第9話
1.人間的な恋物語の世界にいるという事
── という人間は、事件に巻き込まれやすい体質なのかもしれない。
それは、刑事局長の父親を持ち、父と同じ志を持つ夜神月という主人公の幼馴染である以上、必然的なことだったのかもしれない。
けれど、それにしたって──幼少期の誘拐事件も、生易しいものではなかった。
陰惨、陰湿。そんな言葉がよく似合う。

二度目に巻き込まれた事件は、一度目の時と同じく、未遂に終わった。
けれど味わった気持ち悪さは、一度目の時と同じ。無傷ではいられなかった。

けれど、終わりよければすべてよし。私はそう結論付けて、未遂で事件が解決した以上、
引きずる事はなかった。
しかし周囲はそうはいかない。両親は今まで以上に過保護になったし、周りは私を腫物扱した。
──傷付いた少女に、どう触れたらいいのかわからない。
そんな具合に、遠巻きに接する事しかできなかったのだ。
──月くん以外は。


、帰ろうか」
「うん…、…今日は勉強どうする?」
「僕の部屋でやろう」
「うん、わかった」

歩きながら、廊下に出る。私達に声をかけるクラスメイトがいないのは、
私が事件に巻き込まれたばかりの可哀そうな女の子だから。
加えて、私達が恋人同士であると思われているからだ。
公言した訳ではない。実際、私達も、好きだと言い合った訳じゃないし、恋人同士だよね、なんて確認しあった事もない。

それでも、私はともかく…月くんに話しかけたそうにしている女の子は、今でもたくさんいた。
月くんは高校三年生になった今でも人当たりがよくて、クラスの中心で、美形で、成績がいい。
彼女がいる…と、思われていたとして。そんな男の子に、思春期の女の子が、恋をせずにはいられないだろう。
前よりは減ったけど、未だに月くんはラブレターをもらうし、昼休みの中庭で、
「あんな女より、私、好きになってもえる自身あるから!」と迫られている場面も、見かけた事がある。

こうして二人で下校しようとしていると、間に割って入ってこようとする女子もいたのだけれど。
しかし今日は何事もなく、帰路につくことができた。


「あら月… ちゃんも、おかえりなさい」
「ただいま、母さん」
「えと…ええと。……おじゃまします」
「母さん、 が困ってるよ」
「あらごめんね?でも ちゃん、もう家族みたいなものじゃない」
「…母さん」
「はいはい、ごゆっくり」


夜神家の玄関を開けると、月くんのお母さんが出迎えてくれた。
おかえりなさい、という言葉にどう返事したらいいのかわからなくて、困っていると、月くんが助け船を出してくれる。
昔から、夜神家・ 家の母親二人は、お互いの娘と息子をくっつけたいと笑い話にしていたし、半ば本気だったのも知ってる。
…月くんは、お母さんに言ったのかな?私のことが好きだって。恋人みたいな関係になったんだって。
だからこんな風にからかわれるのかな。
…でも、昔からこんな調子だったような気もする。
とんとんと足音を立てながら、二階へ上がり、月くんの部屋に招かれる。


「どうぞ」
「うん、おじゃまします」

月くんの部屋はいつもきれいで、整理整頓されてる。
いつの間にか、月くんの部屋には、私専用の椅子が用意されるようになっていた。
月くんの使ってるようなシンプルな勉強椅子じゃなくて、女性向けに作られたのか、淡い桜色をしている。
いつもそれは、私がいない間は、部屋の隅に寄せられているようだ。
私と隣同士に並んで勉強できるように、ゴロゴロ音を立てながら椅子をデスクの側に移動してる月くんの傍らで、「あ、」と私は声をあげた。


「どうしたの?」
「月君の本棚に…ほら、私のすきな小説がある」
「… が面白いって言ってたら、読みたくなって」
「ふふ…でも、月くんにはつまらなかったんじゃないかな?フィクションの、ファンタジーだよ」

ノンフィクションの小説か、小難しそうな専門書、辞書や教科書ばかりが並ぶ本棚に、淡い色の背表紙をひとつ見つけて、微笑ましくなってしまった。
月くんは私の隣にやってくると、同じように本棚を覗く。
そのファンタジー小説は、ただ幻想的なばかりで、子供も楽しめるくらいの、空想の世界を描いた物語だった。
それでも、大人である私も、十分すきになることができた。
綺麗な世界、きれいなこころ、きれいな言葉。
綺麗なものでしか構成されていない、宝石みたいな物語だと思ったから。

「…確かに、僕の趣味ではなかったけど…面白かったよ」
「趣味じゃなかったのに?」
が、読んでいる間に…どのシーンをみて、どんな風に感じたのか…想像しながら読んでいたからね」

月君は言いながら私の隣で、愛しそうに本棚の背表紙を撫でていた。
月くんは言い終えると、ふと私の方をみて、ぱちりと視線が絡み合う。
沈黙の時間が流れる。それは決して気まずいものではなくて…けれど、意味のある沈黙だった。
この空気は、高校一年生のあの春の日、初めてキスをしたあの瞬間から、何度か体験していた。
決して頻繁ではない。月に一度もないくらいだ。年に何回か、で数えた方が早いかもしれない。
けれど…だから。私は月くんが、今何を思っているのか、何をしようとしているのか、理解できる。
私は月くんの手の甲に、そっと触れた。

今まで、こういう時、ずっと私は受け身で、自分から行動した事はなかった。
けれど、今日ばかりは、私の方から"了承"の意を表明する必要があった。

──だって今の私は、二度目の事件に巻き込まれた、かわいそうな少女だから──
性犯罪に巻き込まれかけた、トラウマを抱えている少女に思われているから。


「…いいの?」
「いいよ。…月くんのこと、こわいって、思うはずない」


月くんはほっと安堵したように笑うと、そのまま唇を重ねた。
目を閉じて、いつものように享受する。相変わらず、この行為にドキドキする事はない。
でも、嫌じゃないし、大切に触れられることは心地いいし、うれしい──
誰だっていい訳じゃない。好ましいと思う月くんにされるからこそ、そう思うのだ。
早く、この心が、恋を覚えたらいいのに。
同じ温度で触れ合えたらいいのに──



高校三年生の秋。月くんと同じ学校、同じ塾に通いながら、ほとんどの時間、一緒にいた。
クラスも、高校では別れることはなかった。
けれどその日は、どうやら私は風邪気味で、昼前には完全に体調を崩し、学校を早退する事となる。

保健室で熱を測ると、37度8分。親に迎えにきてもらうほど重症でもなく、かといってこれほど熱があれば、家に帰らない訳にはいかなかった。
──きっと、これから高熱が出るだろうな。経験則で、それがわかっていた。
受験生の月くんが目指しているのは、東応大学の合格だ。
正式名称こそ違うけど…前世でも通称"東大"といえば、日本のトップクラスの大学だった。
前世で学んだ基礎があるといっても、東大に合格できるほどの偏差値が私にある訳がない。
幼少期の月くんは私のことを自分と同じ天才児だと思っていたようだけど、
今ではただの早熟だっただけの、平凡な人間だと理解してくれていた。
けれど決してバカではない。そしてそんな私を同じ土俵に上がらせようとして、自分の勉強そっちの気で、日々、私に勉強を教えてくれていた。
つまるところ、それほどまでに余裕があるのだ。自分の勉強に一生懸命にならなくて済む。人の面倒を見る事ができる。
やっぱり月くんは、予想通り、天才のまま大人になっていった。
──わたしは、そんな月くんに合わせて、無理をしすぎたらしい。


「…ふらふらする…」


最近、月君との勉強会が終わった後も、自分の部屋で夜、遅くまで勉強していた。
やっぱり睡眠時間を削ると、免疫力が弱るんだ。

倒れるほどじゃないけど、それなりに足取りは重いし、体の具合が悪くて、苦しい。
だから、毎日通ってる通学路──住宅街の歩道の真ん中に落ちてるそれは、ただの見間違い。
目がかすんで視界がぼやけたせいで、そこにないものを見てしまったのかと思った。


「…なんだろう、これ…」


近くまで寄って、しゃがんでみる。
そこに落ちていたのは、真っ黒なノートだった。
表紙に何か文字が書かれているけど、私には読めない。どこの国の言葉かもわからない。象形文字のようにも思えた。
…誰かの落とし物かもしれない。ごめんなさいと心の中で謝りながら、手がかりを見つけるために、中身をぺらぺらとめくって見させてもらう。


「…ぜんぶ、白紙?」

それはまだ何も書かれていない、新品のノートだった。
これがただの大学ノートだったら、申し訳ないけど、見て見ぬふりをして帰路についたかもしれない。
なんせ、今の私は、本当に具合が悪い。
でも、背表紙はとてもしっかりとしていて、安物には思えなかった。
落とし主は、困ってるかもしれない。100円で変える大学ノートとは事情が違うだろう。
そう思うと、必然的に、今すぐに交番に届けなきゃ、という思考に至った。
辛い体に鞭を打って、踵を返して、家とは反対方向の交番へ向かおうとする。
──その瞬間だった。


『だ、め』


──声が、きこえた。


『い、マ、すぐ…ぅ、う、ぅチに…かえ…て…』


ばっと後ろを振り返る。──誰もいない。
周囲のどこを見渡しても、物陰をみても、誰もいない、隠れてもいない。
散歩をしている犬の鳴き声とか、お母さんに手を引かれて買い物に出てる子供のはしゃぎ声とか。車や自転車の走行音。そんな、ただの日常の風景を象徴する音しか聞こえてこない。見えてこない。
──異質な存在は、私の目にうつらない。


「…幽霊?……まさか、そんな…」


そう否定して、手の中のノートを見下ろしながら、考えた。
──ここは、物語の世界の中だ。そういった存在を、"あり得ない"と断じて疑う事の方がおかしいだろけう。
むしろ幽霊とか、妖怪とか、非日常や異質が存在している可能性の方が高いはずだ。
そう思うと、このノートは、なんだか物語のキーになるような存在に思えて。
この時にはもう、交番に届ける、という選択肢はなくなっていた。



「ただいま…お母さん、早退しちゃった」
「あら、どうしたの?熱?」
「そう…まだ微熱に近いけど、…多分、これからもっと具合悪くなると思う…」
「あらあら…受験生なのに大変ね…早く、部屋で休みなさい。何か持っていこうか?」
「ううん、いい…しばらく寝るから、気にしないで…」
「そう?何かほしいものあったら、言うのよ。動けなかったら、携帯で電話して」
「ありがとう…お母さん」


玄関を開けると、リビングから顔を出したお母さんが、心配そうな顔で近寄ってきた。
私はほとんど本当のことを話して、一つだけ嘘をついた。
二階にある自分の部屋に上がって、鞄をおいて、制服を脱いで、パジャマに着がえて。

──そのままベッドには寝ころがり、眠ることはなかった。
私は、床に座り込んで、鞄からあのノートを取り出した。


「……そこに、いるの?」


心臓がどきどきと、痛いほどに鳴っているのは、熱のせいか、恐怖のせいか。
半信半疑で、空中に向かって私は問いかけた。
1秒。2秒。3秒。──何もない。4秒。5秒──


『イ、る、よォ……』


──6秒目。予想通り。どこかからともなく、私の問いかけに、返事が返ってきた。


2025.8.22