第五十話
3.慰めあなたの慰め
男神に目をつけられて、神域に引きこまれた時からどれくらい経った頃だろうか。
あの頃既に両手では足りないほどは通っていた。両足を使っても足りなかったことだろう。
砕けた口調でいいと言ったのは大分初めの方だったけど、心から気軽な態度で付き合うようになるには時間がかかった。
相手は一度自分を理不尽な理由で暇つぶしをするくらいの気軽さで殺そうとしてきたモノなんだし、神と聞くと元人間の私の価値観では遥か高見にいる存在にしか思えなくて。
友人のように接するなどもっての他。
鬼も同じような感覚で畏れ敬っていたし、私が彼に慣れるのは大変なことだった。


そこにやってきて何かの拍子に口論になって泣かされることもあったし、逆に怒らせることもあった。どれだけ相手の気に障るようなことを言ってもそれでも殺されることはなかったし、暴力に発展することはなかった。罰当たりと言って制裁を加えられることもなかったし、友人のように対等な関係を築いていたと思える。
そんな彼とは取り留めのない話ばかりをして、話はいつも突然振られていた。


「生贄を捧げる意味がわかるか」


男神が言った言葉の意味は理解できる。
しかしそれをわざわざ問いかける意図がわからない。そして生贄を捧げる意味については…辞書や資料なんかを持っている訳ではないから正確に、詳らかに語ることはできない。
でもある程度のことは知っている。生贄に捧げられた体験があるので、手順もわかる。


「…大ざっぱにならわかるけど…ご機嫌とりとか?…あの…まさか神様が詳しいこと語ってくれるの?」


人間たちが、仲間内で「こういう理由でこういう手順を踏んでやる必要があるんだよ」と説明し合うよりも生々しい。
人間はあくまで供物を捧げる側で、神様は供物を求める側だ。
神様に渡すのはお歳暮とか贈り物とかお土産とか可愛らしいものではなくて、怒りを鎮めるための生々しいものだ。
私の居心地悪そうな様子を見てくつくつと笑い、軽い調子で説明してくれた。


「ご機嫌とりも命乞いもそうだけど、心の慰めだ」
「慰め…」
「満たされたなら簡単に許すだろう。欠けているから苛立つ、不満が消えない」


そうなんだろうけど、なんとなく腑に落ちない。
慰めという柔らかい言葉を使うのはなんだか違和感だった。
袖の下と言われた方がしっくり来る。
神様はだいたいの場合悲しんでいたり寂しがっていたりするのではないだろうし。慰めというのはそういう時に使われるもので、
生贄というのは怒り恨みを鎮めるための手段なのではないかと思っていた。

男神の中では生贄とは"慰め"であるというのが定説となっているようで、なんの疑いもなく私に説明してくれた。
けれど、補足するように付け足された言葉たちも腑に落ちないものばかりだった。


「欠損した所を穴埋めするための代打みたいなものだ」
「代打っていうのもなあ…」
「じゃあ、繋ぎ合わせるための溶接材みたいなもの」
「それもちょっと変なの」
「欠乏した心を満たすための慰め」
「ちょっとわかりやすくてまろやか」
「まろやか?」


今度は私が納得して、相手が眉を寄せることになった。
なるほど。怒りも悲しみも寂しさも恨みも全部ひとくくりにして同列に数えたら、そのどれを対応するときにも「慰め」というものが当てはまるようになる。
どの感情も何かが欠けて満たされなくなるとわき上がるもので、欠けた何かが戻ってくると落ち着くもの。
全部慰めで補える。生贄とは慰め。分かりにくかったけれど、ようやくその意味が分かった。
男神の方はまろやかという単語に引っかかりを覚えたままだったみたいだけど、途中でまあいいかと流していた。


「多くの場合生贄を捧げるのは捧げる側の自己満足で、神はそんなものを望んでいなかったりする」
「え」


驚いた声をあげる私を置いて神は建物の中へと入っていった。
何かを手に持ってすぐに出て来る。白い包だった。
風呂敷を開くと中から赤い着物が出てきた。色とりどりの華が赤い布地を彩っている。
たまに金色が光っているのが見えて、遠目から見ても繊細な造りをしているとわかったし、触らなくても相当上質なものなんだとわかった。
しかし。


「こんなもの捧げられて、いると思うか」
「…あなたはいらないよね」


これは日々の感謝を表すための供物ではなく、怒りを鎮めるためという名目で捧げられた品らしい。
これはどこからどうみても女物だった。この神は男神で、妻もいない。
好きな相手はいるのか知らないけど、恋人に当たるような相手がいないことは知っている。この神は人嫌いだった。
というよりも自分以外の誰かと接触することを嫌がっていた。どこか厭世的というか、閉じこもりたがりというか。
けれど完全に閉ざして一人ぼっちになるのも退屈だから、私を暇つぶしとして呼び寄せてずっと籠っているのかもしれない。

これはいつ贈られた品か知らないけど、退屈ばかりしている神の娯楽にもならないし、
着ることもない。彼には芸術を目で楽しむ趣味もない。
渋い顔になり、連動するように渋い声が出た。ううん、これは絶対にいらないし要求していない。
間違った情報が人間側に伝わったのか嫌がらせか手違いか。
人間の自己満足でしかない場合のいい一例だった。
けれど、でも。毎回一方的な訳ではない。そんなはずではない。


「もちろん要求していて、それが怒りが静まる場合もある」
「…だよね?」

その考えを肯定されて、神からのお墨付きをもらえたことにホッと一息ついた。
私のどこか焦った様子をみて、今の心中を察したようだった。


「お前は生贄に捧げられたんだと昔言っていたけど」
「う、うん…」


今の話の流れからこうやって引き合いに出されると嫌な予感がしてくる。
口元は引きつったし声は頼りないし身体は緊張で固くなってる。
残念でしたとでも言わんばかりに、楽しげに男神は私の思いを否定した。


「本当にその神は怒っていただろうか?穴埋めなんて要求していただろうか?慰めを望んでいたんだろうか、どうだろう」
「どうだろうとか聞かないで…無意味だったかもって思ったら悲しくなっちゃった…」


そんなはずはない。人二人も差し出して、それが自己満足で終わるはずがない。意味があったんだと言ってほしい。
本当の所なんてわからない。私にも男神にも知ることは出来ないだろうけど。

あの頃はただの人間で、神さまも不思議な存在も信じてなかった。神様仏様も唱えなかったのに、今は神さまとすれ違い様に挨拶するような生活だ。
今よりも盛んに現世で神や妖怪が行き来していた時代だったけど、少なくともあの付近でそういうモノを見かけたことはなかった。
無駄骨だった可能性も0ではないということだ。
そんなこと考えたくはない、せめてアレは意味ある有意義な死だったと思っていたい。


「…本当にあの時、捧げる相手がいたとして」
「うん」
「人なんて捧げられて嬉しいのかな」
「さあ」
「話し相手になってほしいとか、代表として謝ってほしいとか」
「生贄に?人間に?」
「そう。…もしかして捧げるって…食べるとかいう意味で…?」
「その神によるだろうな」
「…あ、あなたはそういう趣味があるの?」
「捧げられたことがないから分からない」
「もし怒った時は、人間を要求する?」
「慰めは欲しいけど、俺はしない。違うものを望んだ」
「…え。何か要求したことあったんだ…」


食べてみようと思ったことすらない、趣味が悪いなと呆れたように言っていた。
少し安心したけど、結局私達の死は意義があったのかなかったのかという虚しさが消えない。勿論アレで雨が降るんだとは思ってなかった。
けれどあの世にやってきて、神が本当にいると知ったら、勿論意味があることだったんだろうと疑うことなく思うようになった。
しかしアレがただの自然現象で、神様の逆鱗に触れたとかじゃなくて、ただ村人が自分達の心を慰めるためだけに捧げただけだったとしたら。
気を紛らわしただけ。恐怖や不安を誤魔化しただけ。これも慰めが適応する類のものだ。
人の自己満足。


「…望んでたらいいなあ…」
「今更ほじくり返してもなあ」
「望まれたんだと思うことにする」
「強引だな」
「望まれて死んでなんかこういう感じになったんだと思うことにする」
「そうか」


建物に着物を仕舞に行った彼は入れ替わりに本を手にしていて、私はそれを見届けてから「そろそろ帰るね」と声をかけた。
今日は無我夢中で話しこんでしまったので、いつもより遅くなってしまっただろうなと思っていた。
いつも消えるのは一週間未満。うっかりして長くなったとしても二週間くらいだった。

もしかしたら今回は三週間は滞在してしまったかもしれないと思っていたけど、三ヶ月も経っていたのだと知って卒倒しかけた。
夢中になるというのは怖いもので、のめり込んでいた時の体感時間などあてにならない。
二日、三日消えるだけでも問題だ。
短い時間で済むように意識して調節していたのに、それがなくなればここまで誤差が出ることもあるのだと思いもしなかった。

けれど嫌な話だけど、勉強にもなったと思ったので、私の中では話し込んだこともプラスに捉えられていた。
しかし周囲の人たち…特に鬼灯くんは当然機嫌悪くしていたし、みんなに心配もされたし、教え処も結構休んじゃったし。
生贄の話が凄くためになったんです、慰めなんですと訳のわからない説明することも出来ず、しばらくはただ項垂れ、説教も心配も嫌味もお咎めも何もかも大人しく受け止めた。


2019.10.1
( 彼は生贄であり、彼女は彼のための生贄である )