第14話
1.人間的な恋─その恋は許された
──2001年4月。高校の入学式を終えて、 ちゃんのお母さん、僕の母、子供二人の4人で自宅まで戻る。すると、母二人が、鞄の口を開いて、ごそごそと漁り出した。
「はい、 、これ」
「え?」
「はいはい、月もほら、これ」
「…母さん」
僕と ちゃんは、それぞれの母親の手により、一万円ずつお金を握らされていた。
「母さんたちは2人で気楽におうちご飯するから」
「幸子さんとは積もる話もあるしね…二人は外食してきなさい」
そういって、母親二人は夜神家へと入っていった。
ママ友同士、積もる話…とやらを始めるつもりなのだろう。
ちゃんは手のひらの上にお札を見ながら、苦笑いしていた。
「…とりあえず…着替えてこようか。外食するなら、制服だと目立つし、くつろげないし…」
「…そうだね。じゃあ…着替え終わったら、玄関で待っててくれる?ちょっと、待たせちゃうかもしれないけど…」
「いいよ、気にしないで、ゆっくり支度してきて」
「…ありがとう」
女子の支度に時間と手間がかかるという事は、母と妹を見ていれば、よくわかった。
ちゃんは、自分の美醜に気づかなかった割に、昔から、身だしなみに気を遣う方だ。
私服はセンスのいい服ばかりだし、休日は、メイクもしてる。
私服で外食をするとなれば、多分、適当な服と、適当な身だしなみで出かけるなんて、 ちゃんには出来ないと思う。
僕は自分の部屋戻って、制服から私服に着替えるまで、五分もいらなかった。
でも、 ちゃんは五分じゃきかないはずだ。
理由は聞いたことがないけれど… ちゃんのポリシーが許さず、今も整えてるに違いない。
なんとなく、デートに出かける恋人同士の時間をすごしているみたいで、くすぐったかった。
僕に可愛いと思ってもらえるように、着飾ってくれるというなら、何時間だって待てる気がした。
僕の二階の部屋の窓は、道路に面してる。つまり、お向かいの一軒家がよく見える。
ちゃんの部屋も道路側に面しているから、カーテンごしに、ついていた電気が消えたのがみえた。
どうやら支度が終わったらしいと悟り、僕も玄関へ向かう。
「 ちゃんがうちの息子のお嫁さんになってくれたらいいのに──」
「やだ、それをいうならうちの娘だって…あはは!」
リビングを通り過ぎると、母親同士のお喋りが聞えてきた。
玄関に出ると、ちょうど ちゃんも出てきたところで、どこかぎこちない顔をしていることに気が付いた。
僕は玄関から、自分の家のリビングの窓を覗きみた。…開いている。
多分、母親たちの大きな笑い声は、お向かいのうちまで筒抜けだったに違いない。
「月くん、いこうか。何食べたい?」
「うーん… ちゃんはお腹すいてる?」
「うん、お昼食べる暇なかったし…」
「僕もだよ。じゃあ、きちんと食べられるところがいいね…」
喋りながら、僕は ちゃんの横顔をみた。
うっすらと、瞼がきらきらとしていて、唇が色づいて、艶めいていた。
ちゃんは想像通り、薄っすらとメイクをしているようだった。
自分に似合う色や、年相応の施し方というものを、よく心得ているように見えた。
中学生にもなれば、メイクをする女子というのは大部分を占めて来る。
校則は許さないけど、休日は別だ。
男女のグループになって、遊びに出かける機会は、少なくなかった。
その度、僕は女子の"身だしなみ"というものを、冷めてみるようになってしまった。
ある女子は、とにかく露出を増やす服を着ていた。ある女子は、とにかく、頬も、瞼も、唇も、色を濃くしていた。
ある女子は、とにかくフリルの多い、可愛らしい色の服を着ていた。
僕以外の男子たちは、複数の女子たちと、グループになって出かけるという事にはしゃいでいて、女子の身だしなみの善し悪しを気にしている様子もなかった。
僕がそんなことが気になったのは、彼らと違って、遊びにいくという事を、心から楽しんでいなかったからかもしれない。
会話に夢中になって楽しんでいたら、そんな事、気にならなかったに違いない。
「歩いていけるところがいいな」
「そうだね、今日はお互い疲れたからね」
ちゃんは、あまり高くないヒールのパンプスを履いていた。
学校では1つに結っていた髪を下して、シンプルなワンピースを着ていた。
体のラインを強調するものでないけれど、 ちゃんのスタイルのよさを隠すものではない。
膝より下の、露出の低い長い丈のスカートだけど、鎖骨の見えるVネック。
心底、わきまえていると感じた。ほどほどに、年相応に。かといって、地味にならず、魅力的に魅せるように、洗練されている。
僕が今 ちゃんをこうして観察しているのは、決して会話がつまらないからではない。
ちゃんのポリシーはどうあれ…どんなものであれ
「僕と二人で外食にいくために」着飾ってくれたのには違いないのだから。
それが嬉しくて、かわいくて、つい見てしまう。
「それにしても、いくらおめでたい日だからって…高校生に一万円も渡すなんて、びっくりした」
「合わせて二万…ちょっといい所に食べにいけるね」
他愛ない会話をしながら、日が暮れてきた住宅街を歩いて、繁華街へと向かう。
その時、背後から車輪の音が聞えた。咄嗟に ちゃんの肩を抱き寄せると、
ちゃんの脇すれすれのところを、猛スピードで自転車が走り抜けていった。
ここは間違いなく歩行者専用道路で、人二人が並んで歩くスペースくらいしかない。
そこを自転車が我が物顔で走り抜けていった。
僕が ちゃんを引き寄せなかったら、どうなっていたんだろう。
正面からやってきたならまだしも、まさか後ろに目があるわけでもない。
僕たちがどいてくれるとでも思ったのだろうか。…そんなはずがない。隙間を無理にでも縫って進んでいくつもりだったのだろう。
そうなれば、このスペースでは、絶対に ちゃんにぶつかっていた。
「危ないな…あんなスピードで、まして歩道を自転車が走るなんて」
務めて冷静に、怒気を含まないように話した。
腹の中はどうであれ、腕の中にいる ちゃんに、その怒りを見せたくはなかった。
抑えつつではあるものの、口にすると少し怒りが収まって、冷静になった。
そして気が付く。
ちゃんが、僕に身を引き寄せられるどころか…抱きしめられるような格好になっていることを。
「ああ、ごめんね」と言って、何事もなかったかのように、離してあげようと思った。
──その瞬間、ふとある事を思いついた。
僕に抱きしめられたまま、肩口に顔を埋めて、何の抵抗もしない ちゃんをみて、思ったのだ。
──この子は、どこまで僕を許してくれるのだろうか、と。
「… ちゃん、ちょっと寄り道してもいい?」
僕はちょうど右手にあった公園を指さして言った。
頷いてくれた ちゃんの手を引いて、公園内へと踏み入る。
小さいころ、よく遊びに来た公園だった。
家からも近いし、僕と ちゃんは、走り回って遊ぶような子供じゃなかったから、
このくらい手狭な公園でちょうどよかった。
二人でブランコをゆったりと漕ぎながら、のんびりと遊んだ幼少期の記憶がよみがえる。
公園の隅にあるベンチに、隣合って座った。
お互い、何も口にすることなく、ベンチから見える桜吹雪を見つめていた。
夕暮れ空は、夜の空へと色を変えつつあった。
ふわりと、最後に一度、僕たちを撫でるように風が通り抜けて、花が舞う。
隣の ちゃんを見ると、いつかのように、長い髪に花びらを落としていた。
「……髪、花びらがついてる」
何度同じような事を繰り返すのだろうと、僕はくすくすと笑いながら、 ちゃんの髪をさらりと梳いた。
最初は花びらを落として。次に、長い髪を一房手に取り、さらさらと指を通して、流していく。
何度かそれを繰り返し、優しく髪に触れていると、 ちゃんが僕を見上げた。
抱きしめられていたあの時、ずっとなすがままだった ちゃん。
さらさらと髪を梳かれても、目を閉じながら、享受していたままだった ちゃん。
その ちゃんが、何かの意味を持って、僕の瞳をみつめていた。
「……、月くん」
ちゃんは、何か言いかけたけど、そのまま口を閉じて、それ以上を続けなかった。
── ちゃんは、どこまで許してくれる?
僕に恋をしていない ちゃんは、いつ僕のことを好きになってくれる?
どこまで触れていい?肩も、髪も許された。
なら、次は──
緩慢な動作で、 ちゃんの頬にするりと手の平を滑らせる。
そうすると、 ちゃんは、ゆっくりと瞼を閉じて、少しだけ僕の手に頬を寄せた。
これは──許しか、諦めか。
手の平を頬を滑らせて、指の腹を唇の下へなぞらせた。
それでも、何も言わない。瞼を閉じたまま、少しも拒絶することは、なかった。
僕はゆっくりと、 ちゃんの唇に、自分の唇を重ねた。
柔らかい唇が、僕の唇と合わさって──それを、 ちゃんは、許してる。
僕は衝動のままに、唇を食みそうになった自分を律して、そっと離した。
ちゃんの頬に手を添えたまま、その瞼が開かれる瞬間をみていた。
「……いやじゃ、ないの」
鼓動が早鐘を打っている。自分の頬が、熱くなっていることに気が付いている。
もう、 ちゃんには、全てバレている事だろう。
…当たり前だ。甘やかすように髪を梳いて、頬を撫でて、唇を重ねて…
余裕のない表情で、自分をみている男を目の前にすれば。
──夜神月は、 に恋をしている、と。気がつくに違いない。
少しでも嫌そうな素振りをみせれば、その段階でやめるつもりだった。
なんとでも取り繕って、なんでもなかったかのように雑談をして、じゃあそろそろ外食に行こうかと、そうする心づもりだった。
1つ、1つ、実験的に、どこまで許してくれるかと試していた行動は、結局最後まで。
「いやじゃ、なかったよ」
──全て、許されてしまった。
ちゃんは、作り笑いなんかじゃない…心から嬉しそうな笑みを称えて、僕を肯定してくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて、気が付いたら、 ちゃんを抱きしめていた。
「…唇、うつったかも」
「…なにが?」
「 ちゃんのリップ、きっと僕にもうつってる」
「あ、そっか…ごめんね」
「はは、なんで謝るの」
僕はぎゅっと、 ちゃんに回した腕を強めて、もっと深く、胸元に隠すように、抱きしめる。
「…ねえ、 ちゃん」
「なあに?」
「いまさらだけど、 って呼んでいい?…高校生にもなって、ちゃん付けは、ちょっとおかしいかも」
これは、ずっと考えていたことだった。
中学生の時ですら、ちゃん呼びは珍しがられていたけど、
それでも小学校からお同じだった生徒がほとんどだったから、いつしか当たり前のように受け入れられていた。
けれど、同じ中学から、同じ高校へ進学する生徒は多くない。
からかいの種になる事は間違いないたろう。…それに…
多分、僕たちは、これで"恋人同士"になったのだろう。
それなら、関係性が変わったこのタイミングで、呼び方を変えるのは、ごく自然なことだった。
──いや、そんなのは全てただの言い訳で…
僕はただ、彼女と特別な関係になったという、証がほしかったのかもしれない。
「…いいよ。でも私は…月くんのこと、呼び捨てはできないかも」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「…まあ、女の子は、そうかもね。おかしくもないし」
僕は ちゃんを抱きしめて、名前ちゃんと頭をなでながら、くすくすと笑った。
僕の世界は今、輝いていた。大好きな彼女を守りたいと思った。
もう二度と傷付かないように、大事にしたいと。
恋は宝物のようなものだと笑った彼女がそのままであれる、綺麗な世界で生かしてあげたいと、愛しく思った。
──そして、高校三年生の秋のこと。
僕は、世界を大きく改革し、掌握する力を手にいれたのだった。
1.人間的な恋─その恋は許された
──2001年4月。高校の入学式を終えて、 ちゃんのお母さん、僕の母、子供二人の4人で自宅まで戻る。すると、母二人が、鞄の口を開いて、ごそごそと漁り出した。
「はい、 、これ」
「え?」
「はいはい、月もほら、これ」
「…母さん」
僕と ちゃんは、それぞれの母親の手により、一万円ずつお金を握らされていた。
「母さんたちは2人で気楽におうちご飯するから」
「幸子さんとは積もる話もあるしね…二人は外食してきなさい」
そういって、母親二人は夜神家へと入っていった。
ママ友同士、積もる話…とやらを始めるつもりなのだろう。
ちゃんは手のひらの上にお札を見ながら、苦笑いしていた。
「…とりあえず…着替えてこようか。外食するなら、制服だと目立つし、くつろげないし…」
「…そうだね。じゃあ…着替え終わったら、玄関で待っててくれる?ちょっと、待たせちゃうかもしれないけど…」
「いいよ、気にしないで、ゆっくり支度してきて」
「…ありがとう」
女子の支度に時間と手間がかかるという事は、母と妹を見ていれば、よくわかった。
ちゃんは、自分の美醜に気づかなかった割に、昔から、身だしなみに気を遣う方だ。
私服はセンスのいい服ばかりだし、休日は、メイクもしてる。
私服で外食をするとなれば、多分、適当な服と、適当な身だしなみで出かけるなんて、 ちゃんには出来ないと思う。
僕は自分の部屋戻って、制服から私服に着替えるまで、五分もいらなかった。
でも、 ちゃんは五分じゃきかないはずだ。
理由は聞いたことがないけれど… ちゃんのポリシーが許さず、今も整えてるに違いない。
なんとなく、デートに出かける恋人同士の時間をすごしているみたいで、くすぐったかった。
僕に可愛いと思ってもらえるように、着飾ってくれるというなら、何時間だって待てる気がした。
僕の二階の部屋の窓は、道路に面してる。つまり、お向かいの一軒家がよく見える。
ちゃんの部屋も道路側に面しているから、カーテンごしに、ついていた電気が消えたのがみえた。
どうやら支度が終わったらしいと悟り、僕も玄関へ向かう。
「 ちゃんがうちの息子のお嫁さんになってくれたらいいのに──」
「やだ、それをいうならうちの娘だって…あはは!」
リビングを通り過ぎると、母親同士のお喋りが聞えてきた。
玄関に出ると、ちょうど ちゃんも出てきたところで、どこかぎこちない顔をしていることに気が付いた。
僕は玄関から、自分の家のリビングの窓を覗きみた。…開いている。
多分、母親たちの大きな笑い声は、お向かいのうちまで筒抜けだったに違いない。
「月くん、いこうか。何食べたい?」
「うーん… ちゃんはお腹すいてる?」
「うん、お昼食べる暇なかったし…」
「僕もだよ。じゃあ、きちんと食べられるところがいいね…」
喋りながら、僕は ちゃんの横顔をみた。
うっすらと、瞼がきらきらとしていて、唇が色づいて、艶めいていた。
ちゃんは想像通り、薄っすらとメイクをしているようだった。
自分に似合う色や、年相応の施し方というものを、よく心得ているように見えた。
中学生にもなれば、メイクをする女子というのは大部分を占めて来る。
校則は許さないけど、休日は別だ。
男女のグループになって、遊びに出かける機会は、少なくなかった。
その度、僕は女子の"身だしなみ"というものを、冷めてみるようになってしまった。
ある女子は、とにかく露出を増やす服を着ていた。ある女子は、とにかく、頬も、瞼も、唇も、色を濃くしていた。
ある女子は、とにかくフリルの多い、可愛らしい色の服を着ていた。
僕以外の男子たちは、複数の女子たちと、グループになって出かけるという事にはしゃいでいて、女子の身だしなみの善し悪しを気にしている様子もなかった。
僕がそんなことが気になったのは、彼らと違って、遊びにいくという事を、心から楽しんでいなかったからかもしれない。
会話に夢中になって楽しんでいたら、そんな事、気にならなかったに違いない。
「歩いていけるところがいいな」
「そうだね、今日はお互い疲れたからね」
ちゃんは、あまり高くないヒールのパンプスを履いていた。
学校では1つに結っていた髪を下して、シンプルなワンピースを着ていた。
体のラインを強調するものでないけれど、 ちゃんのスタイルのよさを隠すものではない。
膝より下の、露出の低い長い丈のスカートだけど、鎖骨の見えるVネック。
心底、わきまえていると感じた。ほどほどに、年相応に。かといって、地味にならず、魅力的に魅せるように、洗練されている。
僕が今 ちゃんをこうして観察しているのは、決して会話がつまらないからではない。
ちゃんのポリシーはどうあれ…どんなものであれ
「僕と二人で外食にいくために」着飾ってくれたのには違いないのだから。
それが嬉しくて、かわいくて、つい見てしまう。
「それにしても、いくらおめでたい日だからって…高校生に一万円も渡すなんて、びっくりした」
「合わせて二万…ちょっといい所に食べにいけるね」
他愛ない会話をしながら、日が暮れてきた住宅街を歩いて、繁華街へと向かう。
その時、背後から車輪の音が聞えた。咄嗟に ちゃんの肩を抱き寄せると、
ちゃんの脇すれすれのところを、猛スピードで自転車が走り抜けていった。
ここは間違いなく歩行者専用道路で、人二人が並んで歩くスペースくらいしかない。
そこを自転車が我が物顔で走り抜けていった。
僕が ちゃんを引き寄せなかったら、どうなっていたんだろう。
正面からやってきたならまだしも、まさか後ろに目があるわけでもない。
僕たちがどいてくれるとでも思ったのだろうか。…そんなはずがない。隙間を無理にでも縫って進んでいくつもりだったのだろう。
そうなれば、このスペースでは、絶対に ちゃんにぶつかっていた。
「危ないな…あんなスピードで、まして歩道を自転車が走るなんて」
務めて冷静に、怒気を含まないように話した。
腹の中はどうであれ、腕の中にいる ちゃんに、その怒りを見せたくはなかった。
抑えつつではあるものの、口にすると少し怒りが収まって、冷静になった。
そして気が付く。
ちゃんが、僕に身を引き寄せられるどころか…抱きしめられるような格好になっていることを。
「ああ、ごめんね」と言って、何事もなかったかのように、離してあげようと思った。
──その瞬間、ふとある事を思いついた。
僕に抱きしめられたまま、肩口に顔を埋めて、何の抵抗もしない ちゃんをみて、思ったのだ。
──この子は、どこまで僕を許してくれるのだろうか、と。
「… ちゃん、ちょっと寄り道してもいい?」
僕はちょうど右手にあった公園を指さして言った。
頷いてくれた ちゃんの手を引いて、公園内へと踏み入る。
小さいころ、よく遊びに来た公園だった。
家からも近いし、僕と ちゃんは、走り回って遊ぶような子供じゃなかったから、
このくらい手狭な公園でちょうどよかった。
二人でブランコをゆったりと漕ぎながら、のんびりと遊んだ幼少期の記憶がよみがえる。
公園の隅にあるベンチに、隣合って座った。
お互い、何も口にすることなく、ベンチから見える桜吹雪を見つめていた。
夕暮れ空は、夜の空へと色を変えつつあった。
ふわりと、最後に一度、僕たちを撫でるように風が通り抜けて、花が舞う。
隣の ちゃんを見ると、いつかのように、長い髪に花びらを落としていた。
「……髪、花びらがついてる」
何度同じような事を繰り返すのだろうと、僕はくすくすと笑いながら、 ちゃんの髪をさらりと梳いた。
最初は花びらを落として。次に、長い髪を一房手に取り、さらさらと指を通して、流していく。
何度かそれを繰り返し、優しく髪に触れていると、 ちゃんが僕を見上げた。
抱きしめられていたあの時、ずっとなすがままだった ちゃん。
さらさらと髪を梳かれても、目を閉じながら、享受していたままだった ちゃん。
その ちゃんが、何かの意味を持って、僕の瞳をみつめていた。
「……、月くん」
ちゃんは、何か言いかけたけど、そのまま口を閉じて、それ以上を続けなかった。
── ちゃんは、どこまで許してくれる?
僕に恋をしていない ちゃんは、いつ僕のことを好きになってくれる?
どこまで触れていい?肩も、髪も許された。
なら、次は──
緩慢な動作で、 ちゃんの頬にするりと手の平を滑らせる。
そうすると、 ちゃんは、ゆっくりと瞼を閉じて、少しだけ僕の手に頬を寄せた。
これは──許しか、諦めか。
手の平を頬を滑らせて、指の腹を唇の下へなぞらせた。
それでも、何も言わない。瞼を閉じたまま、少しも拒絶することは、なかった。
僕はゆっくりと、 ちゃんの唇に、自分の唇を重ねた。
柔らかい唇が、僕の唇と合わさって──それを、 ちゃんは、許してる。
僕は衝動のままに、唇を食みそうになった自分を律して、そっと離した。
ちゃんの頬に手を添えたまま、その瞼が開かれる瞬間をみていた。
「……いやじゃ、ないの」
鼓動が早鐘を打っている。自分の頬が、熱くなっていることに気が付いている。
もう、 ちゃんには、全てバレている事だろう。
…当たり前だ。甘やかすように髪を梳いて、頬を撫でて、唇を重ねて…
余裕のない表情で、自分をみている男を目の前にすれば。
──夜神月は、 に恋をしている、と。気がつくに違いない。
少しでも嫌そうな素振りをみせれば、その段階でやめるつもりだった。
なんとでも取り繕って、なんでもなかったかのように雑談をして、じゃあそろそろ外食に行こうかと、そうする心づもりだった。
1つ、1つ、実験的に、どこまで許してくれるかと試していた行動は、結局最後まで。
「いやじゃ、なかったよ」
──全て、許されてしまった。
ちゃんは、作り笑いなんかじゃない…心から嬉しそうな笑みを称えて、僕を肯定してくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて、気が付いたら、 ちゃんを抱きしめていた。
「…唇、うつったかも」
「…なにが?」
「 ちゃんのリップ、きっと僕にもうつってる」
「あ、そっか…ごめんね」
「はは、なんで謝るの」
僕はぎゅっと、 ちゃんに回した腕を強めて、もっと深く、胸元に隠すように、抱きしめる。
「…ねえ、 ちゃん」
「なあに?」
「いまさらだけど、 って呼んでいい?…高校生にもなって、ちゃん付けは、ちょっとおかしいかも」
これは、ずっと考えていたことだった。
中学生の時ですら、ちゃん呼びは珍しがられていたけど、
それでも小学校からお同じだった生徒がほとんどだったから、いつしか当たり前のように受け入れられていた。
けれど、同じ中学から、同じ高校へ進学する生徒は多くない。
からかいの種になる事は間違いないたろう。…それに…
多分、僕たちは、これで"恋人同士"になったのだろう。
それなら、関係性が変わったこのタイミングで、呼び方を変えるのは、ごく自然なことだった。
──いや、そんなのは全てただの言い訳で…
僕はただ、彼女と特別な関係になったという、証がほしかったのかもしれない。
「…いいよ。でも私は…月くんのこと、呼び捨てはできないかも」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「…まあ、女の子は、そうかもね。おかしくもないし」
僕は ちゃんを抱きしめて、名前ちゃんと頭をなでながら、くすくすと笑った。
僕の世界は今、輝いていた。大好きな彼女を守りたいと思った。
もう二度と傷付かないように、大事にしたいと。
恋は宝物のようなものだと笑った彼女がそのままであれる、綺麗な世界で生かしてあげたいと、愛しく思った。
──そして、高校三年生の秋のこと。
僕は、世界を大きく改革し、掌握する力を手にいれたのだった。