第55話
3.物語の中心部─『結末』のその前に
──2004年10月28日。
火口さんを確保した事により、キラとしての殺しの法則がより詳しくわかったようだ。
その結果、「と弥海砂は第二のキラではない」「関与していない」という確固たる証拠が出たらしい。
2日に渡る審議が行われた結果、10月30日。
私とミサの監視が解かれ、完全に解放される事となった。
「ミサミサともお別れかー…」
それを心底惜しんでいたのは松田さんである。途中で模木さんと交代したものの──
松田さんは初代マネージャーとしてミサについてからというもの、愛着がわいたようだった。
私が見学に行ったり、モデルや端役女優として現場に出たのは、思い返せば数えられるほどの回数でしかない。
けれど、松田さんがミサのマネージャーとして現場に同行したのは、数えきれないほどだっただろう。
刑事として監視をする傍ら、マネージャーという仕事も真面目にこなしていた。その分ミサと別れる事に対する寂しさはひとしおだろうと思う。
「…──それじゃあ、荷物もまとめたし。私、もう出るね」
元々ミサと私はここが自宅ではない。仮宿のようなもので、必要最小限の荷物しか持っていなかった。
それに加え、私は基本引きこもっていたし、療養期間も長かった。
なので、ミサに比べるとより荷物は少ないだろう。
荷造りはあっと言う間に終わった。そういう事情もあり、私は早めに捜査本部とお別れする事にした。
ミサと本部の皆…。特に、松田さんと月くんとのお別れの時間を作ってあげたかったし。
それに──天使様も言ってた。
『ミサ、より、も。はや、く』と。拙い声で、必死に伝えてきたのだ。
だから、私がこの本部を出る事に一抹の寂しさは感じれど、後ろ髪を引かれることはなかった。
みんな監視対象である私に対しても、親切にしてくれた。ミサとは友達になれたし、ここの皆が私にとっての大事な人たちになった。
けれどこの別れは悲しくなんてない。
だって──これは、"正しい道"に違いないのだから。
「皆さん。今までお世話になりました」
ミサの自室には既に訪問していて、個別に別れは済ませてきた。後は本部の皆だけだ。
メインルームに向かい、私が深々と頭を下げると、本部の皆は少し驚いた用意を見せた。
こんなにも手早く荷物をまとめ、朝一で自宅へ戻ろうとするとは思わなかったのだろう。
皆の予想よりも私との別れが早く訪れた事で、どう反応していいのか分からない様子だった。
──竜崎くん一人を覗いては。
「……他の方々はともかくとして…月くんとの別れが寂しくないんですか?」
いつも通り椅子に座りつつ、竜崎くんは言った。
しかし、今回は珍しく椅子から立ち上がって、じっと私に近づいてきた。
その上で、いつものようにずいっと顔を近づけながら言ったのだった。
竜崎くんのこの人を驚かせる癖にも慣れてきてしまった。
私はその至近距離を保ったまま、瞳をぱちぱちと瞬かせた。
決して竜崎くんの反応に引いているのではなく、どういう意味かわからず、きょとんとしてしまったのだ。
「月くんは捜査のために、本部に暫く留まるそうです。今までのように、"お向かいさんの幼馴染"として、大学に戻ることは暫くありませんよ」
「ああ…そういうこと」
それは初耳だったけど、しかし想定内の事ではあった。
火口さんというキラが捕まり、私とミサの容疑は張れた。けれどキラ捜査本部が「解散」という事にはなっていない。
という事は、まだ探るべき事が残ってるのだろう。であれば、正義感の強い月くんが残らない訳がない。
それよりも…
「…竜崎くんちょっと近いかな」
「そうでしたか?」
「そうでした。わざとやってるのかと思ってたけど、無意識だったんだね」
竜崎くんの肩を少し押して、距離を取りつつ笑う。
竜崎くんの背後でこちらを見守っている月くんが、また拳でも振りいそうな勢いで苛立ってるのが見えたのだ。
まずは距離を取ってもらわないと、答えられない。
…そうとは私も口では言いつつも、多分竜崎くんの"コレ"は無意識と意識的の半々だろうと私は睨んでいる。
私は正常な距離感を保つことに成功すると、竜崎くんに笑いかけた。
「それでも、永遠の別れってわけじゃないんだし…捜査も大きな進展があったんでしょう?いいことだと思う」
「…そうですね」
「別れがたいっていう話なら…、私は竜崎くんとさよならする方が寂しいかな。本部の皆や月くんにはいずれ会えるかもしれないけど…。…でも、竜崎くんは簡単に会えるような人じゃないんでしょう?」
私がくすくすと笑うと、竜崎くんはなんだか微妙そうな顔をしていた。
「そういう事を言わないでください。私は夜神くんに恨まれたくはありません」
「……竜崎。僕はこれくらいで妬く程狭量な男じゃないぞ」
「どうでしょう。鏡で自分の顔を見てから言ってみてください」
月くんが明らかに不機嫌そうにしているのを見て、竜崎くんがそれにツッコミを入れる。
いつもと変わらないやり取りをみて、私は思わず吹き出してしまった。
──ああ、確かに別れがたい。名残惜しい。
でも終わりは決して悲しい事じゃない。
一番悲しいのは、未完で終わる物語。そして一番不幸なのは、物語が"壊れる"こと──
──だとしたら。
「色々あったけど…楽しかったよ。今までありがとう…。……ばいばい、竜崎くん」
私は穏やかな笑顔を湛えながら、竜崎くんへ手を振る。
そしてそのまま踵を返し、二度と振り返らなかった。竜崎くんが最後どんな表情をしていたのか、見る事は叶わなかった。
無事に物語が終わりを迎えようとしている今。私が感じるべきは寂しさでも郷愁でもない。
めいいっぱいの、幸福感であるべきだ。
私は心から多幸感で満ち溢れた笑顔で、彼らにさよならを告げられた。
竜崎くんと二度と会えなくなったとして…
この物語の世界のどこかで生きていてくれるなら──
──それ以上、私は望まない。今私は、幸福だ。
***
懐かしの我が家は、もう目の前にあった。
私の肩にはボストンバッグと、小さなハンドバックがある。
そこから鍵を取り出し差し込むと、施錠を開けて玄関を潜った。
「……ただいま」
私は少しだけ緊張していた。玄関にはお母さんのパンプスが並べてあって、在宅である事が伺えた。
気付いてもらいたくて声を出したのに…心のどこかで不安な気持ちがあったのだろう。
思わず声が小さく、か細くなってしまう。
けれと、お母さんの耳には十分に届いたらしい。
リビングからお母さんが顔を出しすと、「あら、、おかえり」といつもと変わらぬ調子で挨拶してきた。
──想像していた反応と全く違う。怒られるのを覚悟していたというのに。
私は拍子抜けして、それ以上の言葉が出てこなくなってしまった。
「随分短い駆け落ちだったわね。2人で楽しんできた?どこに旅行行ってたの?」
まるで学校から帰ってきた娘を迎えいれるかのような、あまりに気軽な出迎えだ。
私は5月末から10月末の今日まで、一度も連絡を入れず、この家に帰らなかったというのに。
せっかく受かった大学も休学して、両親に相談する事なく、月くんと二人で「駆け落ち」をしたという事になっている。
将来のことを考えない、あまりに無策な若い行動に、親は当然怒るだろうと思った。
けれど母親は怒るどころか、楽しそうだ。
「ようやく月くんとくっついたのね?お母さんたち、ずっと待ってたのにじれったかったわ…何もこんな形で駆け落ちしなくても、普通に離せば夜神さんのお父さんも納得してくれたわよ、馬鹿ね」
お母さんは何も気にした様子がない。それどころか、笑い話にしている。
だから私もそれに合わせて、へらりと笑顔を作る。
「あ、はは…そう、かもね」
「あ、晩御飯なにがいい?」
「……カレー」
「了解ー」
まるで昨日の続きが始まったような感じだ。
監禁・軟禁された事は夢の中の話で、昨日までの私は普通に大学に行って、普通に今帰宅した。そして普通に、今日の晩御飯について話し合っている。
まるで狐につままれたような感覚に陥りながら、階段を上がって自室に戻り、荷物を置いてからベッドに座りこんだ。
家具の配置も、何も変わっていない。掃除は毎日していてくれたようで、埃一つなかった。
机の上で開きっぱなしになっていた大学ノートも、転がったままのシャープペンも、そのままだ。
座りこんだまま、ぼーっと部屋を眺めていると。
「……天使様」
普段背後で見守ってくれてる天使様が、珍しく正面に回って無言で見つめてきた。
こういう時は、監視の目や、人目がないという証。堂々と私の声で、天使様に語り掛けていいという合図だった。
「…天使様。もうこれで大丈夫なんだよね。私、ちゃんとできた?」
天使様はこくりと頷いた。私はほっと安心して、胸をなでおろす。
私は考える。ある日突然天使様が現れ、物語が始まり、監視カメラが設置され。
そして突如第二のキラ容疑で監禁され、しかし無事に容疑は晴れて、今日に至った。
それは、捜査本部の皆の助力と、月くん、竜崎くん二人の尽力があってこその成果だ。
「…キラは、火口さんだった。竜崎くん…"L"と"月くん"二人でそれを捕まえた。…これで、ハッピーエンド…正義は勝つ。……そういう結末なのかな」
独り言のように言うと、天使様は私の机の引き出しから一冊のノートを取り出した。
天使様がくれた"例のノート"ではない。あのノートは、博識な天使様の指示の元、絶対に誰にも見つからない場所に隠してある。
今天使様の手の中にあるのは、ただのルーズリーフだ。
ペン立てからペンを持ち、さらさらと綺麗な字を書き綴る。
『少しだけ、あたしと話をしましょう』
達筆な日本語で書かれたその字は、いつ見ても美しい。机の上の勉強用に使用中の大学ノートを使わなかったのは、天使様の配慮だろう。
そういう気配りができるところも、天使様を信頼する一因だ。
明らかに人の理から外れた存在であるというのに、人間以上に人間的で、優しい。
「天使様…天使様は、言葉も字もきれいだね」
監視の目がない間──天使様と出会ってからは、毎晩のように寝るまで語り合ったものだ。
手話を覚えるための練習と称して訓練しつつ、たくさんお互いに関する質問をし合った。
時には恋の話をする事もあったし、何が嫌いで何が好きか、お互いを知る時間を沢山作った。
──天使様は綺麗なものがすき。正しいものがすき。信念を重んじる。言葉遣いは、いつも丁寧。この世界は醜くも美しくて、でもそんな世界を愛してる──
『……あなたはあたしを天使と言ってくれるけど。…あたしは今まで出会った人の中で、あなたほど無垢で天使のような子に出会ったことはないわ』
天使様はサラサラと文字を綴って、私にノートを開いて見せてくれる。
私は天使様に言われた事にびっくりして。瞬きを繰り返してしまった。
本物の天使に天使だと評される。そんな特異な事が、この人生で起ると思わなかった。
「…それは、褒め過ぎじゃないかな…?」
私はあまりに大それた過大評価に自惚れる事が出来ず、眉を下げ、困ってしまった。
けれど天使様は首を横に振り、尚も否定する。
そして、「天使のような子」と評される以上に驚くべき発言をしたのだった。
『──そんな事はない。あなたは誰よりも純粋よ。…あなたは喜ばないかもしれないけど。あなたのその無垢さで、物語は大きく変化したわ』
「……え……?」
私は愕然として、言葉を無くてしまった。その言葉の真意を頭が理解するよりも早く、ぶるりと体が震えて、思わずバッと両腕で体を抱きしめた。
腕は鳥肌が立っていて、一気に部屋の温度が下がったかのような、そんな感覚がしていた。
天使様の発言は、まるで私を奈落の底に突き落とすも同然のものだった。
私はいつだって物語の世界であるという事を重要視して生きてきたし、それを壊さないように努めて生きてきたのだ。
そうして生きるうち、主人公である夜神月という青年は、私にとって誰よりも大切な存在になった。
そうなると、更に私は"正しい道を歩む"ことを重要視するようになった。
私が正しい道を歩めば、月くんの歩む道を阻害する事はなくなる。
正義は必ず勝つ。──主人公は、幸せになるべきだ。
「天使様…大丈夫だって言ってたじゃない。私は何も知らないままでいば、物語を壊すことはないって…危ない目に合うこともないって…!」
私は震える声で天使様を問い詰めた。私の中では、物語が壊れる=主人公が不幸になる、という方程式で結びついているらしい。
私は怖くてたまらなくて、自然と涙が瞳にたまっていくのを感じた。
けれど天使様はいつもと変わらぬ様子で、動揺で筆跡か乱れるという事もなく、尚も美しいままだった。
『そうよ。確かに物語は変化した。でも物語は壊れてないし、あなたは五体満足で自宅に帰れたわ』
「…大きく変化したんでしょう?それは、壊れたことと、どう違うの…?」
私には、天使様の言う事がわからない。
この世界で唯一、天使様は"物語"を認知している、唯一の同士である。
お互いのことを深く知り合い、ずっと傍にいて助けてくれた。絆を深めた事もあり、いつだってわかり合っている。そう思っていた。
けれど、初めて天使様の事がわからなくなった。彼女の言っている事の意味が理解できない。
まるで悪魔の囁きのようにすら感じられて、畏怖する心が抑えられない。
『では、聞くけれど。あなたの中にある『壊れた』の定義は何なのかしら?』
天使様は冷静に私に問い掛ける。私は考えてみる。
私にとっての一番の願い・最善は、月くんが物語の通りの正しい道を歩み、幸せである事だ。正しい道を歩むという事は、物語の通りであるという事。
けれどそれは答えになっていない。私は深呼吸をしてから、慎重に言葉を探して、ゆっくりと口を開く。
「……一番怖いのは…死ぬはずのなかった人が死んだりすること、かな…。物語が壊れた時に起る、最悪の事態の典型だと思う。…あと…予定にない事が起こって、悲しむ人が出るすること…、とか……」
『だとすれば、やはり壊れてなどいない。この変化は、良い事よ。むしろ…救済に近いのかもしれない』
「…救済…?」
私は"壊れた"とは正反対に位置する"救済"という言葉が出て来て、思わず復唱する。
私を納得させるために、天使様は沢山の言葉を綴ってくれた。
ページが埋まってしまったため、天使様はルーズリーフのページをめくり、次の白紙のページに言葉の先を綴り出した。
『かつて、本人は不幸だとも思っていなかった。救われたいとも思ってなかった。むしろ幸せだと言っていたわ、でも──』
天使様はピタリと筆を止めて、その先を書く事を諦めて、途中のままのページを見せた。
──『でも』、という言葉の先に、何と続けようか、天使様は考えているようだ。
『けれど、今となってはきっと──…』
天使様は続きを書こうとして、それでもやはり、上手い言葉が見つけられなかったようで、そこで筆を止めた。そして手からルーズリーフを滑り落としてしまい、その手は天使様の顔を覆った。
「…天使様、泣いてるの…?」
天使様の双眸からは、涙が溢れていた。ぽたり、ぽたりと滴る雫は透明で、人間が流すものと寸分違わない。
天使様は床に落ちたルーズリーフを拾い上げると、さらさらと続きを書き足した。
『あたしは、ずっとこの瞬間を待っていたのかもしれない…。物語は変わった。救済、と言ったわ。あなたによって救われたものがいると──。
でも…──でも。……それで一番に救われたのは、あたしだったのかもしれない…』
天使様はサラサラ言葉を綴りつつも、その涙が止まる事はなかった。
私にはわからない。何が変化したのか。それによって、天使様がどう救われる事になったのか。
それが、私のおかげなのだという。美しい心を持った天使様が、涙を流して震えている。
『──ありがとう。。これで…ようやく今までの全てが報われたわ──』
私は思わず、バッと天使様を抱きしめた。
その体は骨ばっていて、大きくて、体温は感じられない。決して人間のものではなかった。
けれど確かに、そこに存在している。誰かが救われて嬉しいのだと涙を流す、綺麗ないきものだ。
火口さんを追う中で、"死神"なんて言葉が出た。それは単なる比喩表現か、もしかしたらこの物語には死神が存在しているのか。
──最初の時こそ、この人間ではない見た目から、私も天使様をおばけか何かかと疑った。
けれど彼女は…天使様は、天使なのだ。私なんかより、よっぽど無垢な存在だ。
誰かを救いたいと願い涙できる存在が、天使でなくてなんなのだろう。
全てが報われたと震える健気な天使様が愛しくて、私はぎゅっと強く抱きしめ続ける。
どれだけの間そうしていただろう。天使様はトントン、と私の背中を叩くと、私に離れるように合図した。
私が天使様を解放すると、天使様はルーズリーフに、こう続きを記した。
『もう少しで、今度こそ全部が終わるわ。…そこで最後に、あなたにやってもらう事がある。とてもとても重要なことよ』
「……うん、なんでも言って。わたし、役に立ちたい」
──とても重要なこと。そう言われて、プレッシャーを感じない、といったら嘘になる。
引け腰になる自分がいるのも確かだ。
けれど、役に立ちたいという気持は、それを遥に上回った。
だから私は即答した。物語がハッピーエンドを迎えるためなら──愛しい月くんのためなら──そして、大好きな天使様に喜んでもらうためなら。
──私は何だってやる。
『あなたには、これから指示する通り行動してもらいたい。今まで通り、何も知らなくていいわ。あなたは、キラが誰であるのか、考えないようにしてきたわよね。ずっとそうしていたように…今度も何も、深く考えなくていいわ。そうすれば、物語は"壊れ"ないから』
「……うん、わかった。……信じてるよ、天使様…」
そして私は、天使様の手をぎゅっと握り、笑った。
私はこの物語の道筋を知らない。
二人の主人公がいるという事しかわからない。
けれど、この物語は、ついに結末を迎えようとしている。もうすぐ全てが終わる──
それだけが、唯一の標だった。
3.物語の中心部─『結末』のその前に
──2004年10月28日。
火口さんを確保した事により、キラとしての殺しの法則がより詳しくわかったようだ。
その結果、「と弥海砂は第二のキラではない」「関与していない」という確固たる証拠が出たらしい。
2日に渡る審議が行われた結果、10月30日。
私とミサの監視が解かれ、完全に解放される事となった。
「ミサミサともお別れかー…」
それを心底惜しんでいたのは松田さんである。途中で模木さんと交代したものの──
松田さんは初代マネージャーとしてミサについてからというもの、愛着がわいたようだった。
私が見学に行ったり、モデルや端役女優として現場に出たのは、思い返せば数えられるほどの回数でしかない。
けれど、松田さんがミサのマネージャーとして現場に同行したのは、数えきれないほどだっただろう。
刑事として監視をする傍ら、マネージャーという仕事も真面目にこなしていた。その分ミサと別れる事に対する寂しさはひとしおだろうと思う。
「…──それじゃあ、荷物もまとめたし。私、もう出るね」
元々ミサと私はここが自宅ではない。仮宿のようなもので、必要最小限の荷物しか持っていなかった。
それに加え、私は基本引きこもっていたし、療養期間も長かった。
なので、ミサに比べるとより荷物は少ないだろう。
荷造りはあっと言う間に終わった。そういう事情もあり、私は早めに捜査本部とお別れする事にした。
ミサと本部の皆…。特に、松田さんと月くんとのお別れの時間を作ってあげたかったし。
それに──天使様も言ってた。
『ミサ、より、も。はや、く』と。拙い声で、必死に伝えてきたのだ。
だから、私がこの本部を出る事に一抹の寂しさは感じれど、後ろ髪を引かれることはなかった。
みんな監視対象である私に対しても、親切にしてくれた。ミサとは友達になれたし、ここの皆が私にとっての大事な人たちになった。
けれどこの別れは悲しくなんてない。
だって──これは、"正しい道"に違いないのだから。
「皆さん。今までお世話になりました」
ミサの自室には既に訪問していて、個別に別れは済ませてきた。後は本部の皆だけだ。
メインルームに向かい、私が深々と頭を下げると、本部の皆は少し驚いた用意を見せた。
こんなにも手早く荷物をまとめ、朝一で自宅へ戻ろうとするとは思わなかったのだろう。
皆の予想よりも私との別れが早く訪れた事で、どう反応していいのか分からない様子だった。
──竜崎くん一人を覗いては。
「……他の方々はともかくとして…月くんとの別れが寂しくないんですか?」
いつも通り椅子に座りつつ、竜崎くんは言った。
しかし、今回は珍しく椅子から立ち上がって、じっと私に近づいてきた。
その上で、いつものようにずいっと顔を近づけながら言ったのだった。
竜崎くんのこの人を驚かせる癖にも慣れてきてしまった。
私はその至近距離を保ったまま、瞳をぱちぱちと瞬かせた。
決して竜崎くんの反応に引いているのではなく、どういう意味かわからず、きょとんとしてしまったのだ。
「月くんは捜査のために、本部に暫く留まるそうです。今までのように、"お向かいさんの幼馴染"として、大学に戻ることは暫くありませんよ」
「ああ…そういうこと」
それは初耳だったけど、しかし想定内の事ではあった。
火口さんというキラが捕まり、私とミサの容疑は張れた。けれどキラ捜査本部が「解散」という事にはなっていない。
という事は、まだ探るべき事が残ってるのだろう。であれば、正義感の強い月くんが残らない訳がない。
それよりも…
「…竜崎くんちょっと近いかな」
「そうでしたか?」
「そうでした。わざとやってるのかと思ってたけど、無意識だったんだね」
竜崎くんの肩を少し押して、距離を取りつつ笑う。
竜崎くんの背後でこちらを見守っている月くんが、また拳でも振りいそうな勢いで苛立ってるのが見えたのだ。
まずは距離を取ってもらわないと、答えられない。
…そうとは私も口では言いつつも、多分竜崎くんの"コレ"は無意識と意識的の半々だろうと私は睨んでいる。
私は正常な距離感を保つことに成功すると、竜崎くんに笑いかけた。
「それでも、永遠の別れってわけじゃないんだし…捜査も大きな進展があったんでしょう?いいことだと思う」
「…そうですね」
「別れがたいっていう話なら…、私は竜崎くんとさよならする方が寂しいかな。本部の皆や月くんにはいずれ会えるかもしれないけど…。…でも、竜崎くんは簡単に会えるような人じゃないんでしょう?」
私がくすくすと笑うと、竜崎くんはなんだか微妙そうな顔をしていた。
「そういう事を言わないでください。私は夜神くんに恨まれたくはありません」
「……竜崎。僕はこれくらいで妬く程狭量な男じゃないぞ」
「どうでしょう。鏡で自分の顔を見てから言ってみてください」
月くんが明らかに不機嫌そうにしているのを見て、竜崎くんがそれにツッコミを入れる。
いつもと変わらないやり取りをみて、私は思わず吹き出してしまった。
──ああ、確かに別れがたい。名残惜しい。
でも終わりは決して悲しい事じゃない。
一番悲しいのは、未完で終わる物語。そして一番不幸なのは、物語が"壊れる"こと──
──だとしたら。
「色々あったけど…楽しかったよ。今までありがとう…。……ばいばい、竜崎くん」
私は穏やかな笑顔を湛えながら、竜崎くんへ手を振る。
そしてそのまま踵を返し、二度と振り返らなかった。竜崎くんが最後どんな表情をしていたのか、見る事は叶わなかった。
無事に物語が終わりを迎えようとしている今。私が感じるべきは寂しさでも郷愁でもない。
めいいっぱいの、幸福感であるべきだ。
私は心から多幸感で満ち溢れた笑顔で、彼らにさよならを告げられた。
竜崎くんと二度と会えなくなったとして…
この物語の世界のどこかで生きていてくれるなら──
──それ以上、私は望まない。今私は、幸福だ。
***
懐かしの我が家は、もう目の前にあった。
私の肩にはボストンバッグと、小さなハンドバックがある。
そこから鍵を取り出し差し込むと、施錠を開けて玄関を潜った。
「……ただいま」
私は少しだけ緊張していた。玄関にはお母さんのパンプスが並べてあって、在宅である事が伺えた。
気付いてもらいたくて声を出したのに…心のどこかで不安な気持ちがあったのだろう。
思わず声が小さく、か細くなってしまう。
けれと、お母さんの耳には十分に届いたらしい。
リビングからお母さんが顔を出しすと、「あら、、おかえり」といつもと変わらぬ調子で挨拶してきた。
──想像していた反応と全く違う。怒られるのを覚悟していたというのに。
私は拍子抜けして、それ以上の言葉が出てこなくなってしまった。
「随分短い駆け落ちだったわね。2人で楽しんできた?どこに旅行行ってたの?」
まるで学校から帰ってきた娘を迎えいれるかのような、あまりに気軽な出迎えだ。
私は5月末から10月末の今日まで、一度も連絡を入れず、この家に帰らなかったというのに。
せっかく受かった大学も休学して、両親に相談する事なく、月くんと二人で「駆け落ち」をしたという事になっている。
将来のことを考えない、あまりに無策な若い行動に、親は当然怒るだろうと思った。
けれど母親は怒るどころか、楽しそうだ。
「ようやく月くんとくっついたのね?お母さんたち、ずっと待ってたのにじれったかったわ…何もこんな形で駆け落ちしなくても、普通に離せば夜神さんのお父さんも納得してくれたわよ、馬鹿ね」
お母さんは何も気にした様子がない。それどころか、笑い話にしている。
だから私もそれに合わせて、へらりと笑顔を作る。
「あ、はは…そう、かもね」
「あ、晩御飯なにがいい?」
「……カレー」
「了解ー」
まるで昨日の続きが始まったような感じだ。
監禁・軟禁された事は夢の中の話で、昨日までの私は普通に大学に行って、普通に今帰宅した。そして普通に、今日の晩御飯について話し合っている。
まるで狐につままれたような感覚に陥りながら、階段を上がって自室に戻り、荷物を置いてからベッドに座りこんだ。
家具の配置も、何も変わっていない。掃除は毎日していてくれたようで、埃一つなかった。
机の上で開きっぱなしになっていた大学ノートも、転がったままのシャープペンも、そのままだ。
座りこんだまま、ぼーっと部屋を眺めていると。
「……天使様」
普段背後で見守ってくれてる天使様が、珍しく正面に回って無言で見つめてきた。
こういう時は、監視の目や、人目がないという証。堂々と私の声で、天使様に語り掛けていいという合図だった。
「…天使様。もうこれで大丈夫なんだよね。私、ちゃんとできた?」
天使様はこくりと頷いた。私はほっと安心して、胸をなでおろす。
私は考える。ある日突然天使様が現れ、物語が始まり、監視カメラが設置され。
そして突如第二のキラ容疑で監禁され、しかし無事に容疑は晴れて、今日に至った。
それは、捜査本部の皆の助力と、月くん、竜崎くん二人の尽力があってこその成果だ。
「…キラは、火口さんだった。竜崎くん…"L"と"月くん"二人でそれを捕まえた。…これで、ハッピーエンド…正義は勝つ。……そういう結末なのかな」
独り言のように言うと、天使様は私の机の引き出しから一冊のノートを取り出した。
天使様がくれた"例のノート"ではない。あのノートは、博識な天使様の指示の元、絶対に誰にも見つからない場所に隠してある。
今天使様の手の中にあるのは、ただのルーズリーフだ。
ペン立てからペンを持ち、さらさらと綺麗な字を書き綴る。
『少しだけ、あたしと話をしましょう』
達筆な日本語で書かれたその字は、いつ見ても美しい。机の上の勉強用に使用中の大学ノートを使わなかったのは、天使様の配慮だろう。
そういう気配りができるところも、天使様を信頼する一因だ。
明らかに人の理から外れた存在であるというのに、人間以上に人間的で、優しい。
「天使様…天使様は、言葉も字もきれいだね」
監視の目がない間──天使様と出会ってからは、毎晩のように寝るまで語り合ったものだ。
手話を覚えるための練習と称して訓練しつつ、たくさんお互いに関する質問をし合った。
時には恋の話をする事もあったし、何が嫌いで何が好きか、お互いを知る時間を沢山作った。
──天使様は綺麗なものがすき。正しいものがすき。信念を重んじる。言葉遣いは、いつも丁寧。この世界は醜くも美しくて、でもそんな世界を愛してる──
『……あなたはあたしを天使と言ってくれるけど。…あたしは今まで出会った人の中で、あなたほど無垢で天使のような子に出会ったことはないわ』
天使様はサラサラと文字を綴って、私にノートを開いて見せてくれる。
私は天使様に言われた事にびっくりして。瞬きを繰り返してしまった。
本物の天使に天使だと評される。そんな特異な事が、この人生で起ると思わなかった。
「…それは、褒め過ぎじゃないかな…?」
私はあまりに大それた過大評価に自惚れる事が出来ず、眉を下げ、困ってしまった。
けれど天使様は首を横に振り、尚も否定する。
そして、「天使のような子」と評される以上に驚くべき発言をしたのだった。
『──そんな事はない。あなたは誰よりも純粋よ。…あなたは喜ばないかもしれないけど。あなたのその無垢さで、物語は大きく変化したわ』
「……え……?」
私は愕然として、言葉を無くてしまった。その言葉の真意を頭が理解するよりも早く、ぶるりと体が震えて、思わずバッと両腕で体を抱きしめた。
腕は鳥肌が立っていて、一気に部屋の温度が下がったかのような、そんな感覚がしていた。
天使様の発言は、まるで私を奈落の底に突き落とすも同然のものだった。
私はいつだって物語の世界であるという事を重要視して生きてきたし、それを壊さないように努めて生きてきたのだ。
そうして生きるうち、主人公である夜神月という青年は、私にとって誰よりも大切な存在になった。
そうなると、更に私は"正しい道を歩む"ことを重要視するようになった。
私が正しい道を歩めば、月くんの歩む道を阻害する事はなくなる。
正義は必ず勝つ。──主人公は、幸せになるべきだ。
「天使様…大丈夫だって言ってたじゃない。私は何も知らないままでいば、物語を壊すことはないって…危ない目に合うこともないって…!」
私は震える声で天使様を問い詰めた。私の中では、物語が壊れる=主人公が不幸になる、という方程式で結びついているらしい。
私は怖くてたまらなくて、自然と涙が瞳にたまっていくのを感じた。
けれど天使様はいつもと変わらぬ様子で、動揺で筆跡か乱れるという事もなく、尚も美しいままだった。
『そうよ。確かに物語は変化した。でも物語は壊れてないし、あなたは五体満足で自宅に帰れたわ』
「…大きく変化したんでしょう?それは、壊れたことと、どう違うの…?」
私には、天使様の言う事がわからない。
この世界で唯一、天使様は"物語"を認知している、唯一の同士である。
お互いのことを深く知り合い、ずっと傍にいて助けてくれた。絆を深めた事もあり、いつだってわかり合っている。そう思っていた。
けれど、初めて天使様の事がわからなくなった。彼女の言っている事の意味が理解できない。
まるで悪魔の囁きのようにすら感じられて、畏怖する心が抑えられない。
『では、聞くけれど。あなたの中にある『壊れた』の定義は何なのかしら?』
天使様は冷静に私に問い掛ける。私は考えてみる。
私にとっての一番の願い・最善は、月くんが物語の通りの正しい道を歩み、幸せである事だ。正しい道を歩むという事は、物語の通りであるという事。
けれどそれは答えになっていない。私は深呼吸をしてから、慎重に言葉を探して、ゆっくりと口を開く。
「……一番怖いのは…死ぬはずのなかった人が死んだりすること、かな…。物語が壊れた時に起る、最悪の事態の典型だと思う。…あと…予定にない事が起こって、悲しむ人が出るすること…、とか……」
『だとすれば、やはり壊れてなどいない。この変化は、良い事よ。むしろ…救済に近いのかもしれない』
「…救済…?」
私は"壊れた"とは正反対に位置する"救済"という言葉が出て来て、思わず復唱する。
私を納得させるために、天使様は沢山の言葉を綴ってくれた。
ページが埋まってしまったため、天使様はルーズリーフのページをめくり、次の白紙のページに言葉の先を綴り出した。
『かつて、本人は不幸だとも思っていなかった。救われたいとも思ってなかった。むしろ幸せだと言っていたわ、でも──』
天使様はピタリと筆を止めて、その先を書く事を諦めて、途中のままのページを見せた。
──『でも』、という言葉の先に、何と続けようか、天使様は考えているようだ。
『けれど、今となってはきっと──…』
天使様は続きを書こうとして、それでもやはり、上手い言葉が見つけられなかったようで、そこで筆を止めた。そして手からルーズリーフを滑り落としてしまい、その手は天使様の顔を覆った。
「…天使様、泣いてるの…?」
天使様の双眸からは、涙が溢れていた。ぽたり、ぽたりと滴る雫は透明で、人間が流すものと寸分違わない。
天使様は床に落ちたルーズリーフを拾い上げると、さらさらと続きを書き足した。
『あたしは、ずっとこの瞬間を待っていたのかもしれない…。物語は変わった。救済、と言ったわ。あなたによって救われたものがいると──。
でも…──でも。……それで一番に救われたのは、あたしだったのかもしれない…』
天使様はサラサラ言葉を綴りつつも、その涙が止まる事はなかった。
私にはわからない。何が変化したのか。それによって、天使様がどう救われる事になったのか。
それが、私のおかげなのだという。美しい心を持った天使様が、涙を流して震えている。
『──ありがとう。。これで…ようやく今までの全てが報われたわ──』
私は思わず、バッと天使様を抱きしめた。
その体は骨ばっていて、大きくて、体温は感じられない。決して人間のものではなかった。
けれど確かに、そこに存在している。誰かが救われて嬉しいのだと涙を流す、綺麗ないきものだ。
火口さんを追う中で、"死神"なんて言葉が出た。それは単なる比喩表現か、もしかしたらこの物語には死神が存在しているのか。
──最初の時こそ、この人間ではない見た目から、私も天使様をおばけか何かかと疑った。
けれど彼女は…天使様は、天使なのだ。私なんかより、よっぽど無垢な存在だ。
誰かを救いたいと願い涙できる存在が、天使でなくてなんなのだろう。
全てが報われたと震える健気な天使様が愛しくて、私はぎゅっと強く抱きしめ続ける。
どれだけの間そうしていただろう。天使様はトントン、と私の背中を叩くと、私に離れるように合図した。
私が天使様を解放すると、天使様はルーズリーフに、こう続きを記した。
『もう少しで、今度こそ全部が終わるわ。…そこで最後に、あなたにやってもらう事がある。とてもとても重要なことよ』
「……うん、なんでも言って。わたし、役に立ちたい」
──とても重要なこと。そう言われて、プレッシャーを感じない、といったら嘘になる。
引け腰になる自分がいるのも確かだ。
けれど、役に立ちたいという気持は、それを遥に上回った。
だから私は即答した。物語がハッピーエンドを迎えるためなら──愛しい月くんのためなら──そして、大好きな天使様に喜んでもらうためなら。
──私は何だってやる。
『あなたには、これから指示する通り行動してもらいたい。今まで通り、何も知らなくていいわ。あなたは、キラが誰であるのか、考えないようにしてきたわよね。ずっとそうしていたように…今度も何も、深く考えなくていいわ。そうすれば、物語は"壊れ"ないから』
「……うん、わかった。……信じてるよ、天使様…」
そして私は、天使様の手をぎゅっと握り、笑った。
私はこの物語の道筋を知らない。
二人の主人公がいるという事しかわからない。
けれど、この物語は、ついに結末を迎えようとしている。もうすぐ全てが終わる──
それだけが、唯一の標だった。