第四十四話
5.恋情上手くやってる2


ラッシュのピークも越えて、人もまばらな列車の中。ユーリが閑散とした電車の座席で居眠りしていると、声をかけてくるものがいた。

「ユーリ!」
「はっ!?姉さん!?」

一瞬で飛び起きて目を開くと、そこには敬愛する姉の姿があった。
ヨルは隣に腰かけながら、笑顔でユーリに話しかける。

「珍しいねこの電車で」
「ああうん、ちょっと出張の帰りでね」
「おつかれさま」

出張とはなんとも便利な言葉である。いつもは使わない電車を使っていても、それだけで納得される。本当は外交官として出張しに行っていたのではなく、政治犯の逮捕をしてきた帰りのユーリは、平然と姉に嘘をついていた。


「ウチでご飯でも食べてく?」
「いいのかい!?」


思わぬ提案を聞いて、眼を輝かせたユーリ。しかしすぐに踏みとどまる。


「…あーいや、やっぱりやめとくよ…家にはがいるし。今日帰るって連絡したから、たぶん夕飯を作ってくれてると思う」
「あら、それなら帰らないとね」

ユーリは家に残してきたのことを思い出しながらこう付け足した。

「それと、姉さんの家にはロッティがいるし、それにまだ仕事が残ってるしね」
「んもう、いつになったら仲良くなってくれるの」
「仲良くしない」

盗聴記録の整理という仕事が山になっているという事実と、いけ好かないロイドという頭痛の種を思いだしつつ、ユーリは丁重に断った。

「家ではがきちんとしてくれてるでしょうけど…ちゃんとお仕事中もご飯食べてる?靴下も脱ぎっぱなしはダメですよ?」
「姉さんボクもう子供じゃないよ…」

姉が心配しているのは、自立した社会人への心配というよりも、幼い子供の粗相を心配しているかのようだ。ユーリはおかしくなって、少し笑ってしまった。

「そう…そうよね…」


ヨルはどこか曖昧な表情をして、ぼんやりとした返事をした。
「フォーグ広場ーフォーグ広場ー」というアナウンスが車内に響いたのを合図に、ユーリは座席から立ち上がった。


「いつまでも姉さんに甘えてばかりじゃいられないからね」


仕事で精神的に疲れ、──いけ好かないロイドがいると分かっていながらして──ヨルの元に尋ねて行ったばかりだ。
その手前、若干言い辛くはなったものの…実際、姉が心配するほど、ユーリ自身はもう子供ではないと思っている。


「姉さんこそ、何かあっちたらボクを頼ってよ。じゃあまた」


ロッティならすぐに処刑してあげるから、という付け足しは、ユーリの心の中に留められた。
姉との逢瀬を分かつアナウンスと、無情にもあっさりと開いた扉が憎らしく感じる。
しかしダダをこねず、理性でもってして潜り、さよならと手を振ることができたのは、ユーリがもう大人だからである。
ヨルもその聞き分けのいい姿を見ると、安心したように笑顔を浮かべ、動き出した車内から、窓の外に見えるユーリに手を振った。
ユーリは姉の乗った電車が離れて、姉から自分が見えない距離まで発進したのを見るや否や、涙ぐんで思わず全力で追いかけていた。
聞き分けのいい大人のふりを演じたものの、本当は姉を引き留めたかったのだ。
もう子供じゃない…しかし、大人のふりを演じられるだけには"大人"になったのだ。
そう自分に言い聞かせながら、ホームから離れる。
そして駅を抜けて、のいる家への道を歩き出す。

着実に、姉に頼ってもらえるほどの、余裕のある大人になっている。自分は上手くやってる。
そういう実感と慢心がこの時のユーリにはあった。
──だからこそ、気づけなかった。自分の発言がきっかけで、が"どう思っているか"という事を。
その日の晩は、普通にに出迎えられ、普通に食卓を囲み、普通に就寝し、翌朝普通に起床した。
しかし爆弾というのは、不意を突くように降ってくるものだ。
ヨルとのこの会話は、その前兆だったのかもしれない。
ついにの不満が爆発したのは、それから数日先の深夜のことだった。

***

ユーリが深夜に帰宅して、リビングの机に書類を広げていると、カチャリと扉が開く音がした。


「…あ、おかえり」


この家には二人しか住んでいない。十中八九だろうとは思いつつも、こんな深夜に起きてくるというのは予想外で、驚いた。
もしかして物音で起こしてしまったのかと思いつつ、しかし"仕事"で気配を殺し、ターゲットにも気づかれないように気を配る事には慣れてる。
そんなユーリが細心の注意を払ったというのに、起こしてしまったなんて、あり得るのか…などと色々な事を考えていた。


「早いね、聞いてた予定よりも…帰るのが…」

そのせいで、その時のユーリはどこか上の空になっていた。
ソファーに座るユーリに近づいてきたの方を振り返りながら、ユーリは何も考えず、ただ本音をそのまま告げた。

「ああ、…早くに会いたくて」

それを聞くと、は沈黙してしまった。
ユーリは何も繕わなかった。嘘をつかず、本当の事を話した。それが故に、何故がしんと静まってしまったのかがわからず、拍子抜けしてしまった。

──嘘をつかないことが、必ずしも功を制すわけではない。
──本音を言う事が、必ずしも"善い"ことなのではない。

本当のことを打ち明けて傷付くのが怖い…と思っている節があるというのに。
ユーリはその境界線が曖昧になっていた。
元から愛を伝える事に躊躇いのない、直情的な性格をしていることが、事態を悪化させる一因となっていた。
いくら控えるように意識していても、先天的なその性格のせいで、口からはどうしてもストレートな愛情表現が零れ出るのだ。
幼い頃から、両親や姉に、その過剰すぎる愛情表現を拒まれたり、咎められた事がない。

──だから、の不満に気が付けなかった。
はそっとユーリの元に近寄ってきて、ユーリと目線を合わせるようにして、絨毯の上にぺたんと座りこんだ。

「──私も早く、ユーリに会いたかったよ」

それは、先ほどユーリが告げた言葉の応酬にすぎなかった。
それなのに、ユーリは酷く驚いた。それと同時にハッと自覚した。
──相手に言われて、驚いてしまうようなストレートな発言を…自分も口にしたのだということを。
気が付いた頃にはもう遅く、の口からは次々にストレートな愛情表現が零れ出る。


「会えなくて、寂しかった」


は花のように表情を綻ばせ、ユーリにそう告げる。
いつもならば嬉しくて舞い上がっていたかもしれない。きっと天使のようだと褒めたたえた事だろう。けれど今のは天使どころか、小悪魔のようだ。
どこかユーリを試しているようで、素直に舞い上がれない。


「……それ、は」
「それは?」


しどろもどろになると、は少し腰を上げて、ユーリの方に手を伸ばした。
そしてユーリの頬にそっと手の平を当てて、じっと目を合わせ続ける。
小首をかしげながら、酷く冷静に、ユーリに尋ね続けた。
ユーリは硬直して何も答えることが出来ず、どうしようかと考えていた所で、が動き出した。
がユーリを抱きしめようとして、体に腕を回してきたのだ。
その手首を反射的に掴んで、必死に留める。

「なん、で、こんなこと!」
「なんでって…」


しどろもどろに焦ったユーリが問うと、そこで初めてがひんやりとした冷静さを崩して、目を細めた。
硬質だった声色は少し気が抜けたようなものに変わる。──どうやら自分は呆れられているらしい、と知る。

「──ユーリが好きだから」
「…ッ!?」


がいつもの調子に戻った事に安心したのも束の間のこと。
はいつもの柔らかい口調で、ユーリに大きな爆弾を落としていった。
そしてするりと立ち上がると、唖然とするユーリを見下ろした。

「お茶はいる?」
「…い、いや…いい、もう寝るから、その…」
「そっか。じゃあ私も寝ようかな」
「あ、ああ…」
「おやすみ」
「うん、おやすみ…」

そしてユーリに背を向けて、いつもと変わらぬ足取りで、すんなりと自室へと去っていった。


「──どこが、上手く…」


──やってる、というのだろうか。
ユーリは顔を抑えて項垂れる。思わず俯くと、眼前に山のような書類が広がる。
しかし鍛えられている自分は、気がそぞろになるという事もなく、こんな状態でも尚この仕事をやり遂げてしまうのだろうなと察せられた。
ある意味、公私混同するような事はなく、上手くやれる大人になれたのかもしれない。
けれど、相手にした時のユーリは、全然上手くはやれてない。きっとどこかで悪手を打ったのだと嫌でも察せた。

きっとユーリは間違いなく試されていたのだ。
本当は明日の昼間に帰る予定だったところを、前倒しで帰宅した。
朝、すぐにでもに会いたくて、無茶なスケジュールで帰ってきてしまった。
その事実を明け透けに語って、その後なされた応酬があれなのだ。

「会いたかったから」「好きだから」

──こんな風に言われたら、あなたはどういう風に感じるの?

無言でそう問われていたような気がしてならない。
その答えはもう決まってる。


「……めちゃくちゃ恥ずかしい…」


──そして、嬉しい。まるでその言葉通り、自分が相手に求められているようで。愛されているようで。が、自分に恋をしているように感じて。
とても嬉しくて、恥ずかしい。
そこで初めて、自分が普段からこのような発言を繰り返していた事に気が付く。
フォージャー家からの帰り道などで、意図的にそういう発言をした事もあった。
けれど常日頃、無意識に自分から零れ出た愛情表現がいくつあった事だろう。
最初は突き飛ばされる事すら覚悟していた割に、受け入れられた事に安心して、存分にハグをさせてもらった事もあった。
しかしいざ自分がソレをされそうになったら、その細い腕を掴んで拒絶した。
これのどこが大人だというのか。全然上手くやれてない。

──もしあのまま素直に抱きしめられていたなら…
もし、あの時のように、もう一度、"名前が"好きだと言えたなら。


「……絶対試されてる」


あの時は気が付かなかった自分の発言の迂闊さに、今さらに気が付く。
ユーリはスキンシップが好きで、に触れるのが好き。
そしてが好きだ。臆病になっているという割には、最早過剰なほどに愛を語り切っている。
ならばユーリが答えるべきは、残すところあと一つ。
が今疑問に思っているであろう、根本的な事だけだ。
ユーリがに対して抱いている好きの種類について。

──その好きは、果たして「恋」であるかという疑問に答えるのみである。


2025.10.21