第68話
4.舞台裏─甘美な嗜虐性
「……戻りました…」
憔悴したのその声には覇気がないばかりか、掠れてすらいる。
表情からは感情がごっそりと抜け落ちていて、そこには嫌悪も憤りも何もない。
ただ、疲れ切って何も感じられないような、そんな状態だと察した。
は捜査員でもない。ミサのように命を捨てれるという程逞しくもない。
それだと言うのに、キラ捜査に巻き込まれ。そしてあの局面で、火口について行くかいかないか。そんな究極の選択を迫られた。
そしてその責任感の強さから頷いて、少しでも火口の信頼を勝ちとり、情報を得ようとした。
火口はあのヨツバメンバーの中でも、一番性質が悪い女好きだ。
そんな男と二人きりのドライブをして、気分のいい時間を過ごせたはずもない。
それなのには弱音を吐くどころか、竜崎と模木さんに向けて深々と頭を下げ謝罪した。
「竜崎くん、模木さん、ごめんなさい。せっかく外出させてくれたのに、買い物できませんでした…、ええと実は…、」
僕はその言葉の先を続けさせないように、を抱きしめ腕の中に留めた。
もしかしたら、セクハラまがいな行為をされたり、醜い言葉をかけられたかもしれない。
それなのに、はそれに傷ついて落ち込むという選択肢を、自分自身に与えなかった。
義務感で報告を続けようとしたの口を、どうしても塞いでやりたかった。
を抱きしめながら、気遣うように問い掛ける。
「が謝る必要なんて何もない!…、何も…されなかったか…?」
「……なにも……」
はぼんやりと僕の言葉を復唱して、静かに僕の胸の中にもたれた。
そしてそのまま黙りこんでしまう。
僕はそれだけで、に何が起こったのか、大方察する事ができた。
「…ああ、…かわいそうに…」
僕はの頭を撫で、額や米神などにキスをした。
男性不信や潔癖症などと竜崎に散々言わしめて、今回の火口の1件で、本当にそうなってしまったらどうしようかと危惧した。
けれどは僕に触れらる事は逆に安堵に繋がるようで、身を委ね、瞼を閉じている。
僕らのスキンシップは日常の一部と化して、他の捜査員たちは、ヨツバの事、火口の事を話題にし、捜査を進めている様子だった。
そんな中、竜崎はぽつりとこう言った。
「さんの潔癖症が、悪化しないといいんですけど…」
「…竜崎、もっと他に言う事はないのか?」
それは僕も懸念していた事である。けれど、が危険な橋を渡り、帰ってきてからの第一声で語る言葉ではないだろう。
事の発端は、リスクを承知の上でミサとを潜入捜査に使うと決めた竜崎決定だ。
そして第一案として挙がっていた、"色仕掛け"で聞き出すという作戦。
ミサと僕の反対で流れたものの、は臨機応変にそれを実行した。
竜崎が一番望んでいた結果が手に入ったのだ。
僕は一度を腕の中から解放すると、の肩を抱いて、竜崎と対面させる形を取らせた。
この青白く、病人のように顔色を悪くしてしまったをみるべきだ。僕はキツく睥睨し、竜崎に圧を賭ける。
の元に駆け出した僕の後を追うようにしてきた竜崎は、間近でその姿を視界に入れると、 「そうですね」と頷いた。
「潜入捜査お疲れさまでした。皆さんは危険だと言うでしょうけど…あそこで火口を拒絶しなかったのは英断です。彼らにいい顔をしておく必要があります。それこそ、色仕掛けでもなんでも、私は必要だと考えてます。さんのおかげで、より信用されたはずです」
「……」
僕は上辺だけだとしても、竜崎に労いの言葉をかけさせる事が出来て、溜飲が下がった。
しかしはその逆だったらしい。
腕の中で、の体に酷く力が入ったのがわかった。身体が強張って、少し震えている。
疲れ切って感情すら抜け落ちていたの中で、何かが揺れ動いたのは明白だった。
どうしたの、と聞くよりも前に、は震える声でこう言った。
「月くん…ごめんね…、…ごめんなさい…っ」
肩を抱いた状態なので、名前の表情は横顔からしか伺えない。
その瞳からは涙が溢れ、雫は次々に頬を伝っていく。
は今確かに「月くん」と言った。
例えば、捜査の結果が芳しくなく、本部の皆に謝っているのではない。
火口に近づいた結果──"僕"に泣きながら謝りたくなるようなことが起こったのだ。
は顔を覆ってしまって、泣きじゃくっている。
僕は火口に酷い事をされたのかもしれない、と思った。口説いたり、セクハラまがいのスキンシップだけでなく、一線を越えられたのかもと。
それで、恋人である僕に謝っているのかもしれないと。
その可能性を考えただけでも腸が煮えくり返る。僕は極めて冷静に、焦燥感から問い詰めるような形にならないよう、静かに質問を重ねた。
「…そんなに酷いことされたの?」
「違うの…私が…私が、思わせぶりなことしたから…」
は嗚咽をもらしながら、短く返事をした。
それだけで、なんとなく状況は察する事ができた。少なくとも、僕が危惧したような展開にはなっていないようだ。
けれどにとっては、泣いて僕に謝りたくなるほど、傷つく出来事だったのだろう。
「……気があるような素振りをしたの?」
「……。……それと、キラを崇拝するようなことを…」
「…………」
接待の時に紙村にしたように、「気のある素振り」をしたと聞いて、気分がいいはずがない。
けれど僕が今思わず落胆に近い声を上げてしまったのは、「キラを崇拝するようなこと」を言ってしまったというからだ。
竜崎であれば、「よくやってくれました」という所だろう。
けれど僕からすれば、「あれほど言ったのに、どうして」と責めたくなる事。
全てはの事を心から案じている故にだ。
は僕の負の感情を感じ取り、硬直してしまっている。
僕はハッとして、慌てて誤解を解こうと言葉を尽くした。
の手を取り、顔を覆っていた手を外させる。そして片手の指での涙をすくいながら、僕は優しい声を作ってを安心させた。
「…僕は責めたり、怒ったりはしてないよ。突然の状況だったのに、はよく頑張ってくれたと思う…僕は、ただ心配だっただけなんだ。気のある素振りはまだいい。でも、崇拝するような事を言うのは、どうしても危険が伴うから…」
僕が怒ってないと聞いて、は安心したようだった。そうするとは僕の手に擦り着いてきて、その体温に安心感を得ているようだった。
それが可愛くて、存分に甘やかしてやりたいという気持を押さえ、僕はに触れる手はそのままに、竜崎に向けて厳しく言葉を放った。
「…竜崎。これ以上を巻き込むのはやめてくれ。は責任感が強いんだ。
それが無茶な事でも、なんでもしてしまう。…それなのに身を守る手段を持ってないんだ。何かあったらどうする?」
「私達の監視の目から離れた場所で、火口と接触する事になったのは予想外のことでした。けれど今ヨツバの広告塔の採用を辞退する、という訳にはいきません。月くんもそれを分かってるはずですよね」
「…それは、そうだが」
「私達は勝ちます。私にはその自信があります」
「……」
真っすぐと僕を見据えた竜崎は、明らかにこちらを挑発していた。竜崎はこう言っているのだ。
「月くんには、その自信がないんですか?」
──と。"私は"という部分を強調して言った所も気に食わない。
ここまで言われて…いや、煽られて。
僕が引きさがれない事を、竜崎はわかっている。
僕は深く深くため息をついて、それから少し考えて、口を開いた。
「…」
「…なあに?」
「…携帯預かるよ。嫌じゃなければ」
「…いいの?」
「もちろん。結局、買い物いけなかったんだろう?メールチェックは僕が代わりにしておくから」
「…ありがとう…」
ふわりとは、柔らかな笑顔を浮かべてくれた。
帰ってきた時は人形のように虚ろだったけれど、今は僕の知る、穏やかで暖かなに戻りつつある。
それを受けて、僕の表情もホッと安堵で緩んでいる自覚があった。
それでも瞳にたまった涙は収まりきらなくて、僕はもう一度の目元に指先を触れされる。
「やっと笑ってくれた。…に泣かれると、なんだか落ち着かない…」
「…ごめんね。困っちゃうよね…」
はバックを開けて、僕に携帯を私ながら、しょんぼりと謝った。
僕はまた言葉を間違えた。を責めたりなんてしてない、に笑顔でいてほしい、誤解されたくない──
その一心で、慌てて口を開くも、どうもうまく言葉がまとまらない。
言語化が出来ずしどろもどろになるというのは、我ながら珍しい事だ。
「あ、いや…そういう意味じゃなくて…罪悪感、みたいな…」
「…?月くんのせいで泣いてるわけじゃないよ…?」
「…そう、…なんだけどね…」
正直なところ。「思わせぶりなことをしてしまった」と言って僕に謝ったをみて、
ぞくりとした。あの時の感情を言葉にするなら、背徳感というのが近いだろうか。
僕に失望されたくなくて、嫌われたくなくて、見放されたくなくて。
それを恐れては泣いていたのだ。
僕はそれを、ただ"哀れ"で、"庇護すべき"だと…たったそれだけを思うべきだった。
だというのに、僕はあの時確かに高揚していた。
僕に縋るようにして流された涙は、とても甘美だと思ってしまったから。
僕の中に存在する嗜虐性のようなものを、今ここで詳らかに話す訳にはいかない。
一生に伝えるべきではないだろう。これは、愛する人に抱いていい類の感情ではない。
だから、「罪悪感」と言ったのだ。
は僕が歯切れ悪く言葉を濁すと、それ以上追及する事はない。
僕が出来る限りの嫌がる事はしたくないと望むように、もまた、僕から無理に言葉を引き出そうとはしなかった。
「…それで、さん。火口と会話してみて、どう思いましたか」
竜崎が問うと、は今日の出来事を振り返りるようにしながら、ゆっくりと語り出した。
はそれだけで、竜崎の真剣さが伝わったのだろう。今日の出来事を振り返りながら、ゆっくりと語り出す。
「……火口さんは、Lについて、凄く知りたがってた。それって、ヨツバの人はみんな知りたがる事なのかもしれないけど…でも…」
「さんはLと接点がある事に加えて、キラを崇拝しているような事も話した。そうですね」
「…そう。私がキラを肯定してるかどうか、知り違ってた。それで…そう匂わせるような事を言ったら、喜んでた。……それって…」
「はい。私も怪しいと思います。その引っ掛かりは、勘違いではないと思いますよ」
──勘違いではない。竜崎が断言すると、一気に本部がざわついた。
松田さんが、おずおずと問い掛ける。
「…竜崎。それって、火口がキラってことですか…?」
「まだ断言はできません。怪しい、と言っただけです。しかし…キラを肯定されて喜ぶのは誰でしょうか?キラ信奉者であれば、賛同を得られれば喜ぶでしょう。…そしてキラ本人であれば──自分の行を肯定されれば、やはり喜ぶでしょうね」
そこから、竜崎は再びへと問い掛けた。
「さん。車内でどんな会話をしましたか?思いだせる限りで話してください」
「……手を、握って…話しました。Lについて知ってるような素振り、キラを崇拝するような言動…これを口にする事は決めていましたが…そこだけに興味を持たれても、困る、から…だ」
「と、いうと?」
「──離さないで、といいました。監禁されて寂しかったし怖かった。手を繋いでいてくれたら安心できると…庇護欲、を……」
そこまで言うと、が口元を覆って気持悪そうにしていた。僕は名前の肩を抱き寄せながら、苦言を申立てる。
「竜崎、もういいだろう。これ以上に負担をかけるな」
「いえ、今のはさんがした事でしかありません。せっかく身を削って捜査を行っても、情報共有されなければなかった事も同じになってしまう。火口が言った事を、もう少し詳しく話してもらわなければなりません」
その言い分は理解できる。だから、反論は出来ずにぐっとこらえた。
贔屓の僕の心情は、横に置いておかなければならない。これは捜査なのだから。
もちろんも竜崎に反論する事はできず、説明を続けた。
出来る限り火口が言った事を、一言一句違えないように再現するよう努めたようだった。
が説明をし終わると、「やっぱり火口は怪しいですね…」と松田さんや総一郎さんも、頷いている。
「火口が怪しいと知れたことは収穫です。引き続き情報を集めていきましょう。私もさらに細かくヨツバの動向を伺えるよう、手配します
…それに…明日は更に"何か"起こるような気がしてます。…皆さんもう休んで結構ですよ」
竜崎が最後にそう締めくくった頃には、もうすっかり夜も更けていた。
午前のうちから長いヨツバの面接があり、その後のの買い物で火口と接触し、本部で議論し…
酷く濃密で長い一日だった。ずっと本部で待機していただけの僕にもそう感じられたのだ、にとっては更に過酷な1日だったに違いない。
****
次の日、は8時ぴったりに目を覚ましたようだった。
早朝のうちから本部の皆は動き出していて、僕は捜査を進める傍ら、モニターに映るをみて、様子を伺っていた。
ベッドから起き上がり、しばらくぼーっとしていたものの、意を決したようにベッドから降りて、シャワーや身支度を済ませていく。
ワンピースの上にカーディガンを1枚羽織ると、はエレベーターに乗ってどこかへ向かっていた。
ミサの部屋に行くのかと思っていたけれど、エレベーターが止まったのは本部があるこの階だった。
基本、ミサとがこのフロアにやってくる事はない、用がある時だけ訪れる場所だ。
どうしたのだろうか、と思いながら、を迎え入れる。
はエレベーターから出て、部屋の入口を通り抜けると、柔らかく笑みを浮かべながらおはようの挨拶をした。
「月くん、竜崎くん。おはよう」
「おはようございます」
「おはよう、」
僕と竜崎はいつものデスクに向き合っていて、他のメンツはの来訪に気が付いているのだろうが、今もソファーに腰かけてヨツバグループに関連する討論を続けている。
そのため、は空気を読んで、僕達にだけ挨拶をした。
僕たちがじっとの様子を伺ってると、その視線意味をすぐ察したらしい。
監視カメラでここにやってくる所も見られている事も理解している。
特別な用事がある時しかはここにはやってこない。
となると、僕達がこうしての言葉をじっと待ち構えるのは当然のことだと、も分かったようだ。
「……今日のミサのロケ、またついて行っていいかな?」
「…仕事がしたいんですか?」
竜崎が意外そうに言うと、は不意を突かれたようにきょとんとした後、すぐに首を横に振った。
「え?したくない…」
「ふっ………」
僕は思わず吹き出して、くすくすと笑ってしまった。
働きたくないと、堂々と言うがおかしくて。
いつも勤勉な名前が言うからこそ、僕には面白いと感じられた。
僕に笑われて、は恥ずかしそうに頬に手をあてている。
そうしながら、は仕事をしたくない、と言う言葉の意味を説明しようとした。
「仕事するのは嫌いじゃないの。でも、タレントの仕事は私には向いてないと思う……」
「では、単純に見学がしたいだけという事ですね」
「うん。ちょっと…気晴らしがしたくて」
「……」
竜崎はデスクに置かれたカップに角砂糖を落としつつ、じっとの方に視線だけをやる。
まるでの言葉に裏がないか、取り調べをしているような目つきと沈黙だった。
僕にからかわれて恥ずかしがるようなに、裏の顔など作れるはずもないのに。
それは、幼少期から積み重ねた信頼があるからこその確信だ。
竜崎が信頼できないのも無理はないが、僕からすればを疑う事はもっとも愚かで、生産性がない事だと感じられる。
「まあいいでしょう。さんは責任感はあるようですが…こちらが提示する以上の無茶はしないでしょうから」
「……竜崎」
「私が色仕掛けをしろと言ったから、さんはそうしたんです。一度は撤回した作戦でしたけど…。それ以上の事はさんに要求してません」
これ以上に無茶をさせたくない。僕が苦く咎めるように言うと、竜崎は今度はだけでなく、僕にも向けて説明を続ける。
「身の丈をわきまえてるという事です。私は時にはリスクを侵してでも事件解決のためには攻めるべきだと思いますが、何も命を捨てろとまでは言いません」
「…つまり?」
「月くんの心配する事はもう起こらないでしょう。万が一昨日のようにヨツバ社員と遭遇しても、今度は模木さんに理由をつけてもらい、ガードしてもらいます。過剰に接近しすぎるのも悪手です」
は竜崎の望んだ方法で行動を取り、成果を出してくれた。これ以上は望まない──いや、これ以上やれば危険に晒される事になる。
だから、万が一があれば、強引にでも模木さんにガードさせる。
それを聞いて、僕はふう、と小さくため息を吐いた。
は竜崎と僕の腹の探り合いをよく分かっていないようで、僕らを交互に見やり、どうしたらいいか所在なさげにしていた。
そんなに気が付き、竜崎は言う。
「出かけて構いません。…模木さん、今日もお二人の監視、よろしくお願いします。さんについては、先ほど話した通りに」
「はい。わかりました」
ソファーに腰かけ大量の書面と睨めっこしていた模木さんは、こくりと頷いた。
捜査資料を読み進めながらも、こちらの話もきちんと聞いていたらしい。
「今日のミサのロケは何時からですか?」
「正午から夕方までの予定です」
「じゃあ、お昼前にまたここに来ますね」
「いえ、自分が部屋まで迎えに上がります」
模木さんとが打ち合わせする様子を、竜崎はやけに熱心に見つめていた。
「どうした?竜崎」
「…いえ」
僕が問い掛けると、ふいっと視線をモニターに戻し、すぐに興味を無くした様子だった。
…勘違いだったのかもしれない。
僕には、何か深い疑念を抱いて2人を観察していたように見えた。
しかし今の竜崎は、捜査に没頭するいつもの姿を見せている。
──けれど。それがただの勘違いでなかった事は、その日の午後、すぐに明らかになった。
4.舞台裏─甘美な嗜虐性
「……戻りました…」
憔悴したのその声には覇気がないばかりか、掠れてすらいる。
表情からは感情がごっそりと抜け落ちていて、そこには嫌悪も憤りも何もない。
ただ、疲れ切って何も感じられないような、そんな状態だと察した。
は捜査員でもない。ミサのように命を捨てれるという程逞しくもない。
それだと言うのに、キラ捜査に巻き込まれ。そしてあの局面で、火口について行くかいかないか。そんな究極の選択を迫られた。
そしてその責任感の強さから頷いて、少しでも火口の信頼を勝ちとり、情報を得ようとした。
火口はあのヨツバメンバーの中でも、一番性質が悪い女好きだ。
そんな男と二人きりのドライブをして、気分のいい時間を過ごせたはずもない。
それなのには弱音を吐くどころか、竜崎と模木さんに向けて深々と頭を下げ謝罪した。
「竜崎くん、模木さん、ごめんなさい。せっかく外出させてくれたのに、買い物できませんでした…、ええと実は…、」
僕はその言葉の先を続けさせないように、を抱きしめ腕の中に留めた。
もしかしたら、セクハラまがいな行為をされたり、醜い言葉をかけられたかもしれない。
それなのに、はそれに傷ついて落ち込むという選択肢を、自分自身に与えなかった。
義務感で報告を続けようとしたの口を、どうしても塞いでやりたかった。
を抱きしめながら、気遣うように問い掛ける。
「が謝る必要なんて何もない!…、何も…されなかったか…?」
「……なにも……」
はぼんやりと僕の言葉を復唱して、静かに僕の胸の中にもたれた。
そしてそのまま黙りこんでしまう。
僕はそれだけで、に何が起こったのか、大方察する事ができた。
「…ああ、…かわいそうに…」
僕はの頭を撫で、額や米神などにキスをした。
男性不信や潔癖症などと竜崎に散々言わしめて、今回の火口の1件で、本当にそうなってしまったらどうしようかと危惧した。
けれどは僕に触れらる事は逆に安堵に繋がるようで、身を委ね、瞼を閉じている。
僕らのスキンシップは日常の一部と化して、他の捜査員たちは、ヨツバの事、火口の事を話題にし、捜査を進めている様子だった。
そんな中、竜崎はぽつりとこう言った。
「さんの潔癖症が、悪化しないといいんですけど…」
「…竜崎、もっと他に言う事はないのか?」
それは僕も懸念していた事である。けれど、が危険な橋を渡り、帰ってきてからの第一声で語る言葉ではないだろう。
事の発端は、リスクを承知の上でミサとを潜入捜査に使うと決めた竜崎決定だ。
そして第一案として挙がっていた、"色仕掛け"で聞き出すという作戦。
ミサと僕の反対で流れたものの、は臨機応変にそれを実行した。
竜崎が一番望んでいた結果が手に入ったのだ。
僕は一度を腕の中から解放すると、の肩を抱いて、竜崎と対面させる形を取らせた。
この青白く、病人のように顔色を悪くしてしまったをみるべきだ。僕はキツく睥睨し、竜崎に圧を賭ける。
の元に駆け出した僕の後を追うようにしてきた竜崎は、間近でその姿を視界に入れると、 「そうですね」と頷いた。
「潜入捜査お疲れさまでした。皆さんは危険だと言うでしょうけど…あそこで火口を拒絶しなかったのは英断です。彼らにいい顔をしておく必要があります。それこそ、色仕掛けでもなんでも、私は必要だと考えてます。さんのおかげで、より信用されたはずです」
「……」
僕は上辺だけだとしても、竜崎に労いの言葉をかけさせる事が出来て、溜飲が下がった。
しかしはその逆だったらしい。
腕の中で、の体に酷く力が入ったのがわかった。身体が強張って、少し震えている。
疲れ切って感情すら抜け落ちていたの中で、何かが揺れ動いたのは明白だった。
どうしたの、と聞くよりも前に、は震える声でこう言った。
「月くん…ごめんね…、…ごめんなさい…っ」
肩を抱いた状態なので、名前の表情は横顔からしか伺えない。
その瞳からは涙が溢れ、雫は次々に頬を伝っていく。
は今確かに「月くん」と言った。
例えば、捜査の結果が芳しくなく、本部の皆に謝っているのではない。
火口に近づいた結果──"僕"に泣きながら謝りたくなるようなことが起こったのだ。
は顔を覆ってしまって、泣きじゃくっている。
僕は火口に酷い事をされたのかもしれない、と思った。口説いたり、セクハラまがいのスキンシップだけでなく、一線を越えられたのかもと。
それで、恋人である僕に謝っているのかもしれないと。
その可能性を考えただけでも腸が煮えくり返る。僕は極めて冷静に、焦燥感から問い詰めるような形にならないよう、静かに質問を重ねた。
「…そんなに酷いことされたの?」
「違うの…私が…私が、思わせぶりなことしたから…」
は嗚咽をもらしながら、短く返事をした。
それだけで、なんとなく状況は察する事ができた。少なくとも、僕が危惧したような展開にはなっていないようだ。
けれどにとっては、泣いて僕に謝りたくなるほど、傷つく出来事だったのだろう。
「……気があるような素振りをしたの?」
「……。……それと、キラを崇拝するようなことを…」
「…………」
接待の時に紙村にしたように、「気のある素振り」をしたと聞いて、気分がいいはずがない。
けれど僕が今思わず落胆に近い声を上げてしまったのは、「キラを崇拝するようなこと」を言ってしまったというからだ。
竜崎であれば、「よくやってくれました」という所だろう。
けれど僕からすれば、「あれほど言ったのに、どうして」と責めたくなる事。
全てはの事を心から案じている故にだ。
は僕の負の感情を感じ取り、硬直してしまっている。
僕はハッとして、慌てて誤解を解こうと言葉を尽くした。
の手を取り、顔を覆っていた手を外させる。そして片手の指での涙をすくいながら、僕は優しい声を作ってを安心させた。
「…僕は責めたり、怒ったりはしてないよ。突然の状況だったのに、はよく頑張ってくれたと思う…僕は、ただ心配だっただけなんだ。気のある素振りはまだいい。でも、崇拝するような事を言うのは、どうしても危険が伴うから…」
僕が怒ってないと聞いて、は安心したようだった。そうするとは僕の手に擦り着いてきて、その体温に安心感を得ているようだった。
それが可愛くて、存分に甘やかしてやりたいという気持を押さえ、僕はに触れる手はそのままに、竜崎に向けて厳しく言葉を放った。
「…竜崎。これ以上を巻き込むのはやめてくれ。は責任感が強いんだ。
それが無茶な事でも、なんでもしてしまう。…それなのに身を守る手段を持ってないんだ。何かあったらどうする?」
「私達の監視の目から離れた場所で、火口と接触する事になったのは予想外のことでした。けれど今ヨツバの広告塔の採用を辞退する、という訳にはいきません。月くんもそれを分かってるはずですよね」
「…それは、そうだが」
「私達は勝ちます。私にはその自信があります」
「……」
真っすぐと僕を見据えた竜崎は、明らかにこちらを挑発していた。竜崎はこう言っているのだ。
「月くんには、その自信がないんですか?」
──と。"私は"という部分を強調して言った所も気に食わない。
ここまで言われて…いや、煽られて。
僕が引きさがれない事を、竜崎はわかっている。
僕は深く深くため息をついて、それから少し考えて、口を開いた。
「…」
「…なあに?」
「…携帯預かるよ。嫌じゃなければ」
「…いいの?」
「もちろん。結局、買い物いけなかったんだろう?メールチェックは僕が代わりにしておくから」
「…ありがとう…」
ふわりとは、柔らかな笑顔を浮かべてくれた。
帰ってきた時は人形のように虚ろだったけれど、今は僕の知る、穏やかで暖かなに戻りつつある。
それを受けて、僕の表情もホッと安堵で緩んでいる自覚があった。
それでも瞳にたまった涙は収まりきらなくて、僕はもう一度の目元に指先を触れされる。
「やっと笑ってくれた。…に泣かれると、なんだか落ち着かない…」
「…ごめんね。困っちゃうよね…」
はバックを開けて、僕に携帯を私ながら、しょんぼりと謝った。
僕はまた言葉を間違えた。を責めたりなんてしてない、に笑顔でいてほしい、誤解されたくない──
その一心で、慌てて口を開くも、どうもうまく言葉がまとまらない。
言語化が出来ずしどろもどろになるというのは、我ながら珍しい事だ。
「あ、いや…そういう意味じゃなくて…罪悪感、みたいな…」
「…?月くんのせいで泣いてるわけじゃないよ…?」
「…そう、…なんだけどね…」
正直なところ。「思わせぶりなことをしてしまった」と言って僕に謝ったをみて、
ぞくりとした。あの時の感情を言葉にするなら、背徳感というのが近いだろうか。
僕に失望されたくなくて、嫌われたくなくて、見放されたくなくて。
それを恐れては泣いていたのだ。
僕はそれを、ただ"哀れ"で、"庇護すべき"だと…たったそれだけを思うべきだった。
だというのに、僕はあの時確かに高揚していた。
僕に縋るようにして流された涙は、とても甘美だと思ってしまったから。
僕の中に存在する嗜虐性のようなものを、今ここで詳らかに話す訳にはいかない。
一生に伝えるべきではないだろう。これは、愛する人に抱いていい類の感情ではない。
だから、「罪悪感」と言ったのだ。
は僕が歯切れ悪く言葉を濁すと、それ以上追及する事はない。
僕が出来る限りの嫌がる事はしたくないと望むように、もまた、僕から無理に言葉を引き出そうとはしなかった。
「…それで、さん。火口と会話してみて、どう思いましたか」
竜崎が問うと、は今日の出来事を振り返りるようにしながら、ゆっくりと語り出した。
はそれだけで、竜崎の真剣さが伝わったのだろう。今日の出来事を振り返りながら、ゆっくりと語り出す。
「……火口さんは、Lについて、凄く知りたがってた。それって、ヨツバの人はみんな知りたがる事なのかもしれないけど…でも…」
「さんはLと接点がある事に加えて、キラを崇拝しているような事も話した。そうですね」
「…そう。私がキラを肯定してるかどうか、知り違ってた。それで…そう匂わせるような事を言ったら、喜んでた。……それって…」
「はい。私も怪しいと思います。その引っ掛かりは、勘違いではないと思いますよ」
──勘違いではない。竜崎が断言すると、一気に本部がざわついた。
松田さんが、おずおずと問い掛ける。
「…竜崎。それって、火口がキラってことですか…?」
「まだ断言はできません。怪しい、と言っただけです。しかし…キラを肯定されて喜ぶのは誰でしょうか?キラ信奉者であれば、賛同を得られれば喜ぶでしょう。…そしてキラ本人であれば──自分の行を肯定されれば、やはり喜ぶでしょうね」
そこから、竜崎は再びへと問い掛けた。
「さん。車内でどんな会話をしましたか?思いだせる限りで話してください」
「……手を、握って…話しました。Lについて知ってるような素振り、キラを崇拝するような言動…これを口にする事は決めていましたが…そこだけに興味を持たれても、困る、から…だ」
「と、いうと?」
「──離さないで、といいました。監禁されて寂しかったし怖かった。手を繋いでいてくれたら安心できると…庇護欲、を……」
そこまで言うと、が口元を覆って気持悪そうにしていた。僕は名前の肩を抱き寄せながら、苦言を申立てる。
「竜崎、もういいだろう。これ以上に負担をかけるな」
「いえ、今のはさんがした事でしかありません。せっかく身を削って捜査を行っても、情報共有されなければなかった事も同じになってしまう。火口が言った事を、もう少し詳しく話してもらわなければなりません」
その言い分は理解できる。だから、反論は出来ずにぐっとこらえた。
贔屓の僕の心情は、横に置いておかなければならない。これは捜査なのだから。
もちろんも竜崎に反論する事はできず、説明を続けた。
出来る限り火口が言った事を、一言一句違えないように再現するよう努めたようだった。
が説明をし終わると、「やっぱり火口は怪しいですね…」と松田さんや総一郎さんも、頷いている。
「火口が怪しいと知れたことは収穫です。引き続き情報を集めていきましょう。私もさらに細かくヨツバの動向を伺えるよう、手配します
…それに…明日は更に"何か"起こるような気がしてます。…皆さんもう休んで結構ですよ」
竜崎が最後にそう締めくくった頃には、もうすっかり夜も更けていた。
午前のうちから長いヨツバの面接があり、その後のの買い物で火口と接触し、本部で議論し…
酷く濃密で長い一日だった。ずっと本部で待機していただけの僕にもそう感じられたのだ、にとっては更に過酷な1日だったに違いない。
****
次の日、は8時ぴったりに目を覚ましたようだった。
早朝のうちから本部の皆は動き出していて、僕は捜査を進める傍ら、モニターに映るをみて、様子を伺っていた。
ベッドから起き上がり、しばらくぼーっとしていたものの、意を決したようにベッドから降りて、シャワーや身支度を済ませていく。
ワンピースの上にカーディガンを1枚羽織ると、はエレベーターに乗ってどこかへ向かっていた。
ミサの部屋に行くのかと思っていたけれど、エレベーターが止まったのは本部があるこの階だった。
基本、ミサとがこのフロアにやってくる事はない、用がある時だけ訪れる場所だ。
どうしたのだろうか、と思いながら、を迎え入れる。
はエレベーターから出て、部屋の入口を通り抜けると、柔らかく笑みを浮かべながらおはようの挨拶をした。
「月くん、竜崎くん。おはよう」
「おはようございます」
「おはよう、」
僕と竜崎はいつものデスクに向き合っていて、他のメンツはの来訪に気が付いているのだろうが、今もソファーに腰かけてヨツバグループに関連する討論を続けている。
そのため、は空気を読んで、僕達にだけ挨拶をした。
僕たちがじっとの様子を伺ってると、その視線意味をすぐ察したらしい。
監視カメラでここにやってくる所も見られている事も理解している。
特別な用事がある時しかはここにはやってこない。
となると、僕達がこうしての言葉をじっと待ち構えるのは当然のことだと、も分かったようだ。
「……今日のミサのロケ、またついて行っていいかな?」
「…仕事がしたいんですか?」
竜崎が意外そうに言うと、は不意を突かれたようにきょとんとした後、すぐに首を横に振った。
「え?したくない…」
「ふっ………」
僕は思わず吹き出して、くすくすと笑ってしまった。
働きたくないと、堂々と言うがおかしくて。
いつも勤勉な名前が言うからこそ、僕には面白いと感じられた。
僕に笑われて、は恥ずかしそうに頬に手をあてている。
そうしながら、は仕事をしたくない、と言う言葉の意味を説明しようとした。
「仕事するのは嫌いじゃないの。でも、タレントの仕事は私には向いてないと思う……」
「では、単純に見学がしたいだけという事ですね」
「うん。ちょっと…気晴らしがしたくて」
「……」
竜崎はデスクに置かれたカップに角砂糖を落としつつ、じっとの方に視線だけをやる。
まるでの言葉に裏がないか、取り調べをしているような目つきと沈黙だった。
僕にからかわれて恥ずかしがるようなに、裏の顔など作れるはずもないのに。
それは、幼少期から積み重ねた信頼があるからこその確信だ。
竜崎が信頼できないのも無理はないが、僕からすればを疑う事はもっとも愚かで、生産性がない事だと感じられる。
「まあいいでしょう。さんは責任感はあるようですが…こちらが提示する以上の無茶はしないでしょうから」
「……竜崎」
「私が色仕掛けをしろと言ったから、さんはそうしたんです。一度は撤回した作戦でしたけど…。それ以上の事はさんに要求してません」
これ以上に無茶をさせたくない。僕が苦く咎めるように言うと、竜崎は今度はだけでなく、僕にも向けて説明を続ける。
「身の丈をわきまえてるという事です。私は時にはリスクを侵してでも事件解決のためには攻めるべきだと思いますが、何も命を捨てろとまでは言いません」
「…つまり?」
「月くんの心配する事はもう起こらないでしょう。万が一昨日のようにヨツバ社員と遭遇しても、今度は模木さんに理由をつけてもらい、ガードしてもらいます。過剰に接近しすぎるのも悪手です」
は竜崎の望んだ方法で行動を取り、成果を出してくれた。これ以上は望まない──いや、これ以上やれば危険に晒される事になる。
だから、万が一があれば、強引にでも模木さんにガードさせる。
それを聞いて、僕はふう、と小さくため息を吐いた。
は竜崎と僕の腹の探り合いをよく分かっていないようで、僕らを交互に見やり、どうしたらいいか所在なさげにしていた。
そんなに気が付き、竜崎は言う。
「出かけて構いません。…模木さん、今日もお二人の監視、よろしくお願いします。さんについては、先ほど話した通りに」
「はい。わかりました」
ソファーに腰かけ大量の書面と睨めっこしていた模木さんは、こくりと頷いた。
捜査資料を読み進めながらも、こちらの話もきちんと聞いていたらしい。
「今日のミサのロケは何時からですか?」
「正午から夕方までの予定です」
「じゃあ、お昼前にまたここに来ますね」
「いえ、自分が部屋まで迎えに上がります」
模木さんとが打ち合わせする様子を、竜崎はやけに熱心に見つめていた。
「どうした?竜崎」
「…いえ」
僕が問い掛けると、ふいっと視線をモニターに戻し、すぐに興味を無くした様子だった。
…勘違いだったのかもしれない。
僕には、何か深い疑念を抱いて2人を観察していたように見えた。
しかし今の竜崎は、捜査に没頭するいつもの姿を見せている。
──けれど。それがただの勘違いでなかった事は、その日の午後、すぐに明らかになった。