第十三話
2.愛情─開花前
私がブライアの家に迎えられてから、早十年以上。
幸せに満ち足りた、夢のような暮らしを送ってきた。6歳の頃、もう死は目前に迫っていて、死しか道はないと思っていた。
そんな私は今日の今日まで大切に守られ生かされて、16歳の高校生なろうとしていた。
バラ色の生活、というのとはまた違うけれど。それこそ、悲しい記憶など、思い出す暇もないくらいに、この生活は暖かで、豊かで。感傷に浸る瞬間など、ほとんどなかった。
幼少期は自宅学習をして、13歳からは通学を始めた。
朝起きて学校に行って寝るだけの生活、と言ってしまえば空しく聞こえるだろうけれど、充実していた。脅かされない日々はなんて幸せなのだろうか。
単調だって構わない。平和な毎日が積み重なるという奇跡、その得難さを、私はよく知っていた。
けれど、この一切の危険を感じない生活…というのは、もしかしたらブライアの過保護な教育方針のおかげでもあったのかもしれない。
校門近くに、見慣れた黒髪を見つけて、少し苦々しく思ってしまった。有難いけど、複雑だ。
「……なにしてるの?ユーリ」
私が声をかけると、振り向いたユーリはにこりと笑った。
「なにって、迎えにきたんだよ」
「過保護…」
本当は尋ねずとも分かっていた。「出来るときはの送り迎えをしてあげてくださいね」と、いつの日か、ヨルはユーリに言った。
それからというもの、毎日ではないものの、時間に余裕があるときは、ユーリは私の登下校に付き添うようになった。
中学生の頃ならまだ理解できた。けれどやっぱり、いくら日本に比べて治安がよろしくない東国といえど、高校生の思春期の女の子を家族が送迎するというのは、中々ないだろう。
そんな事をされている同級生はいなかったし、"年頃"という言葉の意味をじっくり吟味してみれば分かる事。
年頃を迎えた子供はいつか大人になり、保護者の手を離れる。
その過程にある17歳の女の子を迎えに来るというのは、自立精神の芽生えを阻害する行動になり得る。
前世で正しく大人になった経験がある私だからこそこんな事を考えられるけど。
私が根っからの17歳であれば、過保護な姉兄に溺愛され判断能力を溶かされ、
その愛のせいで歪んでいたかもしれない。
「過保護も何も。送り迎えくらい、おかしい事じゃないだろ」
「就活生って暇なの?…暇じゃないでしょ、何してるの」
「息抜きって必要だと思わないか?…よし、じゃあ行こう」
適当な言葉でかわされたな、とすぐに気が付いた。
校門の前に佇む他校の男子の姿は、とても目立っている。
ユーリのスパルタのお陰で、偏差値の高いお嬢様学校にお受験できた。
ブライアの姉弟は、整った顔立ちをしている。免疫のない女生徒達は遠巻きに見る事しかできず、声をかけられる事はない。
ここが淑女の集う清楚な学校である事に感謝した。
私が女子高に通わせに至ったのは、ヨルの判断でもあったけれど、ユーリの希望あっての事でもあった。
私にこだわりはなく、どんな場所でも、学校に通わせてもらえるだけで申し訳なかったし、有難いと思っていたので、学校選びは二人にお任せした。
今日はどんな授業があったとか、クラスメイトとどんな話をしただとか、他愛のない話をはながら家路に着く。
その途中で、スーパーの看板が目に入った。その瞬間思い浮かべたのは、お互い同じ光景だった事だろう。
無言で顔を見合わせた。今、うちの冷蔵庫の中には、あるべきはずのものがない。
そう、牛乳を切らしていたのだった。あれがあるとないでは、天地ほどの差が生まれてしまう。
「……牛乳、切らしてたっけか。明日の朝が困る…今日のうちに買っておかないと」
「それに、今晩も使いたいし…」
お互いあちゃーという顔をした後、ユーリは私にスーパーの出口で待っているように告げた。
牛乳一本買うのにかかるのはほんの数分。わざわざ着いていく必要もないだろうと頷き、鞄から参考書を取り出して、暇つぶす事にした。
扉の横を陣取るのは迷惑になると思い、スーパー隅の方に移動すると、騒がしい幾人かの笑い声が聞えた。
スーパーの裏手に面した路地にしゃがみこみ、たむろしている男子高校生の姿がそこにあった。
ばちりと、彼らと目が合ってしまう。
ああ、これは日本で言うところの、コンビニの駐車場で屯するヤンキーなのだろう。
髪の色は派手で、ピアスは最早痛々しくなるほどに多くあけられていて、声が必要以上に大きい。
予期せぬ乱入者の存在に一瞬眉をしかめた彼らも、私が気の弱そうな若い女子だと分かると、示し合わせたように立ち上がり、ニヤニヤ笑いで近づいてきた。
そのまま囲まれて、逃げられなくなる。
こいつお嬢様なんじゃね、と誰かがぼやいたのが聞こえた。
有名な学校の制服を纏っていたのが余計にマズかったらしい。
「ねえねえ、そこのお嬢さん、ボクたちと遊びませんか?なんつって!」
「ギャハハおめー似合わなねー!」
「百ぺん生まれ変わってもお坊ちゃんなんて柄じゃねえよ」
三人組の男はシャツを着崩し、かき上げるようにセットれている髪の毛は傷んでいた。
品がない、というのが彼らの印象だ。人の事は言えない出自ではあるけれど、そう言わざるを得ない。
彼らなりのポリシーをもって身だしなみに気を使っている事は分かる。が、美しく着こなせているとは思えない。靴もボロボロだった。
「あー、お嬢さん?僕たちと楽しい事いたしませんかー?」
「お坊ちゃんキャラでゴリ押す気かって」
「ごめんねー俺の連れバカだけど楽しいやつだから!まじで保障するから!」
そうですか、という相槌すら打てない。
明らかにこれは、ナンパだろう。ただ屯してだべっているより、絡んだ方がいい娯楽になると、弱者を困らせて遊んでいるだけかもしれないけれど。
──大柄な男達に囲まれる、というのは、こうも威圧感を覚えるものだったか。
それは、久々に感じた"危機感"と"恐怖"であった。
俯いた顔を上げられない。地面に落とした視線の先にあるの、情けなく震える自分の足。
昔だったら、彼らが感じの悪い人だと理解したその瞬間、走って逃げだしていたはずだ。
すぐさま離脱できなかったのは、平和ボケしていたせいだ。
今も足が凍り付いて動かないのは、恐怖心や脅威との戦い方を忘れてしまったから。
こうして弱者の振舞いをしていると、相手を助長させるだけ。
今は遊びでも、加虐心に火がついて、本気になってしまう。
手に取るように理解し、想像できるのに、なぜこの足は動かないのだろう。
動け、動け、逃げろ、生きろ。
念じても叶わない事に絶望した所に、救いの声がかかった。
「──おい、そんな所で何やってるんだ」
聞き慣れたはずの声が、今は神様の囁きのように感じられた。
振り返ると、苛立ちを一切隠さない顔をしたユーリが立っていた。
「あ?なんだこのぼっちゃん」
「ツレがいんのかよ、つまんねーな」
「お前には一生手が届かない高嶺の花ってやつだろ、あきらめろよ似非ぼっちゃん」
「似非ぼっちゃん言うなっつーの気色わりぃな」
ユーリを彼氏と勘違いしたらしい彼らは、特に逆上することもなく、私から興味を失ったようだった。つまらなそうに舌打ちしながら、踵を返してしまった。
ほんの気まぐれ。ほんの遊び。暇つぶし。時間つぶし。きっかけがあれば容易く失われる執着、攻撃性。
分かっていても怖いものだった。実際、さっきまでの私は、彼らの興味をそらす為の武器も話術も、逃げる足も持っていなかったのだから。
──無力な弱者。
彼らにお嬢様と呼ばれるような立派な人間ではない。その事を、久しぶりに思い出してしまった。
──あの日から、私は笑えなくなってしまった。
人間の心とは儘ならないものだと思う。
結局あの時、危害を加えられた訳ではないし、円満に終わったのに。
何がきっかけで脆くヒビが入るのか、まったく予期できない、コントロールもできない。
幸せすぎて、昔味わった恐怖も感傷も、ほとんど思い出さなかった。
それを一瞬にして、強烈に思い出した反動なのかもしれない。
せっかく豊かにしてもらった私の精神性は、一気にあの頃に逆戻りだ。
「…何かあったのか?いや、何かされたのか?あの時」
絡まれて帰ったあの日、落ち込んでいる私の姿を見ても、あぁショックだったんだろな、くらいにしか思わなかっただろう。ユーリから事情を説明されたヨルさんも、暫くそっとしておいてくれた。
けれどそこから一週間以上意気消沈し、感情がごっそり抜け落ちたかのような暮らしを送れば、流石に何かがおかしいと訝しまれるようになった。
出会った頃のような無表情を湛えながら、ユーリ疑問を否定した。
「何もされてない。からかわれただけだし…沢山いたから、ちょっと怖かっただけ」
「だけ、にしては……」
その消沈ぶりは過剰だろう、と言いたげだ。
ユーリが買い物に出かけたのは本当に数分だけの事で、あの短時間で殴ったり蹴られたりをされたとは考えられない。
とはいえ、"からかわれただけ"にしては、様子がおかしい。
もっともな反応だと思った。私が上手い言い訳を考えるか、回復して元気な姿を見せなければ、追及は続くのだろう。
前者も後者も、今の私には出来そうもない。
気分が落ち込むと、脳みその動きもどんどん鈍くなっていって、この頃は体も重たい。
一つの歯車が狂うと、連鎖的に何もかもが悪い方向に向かっていく。
何もかも、儘ならない。
「……」
だとしたら、私に取れる選択肢は一つだけ。
あまりに愚直、しかし効果は覿面な正攻法。
一から十まで、全て吐露するという選択だ。自分が何故、どうして、何が理由でこうして落ち込んでいるのか。
説明をすれば納得されるだろう。けれどあっさりと打ち明けるにあまりに重たい。
けれど、墓場まで持っていく程のものではない。
いつか何かのタイミングで打ち明けたかもしれない話。それが今だったのだと割り切る他ないだろう。
私はソファーに座り、ユーリに向けて手招きした。
「あ、違う。座らないで、そこにかがんで」
すると、当然のように隣に腰かけようとするので、床を指さして後戻りさせた。
このタイミングでソファーの方に誘導すれば、じっくり話をするためにユーリも一緒に着席させようとした、と思われて当然だった。
何故ユーリだけをあえて屈ませるのか、意味が解らないとっ言った表情をしている。
けれど意味があるの事なのだろうと、私の指示には渋々ながら従ってくれた。
「初めて会ったあの時…私、痣だらけだったよね」
何故このタイミングで突拍子もなく、遠い昔の記憶を辿らせるのか。
ユーリは一瞬意表を突かれたように目を丸くした後、すぐに嫌な予感がする、とでも言わんばかりに表情を曇らせた。
「………体罰、だったって」
「そう、体罰。悪い子だったから、教育された。躾っていうやつだよ」
それを聞いたユーリに何かを思わせる前に、緩々と首を横に振って制した。
最早それは過ぎた過去だから、私は既に気にしてない。だから、ユーリも気にしなくていい、という意思表示だった。
それは虚勢ではない。暴力に対する恨みも恐怖も、この10年の日々で忘れた。
けれど、未だに割り切れない傷の一つくらいは残ってるものだ。
床に膝をついて、私の目をじっと見上げているユーリ。
その視界の端に、制服のスカートに手をかけた私の仕草を見つけると、ユーリはぎょっと驚いて私を止めようした。
「なにを、して…!」
「いいから、みて」
有無を言わさず視線で制してから、私は下着が見えるギリギリまで太ももを露出させた。
ユーリが悲鳴を上げる。
それにも構わず、足をわずかに開く。まるで痴女のようだなと自嘲した。
最初こそ動揺していたユーリも、すぐにハッとして、手で口元を覆う。
黙して、ただ息を呑んでいた。
かつて怯える女児に向け、"足を開け"と命令した男達の興奮は、いか程の物だっただろうなと想像してみる。きっとあの行いは、男の欲を満たすには十分だっただろう。
醜い加虐心は、弱者の惨めな行動で助長されるものだと、知っていた。
「私は…賢い子だって言われてた。角が立たない、立てようともしない子供だって」
足を開けと言われれば開くしかないし、逆らえば痛い目に合うし、地獄は終わらないと知っていた。告げ口は意味をなさず、大きい声が勝り、弱者の嘆きは届かないように世は作られていると、理解している賢い子供。
「だから、この痕をつけるのは、私じゃないとダメだった」
泣いて、感情のままに喚き散らす子供ではだめだった。
泣くのをこらえて、痕をひた隠しにする子供じゃなきゃ、ダメだった。
虐待の痕を証拠にして大人に助けを求めても、同情こそされど、助けられる事はなく、見捨てられる可能性の方が高い。
そうすると、受けた恥辱を晒すだけで、自分の尊厳がすり減らされるだけ。
それを繰り返せば、それこそ正義感に満ちた"善人"に当たり、助けてもらえたかもしれないけれど、行動に移してくれるその人に辿り着くまでに、一体どれだけ時間がかかるか。
自分の心が摩耗するのが先か、善人に出会えるのが先か。
そうすると、助けてと声を上げるよりも、黙っていた方が消耗は少ないだろうと判断し諦めるようになった。
子供にしては賢いと称され続けた私は、その読み通り、ちゃんと理解していた。
「この間の人たち、…似てたから…それだけだから。そのうち、大丈夫になるよ。ちゃんと忘れる」
誰に似ていたのか、というのは、もう言わなくても伝わっただろう。
どうして落ち込んでいたのかさえも。こんな感情は一過性のもので、しばらく経てば消える。
この10年、"ほとんど"フラッシュバックしなかったのだから。今回だって、そのうち収まって、やがては泡になって消えるはずだ。
良い思い出もいつかは色褪せ薄れるように、悪い記憶も永遠には残らない。
いつかはこの悪夢から解放されると分かっていたからそ、気まずく思いながらも、こうして打ち明けることができた。
墓場まで持っていく程には重たくはない、そう深刻にならなくていい。そういう説明は、きちんと正しく届いたのだろうか。
ユーリは神妙な面持ちで黙りこくっていた。
2.愛情─開花前
私がブライアの家に迎えられてから、早十年以上。
幸せに満ち足りた、夢のような暮らしを送ってきた。6歳の頃、もう死は目前に迫っていて、死しか道はないと思っていた。
そんな私は今日の今日まで大切に守られ生かされて、16歳の高校生なろうとしていた。
バラ色の生活、というのとはまた違うけれど。それこそ、悲しい記憶など、思い出す暇もないくらいに、この生活は暖かで、豊かで。感傷に浸る瞬間など、ほとんどなかった。
幼少期は自宅学習をして、13歳からは通学を始めた。
朝起きて学校に行って寝るだけの生活、と言ってしまえば空しく聞こえるだろうけれど、充実していた。脅かされない日々はなんて幸せなのだろうか。
単調だって構わない。平和な毎日が積み重なるという奇跡、その得難さを、私はよく知っていた。
けれど、この一切の危険を感じない生活…というのは、もしかしたらブライアの過保護な教育方針のおかげでもあったのかもしれない。
校門近くに、見慣れた黒髪を見つけて、少し苦々しく思ってしまった。有難いけど、複雑だ。
「……なにしてるの?ユーリ」
私が声をかけると、振り向いたユーリはにこりと笑った。
「なにって、迎えにきたんだよ」
「過保護…」
本当は尋ねずとも分かっていた。「出来るときはの送り迎えをしてあげてくださいね」と、いつの日か、ヨルはユーリに言った。
それからというもの、毎日ではないものの、時間に余裕があるときは、ユーリは私の登下校に付き添うようになった。
中学生の頃ならまだ理解できた。けれどやっぱり、いくら日本に比べて治安がよろしくない東国といえど、高校生の思春期の女の子を家族が送迎するというのは、中々ないだろう。
そんな事をされている同級生はいなかったし、"年頃"という言葉の意味をじっくり吟味してみれば分かる事。
年頃を迎えた子供はいつか大人になり、保護者の手を離れる。
その過程にある17歳の女の子を迎えに来るというのは、自立精神の芽生えを阻害する行動になり得る。
前世で正しく大人になった経験がある私だからこそこんな事を考えられるけど。
私が根っからの17歳であれば、過保護な姉兄に溺愛され判断能力を溶かされ、
その愛のせいで歪んでいたかもしれない。
「過保護も何も。送り迎えくらい、おかしい事じゃないだろ」
「就活生って暇なの?…暇じゃないでしょ、何してるの」
「息抜きって必要だと思わないか?…よし、じゃあ行こう」
適当な言葉でかわされたな、とすぐに気が付いた。
校門の前に佇む他校の男子の姿は、とても目立っている。
ユーリのスパルタのお陰で、偏差値の高いお嬢様学校にお受験できた。
ブライアの姉弟は、整った顔立ちをしている。免疫のない女生徒達は遠巻きに見る事しかできず、声をかけられる事はない。
ここが淑女の集う清楚な学校である事に感謝した。
私が女子高に通わせに至ったのは、ヨルの判断でもあったけれど、ユーリの希望あっての事でもあった。
私にこだわりはなく、どんな場所でも、学校に通わせてもらえるだけで申し訳なかったし、有難いと思っていたので、学校選びは二人にお任せした。
今日はどんな授業があったとか、クラスメイトとどんな話をしただとか、他愛のない話をはながら家路に着く。
その途中で、スーパーの看板が目に入った。その瞬間思い浮かべたのは、お互い同じ光景だった事だろう。
無言で顔を見合わせた。今、うちの冷蔵庫の中には、あるべきはずのものがない。
そう、牛乳を切らしていたのだった。あれがあるとないでは、天地ほどの差が生まれてしまう。
「……牛乳、切らしてたっけか。明日の朝が困る…今日のうちに買っておかないと」
「それに、今晩も使いたいし…」
お互いあちゃーという顔をした後、ユーリは私にスーパーの出口で待っているように告げた。
牛乳一本買うのにかかるのはほんの数分。わざわざ着いていく必要もないだろうと頷き、鞄から参考書を取り出して、暇つぶす事にした。
扉の横を陣取るのは迷惑になると思い、スーパー隅の方に移動すると、騒がしい幾人かの笑い声が聞えた。
スーパーの裏手に面した路地にしゃがみこみ、たむろしている男子高校生の姿がそこにあった。
ばちりと、彼らと目が合ってしまう。
ああ、これは日本で言うところの、コンビニの駐車場で屯するヤンキーなのだろう。
髪の色は派手で、ピアスは最早痛々しくなるほどに多くあけられていて、声が必要以上に大きい。
予期せぬ乱入者の存在に一瞬眉をしかめた彼らも、私が気の弱そうな若い女子だと分かると、示し合わせたように立ち上がり、ニヤニヤ笑いで近づいてきた。
そのまま囲まれて、逃げられなくなる。
こいつお嬢様なんじゃね、と誰かがぼやいたのが聞こえた。
有名な学校の制服を纏っていたのが余計にマズかったらしい。
「ねえねえ、そこのお嬢さん、ボクたちと遊びませんか?なんつって!」
「ギャハハおめー似合わなねー!」
「百ぺん生まれ変わってもお坊ちゃんなんて柄じゃねえよ」
三人組の男はシャツを着崩し、かき上げるようにセットれている髪の毛は傷んでいた。
品がない、というのが彼らの印象だ。人の事は言えない出自ではあるけれど、そう言わざるを得ない。
彼らなりのポリシーをもって身だしなみに気を使っている事は分かる。が、美しく着こなせているとは思えない。靴もボロボロだった。
「あー、お嬢さん?僕たちと楽しい事いたしませんかー?」
「お坊ちゃんキャラでゴリ押す気かって」
「ごめんねー俺の連れバカだけど楽しいやつだから!まじで保障するから!」
そうですか、という相槌すら打てない。
明らかにこれは、ナンパだろう。ただ屯してだべっているより、絡んだ方がいい娯楽になると、弱者を困らせて遊んでいるだけかもしれないけれど。
──大柄な男達に囲まれる、というのは、こうも威圧感を覚えるものだったか。
それは、久々に感じた"危機感"と"恐怖"であった。
俯いた顔を上げられない。地面に落とした視線の先にあるの、情けなく震える自分の足。
昔だったら、彼らが感じの悪い人だと理解したその瞬間、走って逃げだしていたはずだ。
すぐさま離脱できなかったのは、平和ボケしていたせいだ。
今も足が凍り付いて動かないのは、恐怖心や脅威との戦い方を忘れてしまったから。
こうして弱者の振舞いをしていると、相手を助長させるだけ。
今は遊びでも、加虐心に火がついて、本気になってしまう。
手に取るように理解し、想像できるのに、なぜこの足は動かないのだろう。
動け、動け、逃げろ、生きろ。
念じても叶わない事に絶望した所に、救いの声がかかった。
「──おい、そんな所で何やってるんだ」
聞き慣れたはずの声が、今は神様の囁きのように感じられた。
振り返ると、苛立ちを一切隠さない顔をしたユーリが立っていた。
「あ?なんだこのぼっちゃん」
「ツレがいんのかよ、つまんねーな」
「お前には一生手が届かない高嶺の花ってやつだろ、あきらめろよ似非ぼっちゃん」
「似非ぼっちゃん言うなっつーの気色わりぃな」
ユーリを彼氏と勘違いしたらしい彼らは、特に逆上することもなく、私から興味を失ったようだった。つまらなそうに舌打ちしながら、踵を返してしまった。
ほんの気まぐれ。ほんの遊び。暇つぶし。時間つぶし。きっかけがあれば容易く失われる執着、攻撃性。
分かっていても怖いものだった。実際、さっきまでの私は、彼らの興味をそらす為の武器も話術も、逃げる足も持っていなかったのだから。
──無力な弱者。
彼らにお嬢様と呼ばれるような立派な人間ではない。その事を、久しぶりに思い出してしまった。
──あの日から、私は笑えなくなってしまった。
人間の心とは儘ならないものだと思う。
結局あの時、危害を加えられた訳ではないし、円満に終わったのに。
何がきっかけで脆くヒビが入るのか、まったく予期できない、コントロールもできない。
幸せすぎて、昔味わった恐怖も感傷も、ほとんど思い出さなかった。
それを一瞬にして、強烈に思い出した反動なのかもしれない。
せっかく豊かにしてもらった私の精神性は、一気にあの頃に逆戻りだ。
「…何かあったのか?いや、何かされたのか?あの時」
絡まれて帰ったあの日、落ち込んでいる私の姿を見ても、あぁショックだったんだろな、くらいにしか思わなかっただろう。ユーリから事情を説明されたヨルさんも、暫くそっとしておいてくれた。
けれどそこから一週間以上意気消沈し、感情がごっそり抜け落ちたかのような暮らしを送れば、流石に何かがおかしいと訝しまれるようになった。
出会った頃のような無表情を湛えながら、ユーリ疑問を否定した。
「何もされてない。からかわれただけだし…沢山いたから、ちょっと怖かっただけ」
「だけ、にしては……」
その消沈ぶりは過剰だろう、と言いたげだ。
ユーリが買い物に出かけたのは本当に数分だけの事で、あの短時間で殴ったり蹴られたりをされたとは考えられない。
とはいえ、"からかわれただけ"にしては、様子がおかしい。
もっともな反応だと思った。私が上手い言い訳を考えるか、回復して元気な姿を見せなければ、追及は続くのだろう。
前者も後者も、今の私には出来そうもない。
気分が落ち込むと、脳みその動きもどんどん鈍くなっていって、この頃は体も重たい。
一つの歯車が狂うと、連鎖的に何もかもが悪い方向に向かっていく。
何もかも、儘ならない。
「……」
だとしたら、私に取れる選択肢は一つだけ。
あまりに愚直、しかし効果は覿面な正攻法。
一から十まで、全て吐露するという選択だ。自分が何故、どうして、何が理由でこうして落ち込んでいるのか。
説明をすれば納得されるだろう。けれどあっさりと打ち明けるにあまりに重たい。
けれど、墓場まで持っていく程のものではない。
いつか何かのタイミングで打ち明けたかもしれない話。それが今だったのだと割り切る他ないだろう。
私はソファーに座り、ユーリに向けて手招きした。
「あ、違う。座らないで、そこにかがんで」
すると、当然のように隣に腰かけようとするので、床を指さして後戻りさせた。
このタイミングでソファーの方に誘導すれば、じっくり話をするためにユーリも一緒に着席させようとした、と思われて当然だった。
何故ユーリだけをあえて屈ませるのか、意味が解らないとっ言った表情をしている。
けれど意味があるの事なのだろうと、私の指示には渋々ながら従ってくれた。
「初めて会ったあの時…私、痣だらけだったよね」
何故このタイミングで突拍子もなく、遠い昔の記憶を辿らせるのか。
ユーリは一瞬意表を突かれたように目を丸くした後、すぐに嫌な予感がする、とでも言わんばかりに表情を曇らせた。
「………体罰、だったって」
「そう、体罰。悪い子だったから、教育された。躾っていうやつだよ」
それを聞いたユーリに何かを思わせる前に、緩々と首を横に振って制した。
最早それは過ぎた過去だから、私は既に気にしてない。だから、ユーリも気にしなくていい、という意思表示だった。
それは虚勢ではない。暴力に対する恨みも恐怖も、この10年の日々で忘れた。
けれど、未だに割り切れない傷の一つくらいは残ってるものだ。
床に膝をついて、私の目をじっと見上げているユーリ。
その視界の端に、制服のスカートに手をかけた私の仕草を見つけると、ユーリはぎょっと驚いて私を止めようした。
「なにを、して…!」
「いいから、みて」
有無を言わさず視線で制してから、私は下着が見えるギリギリまで太ももを露出させた。
ユーリが悲鳴を上げる。
それにも構わず、足をわずかに開く。まるで痴女のようだなと自嘲した。
最初こそ動揺していたユーリも、すぐにハッとして、手で口元を覆う。
黙して、ただ息を呑んでいた。
かつて怯える女児に向け、"足を開け"と命令した男達の興奮は、いか程の物だっただろうなと想像してみる。きっとあの行いは、男の欲を満たすには十分だっただろう。
醜い加虐心は、弱者の惨めな行動で助長されるものだと、知っていた。
「私は…賢い子だって言われてた。角が立たない、立てようともしない子供だって」
足を開けと言われれば開くしかないし、逆らえば痛い目に合うし、地獄は終わらないと知っていた。告げ口は意味をなさず、大きい声が勝り、弱者の嘆きは届かないように世は作られていると、理解している賢い子供。
「だから、この痕をつけるのは、私じゃないとダメだった」
泣いて、感情のままに喚き散らす子供ではだめだった。
泣くのをこらえて、痕をひた隠しにする子供じゃなきゃ、ダメだった。
虐待の痕を証拠にして大人に助けを求めても、同情こそされど、助けられる事はなく、見捨てられる可能性の方が高い。
そうすると、受けた恥辱を晒すだけで、自分の尊厳がすり減らされるだけ。
それを繰り返せば、それこそ正義感に満ちた"善人"に当たり、助けてもらえたかもしれないけれど、行動に移してくれるその人に辿り着くまでに、一体どれだけ時間がかかるか。
自分の心が摩耗するのが先か、善人に出会えるのが先か。
そうすると、助けてと声を上げるよりも、黙っていた方が消耗は少ないだろうと判断し諦めるようになった。
子供にしては賢いと称され続けた私は、その読み通り、ちゃんと理解していた。
「この間の人たち、…似てたから…それだけだから。そのうち、大丈夫になるよ。ちゃんと忘れる」
誰に似ていたのか、というのは、もう言わなくても伝わっただろう。
どうして落ち込んでいたのかさえも。こんな感情は一過性のもので、しばらく経てば消える。
この10年、"ほとんど"フラッシュバックしなかったのだから。今回だって、そのうち収まって、やがては泡になって消えるはずだ。
良い思い出もいつかは色褪せ薄れるように、悪い記憶も永遠には残らない。
いつかはこの悪夢から解放されると分かっていたからそ、気まずく思いながらも、こうして打ち明けることができた。
墓場まで持っていく程には重たくはない、そう深刻にならなくていい。そういう説明は、きちんと正しく届いたのだろうか。
ユーリは神妙な面持ちで黙りこくっていた。