第10話
1.人間的な恋─てんしさま
2003年、9月15日。私は学校を早退した。
その日の夜、予想通り高熱が出た。
前世でも、今世でも、微熱が出ると、夜には必ず高熱が出て、数日は寝込むことになった。
今世の母親も、小さい頃から私を見て来たので、予想はついていたようだった。
風邪を引くと、ほとんど何も食べられない。だから、無理に食べなさいとは言わなかったし、私が回復するのに必要なのは、薬を飲むこと、寝ること。この2つしかないと理解していた。
回復のための眠りの邪魔をしないように、薬の時間以外、私の部屋を訪れないようにする。
母親のその配慮と、幼少期からの習慣に、これほど感謝したことはない。
9月17日。学校を休んで2日目の朝。
「……つまり、あなたは何なのかな。幽霊?妖怪?」
『ぁ……あ…。…は……』
「ああ、ゆっくりでいいよ。無理に喋ろうとしなくていいから…」
本当は私も、いつも通り、一日中、眠っていたかった。
けれど、ベッドに横たわり、寝たふりをしながら、静かなひそひそ声で、私はこの"得体のしれない何か"と会話を続けていた。
どうみても、人間にはみえない。お化けと言いたくなる見た目をしてる。何よりも、宙に浮いているのだ。
でも、真っ白で、禍々しさは感じない。
それに…翼のようなものが映えている。
どういう訳か、言葉は理解しているようなのに、上手く喋れないようで、身振り手振りで意思疎通しようと頑張る姿は、健気だった。
瞳は大きくて、とても澄んだ色をしてる。
「……もしかして、あなたは、天使様?」
私が言うと、"それ"は、悲しそうに顔を歪めた。
『そ、う……だ、った、…ら…、い、ィ、の、……に』
今までも、上手く喋りたいのに喋れない、というもどかしさからか、
"それ"は悲壮感の滲んだ声を絞り出していた。
けれど、今の言葉には、悲壮感どころじゃない。もっと切実な…絶望のようなものが感じられた。
「……でも、あなた、天使みたい」
『…ぇ……』
「真っ白で、羽があって、瞳がきれいで…健気で…」
『ぁ…あ……』
「あなたがどんな存在なのかわからない、けど…わたし、天使様って呼ばせてもらう」
ベッドに寝そべったまま、私はにっこりと笑い、私のことを覗き込むその存在に向かって、問いかけた。
「だめ、かな。…いや、かな?」
"それ"は、言葉を発さない代わりに、深く、深く、頷いた。
『う、れ…し……』
そして私は、"それ"…天使様と、少しずつ絆を深めていった。
9月18日。
いつもだったら、3日も経てば、熱が下がって、明日には学校に行けるくらいには回復しているはずだった。
けれど、私は日中、ずーっと天使様と話していたから、いつものように寝ることができなかっのだ。
確実にそのせいで、私の体調か回復するどころか、悪化していた。
朝、私の様子を見にきた母が、熱を測るように促す。
ベッドに横たわる私の傍らに膝をつき、心配そうな顔をして、頭を撫でてくれた。
そして体温計が示した数値をみて、眉を顰める。
「38.2…下がらないわねえ…やっぱり病院に行って、お薬処方してもらった方が…」
「お母さん、大丈夫…動く方が、多分よくないとおもう…咳もないし、ただだるいだけなの…」
「そう、ね…これ以上に熱が上がる、って様子でもないし…」
「ゆっくり休むのよ」と言って、母は部屋から出て行った。
扉がしまった瞬間、深く、大きなため息が自然と零れ出る。
……危うく病院送りになる所だった。
本当はそうした方が、一番体のためにはいいと思う。でも、今はそんな事できる状況じゃない。
この世界には、人間ではないもの──天使のような何かが存在するらしい。
そしてそれは、私以外の人間…少なくとも、お母さんには見えないようだった。
お母さんが私を見守るその背後に、天使様はずーっといた。
なのに、お母さんは、少しも存在を知覚する事ができなかった。
「あのね、天使様…わたしね、前世を覚えてるんだ…」
起き上がる気力もなくて、ベッドに横たわりながらぽつりと言うと、天使様はびくりと肩を震わせた。
驚きと、それと…喜び、かな?
人間とまったくかけ離れた構造をしている訳じゃないけど、やっぱり人間と同じではなくて、表情が読みづらい。でも、驚いたように肩を震わせたあと、笑ったような気がした。
私はお父さんにも、お母さんにも、…月君にも言えなかった秘密を、初めて口にしていた。
私以外の人間には見えない、人間とは違う理で生きている人外…天使様相手だからこそ、打ち明けられたのだ。
実際には天使ではないようだけど…天使と呼ばれて、喜ぶもの。
そんな存在を前にしたら、私はもう天使様としか呼べなくなっていたし、もしかしたら、天使様の卵なのかもしれない、なんて楽観的に思うようになっていた。
「……ここって、物語の世界なんだよね…」
『そ、そ、…そぅ、だ、よ』
「…!天使様、知ってるの!?」
私は肯定されたことで、詰め寄る勢いで迫ろうと起き上がったけど、くらりと眩暈がして、
それは叶わなかった。
ベッドに逆戻りして、少し息切れがした。
「……天使様は、うまく、喋れないんだもんね…」
色々聞きたかったけど、言葉が不自由な相手に、語らせようとするのは難しいし、罪悪感が募る。
「…そうだ。じゃあ、私が質問するから、イエスなら頷いてくれる?ノーなら、沈黙で」
言うと、天使様は、こくりと頷いてくれたので、嬉しくて笑った。
「天使様は、この世界の物語の結末までを知ってる?」
こくりと、頷かれた。
「天使様は、私にそれを教えてくれる?」
今度は、頷かれなかった。沈黙は、つまるところ、ノーという意味なんだろうと納得かけていたところ。
『し、ら、…な、ィほ…が…』
「……もしかして、私の立場って…余計な知識は持たない方がいい?しらない方が、上手くいく?だから、教えないの?」
こくり、と頷かれた。私は長年の疑問や葛藤が解けて消えて、すっかり楽になっていた。
前世であんなに話題になっていた名作。私が読んでおけば、こんなに悩まずに済んだのに。
月くんとだって。いちいち探ったてみたり、迷ったりすることなく、楽しく会話できたはずなのに。
私に知識さえあれば──
そんな悩みは、無用の賜物だったのだ。
「私、少しだけ知ってるの…この物語には夜神月っていう主人公と、Lっていう主人公の二人がいる。この二人が中心になって、物語が進んでいくんだよね?…月くんは、"正義"の人だよね」
天使様は、頷いた。今までで一番、深く、深く。確実な肯定を、私に示してくれた。
「よかった……うれしい……」
だいすきな月くん。礼儀正しく、親切で、正義感が強くて、優しい。常に正しくあろうと努力してる。
そんな月くんはやはり、主人公で、正義で。つまり、全部、正解だ。これでよかったんだ…。
私はそのまま、安心して、眠ってしまった。
眠りに落ちる私を、天使様はずっと見守っていた。ずっと、ずっと。
『やが、み、らいと、は……セイ、ギ。せイぎ…よ…』
1.人間的な恋─てんしさま
2003年、9月15日。私は学校を早退した。
その日の夜、予想通り高熱が出た。
前世でも、今世でも、微熱が出ると、夜には必ず高熱が出て、数日は寝込むことになった。
今世の母親も、小さい頃から私を見て来たので、予想はついていたようだった。
風邪を引くと、ほとんど何も食べられない。だから、無理に食べなさいとは言わなかったし、私が回復するのに必要なのは、薬を飲むこと、寝ること。この2つしかないと理解していた。
回復のための眠りの邪魔をしないように、薬の時間以外、私の部屋を訪れないようにする。
母親のその配慮と、幼少期からの習慣に、これほど感謝したことはない。
9月17日。学校を休んで2日目の朝。
「……つまり、あなたは何なのかな。幽霊?妖怪?」
『ぁ……あ…。…は……』
「ああ、ゆっくりでいいよ。無理に喋ろうとしなくていいから…」
本当は私も、いつも通り、一日中、眠っていたかった。
けれど、ベッドに横たわり、寝たふりをしながら、静かなひそひそ声で、私はこの"得体のしれない何か"と会話を続けていた。
どうみても、人間にはみえない。お化けと言いたくなる見た目をしてる。何よりも、宙に浮いているのだ。
でも、真っ白で、禍々しさは感じない。
それに…翼のようなものが映えている。
どういう訳か、言葉は理解しているようなのに、上手く喋れないようで、身振り手振りで意思疎通しようと頑張る姿は、健気だった。
瞳は大きくて、とても澄んだ色をしてる。
「……もしかして、あなたは、天使様?」
私が言うと、"それ"は、悲しそうに顔を歪めた。
『そ、う……だ、った、…ら…、い、ィ、の、……に』
今までも、上手く喋りたいのに喋れない、というもどかしさからか、
"それ"は悲壮感の滲んだ声を絞り出していた。
けれど、今の言葉には、悲壮感どころじゃない。もっと切実な…絶望のようなものが感じられた。
「……でも、あなた、天使みたい」
『…ぇ……』
「真っ白で、羽があって、瞳がきれいで…健気で…」
『ぁ…あ……』
「あなたがどんな存在なのかわからない、けど…わたし、天使様って呼ばせてもらう」
ベッドに寝そべったまま、私はにっこりと笑い、私のことを覗き込むその存在に向かって、問いかけた。
「だめ、かな。…いや、かな?」
"それ"は、言葉を発さない代わりに、深く、深く、頷いた。
『う、れ…し……』
そして私は、"それ"…天使様と、少しずつ絆を深めていった。
9月18日。
いつもだったら、3日も経てば、熱が下がって、明日には学校に行けるくらいには回復しているはずだった。
けれど、私は日中、ずーっと天使様と話していたから、いつものように寝ることができなかっのだ。
確実にそのせいで、私の体調か回復するどころか、悪化していた。
朝、私の様子を見にきた母が、熱を測るように促す。
ベッドに横たわる私の傍らに膝をつき、心配そうな顔をして、頭を撫でてくれた。
そして体温計が示した数値をみて、眉を顰める。
「38.2…下がらないわねえ…やっぱり病院に行って、お薬処方してもらった方が…」
「お母さん、大丈夫…動く方が、多分よくないとおもう…咳もないし、ただだるいだけなの…」
「そう、ね…これ以上に熱が上がる、って様子でもないし…」
「ゆっくり休むのよ」と言って、母は部屋から出て行った。
扉がしまった瞬間、深く、大きなため息が自然と零れ出る。
……危うく病院送りになる所だった。
本当はそうした方が、一番体のためにはいいと思う。でも、今はそんな事できる状況じゃない。
この世界には、人間ではないもの──天使のような何かが存在するらしい。
そしてそれは、私以外の人間…少なくとも、お母さんには見えないようだった。
お母さんが私を見守るその背後に、天使様はずーっといた。
なのに、お母さんは、少しも存在を知覚する事ができなかった。
「あのね、天使様…わたしね、前世を覚えてるんだ…」
起き上がる気力もなくて、ベッドに横たわりながらぽつりと言うと、天使様はびくりと肩を震わせた。
驚きと、それと…喜び、かな?
人間とまったくかけ離れた構造をしている訳じゃないけど、やっぱり人間と同じではなくて、表情が読みづらい。でも、驚いたように肩を震わせたあと、笑ったような気がした。
私はお父さんにも、お母さんにも、…月君にも言えなかった秘密を、初めて口にしていた。
私以外の人間には見えない、人間とは違う理で生きている人外…天使様相手だからこそ、打ち明けられたのだ。
実際には天使ではないようだけど…天使と呼ばれて、喜ぶもの。
そんな存在を前にしたら、私はもう天使様としか呼べなくなっていたし、もしかしたら、天使様の卵なのかもしれない、なんて楽観的に思うようになっていた。
「……ここって、物語の世界なんだよね…」
『そ、そ、…そぅ、だ、よ』
「…!天使様、知ってるの!?」
私は肯定されたことで、詰め寄る勢いで迫ろうと起き上がったけど、くらりと眩暈がして、
それは叶わなかった。
ベッドに逆戻りして、少し息切れがした。
「……天使様は、うまく、喋れないんだもんね…」
色々聞きたかったけど、言葉が不自由な相手に、語らせようとするのは難しいし、罪悪感が募る。
「…そうだ。じゃあ、私が質問するから、イエスなら頷いてくれる?ノーなら、沈黙で」
言うと、天使様は、こくりと頷いてくれたので、嬉しくて笑った。
「天使様は、この世界の物語の結末までを知ってる?」
こくりと、頷かれた。
「天使様は、私にそれを教えてくれる?」
今度は、頷かれなかった。沈黙は、つまるところ、ノーという意味なんだろうと納得かけていたところ。
『し、ら、…な、ィほ…が…』
「……もしかして、私の立場って…余計な知識は持たない方がいい?しらない方が、上手くいく?だから、教えないの?」
こくり、と頷かれた。私は長年の疑問や葛藤が解けて消えて、すっかり楽になっていた。
前世であんなに話題になっていた名作。私が読んでおけば、こんなに悩まずに済んだのに。
月くんとだって。いちいち探ったてみたり、迷ったりすることなく、楽しく会話できたはずなのに。
私に知識さえあれば──
そんな悩みは、無用の賜物だったのだ。
「私、少しだけ知ってるの…この物語には夜神月っていう主人公と、Lっていう主人公の二人がいる。この二人が中心になって、物語が進んでいくんだよね?…月くんは、"正義"の人だよね」
天使様は、頷いた。今までで一番、深く、深く。確実な肯定を、私に示してくれた。
「よかった……うれしい……」
だいすきな月くん。礼儀正しく、親切で、正義感が強くて、優しい。常に正しくあろうと努力してる。
そんな月くんはやはり、主人公で、正義で。つまり、全部、正解だ。これでよかったんだ…。
私はそのまま、安心して、眠ってしまった。
眠りに落ちる私を、天使様はずっと見守っていた。ずっと、ずっと。
『やが、み、らいと、は……セイ、ギ。せイぎ…よ…』