第33話
2.神の恋─涙の意味
チャイムを鳴らすのも惜しくて、一か八か、玄関のドアノブに手をかけてみる。
不用心なことに、家の玄関ドアは鍵もかかっていなかった。
「あらライトくん、どうしたのそんなに慌てて?」
「すみません、勝手に上がり込んで…に急ぎの用事があってっ」
「ライトくんならいつでも上がっていいわよ〜。は自分の部屋にいるわ」
「ありがとうございます!」
夜神家と家の間取りはさして変わらない。玄関から繋がる廊下の左手にはリビングダイニングがあり、そこからの母親が顔を出した。
幼馴染の特権というやつだ。培ってた信用が実り、不用心に踏み込んでも咎められることはない。
こうう、殆ど家族同然の付き合いをしているからこそ、Lに共謀を疑われているのだろうとつくづく思う。
僕は挨拶もそこそこに、階段を駆け上り、の部屋をノックし、返事を待たずに開いた。
「っ!…入るからねッ!」
部屋のドアを開けると、薄暗い部屋の中、ベッドの上でが項垂れていた。
ベッドサイドに置いてあるランプだけが唯一の光源で、俯いたの表情までは照らしてくれない。
フローリングには先ほどまで僕と通話していた携帯と、電話する直前まで読んでいたのであろう、小説が散乱していた。
電話を切る直前、は明らかに動揺していた。そのせいで、電話を滑り落としてしまったのだろうという事は想像がついた。
僕はを怖がらせないよう、そっと近づき、膝立ちになる。
そしてベッドの上で小さくなり、背を丸めている名前を見つめる。
「……」
僕がの頬に触れると、びくりと小さく肩を震わせた。
僕を怖がっているというよりも、緊張していると言った方が適切だろう。
ここでどうしたのかと、追及するのは容易い。
けれどが落ち着くのを待って、が自ら口を開くのを、僕は待ち続けた。
は暫く沈黙した後、小さくか細い声で吶々と語り出す。
「…ほかに、すきなひと、できた…?わ、わたしが、月くんと同じ、きもちをかえせなかったから…」
に触れた片手から、震えが伝わってくる。冷静でいようと思っていたのに、僕は思わず大きな声を出してしまった。
「っそんなことない!そんなんじゃないんだ…!」
僕は片手でなく、今度は両手での頬を包み、くっと顔をあげさせた。
の瞳には涙が浮かんでいる。ランプの光が映りこんで、の瞳が揺らぐたびに、ゆらゆらと揺らいでいる。
──綺麗だと思った。まるで宝石のようだった。そして何よりも、その涙が僕のために零れそうになっているという事実がとても甘美で、背徳的で。
泣かせたくない、笑っていてほしいと願っているのに、僕のために泣くが愛しくてたまらない。
僕はきっと今、熱のこもった目で名前を見つめていることだろう。
けれど、はきっと気が付いていない。
「僕がすきなひとは、だけだよ…」
熱に浮かされた僕の声は掠れていて、みっともない。
選んだ言葉は一途で綺麗なものなのに、僕の心は欲情に塗れてるのだから。
「……そう、なの?」
「そうだよ…」
無理やり合わさせられた視線。気まずくて、辛そうにしていていたも、
僕の言葉を聞くと、体の力を抜いたようだった。
に拒絶されるのは辛い。怖がられたくない。
警戒心を解き、いつも通りの眼差しを向けてくれた事で、僕はほっとした。
そしてそのままの背中に腕を回し、抱きしめ、優しく頭を撫でた。
しばらくは沈黙か流れて、お互いの体温を甘受する時間が続いた。
幼馴染の僕達は、隣同士にいる事が当たり前で、共に過ごす時間は穏やかだ。
家族の次に…いや、家族よりももしかしたら気の置けない仲かもしれない。
この世の誰よりも、傍にいると安心できる。お互いがそう思ってる。
──けれど。僕は現状維持など御免だ。
「……でも」
僕は一歩踏み出す。一歩間違えれば、今までの関係性にヒビを入れて、
これまでのように共にすごす事は出来なくなるかもしれない。
けれどいつまでもそれを恐れていれば、いつかの日か、僕とは離れ離れになるだろう。
を"永遠に"傍に留めておきたいと思うならば──
「でも、どうしては…同じ気持ちを返せなかった、と言っていたのに…なんで…泣いてるの?」
──もしも拒絶されたら。もしもこれが勘違いなら。
そういう恐怖を押し殺して、踏み込むしかない。
思わず、に回す腕に力がこもった。肩も強張っているかもしれない。
0距離で触れ合っているのだ。この緊張は、繋がり合う体からも、の耳に届いた僕の声色からも、きっと伝わっているはず。
カッコつけてなんていられない。僕はの前ではカッコ悪くだってなれる。
の前では、完璧な夜神月の仮面を崩してもいい。それでが手に入るならば──僕はプライドだって捨ててみせる。
「僕が他の女の子とキスをするのが嫌だって思って、泣いている。……僕は、そうやって自惚れてもいいのかな」
「……」
「恋をしているわけでもない、ただの幼馴染が…他の女の子とキスしても、何も感じないはずだよね」
僕が他の女の子とキスしたらどう思うか。
その問いかけを聞いて、すぐに電話をきってしまった。
この部屋を尋ねてきたときの様子から言っても、とても普通ではなかった。
──動揺していた。泣いていた……
それはどうして?…こんなの、自惚れないでいられるはずがない。
誰がどうみても、は僕のことを──
「……うん、そう…」
「……」
──すきなのだ。好きだから、僕が他の女の子とキスをするのが嫌だと思った。
それ以外にあり得ないだろう。
の口からは肯定が零れ出る。
「わたし、いつの間にか…こんなに、月くんのことすきだったんだね。…恋を、してたんだ…」
「……あぁ……!」
僕は強くを抱き締めて、けれど抱くだけではこの気持ちが収まりきらず、
の唇にキスを落とした。
「ん、…っ」
何度もの唇を食んだ。けれど息継ぎも出来ないほどの激しいキスではなく、
愛しさを表現する睦合いのようなスキンシップに近かった。
には優しく触れたい。唇が触れ合うことで、幸せだと感じてほしい。満たされてほしい。気持ちいいと思ってほしい。
ガラス細工に触れるように、優しく、優しく。
そうして甘やかしてあげる合間に零れるの声が可愛くて、それに欲情するのは自然な事だった。
僕たちは18歳だ。中学生のうちから性交渉をする男女も珍しくない。
高校一年生の頃から一応、恋人同士のような間柄になって、ずっとキスだけをするプラトニックな関係性を保ち続けてきた。
一般的なカップルだったら、きっとこまま押し倒して、最後まで進めるのだろう。
けれど僕は大学生になっても、自制を続けた。それは…
──が僕に"恋"をしていないと気が付いていたからだ。
キスをしても嫌がらない。異性としては見られる。僕のことをすきでいてくれてる。
けれどその好きが恋情かといえば怪しい所だったし、僕に恋をしてくれていたとして、
きっと僕と同じ濃度で恋をしているという事はないだろう、それくらい察せていた。
だけど…やっとだ。
他の子とキスをされたら悲しいと泣くは、確かに僕に恋をする女の子でしかなかった。
「月くんが他の子と仲良くしてたら…」
ちゅ、とリップ音を立てながら、の額や鼻にキスを落とす。
は恥ずかしがるでもなく、当然のようにそれを享受している。それがとても愛しい。
「──いやだっておもうけど。泣いちゃうくらい悲しくなるけど…でも、信じちゃうかな。
何か意味があってそうしてるんだろうって。…月くん、一途すぎるから。私以外に恋してる姿なんて、想像できない」
「……が自惚れてくれるのが、最高にうれしいよ。僕の恋心を信じてくれてる…それがこんなにも幸せだなんて…」
と触れ合う時間は、いつだって幸せだった。
隣同士歩いて、ふとした瞬間肩が触れるだけでも。手を繋ぐだけでも。
髪に触るだけでも。キスするときも──
けれど。
──僕に恋するとするキスは、こんなにも甘くて、痺れるように気持ちいいものなのか。
もう一度の唇と重ねて、すぐに離す。
心がお互いに通じ合った、特別な相手とする触れ合い。これ以上に幸せな時間はきっとない。
の全幅の信頼が誇らしい──これは僕がつかみ取ったものだ。
のことを好きな人間は山ほどいる。けれどにここまで言わせるほど、愛されてる人間が他にいるか?──僕しかいない──
──あいしてる。
と手を絡め合い、腰に手を回して、至近距離で見つめ合って──
このままだと押し倒してしまいそうだ。
いくら通じ合ったと言っても、僕と同じ種類の気持ち…恋になったというだけで。
体の繋がりを持とうと思えるほどの想いは、まだの中にないだろう。
僕は我ながら名残惜しそうな仕草で緩々と絡み合わせた手を解き、と少し距離を取ってベッドに腰かけた。
そしてそののま視線を合わせないようそらせると、隣のがくすくすと笑っていた。
僕が距離を取ったその意図を理解して、笑っているのだ。
けれど少しも恥ずかしくなかった。
自分が大事にされていると、自覚しているの安心しきった様子が愛しいと思った。
「最近、月くんはずっと忙しくしてたから…二人でゆっくり話すのって、久しぶりだね」
「ん…そう、だね。授業が終わったら、捜査の方にも加わってるから…どうしても、ね」
大学が終わって、捜査本部に向かって、捜査協力をする。
L…捜査本部の面々は、都心のホテルを転々としているので、そこから電車で自宅に帰ろうとすると、それだけでも時間がかかる。
家族にも捜査に協力している事は内緒にする方針を取っているので、遅くなる言い訳としては、「デート」というのが一番当たり障りがなかった。
男友達と遊んでいるといえば「どんな子?どこに行ったの?」と気軽に雑談されてしまうけれど、「デート」と言えば、からかわれても、それ以上は深く問い質そうとはしないだろうから。
そんなこんなで、僕とが過ごす時間が目減りする一方だったのだ。
…これからは、更に減っていくのだろう。
「…流河旱樹…あの人がLって、本当だった?」
「……僕も最初は影武者かと疑っていたけど…、…まあ、色々あってね。彼はL本人だろうとほぼ確信できた」
「…あのひとがL本人だっていうなら、尚更不思議。…なんで私まであの時、テストを受けさせられたんだろう。キラは頭がいい人だと思われてる…でも、私が東大に入れたのは、月くんのおかげだよ?」
「何言ってるんだ。は頭がいいよ、昔からね」
喫茶店で"キラしか知らないことを言わせるテスト"を受けさせられた時もそうだったけど、
は自分の能力を下に見すぎだ。
自分が美人だという自覚がなかった事といい、自分の知性に自覚がないことといい…。
もちろん、きっとは僕が勉強をみなければ、東大には合格しなかったと思う。
だからといって「知性が劣ってる」ということにはならない。
人間の賢さというのは、勉強ができるかできないかだけでは測れない。
物事の本質を見抜く力というのが、には備わっていた。
「…ここで頭のよさを認められると…、月くんも、私がキラだって疑ってるみたいにみえちゃう」
「はは。ごめんごめん。でもがキラだなんて、少しも疑ったことはないよ。…多分…Lが本当に疑ってるのはね、…僕だけなんだよ」
「お父さんが刑事局長で、東大首席入学…しかも全教科満点満点合格しちゃったんだもんね」
「それも大きいだろうね…。…そして、が疑われてるのは、そんな夜神家にほとんど入りびたり、自由に出入りさえ出きて、尚且つ、僕とずっと一緒にいるからだと思うよ。殺人幇助…共犯関係…そういうとわかりやすいかな」
僕が言うと、が表情を曇らせた。
「…やっぱり、そうなんだね。…そんな風に疑われる程一緒にいるんだ…」
視線を落として、何かを思案している。僕はそれをみて、酷く焦った。
「疑われるくらいなら、傍にいない方がいい」そんな理由で万が一にも距離を取られてしまったら、僕は耐えられないだろう。
僕は焦りを表に出さないよう、冷静でいるよう努めて、の片手を取り説得した。
「…だからと言って、僕は疑いを晴らさせるためだけにと距離をおくなんて…そんな理不尽な事はできない。それに、なによりも…」
「…なによりも?」
「……僕が、と離れて過ごすなんてこと…きっと耐えられないから」
握っていたの片手を、自分の額に当てる。
──まるで神に祈るように。懇願するように。
「…離れるなんて、言わないでくれ。」
──どうかお願いだから、言わないでくれ。
僕がそう懇願していると、は空いた片手で、僕の頭を撫でた。
僕はぎゅっとと瞑っていた瞳を開いて、をみる
は柔らかく目を細め、微笑みを湛えていた。
僕はそれがくすぐったくて、の手を下して、今度は絡めとる。
細い指が僕の骨ばった指に絡んで、お互いの体温を分け合ってる。
「…小さいころからずっと一緒で、…賢いは気づいてるはずだよ。…誘拐犯の心理さえ見抜いたんだからね」
の手の甲を撫でてみたり、爪の形をなぞってみたり。
そんなことをしながら、僕は吶々と語り出す。
ずっと言えなかったこと。きっとは気が付いているだろうと悟りつつ、
けれど言葉にしたら軽蔑されてしまう気がして──
は正義感が強く、礼儀正しい完璧な夜神月が好きなのだろう。
でも。きっと今のなら、不完全な僕でも愛してくくれる。そんな確信があった。
「僕が日々退屈だと思っていたこと。…周りの人間を、いつからか、冷めた目でみるようになったこと」
「……うん、なんとなく…」
「でも、そんな風に敏いだからこそ…もしかしたら、僕が思うよりも…ずっと昔から伝わっていたんじゃないかな。ずっと口にはしないようにしていたけど…」
の瞳には、もう涙はなかく、光も揺らいでいない。
その代わり、僕だけが映っている。愚直なまでに一途に、に恋をし続けた男の姿だけが、そこにはある。
「僕はにもうずっと前から恋をしてるんだ。…いや、心から愛してる」
「……」
「僕は、とすごしてる時だけは…この世界や人々が、全部綺麗なものに思えてくるんだよ」
世の中腐ってる。死んだ方がいい人間ばかりだ。退屈な世界──
けれどが傍いるだけど、そんな思想は一気に消え去る。
が僕の瞳に映る、その景色。なんて鮮やかで愛しい──
「……一生手放したくない。今さら手放せないよ」
はその言葉に何の返事もしなかった。
けれど、空いていた距離を縮めて、僕に近づいて──
ベッドに膝をついて、僕を抱きしめた。の胸元に顔を埋めて、僕は無言での背中に手を回した。
「…私は、月くんがすき…。…月くんを、信じてるよ。…何があっても…」
月くんが私に嘘をついた事はないし、傷つけた事もない。
意味のないことをする人じゃない。
「全部、しんじてる」
──僕はその次の日から、弥海砂を始め、ミス東大と呼ばれる高田清美などを筆頭に、
色んな女の子と絡み始めた。
はそんな僕から距離を取り、遠くから見守るようになった。
僕はのその姿は、軽蔑したからではなく、「意味があると事だと信じてる」からこその行動だと理解していた。
愛する人を差し置いてまで、浮気まがいなことをして、罪悪感がないはずがない。
ましてや思いが通じ合った直後だと言うのに。
けれどこれも、うつくしく綺麗な世界を創り、と共に生きるために必要な一手なのだ。
──どうかはそのまま、疑念も抱かず、何も知らないまま、笑っていて。
そんな願いも虚しく。
「夜神くんにとっては嬉しかったり悲しかったりだと思いますが…
弥海砂とを、第二のキラ容疑で確保しました」
は思いもよらない形で、この日を境に、渦中に巻き込まれていくのだった。
2.神の恋─涙の意味
チャイムを鳴らすのも惜しくて、一か八か、玄関のドアノブに手をかけてみる。
不用心なことに、家の玄関ドアは鍵もかかっていなかった。
「あらライトくん、どうしたのそんなに慌てて?」
「すみません、勝手に上がり込んで…に急ぎの用事があってっ」
「ライトくんならいつでも上がっていいわよ〜。は自分の部屋にいるわ」
「ありがとうございます!」
夜神家と家の間取りはさして変わらない。玄関から繋がる廊下の左手にはリビングダイニングがあり、そこからの母親が顔を出した。
幼馴染の特権というやつだ。培ってた信用が実り、不用心に踏み込んでも咎められることはない。
こうう、殆ど家族同然の付き合いをしているからこそ、Lに共謀を疑われているのだろうとつくづく思う。
僕は挨拶もそこそこに、階段を駆け上り、の部屋をノックし、返事を待たずに開いた。
「っ!…入るからねッ!」
部屋のドアを開けると、薄暗い部屋の中、ベッドの上でが項垂れていた。
ベッドサイドに置いてあるランプだけが唯一の光源で、俯いたの表情までは照らしてくれない。
フローリングには先ほどまで僕と通話していた携帯と、電話する直前まで読んでいたのであろう、小説が散乱していた。
電話を切る直前、は明らかに動揺していた。そのせいで、電話を滑り落としてしまったのだろうという事は想像がついた。
僕はを怖がらせないよう、そっと近づき、膝立ちになる。
そしてベッドの上で小さくなり、背を丸めている名前を見つめる。
「……」
僕がの頬に触れると、びくりと小さく肩を震わせた。
僕を怖がっているというよりも、緊張していると言った方が適切だろう。
ここでどうしたのかと、追及するのは容易い。
けれどが落ち着くのを待って、が自ら口を開くのを、僕は待ち続けた。
は暫く沈黙した後、小さくか細い声で吶々と語り出す。
「…ほかに、すきなひと、できた…?わ、わたしが、月くんと同じ、きもちをかえせなかったから…」
に触れた片手から、震えが伝わってくる。冷静でいようと思っていたのに、僕は思わず大きな声を出してしまった。
「っそんなことない!そんなんじゃないんだ…!」
僕は片手でなく、今度は両手での頬を包み、くっと顔をあげさせた。
の瞳には涙が浮かんでいる。ランプの光が映りこんで、の瞳が揺らぐたびに、ゆらゆらと揺らいでいる。
──綺麗だと思った。まるで宝石のようだった。そして何よりも、その涙が僕のために零れそうになっているという事実がとても甘美で、背徳的で。
泣かせたくない、笑っていてほしいと願っているのに、僕のために泣くが愛しくてたまらない。
僕はきっと今、熱のこもった目で名前を見つめていることだろう。
けれど、はきっと気が付いていない。
「僕がすきなひとは、だけだよ…」
熱に浮かされた僕の声は掠れていて、みっともない。
選んだ言葉は一途で綺麗なものなのに、僕の心は欲情に塗れてるのだから。
「……そう、なの?」
「そうだよ…」
無理やり合わさせられた視線。気まずくて、辛そうにしていていたも、
僕の言葉を聞くと、体の力を抜いたようだった。
に拒絶されるのは辛い。怖がられたくない。
警戒心を解き、いつも通りの眼差しを向けてくれた事で、僕はほっとした。
そしてそのままの背中に腕を回し、抱きしめ、優しく頭を撫でた。
しばらくは沈黙か流れて、お互いの体温を甘受する時間が続いた。
幼馴染の僕達は、隣同士にいる事が当たり前で、共に過ごす時間は穏やかだ。
家族の次に…いや、家族よりももしかしたら気の置けない仲かもしれない。
この世の誰よりも、傍にいると安心できる。お互いがそう思ってる。
──けれど。僕は現状維持など御免だ。
「……でも」
僕は一歩踏み出す。一歩間違えれば、今までの関係性にヒビを入れて、
これまでのように共にすごす事は出来なくなるかもしれない。
けれどいつまでもそれを恐れていれば、いつかの日か、僕とは離れ離れになるだろう。
を"永遠に"傍に留めておきたいと思うならば──
「でも、どうしては…同じ気持ちを返せなかった、と言っていたのに…なんで…泣いてるの?」
──もしも拒絶されたら。もしもこれが勘違いなら。
そういう恐怖を押し殺して、踏み込むしかない。
思わず、に回す腕に力がこもった。肩も強張っているかもしれない。
0距離で触れ合っているのだ。この緊張は、繋がり合う体からも、の耳に届いた僕の声色からも、きっと伝わっているはず。
カッコつけてなんていられない。僕はの前ではカッコ悪くだってなれる。
の前では、完璧な夜神月の仮面を崩してもいい。それでが手に入るならば──僕はプライドだって捨ててみせる。
「僕が他の女の子とキスをするのが嫌だって思って、泣いている。……僕は、そうやって自惚れてもいいのかな」
「……」
「恋をしているわけでもない、ただの幼馴染が…他の女の子とキスしても、何も感じないはずだよね」
僕が他の女の子とキスしたらどう思うか。
その問いかけを聞いて、すぐに電話をきってしまった。
この部屋を尋ねてきたときの様子から言っても、とても普通ではなかった。
──動揺していた。泣いていた……
それはどうして?…こんなの、自惚れないでいられるはずがない。
誰がどうみても、は僕のことを──
「……うん、そう…」
「……」
──すきなのだ。好きだから、僕が他の女の子とキスをするのが嫌だと思った。
それ以外にあり得ないだろう。
の口からは肯定が零れ出る。
「わたし、いつの間にか…こんなに、月くんのことすきだったんだね。…恋を、してたんだ…」
「……あぁ……!」
僕は強くを抱き締めて、けれど抱くだけではこの気持ちが収まりきらず、
の唇にキスを落とした。
「ん、…っ」
何度もの唇を食んだ。けれど息継ぎも出来ないほどの激しいキスではなく、
愛しさを表現する睦合いのようなスキンシップに近かった。
には優しく触れたい。唇が触れ合うことで、幸せだと感じてほしい。満たされてほしい。気持ちいいと思ってほしい。
ガラス細工に触れるように、優しく、優しく。
そうして甘やかしてあげる合間に零れるの声が可愛くて、それに欲情するのは自然な事だった。
僕たちは18歳だ。中学生のうちから性交渉をする男女も珍しくない。
高校一年生の頃から一応、恋人同士のような間柄になって、ずっとキスだけをするプラトニックな関係性を保ち続けてきた。
一般的なカップルだったら、きっとこまま押し倒して、最後まで進めるのだろう。
けれど僕は大学生になっても、自制を続けた。それは…
──が僕に"恋"をしていないと気が付いていたからだ。
キスをしても嫌がらない。異性としては見られる。僕のことをすきでいてくれてる。
けれどその好きが恋情かといえば怪しい所だったし、僕に恋をしてくれていたとして、
きっと僕と同じ濃度で恋をしているという事はないだろう、それくらい察せていた。
だけど…やっとだ。
他の子とキスをされたら悲しいと泣くは、確かに僕に恋をする女の子でしかなかった。
「月くんが他の子と仲良くしてたら…」
ちゅ、とリップ音を立てながら、の額や鼻にキスを落とす。
は恥ずかしがるでもなく、当然のようにそれを享受している。それがとても愛しい。
「──いやだっておもうけど。泣いちゃうくらい悲しくなるけど…でも、信じちゃうかな。
何か意味があってそうしてるんだろうって。…月くん、一途すぎるから。私以外に恋してる姿なんて、想像できない」
「……が自惚れてくれるのが、最高にうれしいよ。僕の恋心を信じてくれてる…それがこんなにも幸せだなんて…」
と触れ合う時間は、いつだって幸せだった。
隣同士歩いて、ふとした瞬間肩が触れるだけでも。手を繋ぐだけでも。
髪に触るだけでも。キスするときも──
けれど。
──僕に恋するとするキスは、こんなにも甘くて、痺れるように気持ちいいものなのか。
もう一度の唇と重ねて、すぐに離す。
心がお互いに通じ合った、特別な相手とする触れ合い。これ以上に幸せな時間はきっとない。
の全幅の信頼が誇らしい──これは僕がつかみ取ったものだ。
のことを好きな人間は山ほどいる。けれどにここまで言わせるほど、愛されてる人間が他にいるか?──僕しかいない──
──あいしてる。
と手を絡め合い、腰に手を回して、至近距離で見つめ合って──
このままだと押し倒してしまいそうだ。
いくら通じ合ったと言っても、僕と同じ種類の気持ち…恋になったというだけで。
体の繋がりを持とうと思えるほどの想いは、まだの中にないだろう。
僕は我ながら名残惜しそうな仕草で緩々と絡み合わせた手を解き、と少し距離を取ってベッドに腰かけた。
そしてそののま視線を合わせないようそらせると、隣のがくすくすと笑っていた。
僕が距離を取ったその意図を理解して、笑っているのだ。
けれど少しも恥ずかしくなかった。
自分が大事にされていると、自覚しているの安心しきった様子が愛しいと思った。
「最近、月くんはずっと忙しくしてたから…二人でゆっくり話すのって、久しぶりだね」
「ん…そう、だね。授業が終わったら、捜査の方にも加わってるから…どうしても、ね」
大学が終わって、捜査本部に向かって、捜査協力をする。
L…捜査本部の面々は、都心のホテルを転々としているので、そこから電車で自宅に帰ろうとすると、それだけでも時間がかかる。
家族にも捜査に協力している事は内緒にする方針を取っているので、遅くなる言い訳としては、「デート」というのが一番当たり障りがなかった。
男友達と遊んでいるといえば「どんな子?どこに行ったの?」と気軽に雑談されてしまうけれど、「デート」と言えば、からかわれても、それ以上は深く問い質そうとはしないだろうから。
そんなこんなで、僕とが過ごす時間が目減りする一方だったのだ。
…これからは、更に減っていくのだろう。
「…流河旱樹…あの人がLって、本当だった?」
「……僕も最初は影武者かと疑っていたけど…、…まあ、色々あってね。彼はL本人だろうとほぼ確信できた」
「…あのひとがL本人だっていうなら、尚更不思議。…なんで私まであの時、テストを受けさせられたんだろう。キラは頭がいい人だと思われてる…でも、私が東大に入れたのは、月くんのおかげだよ?」
「何言ってるんだ。は頭がいいよ、昔からね」
喫茶店で"キラしか知らないことを言わせるテスト"を受けさせられた時もそうだったけど、
は自分の能力を下に見すぎだ。
自分が美人だという自覚がなかった事といい、自分の知性に自覚がないことといい…。
もちろん、きっとは僕が勉強をみなければ、東大には合格しなかったと思う。
だからといって「知性が劣ってる」ということにはならない。
人間の賢さというのは、勉強ができるかできないかだけでは測れない。
物事の本質を見抜く力というのが、には備わっていた。
「…ここで頭のよさを認められると…、月くんも、私がキラだって疑ってるみたいにみえちゃう」
「はは。ごめんごめん。でもがキラだなんて、少しも疑ったことはないよ。…多分…Lが本当に疑ってるのはね、…僕だけなんだよ」
「お父さんが刑事局長で、東大首席入学…しかも全教科満点満点合格しちゃったんだもんね」
「それも大きいだろうね…。…そして、が疑われてるのは、そんな夜神家にほとんど入りびたり、自由に出入りさえ出きて、尚且つ、僕とずっと一緒にいるからだと思うよ。殺人幇助…共犯関係…そういうとわかりやすいかな」
僕が言うと、が表情を曇らせた。
「…やっぱり、そうなんだね。…そんな風に疑われる程一緒にいるんだ…」
視線を落として、何かを思案している。僕はそれをみて、酷く焦った。
「疑われるくらいなら、傍にいない方がいい」そんな理由で万が一にも距離を取られてしまったら、僕は耐えられないだろう。
僕は焦りを表に出さないよう、冷静でいるよう努めて、の片手を取り説得した。
「…だからと言って、僕は疑いを晴らさせるためだけにと距離をおくなんて…そんな理不尽な事はできない。それに、なによりも…」
「…なによりも?」
「……僕が、と離れて過ごすなんてこと…きっと耐えられないから」
握っていたの片手を、自分の額に当てる。
──まるで神に祈るように。懇願するように。
「…離れるなんて、言わないでくれ。」
──どうかお願いだから、言わないでくれ。
僕がそう懇願していると、は空いた片手で、僕の頭を撫でた。
僕はぎゅっとと瞑っていた瞳を開いて、をみる
は柔らかく目を細め、微笑みを湛えていた。
僕はそれがくすぐったくて、の手を下して、今度は絡めとる。
細い指が僕の骨ばった指に絡んで、お互いの体温を分け合ってる。
「…小さいころからずっと一緒で、…賢いは気づいてるはずだよ。…誘拐犯の心理さえ見抜いたんだからね」
の手の甲を撫でてみたり、爪の形をなぞってみたり。
そんなことをしながら、僕は吶々と語り出す。
ずっと言えなかったこと。きっとは気が付いているだろうと悟りつつ、
けれど言葉にしたら軽蔑されてしまう気がして──
は正義感が強く、礼儀正しい完璧な夜神月が好きなのだろう。
でも。きっと今のなら、不完全な僕でも愛してくくれる。そんな確信があった。
「僕が日々退屈だと思っていたこと。…周りの人間を、いつからか、冷めた目でみるようになったこと」
「……うん、なんとなく…」
「でも、そんな風に敏いだからこそ…もしかしたら、僕が思うよりも…ずっと昔から伝わっていたんじゃないかな。ずっと口にはしないようにしていたけど…」
の瞳には、もう涙はなかく、光も揺らいでいない。
その代わり、僕だけが映っている。愚直なまでに一途に、に恋をし続けた男の姿だけが、そこにはある。
「僕はにもうずっと前から恋をしてるんだ。…いや、心から愛してる」
「……」
「僕は、とすごしてる時だけは…この世界や人々が、全部綺麗なものに思えてくるんだよ」
世の中腐ってる。死んだ方がいい人間ばかりだ。退屈な世界──
けれどが傍いるだけど、そんな思想は一気に消え去る。
が僕の瞳に映る、その景色。なんて鮮やかで愛しい──
「……一生手放したくない。今さら手放せないよ」
はその言葉に何の返事もしなかった。
けれど、空いていた距離を縮めて、僕に近づいて──
ベッドに膝をついて、僕を抱きしめた。の胸元に顔を埋めて、僕は無言での背中に手を回した。
「…私は、月くんがすき…。…月くんを、信じてるよ。…何があっても…」
月くんが私に嘘をついた事はないし、傷つけた事もない。
意味のないことをする人じゃない。
「全部、しんじてる」
──僕はその次の日から、弥海砂を始め、ミス東大と呼ばれる高田清美などを筆頭に、
色んな女の子と絡み始めた。
はそんな僕から距離を取り、遠くから見守るようになった。
僕はのその姿は、軽蔑したからではなく、「意味があると事だと信じてる」からこその行動だと理解していた。
愛する人を差し置いてまで、浮気まがいなことをして、罪悪感がないはずがない。
ましてや思いが通じ合った直後だと言うのに。
けれどこれも、うつくしく綺麗な世界を創り、と共に生きるために必要な一手なのだ。
──どうかはそのまま、疑念も抱かず、何も知らないまま、笑っていて。
そんな願いも虚しく。
「夜神くんにとっては嬉しかったり悲しかったりだと思いますが…
弥海砂とを、第二のキラ容疑で確保しました」
は思いもよらない形で、この日を境に、渦中に巻き込まれていくのだった。