第一話
1.日常─大人びた子供
隣の家に住む幼馴染は病弱なやつで、頼りなくて覇気がない。
とは言いつつも、人の事は言えなくて、頼りないのは私も同じ事だった。
類は友を、病弱は病弱を呼ぶのかといえば違う。
隣の家のまた隣り、そこに住まう女の子は元気でしっかりもので、貧弱な私達によく喝を入れてくれた。
小さい頃は日中一緒の部屋で過ごし、夜には共に眠る事もあった。
病弱な子を持った両親同士が協定を結んで、どちらかの家が留守にする事があれば、もう片方のお家に預けられる事があったのだ。
そういう時は幼馴染三人で集まって、室内遊びをした。
それはそれで私達は楽しんでいたけれど、幼馴染の男…真波山岳というやつは、少しも楽しくはなかったんだと思う。
もう少し年を重ねた頃になると、事情が違ってきた。
同じ部屋で過ごす事はなくなり…それどころか山岳が家内に居る事が少なくなっていった。
山岳はある日、とある出会いを経た後、変わったのだ。
日中、一軒家の窓越しに山岳と顔を合わせる事もなくなって、カーテンは閉ざされたまま。
成長した子供に置いてかれた人形のように、私はどこか閉ざされたように感じていた。
けれど、これは終わりの合図ではなかったらしい。
もう少し経つと、すっかり元気になった山岳が、逞しくなった足で私の部屋を訪ねてくるようになったのだ。
「今日はいつもより遠くに行ったんだ。前ならあそこで足をついちゃったのに、随分進んだ」
遠慮もなく私のベッドにぼすんと腰掛けて、山岳は語る。
まるで母親に一日の出来事を報告する子供のようだった。
けれど、足元の方を陣取る山岳は険しい顔をしていて、少しも声は弾んでいない。
たまに枕を背もたれ替わりにしている私の方をパッと振り返る。思い出したように身振り手振りを交える。やっぱり、楽しそうではない。
形式的で、どこか儀式めいていると思う。実際、山岳にとってはちょっとした儀式みたいなものだったのかもしれない。
私はそれに参列する事はできず、ただ小さくうんと頷いて、その姿をただ見ていた。
窓の外から差し込む夕の陽は暖かい色をしていて、照らされる自分の肌が健康的に見える。
けれど、それはただの錯覚に過ぎない。そんなこと、分かり切っていた事だ。
「……今日も駄目だったの」
「うん、ずっと寝てた」
この覇気のない顔と、よれたパジャマ姿を見れば分かるだろう。けれど、山岳はあえて尋ねる。
白い肌…と言えば聞こえがいいかもしれないけど、青白いと言い代れば別だろう。
不健康な色をした手足をベッド上に投げ出した私は、この問いかけをされて、10回6回は駄目だったよと首肯する。
ついこの間までは3回くらいで済んでいたのに。ままならない物だ。
覇気がない。頼りない。弱々しい。私は我武者羅になる事が出来ない、腑抜けた人間だった。
決して、私の体が脆いせいだけではない。それは自覚していた。だから山岳はこんなに険しい顔をして毎日報告会を開くのだ。
ベッド脇のカーテンが閉まる音が、お開きの合図だった。
山岳が窓辺に手をかけてから、床に危なげなく足を下ろすと、「また明日」とだけ言って振り返らず部屋を出て行った。
バタンと扉が閉まる音がすると、緊張で張りつめていた糸が解ける。
ベッドに全身を伏して、私ははー…溜息を吐く。
そこには、下手な事を言えない空気があった。
別に、腫物に障るように言葉を選ぶ必要はないし、なんなら無遠慮な事を言って、お互い言い合いになる事もあった。
けれど、越えてはならない一線が私達の間には確かにある。間違えてはならないと思うと、どうしても体が緊張して固まった。
暫く思案するうち、コンコンと二回のノック音が部屋に響く。
「、入ってもいい?」
「うん。いいよ」
山岳が去ってから10分も経たないうちに、扉が再び開かれた。
コンコンと二回叩くのは幼馴染の女の子で、コンコンコンと三回叩くのは幼馴染の男の子で、つまり山岳の仕業だ。
ほぼ毎日繰り返される習慣にもなれば、それくらいの区別がつくようになっていた。
中学の制服を纏った小柄な女の子は、両サイドで結った黒髪を靡かせながら扉を閉める。
「今日も来てくれたんだね。今忙しいでしょ?無理しなくてもいいのに」
一旦家に帰る事もなく、一直線にやってきてくれたのだろう。重たい鞄を壁際に置く彼女は、呆れ顔で振り返った。
「今具合が悪くて大変なのはでしょ。無理なんてしてないし、気にしなくていいわよ」
「ありがとう。山岳は嫌そうだったけどね」
沈めていた身を起こしながら苦笑すると、彼女はああ…と納得したような声を漏らした。
慣れたように絨毯の上に膝をつき、転がっていたクッションを手繰り寄せる。
幼馴染の来訪を想定して三つ分並べられたそれは、年月が経って少しくたびれていた。
「あいつったら、いつまでも子供なのよ。それだって気にしなくていいわ」
「じゃあこっちの子は大人だね」
「もう、からかわないでよ…私は山岳ともとも違うんだし」
最初こそ軽い口調だったものの、違うと否定するとき、彼女は言い辛そうに声を小さくしていた。何かを堪えるようにクッションを抱きしめる腕に力がこもる。
確かに彼女と私達は違って、私と山岳は同じだった。
けれど、それも数年前までの話だ。
山岳の病気はほとんど回復して、彼女は今も昔も元気だ。私だけが未だに弱くて、部屋から出られない。
泣き崩れる事もなく、ただ現状を受け入れるだけの私を、彼女は不憫そうに見る事もあった。けれど、どちらかというと感心する方が割合は多かったかもしれない。
今もしみじみと含みある目を向けられている。
「は大人よね。偉いわ。同じ所で育って、どうしてこうなっちゃうのかしら」
「そうでもないよ。偉くない」
「そうよ。やっぱり小さい頃から沢山本を読んでるとそうなるのかな」
「言う程読んでないけどな。私、読むの遅いし」
「でも沢山あるじゃない。人よりは沢山読んでると思う」
部屋にある本棚を指さして言われ、また苦笑する。
長時間向かうことが出来ないせいで、未だ新品同様の勉強机と、開閉する回数の少ないクローゼット。
そこ以外の余白は全て茶色い本棚が占領して、閉塞感を覚えるくらいだった。
決して勤勉なのではなく、それしか時間を潰す術がなかった、消去法で妥協した産物とも言う。
確かにそれで普通よりは博識になれたのかもしれない。
…なんて、謙遜しつつも。精神的に大人びている自覚は実はあった。
彼女と彼が持っていなくて、私だけが持っている、人とは違っている所。
それは彼女が言うように"偉い"ものではないけど、大人びる理由には十分になる物だった。
「小さい頃からそうだったわね。ほら、三人で庭で遊んでた時、山岳が倒れちゃって。私は慌てちゃってどうしようもなかったのに、は冷静だった。家に戻って大人に電話して…私なんてまだ使い方も分からなかったのに」
──私は前世というモノを覚えていた。それこそ、思わず笑ってしまうくらい滑稽な、別段偉くもなんともない、他人との違いだった。
1.日常─大人びた子供
隣の家に住む幼馴染は病弱なやつで、頼りなくて覇気がない。
とは言いつつも、人の事は言えなくて、頼りないのは私も同じ事だった。
類は友を、病弱は病弱を呼ぶのかといえば違う。
隣の家のまた隣り、そこに住まう女の子は元気でしっかりもので、貧弱な私達によく喝を入れてくれた。
小さい頃は日中一緒の部屋で過ごし、夜には共に眠る事もあった。
病弱な子を持った両親同士が協定を結んで、どちらかの家が留守にする事があれば、もう片方のお家に預けられる事があったのだ。
そういう時は幼馴染三人で集まって、室内遊びをした。
それはそれで私達は楽しんでいたけれど、幼馴染の男…真波山岳というやつは、少しも楽しくはなかったんだと思う。
もう少し年を重ねた頃になると、事情が違ってきた。
同じ部屋で過ごす事はなくなり…それどころか山岳が家内に居る事が少なくなっていった。
山岳はある日、とある出会いを経た後、変わったのだ。
日中、一軒家の窓越しに山岳と顔を合わせる事もなくなって、カーテンは閉ざされたまま。
成長した子供に置いてかれた人形のように、私はどこか閉ざされたように感じていた。
けれど、これは終わりの合図ではなかったらしい。
もう少し経つと、すっかり元気になった山岳が、逞しくなった足で私の部屋を訪ねてくるようになったのだ。
「今日はいつもより遠くに行ったんだ。前ならあそこで足をついちゃったのに、随分進んだ」
遠慮もなく私のベッドにぼすんと腰掛けて、山岳は語る。
まるで母親に一日の出来事を報告する子供のようだった。
けれど、足元の方を陣取る山岳は険しい顔をしていて、少しも声は弾んでいない。
たまに枕を背もたれ替わりにしている私の方をパッと振り返る。思い出したように身振り手振りを交える。やっぱり、楽しそうではない。
形式的で、どこか儀式めいていると思う。実際、山岳にとってはちょっとした儀式みたいなものだったのかもしれない。
私はそれに参列する事はできず、ただ小さくうんと頷いて、その姿をただ見ていた。
窓の外から差し込む夕の陽は暖かい色をしていて、照らされる自分の肌が健康的に見える。
けれど、それはただの錯覚に過ぎない。そんなこと、分かり切っていた事だ。
「……今日も駄目だったの」
「うん、ずっと寝てた」
この覇気のない顔と、よれたパジャマ姿を見れば分かるだろう。けれど、山岳はあえて尋ねる。
白い肌…と言えば聞こえがいいかもしれないけど、青白いと言い代れば別だろう。
不健康な色をした手足をベッド上に投げ出した私は、この問いかけをされて、10回6回は駄目だったよと首肯する。
ついこの間までは3回くらいで済んでいたのに。ままならない物だ。
覇気がない。頼りない。弱々しい。私は我武者羅になる事が出来ない、腑抜けた人間だった。
決して、私の体が脆いせいだけではない。それは自覚していた。だから山岳はこんなに険しい顔をして毎日報告会を開くのだ。
ベッド脇のカーテンが閉まる音が、お開きの合図だった。
山岳が窓辺に手をかけてから、床に危なげなく足を下ろすと、「また明日」とだけ言って振り返らず部屋を出て行った。
バタンと扉が閉まる音がすると、緊張で張りつめていた糸が解ける。
ベッドに全身を伏して、私ははー…溜息を吐く。
そこには、下手な事を言えない空気があった。
別に、腫物に障るように言葉を選ぶ必要はないし、なんなら無遠慮な事を言って、お互い言い合いになる事もあった。
けれど、越えてはならない一線が私達の間には確かにある。間違えてはならないと思うと、どうしても体が緊張して固まった。
暫く思案するうち、コンコンと二回のノック音が部屋に響く。
「、入ってもいい?」
「うん。いいよ」
山岳が去ってから10分も経たないうちに、扉が再び開かれた。
コンコンと二回叩くのは幼馴染の女の子で、コンコンコンと三回叩くのは幼馴染の男の子で、つまり山岳の仕業だ。
ほぼ毎日繰り返される習慣にもなれば、それくらいの区別がつくようになっていた。
中学の制服を纏った小柄な女の子は、両サイドで結った黒髪を靡かせながら扉を閉める。
「今日も来てくれたんだね。今忙しいでしょ?無理しなくてもいいのに」
一旦家に帰る事もなく、一直線にやってきてくれたのだろう。重たい鞄を壁際に置く彼女は、呆れ顔で振り返った。
「今具合が悪くて大変なのはでしょ。無理なんてしてないし、気にしなくていいわよ」
「ありがとう。山岳は嫌そうだったけどね」
沈めていた身を起こしながら苦笑すると、彼女はああ…と納得したような声を漏らした。
慣れたように絨毯の上に膝をつき、転がっていたクッションを手繰り寄せる。
幼馴染の来訪を想定して三つ分並べられたそれは、年月が経って少しくたびれていた。
「あいつったら、いつまでも子供なのよ。それだって気にしなくていいわ」
「じゃあこっちの子は大人だね」
「もう、からかわないでよ…私は山岳ともとも違うんだし」
最初こそ軽い口調だったものの、違うと否定するとき、彼女は言い辛そうに声を小さくしていた。何かを堪えるようにクッションを抱きしめる腕に力がこもる。
確かに彼女と私達は違って、私と山岳は同じだった。
けれど、それも数年前までの話だ。
山岳の病気はほとんど回復して、彼女は今も昔も元気だ。私だけが未だに弱くて、部屋から出られない。
泣き崩れる事もなく、ただ現状を受け入れるだけの私を、彼女は不憫そうに見る事もあった。けれど、どちらかというと感心する方が割合は多かったかもしれない。
今もしみじみと含みある目を向けられている。
「は大人よね。偉いわ。同じ所で育って、どうしてこうなっちゃうのかしら」
「そうでもないよ。偉くない」
「そうよ。やっぱり小さい頃から沢山本を読んでるとそうなるのかな」
「言う程読んでないけどな。私、読むの遅いし」
「でも沢山あるじゃない。人よりは沢山読んでると思う」
部屋にある本棚を指さして言われ、また苦笑する。
長時間向かうことが出来ないせいで、未だ新品同様の勉強机と、開閉する回数の少ないクローゼット。
そこ以外の余白は全て茶色い本棚が占領して、閉塞感を覚えるくらいだった。
決して勤勉なのではなく、それしか時間を潰す術がなかった、消去法で妥協した産物とも言う。
確かにそれで普通よりは博識になれたのかもしれない。
…なんて、謙遜しつつも。精神的に大人びている自覚は実はあった。
彼女と彼が持っていなくて、私だけが持っている、人とは違っている所。
それは彼女が言うように"偉い"ものではないけど、大人びる理由には十分になる物だった。
「小さい頃からそうだったわね。ほら、三人で庭で遊んでた時、山岳が倒れちゃって。私は慌てちゃってどうしようもなかったのに、は冷静だった。家に戻って大人に電話して…私なんてまだ使い方も分からなかったのに」
──私は前世というモノを覚えていた。それこそ、思わず笑ってしまうくらい滑稽な、別段偉くもなんともない、他人との違いだった。