第5話
1.人間的な恋─少年の猜疑心
部屋の外から何か現在地が分かるような音がしないかとか、部屋の間取りはどうなってるとか、
暗闇で目を凝らしていると、電話の着信音がした。男が暗い声をしながら「…もしもし…」と躊躇いがちに電話に出る。
意図的なのか、偶然か。僕達の部屋と隣の部屋を繋ぐドアは少し開いていて、隙間から犯人のシルエットが見える。
どちらの部屋も電気はついていなくて、テレビと携帯電話の光だけが唯一の標だった。
「うん…母さん…こっちで上手くやってるよ。母さんの言う通り日当たりのいい部屋をえらんだし、母さんが気にしてた風水も…ほら、カーテンは緑色だし、絨毯は青にした。それに"教祖様"は、オレには営業職があってるっていったんだろ?その通りだったよ、昇進が決まったんだ、あと、ほら、今月の給料も送金したし…え?足りない…でも…いや…うん…わかった、でも…っ…ごめん、そうだね。じゃあ、また送るから…」
ピッと通話を切る音がする。ぶらり、携帯電話を掴んでいた手が垂れ下がると、
そのままガシャンと音を立てながら床に落下した。
その携帯電話のように、ゆるり、ゆるりと男の全身から力が抜けていき、最期には膝立ちになり、そのまま床に蹲ってしまった。
──泣いている。そう気が付くまで少し時間がかかった。
男は大声で泣きわめくでなく、ただ何かをこらえるように、あまりに静かに身を震わせて、嗚咽をもらしていたから。
隣にいるちゃんと無言で顔を見合わせて、眉を顰めた。
どうやら家族と折り合いが悪いという事は伝わった。
男はあらゆることを母親の言う通りにして行動し、暮してきたようだ。
そしてそれは男の望んだことではない──現に、不満があるからこそ、こうした猟奇犯罪に手を染めているのだろう。
教祖…本で読んだことがある。宗教というものがあって、信者というものがいて、教祖なるものがいて、そして神の存在により成立している組織なのだと。
残念ながらそこにいいイメージはない。いいイメージのない物と関わりのある男が、よくない犯行をしている。最悪の取り合わせだ。
僕は雲行きが怪しくなっていることに、だんだんと、嫌でも気が付かされていた。
「…母さんは身勝手だ…ほんと、ばあちゃんにそっくりだよ……」
しばらく男は泣いていたけれど、少しすると何も聞こえなくなった。
ゆらり。蹲った時と同じように、力なく立ち上がると、被っていた帽子を脱いで、投げ捨てるのが見えた。
僕はその瞬間、ぞくりと全身が粟立った。
──このままじゃ、まずい。まずすぎる。だって、この状況は、父さんが言ってたのとまるで同じだ。
男は、ゆらりゆらりと揺れながらこの部屋に近づくと、扉を開いた。
「えらべ」
──やはり、男はもう目隠し帽を、被っていなかった。
つまり、もう隠れる気はない。──僕達を逃がす気はない。すぐにでも片を付ける。
そう決めたということ──
男は僕と、ちゃん、交互に指をさしながら、告げた。
どちらにしようかなとまるで遊ぶよな仕草だった。
「今までの子たちにも、選んでもらってたんだ。必ず二人一組でさらってさ…どちらが先に俺のところにくるか、決めてもらってた」
「……お兄さんのところに行くと、どうなるの?」
「どうなるとおもう?ぼうや」
僕が時間を稼ぐために問うと、男は、笑った。涙でぐしゃぐしゃの顔が、更に歪む。
僕は焦った。犯人の決意はもう揺らがない。
そもそも、もう何人も人を殺しているのだから、今さら躊躇わないだろう。
──説得をするか?まさか、そんなのはばかのすることだ。
僕みたいな子供の説得になんの効果がある。きっと男は人生に嫌気がさしてるんだ。
だいたい、犯罪というのは、抑圧された鬱憤を晴らすかのように行われると言われていて、
その"抑圧"というものを、僕のような子供は理解できないし、理解したように振舞ったとして真実味がない…
──戦うか?むりだ。拘束を解く方法がみつかってないし、男と対峙しながら解くなんて…しかも、子供が大人に叶うはずがない。
どうしたら、どうすれば…考えろ、絶対に道はある、考えれば絶対に…!
「──わたしがいきます」
僕が思考を巡らせていると、隣から、ちゃんの声が聞えた。
思わず耳を疑って、隣をばっと見る。
ちゃんは真っすぐに男をみていた。恐怖心はないようにみえる。とても落ち着いていて、震えてもいない。
僕は信じられなかった。ちゃんのようなおっとりした子が自分を差し出すような勇敢さをみせた事も。
最低最悪な決断を下したことも。
「なっ…!ちゃん!?」
「月くんは、ここにいて。……大丈夫だから」
「な…にが、大丈夫なんだっ」
僕は言葉では叫ぶように否定しながら、それでも頭ではわかっていた。
──詰んだ。僕達は、もう、男の言う通り、お互いのどちらかの身を差し出すしかない。
そしてあわよくば、生贄のように差し出された最初の一人が甚振られてる間に、後に残された一人が逃げるために模索する。
もう、それしかない。わかっていて、負けたと認めたくなかった。
僕は父親が刑事で、その父にたくさん教わっていて、父は優秀で、そして僕は賢くて。
だからなんとかなる…なんとかできると思ってた。
そんなこと、認めたくなかった。
男は、「暴れたらすぐ殺すからな」と言いながら、ちゃんと腕と足の拘束をほどく。
僕はそこに、何の言葉も紡げなかった。
ここでやめてくれと叫んだり、今さら時間稼ぎのような会話を続けた所で、最早悪手。
状況を悪化させるだけだとわかっていたから。
「最期の夜は、願いを叶えてやることにしてるんだ。だって、かわいそうだろ?こんな子供がさぁ、何も報われず、与えられず、救われず、満たされず…いたぶられてお終いなんてさぁ…」
ちゃんの手を引き、男は隣の部屋へと連れてこうとする。
テレビの光がちかちかしている。緑色のカーテンがしまっていて、青い絨毯がしいてあって、真っ暗だ。
そこにいったら、もうだめだ。
「ちゃんっだめだ!行っちゃだめだ!」
声をかけたら、男を刺激するだけ。そうとわかってても、ちゃんの背中に声をかけずにいられなかった。
今、目の前で幼馴染の女の子が殺されそうになっていて、それで冷静でいられるわけがない。理屈だけでは人は動けないこともある──
「月くん、大丈夫。…大丈夫」
ちゃんは振り返り、いつもと変わらない優しい笑顔をみせた。
同じように男は僕の方を振り返りながら、意地の悪い笑顔を浮かべている。
男はドアを、大きく開いたままにして、奥へと進んでいく。僕はそれがどんな意図を孕んでいるのか理解して、吐き気がした。
男はテレビの電源をリモコンで消すと、コトンと机の上に置く。
「おねがいごとはなんだい?ちゃん」
僕はちゃんがなんというのかわからなかった。
大丈夫、と気丈に振舞っていたちゃんも、今度こそ泣いてしまうかもしれないとも思った。
背丈の小さいちゃんに目線を合わせるつもりもなく、ただ高みから見下ろしながら、ちゃんと向かい合う。
ちゃんはそんな高圧的な態度にも臆することなく、すっと視線をあげて、じっと男の目をみながらこういった。
「わたし、今夜はぐっすり眠りたい。ずっとしばられて、よく寝れなかったから」
「は?」と言ったのは、男だっただろうか、僕だっただろうか。
この状況で出て来るお願いには、あまりにも不釣り合いだ。
男はしばらく何も言えず、少ししてから聞き直す。
「……それが最期の望み?…お母さんに会いたいとか、うちに帰りたいとか、お腹すいたとか…そういうのないわけ?」
「うん。だって、帰れないよね?わかってる」
──わかってる。ちゃんとわかってて、「わたしがいきます」と、あの時ちゃんは言った──
本当にどうしようもないなら、助からないなら、せめて僕が言うべきだった。
ちゃんに言わせてしまった。
僕のせいで──…
「だから、叶えてもらえるお願いってなんなのか、考えてみたの」
「……まあ、いいけど」
「あ、あとね。最期に本も読みたいな。本棚の本読んで、眠くなったら眠りたい。それでもいい?」
「……いいよ。べつに」
ちゃんは常と変わらぬおっとりとした声色で、思いだしたように本棚を指さしながら言った。
男はちゃんと目線を合わせようとかがみこそしなかったけど、
どうしてそんな事を言うのかわからない。わからないから、得体のしれないものを探る。
そんな感じで、なんとも言えない調子でちゃんのことを見つめながら、淡々と受け答えしていた。
「…でも、月くんとは一緒に寝れないからね?あの子はあのままだ」
「それでいいよ。お兄さん、一緒に寝てくれる?わたし、一人じゃ寝れないの」
「……こわくないの?おまえ」
「ええと…こわいのは、今のこと?お兄さんと寝ること?」
「……」
「今も、お兄さんと寝るのも、怖くないよ。でも、今夜が終わったら、ちょっとこわくなるかも」
ちゃんと本棚に歩み寄りながら、そんなことを言っていた。
僕が他の子よりも賢いように、ちゃんも賢いのかもしれない。
何度かそんな風に感じたことがあって、その度子供らしい言動にその推測はかき消されて。
でも、今ハッキリとわかった。
ちゃんは──やっぱり頭がいいんだ。多分、「大丈夫だから」と僕に言ったのは、虚勢ではない。
何か意図をもって今も会話している。その小さい頭で考えながら、じっと男の目をみつめながら。探りながら──
ちゃんが「これにきめた」と言って一冊本棚から抜き取ると、男の顔が歪んだ。
けれど、さすがにこの距離と暗さでは、その本のタイトルまではみえなかった。
僕から向かって左手には窓があり、緑のカーテンの足元にベッドがあるる。
ちゃんはベッドにうつ伏せに転がると、犯人も追ってそこに寝転んだ。
予想と違って、子供にいたずらするようにベタベタ触る訳でもなく、ちゃんに背を向けながら。距離を取ろうとしているようにも見えた。
ちゃんはぺらりと本をめくると、ぽつぽつと読み上げる。
「支配からは逃れられない…虐待された子供はやがて親になり、子供を虐待する。そしてまたその子供もやがては親になり…」
「…おまえ、読めるのか。そんな難しい本」
「読めるよ。本を読むの、大好きなの」
「……そう……」
「絵本を読むのがすきです」と笑っていた年少の頃のちゃんの笑顔が脳裏をよぎった。
確かに本人の言う通り、本を読むのが好きで、たくさん読んでるのも知っていた。
けれど、男が…猟奇的な殺人犯が、素で驚くような難解な本を読んでいるのか。
僕は今からちゃんが何をしようとしているのかも、ちゃんがいったいどんな子であるのかも──何もわからなくなっていた。
マイペースで、天然で、優しい子。
…もしかして、そうではない?思っていた通り賢くて…いや、本当はもっともっと知恵が回って、
狡い人間だったりして。
極限状態の中、僕の思考はぐるぐると回り続けた。
「負の連鎖はいずれ断ち切れるって、この本には書いてないんだね」
「…ああ、書いてない。書いてある本もあるけど…この家にはない」
「どうして?」
「……気に食わないからさ。ただのきれいごとだ」
「たしかにそうかも。そういう事例もあるのかもしれないけど…100%じゃないなら、きれいごとにしか聞こえないよね」
男が少し息を呑んだ。僕は息こそ飲まなかったけど、冷や水を浴びせられたような、どきりとした感じがしていた。
「……お前も、親に虐待されてんの…?」
「うん。お父さんもお母さんも、私をいじめるよ」
僕は「なっ…!」と声が出そうになって、ぐっとこらえた。
──そんな事実はない。ない、はずだ。
ちゃんはお父さんお母さんが大好きだ。そして体に痣を作ったこともなければ、お腹を空かせてる様子もないし、お向いから泣き声が聞こえた事もない。
家と家族ぐるみの付き合いをする中で、そんな片鱗が見えたことは一度たりともない。
僕は刑事である父を信頼している。父も家と接する中で、そんな怪しい一面はないと思ったのだろう、本当に、虐待されていた事なんて、なかったとしか思えない──
でも本人が言うのだからそうなのか──或いは…
──犯人の望む答えをすらりすらりと、述べているだけ。
ぞくりと、背筋が凍るような感じがした。
ちゃんはおそらく、男を上手くペースに乗せて喋らせている。
だとしたら、ちゃんには目指す方向性があって、この話題をどこに着地させたい?
……どう、終わらせるつもりなんだ?
1.人間的な恋─少年の猜疑心
部屋の外から何か現在地が分かるような音がしないかとか、部屋の間取りはどうなってるとか、
暗闇で目を凝らしていると、電話の着信音がした。男が暗い声をしながら「…もしもし…」と躊躇いがちに電話に出る。
意図的なのか、偶然か。僕達の部屋と隣の部屋を繋ぐドアは少し開いていて、隙間から犯人のシルエットが見える。
どちらの部屋も電気はついていなくて、テレビと携帯電話の光だけが唯一の標だった。
「うん…母さん…こっちで上手くやってるよ。母さんの言う通り日当たりのいい部屋をえらんだし、母さんが気にしてた風水も…ほら、カーテンは緑色だし、絨毯は青にした。それに"教祖様"は、オレには営業職があってるっていったんだろ?その通りだったよ、昇進が決まったんだ、あと、ほら、今月の給料も送金したし…え?足りない…でも…いや…うん…わかった、でも…っ…ごめん、そうだね。じゃあ、また送るから…」
ピッと通話を切る音がする。ぶらり、携帯電話を掴んでいた手が垂れ下がると、
そのままガシャンと音を立てながら床に落下した。
その携帯電話のように、ゆるり、ゆるりと男の全身から力が抜けていき、最期には膝立ちになり、そのまま床に蹲ってしまった。
──泣いている。そう気が付くまで少し時間がかかった。
男は大声で泣きわめくでなく、ただ何かをこらえるように、あまりに静かに身を震わせて、嗚咽をもらしていたから。
隣にいるちゃんと無言で顔を見合わせて、眉を顰めた。
どうやら家族と折り合いが悪いという事は伝わった。
男はあらゆることを母親の言う通りにして行動し、暮してきたようだ。
そしてそれは男の望んだことではない──現に、不満があるからこそ、こうした猟奇犯罪に手を染めているのだろう。
教祖…本で読んだことがある。宗教というものがあって、信者というものがいて、教祖なるものがいて、そして神の存在により成立している組織なのだと。
残念ながらそこにいいイメージはない。いいイメージのない物と関わりのある男が、よくない犯行をしている。最悪の取り合わせだ。
僕は雲行きが怪しくなっていることに、だんだんと、嫌でも気が付かされていた。
「…母さんは身勝手だ…ほんと、ばあちゃんにそっくりだよ……」
しばらく男は泣いていたけれど、少しすると何も聞こえなくなった。
ゆらり。蹲った時と同じように、力なく立ち上がると、被っていた帽子を脱いで、投げ捨てるのが見えた。
僕はその瞬間、ぞくりと全身が粟立った。
──このままじゃ、まずい。まずすぎる。だって、この状況は、父さんが言ってたのとまるで同じだ。
男は、ゆらりゆらりと揺れながらこの部屋に近づくと、扉を開いた。
「えらべ」
──やはり、男はもう目隠し帽を、被っていなかった。
つまり、もう隠れる気はない。──僕達を逃がす気はない。すぐにでも片を付ける。
そう決めたということ──
男は僕と、ちゃん、交互に指をさしながら、告げた。
どちらにしようかなとまるで遊ぶよな仕草だった。
「今までの子たちにも、選んでもらってたんだ。必ず二人一組でさらってさ…どちらが先に俺のところにくるか、決めてもらってた」
「……お兄さんのところに行くと、どうなるの?」
「どうなるとおもう?ぼうや」
僕が時間を稼ぐために問うと、男は、笑った。涙でぐしゃぐしゃの顔が、更に歪む。
僕は焦った。犯人の決意はもう揺らがない。
そもそも、もう何人も人を殺しているのだから、今さら躊躇わないだろう。
──説得をするか?まさか、そんなのはばかのすることだ。
僕みたいな子供の説得になんの効果がある。きっと男は人生に嫌気がさしてるんだ。
だいたい、犯罪というのは、抑圧された鬱憤を晴らすかのように行われると言われていて、
その"抑圧"というものを、僕のような子供は理解できないし、理解したように振舞ったとして真実味がない…
──戦うか?むりだ。拘束を解く方法がみつかってないし、男と対峙しながら解くなんて…しかも、子供が大人に叶うはずがない。
どうしたら、どうすれば…考えろ、絶対に道はある、考えれば絶対に…!
「──わたしがいきます」
僕が思考を巡らせていると、隣から、ちゃんの声が聞えた。
思わず耳を疑って、隣をばっと見る。
ちゃんは真っすぐに男をみていた。恐怖心はないようにみえる。とても落ち着いていて、震えてもいない。
僕は信じられなかった。ちゃんのようなおっとりした子が自分を差し出すような勇敢さをみせた事も。
最低最悪な決断を下したことも。
「なっ…!ちゃん!?」
「月くんは、ここにいて。……大丈夫だから」
「な…にが、大丈夫なんだっ」
僕は言葉では叫ぶように否定しながら、それでも頭ではわかっていた。
──詰んだ。僕達は、もう、男の言う通り、お互いのどちらかの身を差し出すしかない。
そしてあわよくば、生贄のように差し出された最初の一人が甚振られてる間に、後に残された一人が逃げるために模索する。
もう、それしかない。わかっていて、負けたと認めたくなかった。
僕は父親が刑事で、その父にたくさん教わっていて、父は優秀で、そして僕は賢くて。
だからなんとかなる…なんとかできると思ってた。
そんなこと、認めたくなかった。
男は、「暴れたらすぐ殺すからな」と言いながら、ちゃんと腕と足の拘束をほどく。
僕はそこに、何の言葉も紡げなかった。
ここでやめてくれと叫んだり、今さら時間稼ぎのような会話を続けた所で、最早悪手。
状況を悪化させるだけだとわかっていたから。
「最期の夜は、願いを叶えてやることにしてるんだ。だって、かわいそうだろ?こんな子供がさぁ、何も報われず、与えられず、救われず、満たされず…いたぶられてお終いなんてさぁ…」
ちゃんの手を引き、男は隣の部屋へと連れてこうとする。
テレビの光がちかちかしている。緑色のカーテンがしまっていて、青い絨毯がしいてあって、真っ暗だ。
そこにいったら、もうだめだ。
「ちゃんっだめだ!行っちゃだめだ!」
声をかけたら、男を刺激するだけ。そうとわかってても、ちゃんの背中に声をかけずにいられなかった。
今、目の前で幼馴染の女の子が殺されそうになっていて、それで冷静でいられるわけがない。理屈だけでは人は動けないこともある──
「月くん、大丈夫。…大丈夫」
ちゃんは振り返り、いつもと変わらない優しい笑顔をみせた。
同じように男は僕の方を振り返りながら、意地の悪い笑顔を浮かべている。
男はドアを、大きく開いたままにして、奥へと進んでいく。僕はそれがどんな意図を孕んでいるのか理解して、吐き気がした。
男はテレビの電源をリモコンで消すと、コトンと机の上に置く。
「おねがいごとはなんだい?ちゃん」
僕はちゃんがなんというのかわからなかった。
大丈夫、と気丈に振舞っていたちゃんも、今度こそ泣いてしまうかもしれないとも思った。
背丈の小さいちゃんに目線を合わせるつもりもなく、ただ高みから見下ろしながら、ちゃんと向かい合う。
ちゃんはそんな高圧的な態度にも臆することなく、すっと視線をあげて、じっと男の目をみながらこういった。
「わたし、今夜はぐっすり眠りたい。ずっとしばられて、よく寝れなかったから」
「は?」と言ったのは、男だっただろうか、僕だっただろうか。
この状況で出て来るお願いには、あまりにも不釣り合いだ。
男はしばらく何も言えず、少ししてから聞き直す。
「……それが最期の望み?…お母さんに会いたいとか、うちに帰りたいとか、お腹すいたとか…そういうのないわけ?」
「うん。だって、帰れないよね?わかってる」
──わかってる。ちゃんとわかってて、「わたしがいきます」と、あの時ちゃんは言った──
本当にどうしようもないなら、助からないなら、せめて僕が言うべきだった。
ちゃんに言わせてしまった。
僕のせいで──…
「だから、叶えてもらえるお願いってなんなのか、考えてみたの」
「……まあ、いいけど」
「あ、あとね。最期に本も読みたいな。本棚の本読んで、眠くなったら眠りたい。それでもいい?」
「……いいよ。べつに」
ちゃんは常と変わらぬおっとりとした声色で、思いだしたように本棚を指さしながら言った。
男はちゃんと目線を合わせようとかがみこそしなかったけど、
どうしてそんな事を言うのかわからない。わからないから、得体のしれないものを探る。
そんな感じで、なんとも言えない調子でちゃんのことを見つめながら、淡々と受け答えしていた。
「…でも、月くんとは一緒に寝れないからね?あの子はあのままだ」
「それでいいよ。お兄さん、一緒に寝てくれる?わたし、一人じゃ寝れないの」
「……こわくないの?おまえ」
「ええと…こわいのは、今のこと?お兄さんと寝ること?」
「……」
「今も、お兄さんと寝るのも、怖くないよ。でも、今夜が終わったら、ちょっとこわくなるかも」
ちゃんと本棚に歩み寄りながら、そんなことを言っていた。
僕が他の子よりも賢いように、ちゃんも賢いのかもしれない。
何度かそんな風に感じたことがあって、その度子供らしい言動にその推測はかき消されて。
でも、今ハッキリとわかった。
ちゃんは──やっぱり頭がいいんだ。多分、「大丈夫だから」と僕に言ったのは、虚勢ではない。
何か意図をもって今も会話している。その小さい頭で考えながら、じっと男の目をみつめながら。探りながら──
ちゃんが「これにきめた」と言って一冊本棚から抜き取ると、男の顔が歪んだ。
けれど、さすがにこの距離と暗さでは、その本のタイトルまではみえなかった。
僕から向かって左手には窓があり、緑のカーテンの足元にベッドがあるる。
ちゃんはベッドにうつ伏せに転がると、犯人も追ってそこに寝転んだ。
予想と違って、子供にいたずらするようにベタベタ触る訳でもなく、ちゃんに背を向けながら。距離を取ろうとしているようにも見えた。
ちゃんはぺらりと本をめくると、ぽつぽつと読み上げる。
「支配からは逃れられない…虐待された子供はやがて親になり、子供を虐待する。そしてまたその子供もやがては親になり…」
「…おまえ、読めるのか。そんな難しい本」
「読めるよ。本を読むの、大好きなの」
「……そう……」
「絵本を読むのがすきです」と笑っていた年少の頃のちゃんの笑顔が脳裏をよぎった。
確かに本人の言う通り、本を読むのが好きで、たくさん読んでるのも知っていた。
けれど、男が…猟奇的な殺人犯が、素で驚くような難解な本を読んでいるのか。
僕は今からちゃんが何をしようとしているのかも、ちゃんがいったいどんな子であるのかも──何もわからなくなっていた。
マイペースで、天然で、優しい子。
…もしかして、そうではない?思っていた通り賢くて…いや、本当はもっともっと知恵が回って、
狡い人間だったりして。
極限状態の中、僕の思考はぐるぐると回り続けた。
「負の連鎖はいずれ断ち切れるって、この本には書いてないんだね」
「…ああ、書いてない。書いてある本もあるけど…この家にはない」
「どうして?」
「……気に食わないからさ。ただのきれいごとだ」
「たしかにそうかも。そういう事例もあるのかもしれないけど…100%じゃないなら、きれいごとにしか聞こえないよね」
男が少し息を呑んだ。僕は息こそ飲まなかったけど、冷や水を浴びせられたような、どきりとした感じがしていた。
「……お前も、親に虐待されてんの…?」
「うん。お父さんもお母さんも、私をいじめるよ」
僕は「なっ…!」と声が出そうになって、ぐっとこらえた。
──そんな事実はない。ない、はずだ。
ちゃんはお父さんお母さんが大好きだ。そして体に痣を作ったこともなければ、お腹を空かせてる様子もないし、お向いから泣き声が聞こえた事もない。
家と家族ぐるみの付き合いをする中で、そんな片鱗が見えたことは一度たりともない。
僕は刑事である父を信頼している。父も家と接する中で、そんな怪しい一面はないと思ったのだろう、本当に、虐待されていた事なんて、なかったとしか思えない──
でも本人が言うのだからそうなのか──或いは…
──犯人の望む答えをすらりすらりと、述べているだけ。
ぞくりと、背筋が凍るような感じがした。
ちゃんはおそらく、男を上手くペースに乗せて喋らせている。
だとしたら、ちゃんには目指す方向性があって、この話題をどこに着地させたい?
……どう、終わらせるつもりなんだ?