第15話
1.人間的な恋うつくしい世界
──は、16歳という若さで、既に二度事件に巻き込まれている。
一度目は、五歳のとき。連続誘拐犯による拉致監禁。
二度目は、16歳のとき。
つまり、つい最近…もっと詳しく言うならば、一ヵ月前の夏の日のことだった。

「明日から夏休みだね」
「そうだね…のうちは、旅行に行くの?」
「ううん、いつものことだけど…お父さんが忙しいから、家族旅行にはいけないんだ」
「はは、そっか。うちも同じようなものだよ。粧裕は不満そうにしてるよ」
「粧裕ちゃんも、もう中学生かあ…遊びたい盛りだよね」

夏の日差しに照らされながら、僕たちは歩いていた。
今日は日曜日。うちにばかり籠っていないで、涼しい図書館にいって、二人で受験勉強をしようという話になっていたのだ。
白いワンピースを着たは、子供みたいな足取りで、僕の前を行った。出来るだけ日差しを避けるようにして、影を捜して歩いているようだ。
白線から降りたら負け!という、小さな頃の遊びを思い出して、僕はくすりと笑った。
は相変わらず、大人びているかと思えば──無邪気な子供みたいなことをする。

そんな道中で、不意に僕の携帯に電話がかかってきた。
着信音に気が付いて、がこちらを振り返る。「ちょっと、ごめんね」と一言断ってから、通話ボタンを押して、携帯を耳にあてた。


「…もしもし?」
『ああ、月?出かけてるところ悪いんだけど、うちに戻ってきてくれないかしら』
「…今、といるんだけど…」
『本当に悪いって思ってるわ、デートの邪魔して…でもお父さんがね、急いで家から資料を持ってきてほしいって、電話してきたの。今朝、今日の会議で使うものを、忘れちゃったんだって』
「父さんらしくないね」
『最近大きな事件にかかりきりで、疲れてるのよ。…それで、母さんも今から、叔母さんの検査入院の手続きに付き添わなきゃならなくて…』
「粧裕は?どうしたの?」
『あの子はまだ学校で補習受けてるわよ。だからちゃんと勉強しなさいって言ったのに…、…おねがい、月にしか頼めないの』
「……はあ。わかったよ、母さん…」
『ごめんね、ちゃんにも謝っておいてね…それじゃ、お母さん外にタクシー待たせてるから…』

我ながら、人を殺しそうな、険しい顔をしている自覚がある。
通話終了ボタンを押すと、僕が電話する姿をじっと見ていたが、にこりと笑った。

「いいよ、私のことは気にしないで、お父さんの所に行ってあげて。きっと困ってるよ」
「…聞こえてたんだ」
「うん。音量、ちょっと大きいかもね」
「…そうかもね。次からは下げておくことにするよ」

には全て事情は筒抜けになっていて、恨み事の一つもこぼさずに、家族を優先しろと言った。

「ごめん…この埋め合わせは、ちゃんとするから。…そうだ。夏休み、息抜きに…二人でどこかに出かけようか」
「あ、それいいね。…楽しみにしてる。…私はこの後、図書館に行って勉強してるから…もし用事が早く済んだら、合流しよっか」
「うん、そうしよう」

が手を振って、僕を送り出す。
僕は一度家に帰り、父の部屋の机の上に置いてあった茶封筒を手に取り、警察庁まで行った。
そして受け付けで、「刑事局夜神総一郎の息子の月です」と身分証を取り出して証明して、手早く荷物を託し、踵を返した。
名前と別れてから、まだ二時間しか経ってない。
今から図書館に向かえば、と合流できるはずだ。
僕は急いで、炎天下の中、走る。夕暮れ時が近づいて、日差しも和らぎ、
いくら涼しくなってきたとはいえ、それでもまだまだ蒸し暑い。
繁華街をすぎて、住宅街を抜けて、集合住宅が密集する区域を抜けて。図書館のある、駅から離れた場所へと急ぐ。
図書館の近くは意図してそう作られているのか、緑が豊かだ。
芝生があり、植木はいつも手入れされている。

けれど図書館の手前には、明らかに人の手が入っていない、雑木林があるのを知ってした。
街中にあるにしては存外広くて、変質者に注意!という看板が立てられている。
その雑木林が見えて来るより前に、パトカーの車体が見えた。
何か事件でもあったのか。
せいぜい、車の衝突事故だろう、と僕は悠長なことを考えていた。

一歩、また一歩と近付くにつれて、僕はその雑木林で何があったのかを一瞬にして理解した。
婦警に背中を支えられながら、土の上にしゃがみこんでいるのは、白いワンピースをどろどろに土で汚した、だった。
いつも手入れされて、綺麗にしている髪は、乱れている。
ほんの二時間前までは、綺麗に身だしなみを整えた状態で、笑っていたのに。


「……月くん」


僕が歩み寄ると、を支えていた婦警や、現場検証を行っていた警官たちが警戒する。
けれど、が僕の名前を呼び、涙で潤んだ瞳をゆらゆらと揺らがせると、その警戒を少し解いた。

「失礼ですが、彼女との関係は?」
「…僕は、この子の…」

恋人です、という間もなく、が僕の胸に飛び込んできた。
肩が震えて、泣いているのがわかった。
その様子をみれば、僕たちの関係性に察しはついたのだろう。
部外者の立ち入りを牽制していた警察官たちも、僕がの傍にいることを許した。
声を殺しながら、小さく嗚咽をもらして泣くを抱きしめていると、胸が痛む。

──もしも神様がいるというなら、どうして僕の大切な子を、こんな目に合わせたのだろう。
──誰よりも純粋なこの子を、汚そうと思ったのだろう。



慌ただしくすぎていった夏休みが終わり、九月になった。
ホームルームが始まる前、休み明けで賑やかだった教室も、僕とが入ると、シンと静まり返る。
近所で起った事件のことなんて、当事者が喋らなくても、どうせ誰ともわからない他人が喋り散らして、噂が広まるのはあっという間のことだっただろう。

けれど僕とは、普段と何も変わらない姿で一日をはすごした。
僕は意識的にそうあるように努めた。けれどは、極めて自然体だった。
いつ爆弾が爆発するかわからない…といった様子で遠巻きにするクラスメイトの心配は、まったくの的外れだ。
──は、自分が性犯罪に巻き込まれかけた事を、とっくに気にしていなかった。
目撃者がいて、通報されて、犯人は現行犯逮捕されて。未遂に終わったからそれでいいと。
吹っ切れているようだった。
僕はそれが信じられなかった。怖い思いをしたであろう事は、泥だらけになって座りこんでいた時ののあの青ざめた表情をみれば、手に取るようにわかる。
そして僕をみつけた瞬間、張りつめていた緊張の糸が切れたのか、あんなに泣いていたというのに。
なのに、当事者が、こんなにも早く立ち直ってる。
──部外者である僕は、薄汚い性欲が理由で綺麗なを汚そうとした犯罪者が、許せなくて、殺したくてたまらない。未だに腸が煮えくり返っていて、気を抜くと爆発しそうだというのに。


「あら月…ちゃんも、おかえりなさい」
「ただいま、母さん」


僕とは、夏休み明け初日の今日も、放課後一瞬に勉強をする約束をしていた。
基本、自宅で勉強をする時は、の部屋ではなく、僕の部屋になる事がほとんどだ。
理由は簡単で、専用に買った椅子があるからだ。
「せっかくだから、使わないともったいないよ」と笑って、喜んで僕の部屋にやってくるのだった。


「えと…ええと。……おじゃまします」
「母さん、が困ってるよ」
「あらごめんね?でもちゃん、もう家族みたいなものじゃない」
「…母さん」
「はいはい、ごゆっくり」

母さんも、の身に起ったことは知っていて、今でもふとした瞬間、眉を寄せて、気落ちしたようにため息をついている姿を目にする。
実の娘のように可愛がっていた女の子が、かわいそうな目にあったこと。
身近なところでこんな陰湿な犯罪が起こったということ。
もしかしたら、巻き込まれたのは粧裕だったかもしれないということ。
色んなことを考えて、今でも落ち込んでいる。
けれど、伊達に刑事の妻をやってる訳ではない。
暗い影をすっかりと胸に隠して、いつも通りの調子で、を温かく出迎えた。
僕と名前は二階に上がり、僕はドアを開いて、名前を自室に招き入れた。


「どうぞ」
「うん、おじゃまします」

母さんが今でも引きずっているように、僕だって引きずっている。
ただし落ち込んでいるのではなく、何度も言うけど…
怒りが収まらない。殺してやりたいという、殺意がとまらないのだ。
──たとえ当事者であるが、もう忘れてしまったのだとしても。傷付いていなくても。
僕はきっと一生忘れない。法の裁きを受けて、罪を償ってほしい。
あの男はどうやら初犯ではなかったため、刑罰は重くなるだろうと踏んでいる。
けれど、死刑になるような類の犯罪ではない。そうと分かっていても、──死刑になるべきだ、死んで償うべきだと。
完全なる私怨から──僕はそう願ってやまない。
二人並んで勉強机に向かえるように、僕は用の椅子を動かした。
そうしていると、背後から、「あ、」という声が聞えて、振り返る。


「どうしたの?」


は僕の本棚をみて、驚いた顔をしている。
どうしたのだろうかと傍に歩み寄ると、はある一点を見つめていた。


「月君の本棚に…ほら、私のすきな小説がある」
「…が面白いって言ってたら、読みたくなって」
「ふふ…でも、月くんにはつまらなかったんじゃないかな?フィクションの、ファンタジーだよ」

確かに、の言った通り、お世辞にも僕にとって、面白いといえる内容ではなかった。
現実ではない、不思議な世界を、登場人物たちがさ迷って、なんて美しい世界なのだろうとしきりに感動する。
青い空がどこまでも広がって、夜には星や月が曇ることなく輝く。
花はあちこちに咲き誇り、湖の水は透明で、まるで作り物のように澄んでいる。

そしてその世界の隅から隅までみつくして、登場人物が、「やはりこの世はうつくしい」と言って、終わる。
美しい世界を描写し、うつくしい人の心情を綴り、うつくしい言葉を登場人物達が語る。
ただそれだけの物語だった。


「…確かに、僕の趣味ではなかったけど…面白かったよ」
「趣味じゃなかったのに?」


が不思議そうに首を傾げる。
僕は背表紙をなぞりながら、うつくしい物語を読んで、うつくしいがどう感じたのか、想像する。


が、読んでいる間に…どのシーンをみて、どんな風に感じたのか…想像しながら読んでいたからね」


そうして想像するだけで、なんだか自分までうつくしく、きれいなものになったような気がして。
決して僕の教養の足しにはならなかったけれど、読書している間の時間は、間違いなく有意義なものであった。

隣で僕を見つめると、ふと視線が合わさった。
──きれいだ。その白い肌も、瞳も、唇も、髪も、つま先まで全部──心さえも。
沈黙、静寂がこの部屋を支配する。
気まずくはない。その証拠に、は視線を逸らさなかったし、表情を変えなかった。
そして──僕の手の甲に、そっと触れてきたのだからら。


「…いいの?」
「いいよ。…月くんのこと、こわいって、思うはずない」


は、この沈黙と、絡み合った視線の意味を、正しく理解していたようだった。
僕はどうやら柄にもなく緊張していたようで、ほっと身体の力を抜くと、の腰に腕を回して、ぐっと引き寄せた。
──そして、唇を重ね合わせる。
僕とが初めてキスをしたのは、入学式の日のこと。あれから、こういう行為をしたのは、数えるほどしかない。
本当は、重ね合わせるだけじゃ物足りない。舌をいれて、めちゃくちゃに乱してやりたい。
それだけじゃないもっと深く繋がり合いたい──
何故それを実行しないのかといえば、理由は単純で。

肌を重ね合わせたいという欲求よりも、を大事にしたい──嫌われれたくない、という気持ちの方が勝っているからに他ならない。
は、キスを嫌がらないくらいには、僕のことを好きでいてくれる。
でも、それ以上を許すほどに、僕を好きなのかは、未だにわからない。
初めてのキスから、もう二年が経って、まるで進歩がないこの状況に、焦燥感がない訳じゃなかった。
もっと強く繋がり合わなければ、がするりと、僕の前から消えてしまうような気がして。
早く、早く…僕だけのものになってほしい。
どうしたらいい?に対して、どれだけ甘い言葉を並べたって、貢物をしたって、無意味だ。
信頼を積み重ねていくしかない──でも、それは、いつまで。


そうしていくうちに、季節は移り変わり、10月。緑は消え去り、すっかり木々は紅葉していた。

──11月28日。

僕はデスノートという一冊のノートを手にした。
死神と出会った。
──弱い物、心の綺麗なものが傷つかないで済む──うつくしい世界を作り上げるための方法を、知った。


2025.8.23