第7話
1.人間的な恋初恋
そして私達は小学生になり、あっという間に5年生になった。
季節は春真っ盛り。校庭に植えられた桜の木から、花弁がひらひらと舞い落ちるのを眺める。
下校する子供たちのはしゃぎ声が、校舎や校庭から聞えてくる。
下駄箱で上履きを脱ぎながら、時が流れるのは早いなあ、なんて思いつつ、私は過去を振り返っていた。


5歳のあのとき、拉致監禁されてた四日間は、月くんの中でトラウマになることはなかったようだ。
むしろ、よりいっそう正義感を高め、お父さんのような立派な刑事さんになりたいという思いが強まったようだった。


──あれは小学2年生の時のこと。
私と月くんは同じクラスになった。
授業の一環で、「将来の夢」という題材の作文を書く事になったので、一緒に家に帰る下校中、月くんに聞いてみたことがあった。

「月くんはなんて書くの?」

半ば、刑事さんになりたいと書くのだとはわかっていたけど。その頃には…諸事情あって。
月くんと少し気まずくなっていたので、無難な話題として聞いてみた。

「そうだな…まずは、警察庁に入庁したいかな」
「けいさつちょう…警視庁じゃなくて」

私は予想外の答えが帰ってきて、ただ月くんのセリフを復唱してしまった。
警視庁と警察庁の違いは分かる。そして、警察になるためには、試験を受けて、合格して、警察学校に入る必要がある──という事も、知識として知ってる。
けれど、警察と言っても多岐に分かれていて、その先、何がどうしたら、あらゆる部署に配属される事になるのかは分からなかった。
警察の採用試験に合格するのが夢だ、と言われたらまだわかった。
いきなり警察庁に…と言われても、すぐに理解できない。

日常生活を送る上で、普通に生きていれば、警察のお世話になる事もない。身内に警察官がいたわけでもない。
つまり、一般市民の私にとっては、交番にいるお巡りさんと、刑事さんの違いも実のところ、正しく理解できている自信はない。

前世ではいい大人だったというのに、子供の月くんにわかる事が、私にはわからない。
けれど、それを恥ずかしいとは思わなかった。
月くんは、だれよりも、特別な子だから。


「…みんな月くんは、将来刑事さんなるのよ!っていうよね。…でも、ごめんね、私にはよく…わからなくて」

言うと、月くんは、きょとんとしてから、ふわりと笑った。
そして私の頭に手を乗せて、ぽんと撫でる。
私はこの年の女子がやっているように、おしゃれに気を付けて、身だしなみを整えて、
髪型も綺麗にしている。
月くんもそれをわかって、乱さないように、とても優しくなでていた。
彼には妹の粧裕ちゃんもいるので、尚更その辺りを気遣う習性が出来上がってるのかも、とも思った。
けれど、それだけじゃないのも、わかる。

ちゃんは、本当に賢いね」
「…?どうして?…わたし、わからなかったのに」

月くんは、上目で伺う私をみて、愛しいものをみるように目を細め、優しく言った。

「普通は、分からない事にも気づかないんだよ。…ちゃんは、警察官と刑事が違うことは、わかるんだよね」
「…うん」


こくりと頷いた。詳しい訳ではないけれど、なんとなくでいいなら分かる。
実際警察のお世話になる事がなくても、刑事もののドラマなんかを見る機会はあったし。
私に区別できる最低限のラインがここなんだろう。
会話しながら通学路を歩いていると、ちらちらと、どこからともなく、自分に視線が向かっているのがわかった。
私はそれがとても嫌で、自然と俯く。みっともなく背中を丸めて、地面をみてしまう。
月くんは、それを見透かしたように、もう一度頭を撫でた。
まるで、大丈夫、と宥められているような気がして、私は顔を上げた。


「でも、それだけ分かってるだけでも、凄いんだよ。それに、ちゃんは…それ以上のことがわからなかった…わからないと、気が付けた」
「……それが、どうして凄いのかな」
「子供はみんな、自分が分かっていない、という事も、"わからない"」


月くんの言いたい事は、なんとなくわかった。
でも、やっぱりすごいのは月くんの方だと思った。
あの短いやり取りで、私が月くんがまず警察庁と言った事に引っ掛かり、警察官として採用された後、どうやったら刑事になれるのだろう、と思考が散らかった事を察した。
この僅かなやり取りだけで、それに気が付いてしまったのだから。

そもそも前世がある私が、その程度の事を理解できるのは当たり前なのだ。
けれど、月くんは、正真正銘、小学二年生の子供。
なのに、ここまで知恵が回るのは…やっぱり平均的な子供とは言えない。
幼少期秀でていた子供も、大人になれば平凡な人間になる、という事例は少なくない。
けれど、月くんはずっと優秀なまま、大人になるんだろうと思った。
そして主人公として、世界のために、偉大なことを成す──
この世界の誰もまだ気が付いてない。
わたしだけが知っていた。


──そしてこれは、小学4年生のときのこと。

幼稚園の頃から女の子たちはもう恋を知っていたし、男の子もそうだった。
スクールカースト、という構図も、小学校に上がると、さらに明確になる。
月くんとは、幼稚園の頃と同ように、毎日一緒に登下校していた。
そうしていると、当然のようにからかわれる。
休み時間、月くんが私の席までやってきて、雑談している最中。多くの生徒がいる教室で、それは起こった。なるべくしてそうなった。むしろ遅すぎたくらいだ、と私は俯いた。

「お前ら夫婦かよ!」男の子はゲラゲラと指さして笑う。
ちゃんって、ちょっとずるいとこあるよね…」女の子は、私が月くんにすり寄っているんだと眉を顰めた。

月くんは、顔色を変えることもなく、クラスのみんなに、凛とした声で言った。


「──僕達は、誘拐されたことがあるんだよ」


それは、クラスのみんな、知ってることだった。
この近所だけでなく、幼稚園でなく、学校だけでなく。全国が震撼した、あの連続殺人犯による陰惨な誘拐。奇跡的な生還者。
それが私と月くんだという事は、みんなが知ってる。
月くんは、俯いてしまった私を慰めるように肩を叩いた。


「みんな、知ってるよね。僕たちの両親は、あの事件があってから、ずっと僕達を心配してる。一人で帰るなんて論外だ。家の離れた友達と下校しても、いずれは一人になる…
だから、お向いに住んでる僕たちが、一緒に帰らないと、不安になってしまうんだよ」


月くんは、安心させるように私の背中をなでる。その手はとても優しくて──
とても、とても、優しくて。


「夫婦だとか、付き合ってるとか。そういう風に言わないでほしいな。僕たちは、身を守るためにそうしてるから…みんなも、防犯の大切さは、授業でも習ったよね」


月くんがそういうと、クラスのみんなは、何も言えなくなった。教室はまるで凍り付いていた。
そして、もう二度と、私達をからかう事はなかった。
その理屈には説得力があったし、何より──連続殺人犯に拉致監禁され、殺されかかったという事実は、幼い子供でも、どれだけ怖いことか、理解できる。想像ができてしまう。
だからこそ、なにも言えなかったのだ。


「…月くん」
「そうだよね? ちゃん」
「……うん。お父さんお母さんも…そう、しろって」


──言ってない。
──そんなことは、両親には言われていない。

私はここでそんな風に否定をする事はできず、けれど思わず月くんを見上げる。視線が合った月君は、有無を言わせずに私に同意を求めた。
私は、月君に求められるまま、こくりと頷く。

月くんは賢かった。そして計算高かった。
何を言えば自分に有利に事が進むのかもわかってた。頼もしいことこの上ない。
いずれ世界を守る、ヒーローの資質。
でも、月くんは、決してからかわれるのが嫌だった訳でもない。
俯いてしまった私を庇うために、行動したのではない。
──それが分かっていたから、私はなんともいえない気持ちになってしまったのだ。


ちゃんはすごいよ。そんな風に誰かの痛みを想像できるのは… ちゃんが優しいからだ」


月くんは、あの事件の日、私を褒めた。きらきらと目を輝かせながら、芸能人をみるような…著名な作家に会うような…すごい人を目の前にしたみたいに、
頬を紅潮させて、私をみていた。
最初は、犯人を自首させた私への、純粋な尊敬だった。
けれど一緒にすごすうちに──月くんが私に抱く気持ちは、恋に変わった。
──私は、それを自覚していたのだ。

月くんに好きだと言われた訳ではないし、ベタベタと意味心に触られる訳でもない。
けれど、月くんとすごしていく中で、月くんは物事や他人に対して、穿った見方をする節がある事もわかってた。
高い知能を持ってしまえば、自分より劣る子供が、下にみえるのは仕方ない。
正義感が強くて、礼儀を重んじる月くんは、決して他人をバカにするような言動・行動はとらなかったけど…

月くんをずっと見ていた私は、わずかな表情の変化や、些細な言葉の選び方で、月くんが自分以外の人間と、距離を取ろうとしているのがわかった。
月くんは人辺りがいいし、友達も多い。人付き合いは欠かさない。
でも、全部上辺だけのもの。心を許している友達がいないことに、私は気が付いていた。
本当に心を許してるのは──わたしだけ。

──初恋の少女、 だけ。

月くんが私を褒める時の言葉選び。頭を撫でる、優しい手付き。
一緒にいられるよう、嘘をついてまで、クラスメイトを牽制した姿。
私が笑うと、つられて嬉しそうに目を細める、あの愛しそうな表情──


「…桜、きれいだね」

──小学五年生の、いま。
5歳のとき、夜神月は私に恋をして、そして、今も私のことが好きなままだった。
校門へ向かう最中、私が視線を向かわせたその先を追って、月くんも桜の木を見つけた。
そして、私の方を見ながら、そう言って笑った。
多分、本当に桜が綺麗だと心から思ったのではない。私が綺麗だなって、見とれていたのに気がついたから、同調するようにそう言ったのだ。


ちゃん、髪に花びらがついてるよ」
「え、ほんとう?」
「うん、とってあげる…」

月くんはくすくすと笑いながら、私の髪から桜の花びらを落とした。

ちゃんの髪は綺麗だね。ずっと伸ばしてるよね、さらさらしてて…だから風がふくと、すぐ花びらが絡んじゃうんだ」

言いながら、さらりと私の髪を梳くその手付きは、決して厭らしくはない。
私が月くんの恋心に気づいてさえいなければ、花びらを取ってあげただけの、純粋の行為にしかみえない。
でもわかる──月くん、なんて優しい手付きで私を触るの。
なんて優しい目で、私をみるの。
月くんを見ていると、恋をするって、もしかしたら、きっと、人にすごく優しくできるようになるってことなのかもしれないって、そう思う時がある。


「… ちゃんが髪を伸ばして、いつも結わないで下すのは…隠したいから?」
「……なにを?」
「自分の姿」

その通りだった。通学路を歩きながら、住宅街に差し掛かった頃、月君に言われたことは図星で、言い当てられたことに、最早驚きはなかった。
私の中身は大人だ。夫婦!なんて言って男子にからかわれても、恥ずかしくはなかった。傷付いてもいない。
だけど、いつも、どうしても居た堪れない気持ちになる。
どれだけ稚拙なものであっても、悪意を浴びるというのはいい気持ちではないし、それに。
学校に通う間──月から金の毎日、含みのある視線がいつも付き纏い、ケラケラ、くすくすと笑われると、どうしようもなく、気持ちが落ちてしまうのだ。


「みんなが ちゃんをからかうのは、…男子が、からかうのは。 ちゃんがかわいいからだよ」
「かわいい?わたしが?」
「そう。女子は僕をかっこいいと言うし、男子は ちゃんをかわいいと言う。…そんな二人が一緒にいたら、面白くないって、やっかんでるだけ」

だから、恥じるように俯いていなくていいよ。
そう言われた気がした。
私は前世があるから、身だしなみの大切さに気が付いていたし、子供の集団とはいえ──
その輪の中で上手くやる必要性をわかってた。
だから、みんなに好まれるようにきちんとした身なりをしたし、野暮ったくならないよう気を付けた。
無意味な雑談の応酬もコミュニケーションだし、信頼を培うのに必要だった。
毎日私はクラスメイトと会話して、笑い合った。
そうしているうちに、私はいつの間にか、月君と同じく、スクールカーストの上位にいる、という事は理解していた。
だけどそれは、私が意識して行った行動の賜物だと思っていた。
私はただ、会社に出社する朝、社会人として必要なマナーの一つとしてメイクをするかのように、髪をといた。かわいい服を選んで着た。
そうして自分を整えるだけで満足して、鏡の中の自分を覗き込んで観察することはなかったのだ。

「……わたし、かわいいの?本当に?」
「本当だよ。…まさか、本当に自覚してなかったの?」

私が驚いて月くんをみるのと同じようなに、何度も月に問いかけると、今度は月君が心から驚いている様子だった。


「… ちゃんって、……ほんとにわからないな」


月くんは私から視線を外して、口元に手をあて、何かを考えている様子だった。
そしてぽつりと、独り言のように言う。
私に、返事を求めていないということは伝わって来る。
私は帰ったら鏡を見てみようと思った。まさか生まれ変わったら美少女に生まれ変わってた──なんて。
そんなライトノベルのようなことが、自分に起こるとは思わなかったのだ。
自分達の子供に対して親が「かわいい」とデレデレするのは自然なことだし、近所のおじいちゃんおばあちゃんが「 さんちの ちゃんはかわいいねぇ」と笑ってくれるのも、自然なことだと思ってた。

だって、子供って、みんなかわいい。
大人にとって、子供は、"子供"であるというだけで、それは等しく、愛でる対象にしかなり得ない。
ただ、それだけのことだと思ってたのだった。

自分がの容姿が整っている、ということに気付かされた瞬間、もう一つの事実にも気が付く。
──もし私が月くんの言う通り、顔が整っているのだとしたら。
ますます、月くんが私に恋をしたのは、自然なことなんじゃないだろうかと思えた。
クラスの女子が、かっこいい月くんに恋をするように。アイドルに恋をするように。
整ったものに惹かれるのは、人として、きっと自然なことだから。

「そう、なんだね」

私はすこし、安心した。

"私が犯人を自首させた"という事のせいで、優秀な月くんが私を尊敬し、恋する。
それはすごく気まずかった。
自首させることを目的でああした訳じゃないし、私は死ぬつもりだったし。
私は月くんが思うほど優秀じゃない。月くんとは違って、大人になれば、ただの凡人になる。
でも…私が美人で、月くんはそれに惹かれて恋をした。
それも理由の一つだというなら…なんとなく、肩の荷が下りたような気がして、少し楽になった。


──私達は中学生になった。
相変わらず月くんは優等生で、クラスで一番頭がいいし、そして相変わらず月くんは私のことを──


2025.8.22