超えると、次に凛とするの。その次には艶やかになる。あなたのお姉さんは、未来でどんどん魅力的になって、花のような人生を送るのですよ」
だから、その花が眩しすぎたからと言って、水をやるのを怠りなさるな。
多少のトゲがあなたを突き刺しても、可愛いものだと許してやりなさい。
そう言われたから、ユーリはを愛したし、許した。愛でてきた。自分が持つ限りの全てで潤した。
「17歳が一番華やかで輝かしいという話を聞きましたが。
じゃあ、花が咲くのはいつですか?どうやって愛でればいいでしょう」
そして、ユーリは改めて彼女達にこう問いかけた事があった。
その問いに対して、老夫婦は当時のユーリには理解の及ばない、抽象的な物言いでもって返した。
「開花したかどうかの見極めは、あなたの匙加減」
──今、その意味を心から理解した。つぼみは開いたのだと悟った。
ユーリがその花を美しいと思ったから。
今まで芽から愛でてきたその花のつぼみの色が、昨日とは違って見えたから。
これからは、美しい花のような人生送っていくだろう。
そこに影を一つ落としたまま。その影に光を照らし、笑顔にしてやりたいと願うのは、家族だから?
それとも…
それとも。万が一。もしかして。自分が違う形で愛し始めているのだとしたら…
────一体、いつからだ。
こんな形を望んだのではなかった。
禁忌を犯してしまったかのような背徳感と、子供に非道な行いをした大人へ殺意。
ぐらぐらと沸騰するように、色んな感情が煮え立って止まらない。
「私は…賢い子だって言われてた。角が立たない、立てようともしない子供だって」
逆らえば痛い目に合うと理解していたのだろう。俯いて痛みをこらえるの姿は想像できた。
大きな声が勝り、小さな声はかき消されるように出来ている、美しくも残酷な世界。
そこに生きているのだと、理解している賢い子供だった。
「だから、この痕をつけるのは、私じゃないとダメだった」
泣いて、感情のままに喚き散らす子供ではだめだった。
まるで今現在ののように、辛いという気持ちを押し殺して、淡々と説明出来る理性を持った子供でなければいけなかったのだ。腹立たしい。腹立たしくてたまらない。
けれど動悸が止まないのは、それだけが理由じゃない。止まれ、止まれと念じ続けても、叶わない。
「この間の人たち、…似てたから…それだけだから。そのうち、大丈夫になるよ。ちゃんと忘れる」
誰が誰に似ていたのか、なんて事は、もう想像できる。どうして落ち込んでいたのかも。
トラウマを抉られたのかも、という想像は間違いではなかった。
トラウマは話して楽になるという説もあれば、思い出すほど傷を深めるだけという説もある。
どうした?何かあったのか?などと追及しなければよかったのかもしれない。けれど聞いて正解だったのかもしれない。
どちらがにとっていい選択であったのかは、今のユーリには分からない。
どちらにせよ、これ以上この話を深堀しない方がいいという事だけは理解できた。
10年も前の出来事に、今さらどんな慰めの言葉が必要だというのだろう。
ただ話を聞いて、心を痛め、味方をしてあげるだけで良かったのだろうと思う。
難しい事ではない。悲しむふりなどしなくても、心底腹立たしい事だと怒っているし、心底悲しかった。
ただ、ユーリは"間違えた"と思っていた。
少なくとも自分にとっては過ちであったと。
この花が美しいなどと、気が付く瞬間が来なければよかった。
この先、年を重ねるごとに、ユーリの目には、は凛々しく、艶やかに映る事だろう。
これまでと同じようには過ごせないと思った。
を一人の女性として認めた所で、姉の願った通りの恋愛感情を育てていけるのかは、わからない。
そしてもしもユーリの中に恋愛という情が正しく育ったとしても、叶うかどうかは、の気持ち次第。
そんな未来は不確かすぎて、やはり気が付かない方が幸せだったのではないかと、ユーリは色んな思いを抱えて沈黙した。