第11話
1.人間的な恋正しい道を歩んでいます
9月20日。その日の朝には、だいぶ熱が下がって、あした、明後日には全回復するだろうという兆しが見えてきていた。

私引き出しにいれていたノートを取り出して、椅子に座り、勉強机と向き合う。


「…やっぱり何も書いてない。ノートなんだし…何かを書くためにある…はずだよね?」


座りながら振り返り、背後で私を見守っていた天使様を伺うと、こくりと頷かれた。
そう言われると、何かを書きたくなるのが人というものだ。
そうでなくとも、真っ白なノートをみると、何かを書きたくて仕方なくなる。
ポーチから取り出したシャーペンを手に取り、口元にあてて考える。
ノートを使ってやることといえば、勉強……それはもううんざり。
じゃあ…日記を書くとか?。
けれど、まめに日記を書くほどの情熱は、私にはない。毎日思いの丈を綴りたくなるほど気持ちを持て余してもいないし、マメでもない。
じゃあ…やっぱりメモ帳にする、とかかな?
ちょうどメモしたい事柄があったのを思い出して、ぱっとペンを走らせた。

「えーっと…確か、露鍵柚子希…あと、流河旱樹」  

さらさらとペンを走らせて、今メモしたのは、今クラスの女子の間で話題になってるアイドルの名前だ。
わたしはとんと芸能人には興味がなくて、「あーあの人…なんで名前だっけ?」と何度も気聴いてしまうから、「もーっいくらアイドルに興味なくても、いい加減覚えてよっ!」と、ついに怒られてしまったのだ。
と言うわけで、重い腰を上げて、有名どころくらいは覚えようと思ったのだ。

「あぁ…あと… 弥海砂」

最近、一部の若者の間で人気急上昇中のモデルの卵らしい。
まだ広く知られてる訳じゃないけど、コアな美少女マニアのクラスメイトが、「あの子は絶対これから売れるぞ!」と大きな声で布教活動をしていたのを覚えていた。
それはもう、毎日のように。
でも、どんな漢字だっけ。最初の二人はテレビでもよく流れていたから、なんとなく覚えていて、書けた。
でもモデルの子は、どういう字を書くの、全くかわからない。
こう言う時は、スマホで簡単に調べられない時代に生きる、この不便さを嘆きたくなる。
迷ってると、天使ちゃんが勢いよく私の肩を掴んできた。

「ど、どうしたの…?」
『ひ…ト…ナマェ…ダ、ダァ、メぇ…!!』

珍しく大きな声で訴えながら、天使様は、私に小さなものを握らせた。
手を開くと、そこにはなんの変哲もない消しゴムがあった。
書くためにあるノートと、消すための消しゴム。なんの変哲もない取り合わせだけど、
どうも、天使様が取り乱すほどの…何かしらのルールや、タブーのようなものがあるらしい。

「人の名前は、書いたらだめ、だから…。つまり、この消しゴムで消せってことなのね」

言う通りにわたしが消すと、天使はホッとしたような表情をした。言葉は不自由みたいだけど、表情は豊かでよかった。


「…そういえば、露鍵柚子希は多分合ってるけど…りゅうがひでき。漢字間違ってたね。"竜河"じゃなくて、"流河"だった気がする」


消しカスを机の足元にあるゴミ箱の中に払い落としながら、考える。


「人名がダメなら…そうだ、お料理レシピでも書き溜めてみようかな?それならいい?」

天使様は、こくりと頷いたので、そうすることに決めた。

月くんが、私の手料理が食べたいと言い始めたのは、高校生になってから。
多分、恋人のような関係になってからだ。
好きな子の手料理が食べたいなんて、可愛いところもあるんだと微笑ましく思ってた。
前世では一人暮らしもして自炊していたし、料理は苦手じゃない。

月くんは、女の子の手料理は、いくらでも食べる機会がある。
お弁当を渡されてるところを、何度目撃したかわからない。
でも、毎回角が立たないよう、やんわりと拒否して、受け取ろうとしなかった。
けれど、私の手料理だけは食べたいんだとねだられて、嫌な気持ちになる訳がない。
そんな事を考えていると、私の机の引き出しを天使様が開けた。
そして、ルーズリーフを取り出すと、私の手からシャーペンを取って、さらさらと何かを書き出した。

「…天使様、字、書けるんだ」


じゃあ、イエスかノーかで答えてもらう、なんて回りくどい手法を取る必要もない。
天使様に出会ったのは、ちょうど風邪が辛いときで、起き上がれなくて、寝たまま会話してた。
だから、ノートで書かれても、朦朧とした意識で、寝ころがりながら…いろいろと書かれても、わからなかったかも。
私が元気になったからこそ、天使様もこの手法を取り出したのかと思った。
でも、それは半分正解で、半分不正解だった。
──天使様は、この時、すごく焦っていたのだ。


『ノートには、絶対に、人の名前を書いてはいけない。あたしがいいと言った瞬間、いいと言った名前、それしかダメ』

綺麗な字、流暢な日本語。天使様は、意外にも日本語が達者だった。
それに…"あたし"と書いたことからしても、やっぱり女の子だったのだということがわかった。
男の娘というやつだったとしたら、もうわからないけど、私はこの時から天使様を女の子として認識することにした。
そこから、天使様と私の筆談が始まった。


『このノートは、使い方を間違ったら、危ないの。だから、何も書かないで。そして、あなた以外の誰にも、触れさせないで』
「どうして?」
『触れると、あたしの姿がその人間にも見えてしまう』
「それって…だめな事なの?信頼できる人とかにも…?それとも、天使様は人間に姿をみせたらいけない掟でもある?」
『掟はない。ただ、物語に支障がでてしまうから』
「……そっか。それなら……絶対に、誰にも触れさせないよ」
『そうして。取り急ぎあなたに求める事はふたつある』
「ふたつ…?」
『ノートを隠すための準備をする事、そして手話の本を買って、覚えること』
「隠す必要は、わかった。でも、手話はどうして?こうやって筆談できたら十分じゃないの?」
『それは、あたしの言葉に縛りがかかってるせい。本来ならこんな必要ないのだけど…いずれ、外であなたと会話したい場面が出てくるかもしれない。その時、人目に付かないよう、筆談を続けるのは無理よ』
「……このルーズリーフ、たとえばお母さんがみたら…ひとりでに宙に浮いてるように思うってことだよね」
『そういうこと。この物語は、色々用心が必要なの。…でも、基本的にあなたは何もしないで、自然にすごしてればいいから。知識がないことが、あなたの武器になるのよ』


この物語は用心が必要、という文面をみて、私が明らかに表情を曇らせると、さらさらと続きを書き足してくれた。
知識がないことが武器になる。それはいったいどういう事なんだろう。
…例えば、人の心を読めるキャラクターがいたら、困るかもしれない。前世で物語を読んだ、なんてことを読み取られてしまったら、面倒かもしれない。
そして尚且つ、それが悪役ポジションのキャラなら…。
…考えても仕方ない。知識がない状態で、自然にすごすことが、私にとっての最善手。
天使様のお墨付きをもらったのだから、その通りにさせてもらおう。


──わたしは、"天使様"という、物語への理解すらある存在と出会って、完全に信じ切っていた。
自分が今、正しい道を歩んでいると。それが、幸せな結末に向かっているんだと。
信じて疑わなかった。


2025.8.23