第6話
1.人間的な恋そして少年は善とした
「100%じゃないけど、仮に…30%くらいの確率で連鎖は断ち切れるとして…私は、もしかしたら、運よく断ち切れるのかもしれない。でも、そんな保障ないよね」
「そうだな」
「じゃあ諸悪の根源…お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんを殺したらいいの?そんなこと、できないよね」
「……ああ、できない…できなかった…できない…」
「それでも、私達は幸せになったらだめなのかな?断ち切れなくて、根源も消えなくて、私達、ただ耐えるしかないの?」
「………そんなこと、認めたくない…………」



押し殺すように男が言った瞬間、僕もはっきりと肌でわかった。
男とちゃんは、最早完全に対等な立場で会話をしていて、捕食する側、される側という関係性は最早完全に瓦解していた。


「死にたいなって思ったこと、あるよ。死んだら楽になるのかなって」
「…でも、できなかっただろ。俺だってそうだ」
「それってどうしてだとおもう?」
「誰だって死ぬのは怖いからさ」

ひやりとして、汗が額を伝った。
次の一手で、完全に方向性が決まる。死は、明日の朝には、男の手によってもたらされる物だ。
死を肯定的に語ったり、導こうとするルートを外れてしまえば、「じゃあ俺が殺して楽にしてやるよ」などと言って、やはり殺される。

「やっぱり明日殺すのはやめる。延期してやろう」

と、そう言わせる一手が必要だ。
僕はこの頃には、ちゃんは知恵があり、猟奇的殺人犯を手玉にとれる程の狡さがあり、
自分の身を助けるために、男が警察捕るよう隙を作らせ、そのまま犯人を死刑台に送ろうとしている。
そうとしか思わなくなっていた。
助かるかもしれないという希望と、純粋だったと思っていた幼馴染の裏の顔への落胆…
色んな気持ちが綯い交ぜになって、上手く息ができなかった。
そして、ちゃんはこの先の方向性を決める、決定的な一言を告げた。


「死は幸福への一歩じゃないって、気づいてたからだと思う」
「……」
「それをすることで救われるなら、どんなに怖くてもやったはず。でも、死ぬのはただ怖いだけ。…私達をいじめた人たちを喜ばせるだけ…」

ちゃんの声は、とても優しかった。
幼稚園の先生が読みきかせの時間に、笑顔で子供たちに絵本を読むかのように。
母親が、子供に愛を語るときのように。
だいすきだよ、と。大切なひとに微笑むように──
子守歌のように、優しい響きで言葉を紡いだ。
僕は、自分の見当違いな推理に、その優しい音で気がついた。


「だから、死ねないんだよね。私達の幸福は、辛くても悲しくても、痛くても…生きることでしか叶わない」
「ああ………」

ちゃんは、生の尊さを説いた。
それが殺人犯に対して取る最善手であると同時に、最悪手。最も難しいことを、やってのけた。
それは多分ちゃんが知恵があるからじゃない。狡いからじゃない。

男は深く息を吸って、震える吐息を吐いた。


「……その通りだな…」


ちゃんの言葉に同意した男は、多分涙ぐんでいたのだろう。
声が震えている。
ここからでは男の顔も、ちゃんの顔も見えない。
男が当初、あけ放ったドアから見せようとしていた凄惨な光景はそこにはなくて、
今はただ、優しい光景が広がっていた。


「だから、あなたは生きてください。私はまだ5歳で…まだ5年しか辛い思いしてない。でも、お兄さんは大人だから、きっとずーっと長い間苦しかったんだよね。私よりもずーっとずっと」
「…」
「きれいごとは気に食わないって、言ってたけど…でもやっぱり、苦しんだ分だけ、いつか幸せになってほしいって、私、おもうよ」


ちゃんは最初から、何か現状を打開するための策があったのでもない。
どう展開しようかと、打算めいた考えを持っていたのでもない。

男は背中を震わせながら、布団に顔を埋めて、声も上げずに泣いていた。
──ただ、悲しんでいた一人の人間に、優しくしただけ。
母親と話していたのを聞いて、本棚にたくさん並んでいたタイトルから男の悲しみを悟り、
自分が明日死ぬとしても、優しくしてあげたかった。


「ねむくなってきちゃった…もう寝るね…おやすみなさい…」

ちゃんはあくびをすると、眠そうな声で言うと、本を閉じて、布団にもぐった。
すうすうと、小さな寝息が聞こえてくる。
男の震えと嗚咽は、しばらく続いた。そしてそれが静まると、時計の秒針の音だけがカチコチと鳴り続けた。

それから何時間経っただろう。男が上半身を起こして、名前ちゃんの方を振り向いて──手を伸ばしかけて、やめた。
そこに悪意はなくて、多分、頭を撫でようとしたんだと思う。
けれど思いとどまった。その理由を想像するのは正しかった。
男は猟奇的殺人犯で、悪だ。対してちゃんは無垢な子供で、善である。
触れるなんて、烏滸がましいだろう。
そんなところだ。

男はベッドから降りて、床に転がっていた携帯電話を手に取る。

「なあ、月くん」

ピ、ピ、と電子音がなる。男は振り返りもせずに、僕に話しかけてきた。


「……なんですか」
「この子はやさしいね」
「……」
「きれいごとを言う人間は、皆クズだって、オレずっと思ってきたけど…きれいな事を言うひとは、もしかしたらほんとうに…綺麗なのかもしれないな」


暗闇に慣れた目には、もう色んなものが見えていた。
テレビの灯などなくても、本棚に並んだ本のタイトルとか、男の瞳から溢れ続ける涙とか。
震える手でボタンを押す、男の指とか。


「……俺もきれいなことばっか言ってたら、きれいな人間になれたのかな……」


僕は、ちゃんのように男に同情は出来なかった。
確かに母親との電話の内容を聞くに、親や宗教に人生を支配されて、辛い状況にあったのかもしれない。
もし男が脅され、洗脳され、殺人を犯していたのなら、情状酌量の余地があったと考えたかもしれない。
けれど人を殺していたのは、男の意思だろう。
そんな殺人犯が"かわいそう"だと言われてしまえば、
無残に殺された子供達はどうなる。何も誰も報われない。
憐れみなんて、与えてやる価値もない人間だ──

──それでも。


「…もしもし。はい、警察ですか?…あー、はい。自首します。全部俺がやりました」


極悪人も、悔い改めることもある。裏も表も打算もない、純粋な優しさで。



朝になる頃には、この部屋の中にはたくさんの警察が突入してきて、
犯人の身柄を取り押さえた。犯人は拘束され、部屋から連れ出される最期の瞬間まで振り返り続け、眠るちゃんの方をみていた。


ちゃん…起きて…」
「……ん?」
「もう、大丈夫だよ…」


誘拐されてから四日目。最初の二日は、拘束されて、監禁され、僕もちゃんも眠れなかった。
そしてちゃんは半ば死を覚悟しながらこのベッドで眠りについたのだ。
精神的疲労も大きかったのか、警察たちが騒がしく出入りしていても、ぴくりともしなかった。
けれど、いつまでもそうしてはいられない。
僕はちゃんの盾になるようにして、人を近づけないようにしていたけど、警察官の一人が、困ったような笑みを浮かべながら近寄ってきたから。
誘拐された僕達に配慮して、無理に連れ出すことこそしなかったけれど。
無言の圧力をかけられて、僕はちゃんの肩に手をそえて、揺り起こした。


「…なに…?これ…」


目をこすりながら起き上がったちゃんは、僕達を取り囲む沢山の警察官たちをみて、不思議そうにしていた。
半ば夢の中にいるような心地なんだろう。けれど、僕はもう四日間、ずっと現実をみてる。
フィクションのような現実を──


「犯人が、自首したんだ、電話で──」


不謹慎ながら、声が少し弾んでしまった。
ちゃんがやった事は、普通、こんな状況下で、素人が出来るものではない。
例えるなら、訓練された人質交渉人がやるような事だ。
それを、ちゃんはやってのけた。成功の理由は、ちゃんがやさしさを持っていた。ただそれだけ──

「よかったね」


ちゃんは、少しだけ切なそうに、けれど優しく笑った。
よかったね。その言葉通り捉えるなら、悪い犯人が逮捕されて、よかったね、ということになるけれど…。


警察官に毛布をかけられながら、外連れられて、車の後部座席に乗せられた。窓の外には男が住んでいたアパートがあり、沢山のパトカーが止まり、野次馬たちがおしよせていた。

そんな景色を横目に、僕は一つ気になっていた質問をする。


「…ちゃん、ひとつおしえて」
「なあに?」
ちゃん、お父さんお母さんに、虐待なんてされてないよね?」
「……うん」


悪いことをして叱られる子供のように、しゅんと俯いてしまった。


「……どうして、嘘ついたの?」
「……そうしなきゃ、怒ったと思う」
「相手に届かない、きれいごとになってしまうと思った?」
「……そう」


こくりと頷いて、そのまま顔を上げる事ができないようだった。
僕は決して責めている訳ではない。

「うそをつかなきゃ届かないと思ったの。…だから想像したの…もしあの人と同じようなお家に生まれてたら、どんな風に思ったかなって。どんな風に傷ついたのかなって……」

確かに、大人たちは嘘をつくのは悪いことだというし、僕もいい事とは言わない。
けれど善悪は時と場合により変わる、という事も知ってる。必要な嘘というやつだ。

僕はちゃんの両頬に手を添えて、顔をあげさせた。


ちゃんは何も悪いことしてないよ…ちゃんのおかげで、僕たち助かったんだ。…僕に任せて、なんて言いながら、ちゃんに全部助けられた」

普段だったら恥ずかしく感じていたと思う。けれど、自分にはとても真似できない芸当をしてのけたちゃんに対して、恥じるなんてことはなかった。
むしろ…そう、むしろ。


「…ちゃんはすごいよ。そんな風に誰かの痛みを想像できるのは…ちゃんが優しいからだ。それもあんなに怖い状況で…」

ちゃんは、瞳をゆらゆらと揺らがせながら、震える唇で、「ありがとう」と小さく言った。

──僕はこの日から、ちゃんのことが、大好きになった。
ただの近所に住む幼馴染の女の子じゃない。尊敬できるひと。人格者。善人。この世の誰よりも心の綺麗な女の子…
10人いたら10人がちゃんを善という訳ではないだろう、あの行動は偽善や無謀ともとれる──
でも、僕はちゃんを"善"とした。
そうでなくても…どうであれ、ちゃんは命の恩人なのだから。

僕は相手が"人気者だから"という理由だけでベタベタしてくる女の子達も好きじゃないし、気の弱い子をいじめる、声の大きいだけの男子も嫌いだ。
きっとこの正義感は、父の影響も大きいし、多分これが産まれ持った僕の性根だ。
だから、ちゃんの善性が好ましくて仕方がなかった。

最初はただの尊敬だった。自分には出来ない事が出来て、賢くて。
けれど自分が理想とする善性を持つ女の子と過ごすうち、尊敬は形を変えて、
それが恋に変わるのは自然な流れだった。

僕はに恋をしてる。初恋だった。僕の命を救ってくれた、心優しい天使のような少女。
彼女を守れるような、強く正しい人間になりたい。優しい彼女が、傷付かない世界であればいいのに──。






──僕の描いた理想が、現実になればいいのに。


2025.8.21