第67話
4.舞台裏─照れてください
模木さんがマネージャーとして就任し、ミサとを車でヨツバ本社まで送り出している最中の事。
「ミサミサ、さん、大丈夫かな〜。面接する部屋か二人自身に盗聴器つけるべきだったんじゃ?」
「面接する部屋はどの部屋かわかりませんし、お2人につけたら彼女たちがより危険になります。それにこれは私達チームの行動ですから、松田さんは心配しなくてもいいです」
「そうだ松田、こっちを手伝え」
松田さんはうろうろと落ち着きなく歩き回りながら、不安を口にしていた。
僕と竜崎はいつも通りデスクに向き合い、父さんは傍にあるソファーに腰かけ、テーブルにノートパソコンを置いていた。
そして側に広がる資料の山を指さしながら、松田さんに指示する。
僕は皆の会話に触れる事なく、考え事をしていた。
勿論、の事を心配していない訳ではない。最初からこの作戦には反対だった──
けれど、既に実行してしまった事。松田さんのようにただ不安がっていても仕方がない。
出来る事はないのだ。もし緊急事態に陥れば、模木さんから連絡が来るだろう。
そうなったら対策を考えればいい事。
僕が"今"考えるべき懸念点は、他にあった。
「……」
た
眼前に広がるモニターに映るのは、キラに殺された犯罪者たちのリストだ。
頬杖をつきながら、僕は思案する。
…やはり別人だ…僕が監禁される前のキラと、現在のキラ…
犯罪者を裁いているという行為で括れば同じだが、明らかに違う…
現在のキラは殺人を犯し報道された者を片っ端から裁いているが、前のキラは殺意のなかった者、誤って人を殺してしまった者。情状酌量の余地がある者に対しては極力、裁きを下していない。
例えば誤って車で人をはね、死なせてしまった者。
前のキラはかなり悪質な違反でもしていない限り、事故を起こした者を裁いていない。
それどころか、殺人を犯した者に対して、殺すだけの理由があった。殺された人間の方が悪だキラが判断すれば裁かない…
……僕がキラなら、こういう裁きをするだろう…
それに比べ現在のキラは、人間らしい感情が感じられない…
いや、前のキラも現在のキラも、大量殺人犯に変わりはない。殺人に正義も悪も存在しない。
どちらも悪だ。そんな事はわかっている。しかし…
前のキラの裁きの基準…僕の考えに恐ろしく近い…
「…!」
…何を考えているんだ僕は。僕は目を瞑って、妙な思考を逃すように背もたれにもたれた。
僕はキラではない。キラを自分に重ねて考えるなんて…
どうかしている。しかし今のキラと前のキラの違いに竜崎も気付いているはず…
何故この事を僕に言ってこない…
ちらりと、甘味を頬張りながらモニターを見つめる、隣の竜崎を見やる。
どうせ夜神月が前のキラだったのだから、言うまでもないという事か?
──それから数時間が経っても、面談が終わったという連絡が入る事はなかった。
「2人とも遅いなあ〜。まだ面接やってるのかなあ〜」
「よほどヨツバはお二人に聞きたい事があると…いい傾向です」
竜崎からすればそうだろうが…人命第一。安全第一という考えを一番にしている僕からすれば、喜べない。
そして僕は贔屓だ。それだけがヨツバからの質問責めにあってるのだと考えると、気が休まらない。
「竜崎。…やはり2人をヨツバに近づけるとしても、第二のキラであった様に見せるのは危険すぎる。今からでもアイバーや奈南川を使って安全に否定しておくべきだ」
「「第二のキラ容疑でLに拘束されたが、間違いだとわかり解放された」ですから、否定してます」
「僕が言ってるのは、その「Lに拘束された」が危険だって事だ」
「……しかしお二人は進んでこの策に…」
何が進んでだ。僕は思わず眉根を寄せる。
ミサはともかく…の事は、強引に言質を取り、巻き込んだにすぎないというのに。
そうして悶々としていた時、「心配するなライト」と父さんが声をかけてきた。
「今の状況を全てテレビ出演をし、私が発表する」
「もう警察でもないのにそれは無理ですよ局長…」
「いやさくらTVの出目川なら飛びついてくる。…私が警察を辞めた経緯…ヨツバがキラの能力を使っている事…それらを発表すれば、キラによる犯罪者殺しは必ず止まる」
「そんな事…ほとんどの事は父さんがおかしな事を言ってると思うだけだ。何よりも父さんがキラに殺される」
「わかっている…しかし世間に何と思われようと、ヨツバの殺人はてなくなるはずだ。私一人の命何人もの命が救えると思えば…」
「父さん!母さんや粧裕はどうなるんだ」
父さんが無謀な作戦を口にし、松田さん、僕はそれを止めた。
しばらくカップに口をつけながら静観していた竜崎も、ややあってから口を開いた。
「……夜神さん。1カ月待ってもらえませんか?どちらにしろヨツバの殺人は一ヵ月先まで起こらないようにしたんですから。1カ月待ってもらえませんか?」
「そうだが、ヨツバがキラと繋がってしいると発表すれば、犯罪者の方の殺人も止まるかもしれない」
「今夜神さんが言ったやり方では、おそらく99%止まりません。何度も言う様ですがキラを逃すだけです」
手にしていたカップをソーサーに静かに置きながら、竜崎は淡々と告げた。
父さんは少し思案した後、「どう思う?ライト」と僕に意見を求めてきた。
「父さん…悪いがここは竜崎に賛成だ。キラを捕まえなければ犯罪者殺しは止まらない。あの7人全員を逮捕するというなら止まる可能性はあるが、父さんの言ったやり方では止まらない。だからと言って、7人の名前を発表したりしても、混乱を招くだけだ」
僕は腕を組みながら、背後に立つ父さんに視線を向けつつ、意見を口にした。
別の捜査チームを組んで捜査している今。強引に竜崎側に引き込まれてしまったものの、心情的には父さんの側にある。
しかし、何もかも賛同できるわけではない。さらに否定の言葉を重ねる。
「キラに殺されるのを恐れるが故、あの会議に出席している者いれば、その者の一生を犠牲にする事になる」
「…うむ…。……竜崎、わかった…1カ月待とう。いやそれまでは協力する。しかし1カ月待ってキラを捕まえられなければ、私は何と言われようと行動に出る」
「わかりました、大丈夫です。夜神さんが協力してくれるなら、必ず1カ月以内に捕まえてみせます」
竜崎は振り返らずに、淡々と話した。しかし、改めて竜崎の捜査に加わるとした父さんは、その逆に声を強くして意思を述べた。
「では協力するとした上で言うが、私も二人を危険にさらす今の捜査には断固、反対する!」
「……そういう事ですか…」
竜崎が少しうんざりしたように言っているうちに、モニターにとあるものが映し出された。
地下駐車場に、模木さんが運転する車が入ってきたのだ。
「あっ3人が帰ってきた」
松田さんが安堵した声をもらしてから、10分もかからないうちに、模木さんとミサ、そして名前が本部へと戻り足を踏み入れた。
「はーっ疲れたー」
「竜崎。ヨツバはミサさん、さんの各方面での広告採用を決めました」
ミサは両手を広げて伸びをして、模木さんはマネージャーの皮を脱ぎ捨て、刑事の顔で報告をした。
そしてはその後ろを歩いてきていて、その顔色は決して明るくはない。
面接が上手くいかなかったのか、単に疲労しているだけなのか。
心配から話しかけようとするも、今は私情よりも捜査の報告を聞く方が先決だと自分を律した。
「どうだった?ミサミサ、さん」
「どうって?」
「だから、何を聞かれたとか、誰が怪しいとか…」
松田さんがミサとライトと竜崎さんにしかいたしません。捜査チームが違いますから」
「いや、たった今竜崎中心で協力していく事になったんだ」
ミサとは反対に、終始困ったような顔をしていたも、松田さんの報告を聞くと感心したような顔をしていた。
この少数精鋭の本部で意見が割れ、対立しているという状況にハラハラしていただろう事は察しがつく。再び一つにまとまったと聞いて、安堵しているのだろうと予想する。
「へー。携帯番号やメルアド教えたら、あの七人の内の三人がもうプライベートな誘いをしてきたよ」
「なんだと…!まさかさんの方も?」
「……。……」
「う、うわ…さんのそんな顔初めてみたな…」
ミサが自身の携帯を持ちあげながら松田さんに言うと、まるで思春期の娘を心配する父親のように顔を顰めた。
そしての方にも矛先を向けると、は一度答えようとして口を浅く開いたものの、そのまま閉じてしまった。
そのままぎゅっと口を固く結んで、眉を寄せ、目も険しく細めている。
松田さんの言う通り、こんな顔を見せるのは珍しい。は昔からのんびりしていて、他者に敵意を向ける性質ではない。
こういう表情をするのは、残忍な描写を多用する映画を鑑賞してる時とか…そんな時くらいだ。
つまりにとっては、プライベートな誘いを受ける事は、それほどに苦痛だという事。
残虐性のあるグロテスクな行為を躊躇いなく実行し、劣悪でサイコパスな凶悪犯を眺めるのと同じくらい、嫌悪すべき事なのだろう。
「この誘いに乗っていって探っていけばいいのね。まさに作戦通り」
「…!?そんな作戦だったっけ…?だってあのメールって…。…あんなの、わ、わたしむり…」
それほどまでに苦痛なのだろう…という予想通り、はミサの発言を聞くと、青ざめてしまった。
元から、「Lの事を知ってる」という事を匂わせれば、色々聞き出そうとしてくるだろう…
それを見越しての作戦だった。
それはも理解していたはずだ。
ヨツバ社員だって馬鹿ではない。あからさまに「探りを入れている」のがバレるような文面は作らないはずだ。
作るならば…「仕事の話がしたい」というのを全面に押し出した文面であればベスト。そうすれば、タレントからすれば、断りにくいはずだ。
しかしがパニックになっているのを見ると…
本気でを口説いてるようにしか受け取れないメールばかりだったのだと思う。
遊び慣れてる女性ならともかく、相手に迫るような誘いを持ち掛けるのは悪手だと、何故わからないのだろう。
「安心してください。…特にさん。その作戦は中止になったみたいです」
「えっ!?何でよ、ここまで来てふざけないでよ!」
「わ…私の意見ではありません」
竜崎の言葉を聞くや否や、ミサはデスクに向かう竜崎の背後を取り、髪を鷲掴みにしてかき回した。
僕はため息を吐きながら椅子から立ち上がり、ミサの腕を掴んだ。
竜崎の髪から手を離させながら、僕はミサに説得をした。
「このやり方では二人が危ないんだ。CMに出るなとは言わないが、これからは第二のキラ容疑や、Lに拘束されたかもしれないという事は否定していく。ミサと名前は模木さんにガードしてもらい、タレントとしてだけ動くんだ」
「……」
ミサは少し考えるように沈黙した。
「…ライトがそうしろって言うなら、そうする」
すると、真面目な顔でこくりと頷いた。僕はそれに安堵する。
僕のためなら命も惜しまないと言いながら無茶な行動をされても、嬉しくはない。
無茶をしがちなミサが頷いてくれた事で、肩の力が少し抜けた。
「…じゃ、ミサ疲れたし、明日のロケ早いから寝るね」
ミサは長居する事なく、明日のスケジュールのために部屋に戻ると告げ、くるりと背を向けた。
そしてこの部屋から退室しようとしながら、ふと思いついたような出入口の付近で足を止めた。
「ライト、一緒に寝ない?」
「………。……何言ってんだミサ」
僕は呆れて、もうその感情を隠す気にもなれない。
ミサは出入口から顔をひょっこりと出して、笑顔で僕を誘っている。
僕はそれに対して、大きなため息と険しい顔でもって返事をした。
しかしミサがそれに屈する事はなく、楽しそうな笑みを浮かべたまま奥へと引っ込んだ。
「わかってるー。それはキラを捕まえてからね!照れなくていいよーライト」
楽し気に言いながら、ミサがエレベーターに乗り込んだ音がした。
そしてドアが閉まった音がして、僕はようやく解放された気持ちになった。
ミサには散々振り回されている。ミサは危険から守るべき一般人であるのと共に、僕との事を翻弄する、遠ざけたい女性でもある。
「照れなくていいです月くん」
「…僕は照れてない」
僕のため息とこの表情が見聞きできなかったのだろうか。竜崎は淡々とふざけた事を言う。
「何真剣に答えてるんですか月くん」
「真剣になるに決まってるだろう。…、こっちにおいで」
模木さんの隣で暗い顔をしてたに向けて、僕は手招きをして呼び寄せた。
すると、素直に歩み寄ってきてくれた。
はミサの軽口には慣れてしまったようで、傷ついたり振り回された様子もない。
だからと言って、それに甘んじてフォローもせず放置するのは、誠実とは言えないだろう。
いや、そんな事は建前で──何よりも、僕がに言い訳をしたくてたまらないのだ。
ミサとの間に特別な感情なんてない。一方的に言い寄られてるだけ。
愛してるのはだけ。それをみっともなくも…言葉や行動で示したくてたまらない。
「本当に照れたりしてないから。僕が以外の女性と一緒に寝るなんて、ありえない」
「え……わっ」
僕はの腕をぐっと引いて、腰を掴んだ。そのまま僕に背を向けさせる形で膝に座らせて、その腹に腕を回した。
竜崎はともかく。松田さんや模木さん、父さんも、僕とのじゃれ合いにはもう慣れてしまったようで、無反応だ。
わざと見ないようにしているのではなく、もう日常の一部として受け止められているらしいい。これは好都合だった。
は言わずもがな、僕も人前でイチャつくのを好むような性質ではない。
けれどこんな状況だからこそ、人目など憚っていられない。
要するに、余裕がないのだ。
「…、バック開けて」
僕がに言うと、の肩がびくりと跳ねた。
体制的に、意図せず耳元で囁くような形になってしまい、吐息がかかったのかもしれない。
それが可愛くて、もっと意地悪をしたくなる気持ちを抑えつつ、素直にバックを開けてくれたに指示する。
至近距離にいるからは甘い香りがして、くらくらする。香水をつける習慣もないので、これはシャンプーの匂いだろうか。それとも、名前自身の香りを本能的に好ましく思っているせいで、これほどに甘く感じているのかもしれない。
「携帯かして」
「………うん」
が携帯を持つようになったのは、中学生の頃からだ。
の側にいる時間が長く、自然とがパスコードを打ち込む所を見る機会は多かった。
4桁の数字のパスワードなど単純すぎて、探ろうとせずとも、すぐにわかってしまった。
束縛する男など見苦しいだけだ。
パスワードが分かったとして、悪用するつもりなんてなかったけれど…。
高校生になってからのは、どういう心境の変化か、定期的にパスワードを変えていたようだった。
けれど、僕はその全てを把握していた。
監視されるようになってから、の側にいる時間が減り、"今"のパスワードを知る機会が少なくなってしまった──そのため、確証はなかった。
けれどの打ち込みパスワードには規則性がある。
最後に確認したパスワードは、僕が初めてテニスの大会で優勝した時の日付だった。
だとしたら今は──
「……わ。すごい」
僕が初めてテニスの中学生チャンピオンになり表彰された日付を打ち込んでみると、すぐに開いた。
の作るパスワードは、僕に関連するものばかりだ。
さすがに僕の誕生日だとか、そんな安直な4桁は選ばなかったけれど…
僕はいちいち表彰された日なんかを覚えてはいない。けれど前が打ち込む4桁の意味と規則性を初めて理解した時…自分に纏わる受賞歴を洗いざらい振り返り、暗記したのは記憶に新しい。
こうして名前の携帯をいじろうとする気はなかったけど…それに気が付いた時は嬉しすぎて、衝動的にそんな行動を取っていた。
僕にとっては数ある賞の1つでしかない。けれどが大切なものとして憶えていてくれているものは、僕も覚えていたかった。
「月くん、何でもできちゃうんだね」
「…何でもは無理だけど…に関することだからね」
僕が携帯をいじる所はにも見えていたので、パスワードを突破されると、感嘆の声を漏らしていた。
多少前に引かれる覚悟をしていたけれど…概ね予想通りの反応だ。
のんびりならしい。…いや、僕のことが大好きならしい反対だった。
パスワードを把握されている事に何の疑問も嫌悪も抱いていない。ただ素直に感心するだけ。きっと「さすが月くん」と言って内心にこにこ笑っていることだろう。
悪用なんてするはずないと、信頼されてる事が嬉しくてたまらない。
僕は名前に嫌われたくないし、ポジティブな感情だけを抱いていてほしい。
僕は携帯を持ちあげて、今度はに見えない角度で操作した。
メールボックスを開いて、受信したメールを確認する。
面接が終わって2時間も経っていないのに、ヨツバ社員たちから10件以上のメールが送られていた。
そして確認している間も、また新着メールが届く始末だ。
僕は中身を検閲しながら、眉を顰めた。
「……これは…確かに度が過ぎてるな」
「…なに?」
「一番しつこいのは火口だろうけど…一番に入れ込んでるのは紙村ってやつかな」
「……私、ミサが携帯三つも持ってる理解がやっとわかったかも」
「ああ、そうだろうね…」
名前しく険しい顔を隠さなかった理由や、パニックになっていた理由がよくわかった。
こいつらにLに対する探りをいれるつもりが微塵でもあるのか疑わしい文面ばかりだ。
下心しか感じられない。
仮に下心だけで誘っているにしても、もっと警戒心を抱かせないような、上手いやり方があったはずだろう。あまりに愚策で、賢いとは思えない。大手企業に勤める人間のやり口とは思えなかった。
「……私、もうモデルのお仕事しないつもりだったけど…少なくとも、ヨツバさんの広告のお仕事はしなきゃだよね」
「ん…そうだね…少なくとも、今辞退する訳にはいかないね」
僕はこの作戦には乗り気でないし、今でも反対だ。
けれど、実行してしまった以上、今引く方がリスクを伴うのも事実。
「もう何もしなくていいよ」と優しいだけの言葉をかけてやりたかったけれど、そうもいかない。
僕は名前の肩に顎を乗せて、体重をかけて抱きしめた。
まるでぬいみのような扱いをされても嫌がる事なく、名前は身を委ねてくれている。
そんなは隣に座る竜崎の方を見たかと思うと、声をかけた。
「竜崎くん、ちょっといいいかな」
「なんでしょう」
「……私、買い物にいきたい。…だめ、かな」
「ダメ、という事はありませんが…」
「できれば、今日」
「………さんは男性不審の気でもあるんですか?もしくは潔癖症」
僕はそれに対してyesともnoとも答えられなかった。
僕は小さい頃から、が下心を持った男に絡まられないよう、牽制し続けていた。
だから、が今までこんなに露骨な下心でもって接された事はないのだ。
それ故に、が男性に言い寄られた時、どういう反応をするのかは未知数だった。
ぐいぐい詰め寄られるのが苦手である事くらいは想像がついていたし、喜ばないという確信はあったけれど。
けれど男性不信や潔癖症と称されるほど、嫌悪を示すとまでは予測がつかなかった。
「接待の時は中々のやり手だと思ったんですけどね。訂正します。さんは、案外芝居が得意だったのかもしれません」
「………」
悔しいが、竜崎の言う通りだ。
松田さんを助けるため、ヨツバの者たちを招いて接待した時、は紙村相手に、魔性を感じさせるほどの距離の詰め方をしていた。
至近距離で肌を近づける事も厭わず、視線を合わせてそらさなかった。
そんな姿をみたら──間違っても男好きとは言わないが──が"男性不信"であるなんて思えなかった。
ミサとはまた違ったタイプの小悪魔…天性の、相手を蠱惑する力を秘めていたのかも、とすら感じた程だ。
けれどそれが"素"でやった事でないというのなら、"演技"が上手だったという事だ。
演技が下手だからこそ、アイバーの演技指導を受けずに面接に挑んだ。
しかし今になって、その評価が覆される事となったのは、皮肉な事だ。
本当に、の事は解ろうと思っても解りきれない。
僕は何とも言えない気持ちになって、の首筋に顔を埋めた。
「いいでしょう。……では模木さん、出ずっぱりで申し訳ありませんが、今からさんの買い物に付添ってくれませんか?」
「はい。問題ありません」
「…模木さん、すみません」
「いえ。これが自分の仕事ですから」
模木さんは「車を回してきます」と言って、すぐに退室した。
も出かけるために立ち上がろうとした。が、僕はの腹に回した腕の力を強めて、押し留めた。
が困ったように眉を下げているだろう事は、顔を見なくても察せた。
優しく僕の手の甲を撫で、離してほしいという合図を送ってくる。しかし僕は離れ難くて、それに応じる事ができなかった。
「……月くん」
「……離れたくない……」
「月くん。ここは照れてください」
竜崎がまた淡々と言ってくるので、先程のように軽口を返す気にもなれず、代わりに大きなため息が出た。
ミサに対して漏らした刺々しい物とは違う、弱々しいものだ。
いつまでもこのままではいられないのは事実。
このままではズルズルと、いつまででもこの体制のまま居付いてしまうだろう。
僕は理性でもって、パッと両手を離そうとした。
けれどやはり離し切れなくて、そのまままた抱きしめてしまう。
すると、は暫く沈黙してから…小さな声でこう言った。
「……月くん。えと……、……また…後でね」
僕は思わずパッと顔を上げる。
からそんな積極的な事を言ってもらえるとは思わなくて、驚いた。
僕を宥めるための言葉だとわかってはいても、嬉しくならないはずがない。
「…」
僕はの体に回していた腕を解いてから、の手を取って立ち上がらせてやる。
は凄く恥ずかしそうにしていて、頬がむくれていた。
拗ねているのではなくて、照れているのだ。
照れて僕と視線を合わせるのも出来ない様子だったのに、僕はをもっと恥ずかしがらせたくてたまらなかった。
「"またあとで"…何をしてくれるのかな。楽しみに待ってるよ」
は頬を赤く染めて、何も答えずそのまま小走りに去ってしまった。
「月くん。もう一度言いますが、いい加減照れてください。嫌われますよ」
「まさか。…はこんな事くらいで、僕の事を嫌いにならない…いや、なれないよ」
僕はのことを心から愛しているし──も、僕の事が心底大好きだ。
僕はそう断言できるようになったことが嬉しく、誇らしい。
それを改めて実感するきっかけになったのは、監禁生活の中で起ったいざこざのおかげ。そう考えると、この生活もそう悪くないのかもな、なんて気楽な事を考えて笑っていた。
『申し訳ありません!さんを、火口に連れていかれました!』
──模木さんから、そんな不穏な連絡が来るまでは。
***
仕事用の携帯を買うために、模木さんは近場にある大きなショッピングモールの地下駐車場に車を止めたのだという。
そのまま、モールの建物内に繋がっているエスカレーターを上ったはずが、屋外へと出てしまったらしい。
そこで、偶然車で通りかかった火口に声をかけられ、ドライブに誘われた。
仕事を理由に断ったものの、強引に誘われて、模木さんはどう対処したらいいか少しの間悩んだ。
を守るべきか、潜入捜査を優先すべきか。
…そのほんの少しの思索を感じ取り、は自分から決断したのだという。
心の中では嫌悪感でいっぱいだったのにも関わらず、「使命感」だけで接待をしていたように。
今回もまた、使命感だけで、火口の誘いに乗った。
のその真面目さは美徳だけれど、僕は心配で翻弄されるばかりだ。
火口は模木さんを同乗させる事をもちろん許さず、2人きりのドライブをする事となる。
すぐに模木さんは火口の車の後ろから追尾したらしい。
そして目的地に到着すると、車は火口が止めた駐車場とは別の場所に止め、「偽名偽名ーッ!遅刻するぞーッ!」と言って名前を呼び寄せたのだという。
「……戻りました…」
結局は、珍しく強引な我がままを言ってまで望んだ買い物をする事は叶わず…
酷く憔悴した様子で、すぐに本部へと舞い戻る事になったのだった。
4.舞台裏─照れてください
模木さんがマネージャーとして就任し、ミサとを車でヨツバ本社まで送り出している最中の事。
「ミサミサ、さん、大丈夫かな〜。面接する部屋か二人自身に盗聴器つけるべきだったんじゃ?」
「面接する部屋はどの部屋かわかりませんし、お2人につけたら彼女たちがより危険になります。それにこれは私達チームの行動ですから、松田さんは心配しなくてもいいです」
「そうだ松田、こっちを手伝え」
松田さんはうろうろと落ち着きなく歩き回りながら、不安を口にしていた。
僕と竜崎はいつも通りデスクに向き合い、父さんは傍にあるソファーに腰かけ、テーブルにノートパソコンを置いていた。
そして側に広がる資料の山を指さしながら、松田さんに指示する。
僕は皆の会話に触れる事なく、考え事をしていた。
勿論、の事を心配していない訳ではない。最初からこの作戦には反対だった──
けれど、既に実行してしまった事。松田さんのようにただ不安がっていても仕方がない。
出来る事はないのだ。もし緊急事態に陥れば、模木さんから連絡が来るだろう。
そうなったら対策を考えればいい事。
僕が"今"考えるべき懸念点は、他にあった。
「……」
た
眼前に広がるモニターに映るのは、キラに殺された犯罪者たちのリストだ。
頬杖をつきながら、僕は思案する。
…やはり別人だ…僕が監禁される前のキラと、現在のキラ…
犯罪者を裁いているという行為で括れば同じだが、明らかに違う…
現在のキラは殺人を犯し報道された者を片っ端から裁いているが、前のキラは殺意のなかった者、誤って人を殺してしまった者。情状酌量の余地がある者に対しては極力、裁きを下していない。
例えば誤って車で人をはね、死なせてしまった者。
前のキラはかなり悪質な違反でもしていない限り、事故を起こした者を裁いていない。
それどころか、殺人を犯した者に対して、殺すだけの理由があった。殺された人間の方が悪だキラが判断すれば裁かない…
……僕がキラなら、こういう裁きをするだろう…
それに比べ現在のキラは、人間らしい感情が感じられない…
いや、前のキラも現在のキラも、大量殺人犯に変わりはない。殺人に正義も悪も存在しない。
どちらも悪だ。そんな事はわかっている。しかし…
前のキラの裁きの基準…僕の考えに恐ろしく近い…
「…!」
…何を考えているんだ僕は。僕は目を瞑って、妙な思考を逃すように背もたれにもたれた。
僕はキラではない。キラを自分に重ねて考えるなんて…
どうかしている。しかし今のキラと前のキラの違いに竜崎も気付いているはず…
何故この事を僕に言ってこない…
ちらりと、甘味を頬張りながらモニターを見つめる、隣の竜崎を見やる。
どうせ夜神月が前のキラだったのだから、言うまでもないという事か?
──それから数時間が経っても、面談が終わったという連絡が入る事はなかった。
「2人とも遅いなあ〜。まだ面接やってるのかなあ〜」
「よほどヨツバはお二人に聞きたい事があると…いい傾向です」
竜崎からすればそうだろうが…人命第一。安全第一という考えを一番にしている僕からすれば、喜べない。
そして僕は贔屓だ。それだけがヨツバからの質問責めにあってるのだと考えると、気が休まらない。
「竜崎。…やはり2人をヨツバに近づけるとしても、第二のキラであった様に見せるのは危険すぎる。今からでもアイバーや奈南川を使って安全に否定しておくべきだ」
「「第二のキラ容疑でLに拘束されたが、間違いだとわかり解放された」ですから、否定してます」
「僕が言ってるのは、その「Lに拘束された」が危険だって事だ」
「……しかしお二人は進んでこの策に…」
何が進んでだ。僕は思わず眉根を寄せる。
ミサはともかく…の事は、強引に言質を取り、巻き込んだにすぎないというのに。
そうして悶々としていた時、「心配するなライト」と父さんが声をかけてきた。
「今の状況を全てテレビ出演をし、私が発表する」
「もう警察でもないのにそれは無理ですよ局長…」
「いやさくらTVの出目川なら飛びついてくる。…私が警察を辞めた経緯…ヨツバがキラの能力を使っている事…それらを発表すれば、キラによる犯罪者殺しは必ず止まる」
「そんな事…ほとんどの事は父さんがおかしな事を言ってると思うだけだ。何よりも父さんがキラに殺される」
「わかっている…しかし世間に何と思われようと、ヨツバの殺人はてなくなるはずだ。私一人の命何人もの命が救えると思えば…」
「父さん!母さんや粧裕はどうなるんだ」
父さんが無謀な作戦を口にし、松田さん、僕はそれを止めた。
しばらくカップに口をつけながら静観していた竜崎も、ややあってから口を開いた。
「……夜神さん。1カ月待ってもらえませんか?どちらにしろヨツバの殺人は一ヵ月先まで起こらないようにしたんですから。1カ月待ってもらえませんか?」
「そうだが、ヨツバがキラと繋がってしいると発表すれば、犯罪者の方の殺人も止まるかもしれない」
「今夜神さんが言ったやり方では、おそらく99%止まりません。何度も言う様ですがキラを逃すだけです」
手にしていたカップをソーサーに静かに置きながら、竜崎は淡々と告げた。
父さんは少し思案した後、「どう思う?ライト」と僕に意見を求めてきた。
「父さん…悪いがここは竜崎に賛成だ。キラを捕まえなければ犯罪者殺しは止まらない。あの7人全員を逮捕するというなら止まる可能性はあるが、父さんの言ったやり方では止まらない。だからと言って、7人の名前を発表したりしても、混乱を招くだけだ」
僕は腕を組みながら、背後に立つ父さんに視線を向けつつ、意見を口にした。
別の捜査チームを組んで捜査している今。強引に竜崎側に引き込まれてしまったものの、心情的には父さんの側にある。
しかし、何もかも賛同できるわけではない。さらに否定の言葉を重ねる。
「キラに殺されるのを恐れるが故、あの会議に出席している者いれば、その者の一生を犠牲にする事になる」
「…うむ…。……竜崎、わかった…1カ月待とう。いやそれまでは協力する。しかし1カ月待ってキラを捕まえられなければ、私は何と言われようと行動に出る」
「わかりました、大丈夫です。夜神さんが協力してくれるなら、必ず1カ月以内に捕まえてみせます」
竜崎は振り返らずに、淡々と話した。しかし、改めて竜崎の捜査に加わるとした父さんは、その逆に声を強くして意思を述べた。
「では協力するとした上で言うが、私も二人を危険にさらす今の捜査には断固、反対する!」
「……そういう事ですか…」
竜崎が少しうんざりしたように言っているうちに、モニターにとあるものが映し出された。
地下駐車場に、模木さんが運転する車が入ってきたのだ。
「あっ3人が帰ってきた」
松田さんが安堵した声をもらしてから、10分もかからないうちに、模木さんとミサ、そして名前が本部へと戻り足を踏み入れた。
「はーっ疲れたー」
「竜崎。ヨツバはミサさん、さんの各方面での広告採用を決めました」
ミサは両手を広げて伸びをして、模木さんはマネージャーの皮を脱ぎ捨て、刑事の顔で報告をした。
そしてはその後ろを歩いてきていて、その顔色は決して明るくはない。
面接が上手くいかなかったのか、単に疲労しているだけなのか。
心配から話しかけようとするも、今は私情よりも捜査の報告を聞く方が先決だと自分を律した。
「どうだった?ミサミサ、さん」
「どうって?」
「だから、何を聞かれたとか、誰が怪しいとか…」
松田さんがミサとライトと竜崎さんにしかいたしません。捜査チームが違いますから」
「いや、たった今竜崎中心で協力していく事になったんだ」
ミサとは反対に、終始困ったような顔をしていたも、松田さんの報告を聞くと感心したような顔をしていた。
この少数精鋭の本部で意見が割れ、対立しているという状況にハラハラしていただろう事は察しがつく。再び一つにまとまったと聞いて、安堵しているのだろうと予想する。
「へー。携帯番号やメルアド教えたら、あの七人の内の三人がもうプライベートな誘いをしてきたよ」
「なんだと…!まさかさんの方も?」
「……。……」
「う、うわ…さんのそんな顔初めてみたな…」
ミサが自身の携帯を持ちあげながら松田さんに言うと、まるで思春期の娘を心配する父親のように顔を顰めた。
そしての方にも矛先を向けると、は一度答えようとして口を浅く開いたものの、そのまま閉じてしまった。
そのままぎゅっと口を固く結んで、眉を寄せ、目も険しく細めている。
松田さんの言う通り、こんな顔を見せるのは珍しい。は昔からのんびりしていて、他者に敵意を向ける性質ではない。
こういう表情をするのは、残忍な描写を多用する映画を鑑賞してる時とか…そんな時くらいだ。
つまりにとっては、プライベートな誘いを受ける事は、それほどに苦痛だという事。
残虐性のあるグロテスクな行為を躊躇いなく実行し、劣悪でサイコパスな凶悪犯を眺めるのと同じくらい、嫌悪すべき事なのだろう。
「この誘いに乗っていって探っていけばいいのね。まさに作戦通り」
「…!?そんな作戦だったっけ…?だってあのメールって…。…あんなの、わ、わたしむり…」
それほどまでに苦痛なのだろう…という予想通り、はミサの発言を聞くと、青ざめてしまった。
元から、「Lの事を知ってる」という事を匂わせれば、色々聞き出そうとしてくるだろう…
それを見越しての作戦だった。
それはも理解していたはずだ。
ヨツバ社員だって馬鹿ではない。あからさまに「探りを入れている」のがバレるような文面は作らないはずだ。
作るならば…「仕事の話がしたい」というのを全面に押し出した文面であればベスト。そうすれば、タレントからすれば、断りにくいはずだ。
しかしがパニックになっているのを見ると…
本気でを口説いてるようにしか受け取れないメールばかりだったのだと思う。
遊び慣れてる女性ならともかく、相手に迫るような誘いを持ち掛けるのは悪手だと、何故わからないのだろう。
「安心してください。…特にさん。その作戦は中止になったみたいです」
「えっ!?何でよ、ここまで来てふざけないでよ!」
「わ…私の意見ではありません」
竜崎の言葉を聞くや否や、ミサはデスクに向かう竜崎の背後を取り、髪を鷲掴みにしてかき回した。
僕はため息を吐きながら椅子から立ち上がり、ミサの腕を掴んだ。
竜崎の髪から手を離させながら、僕はミサに説得をした。
「このやり方では二人が危ないんだ。CMに出るなとは言わないが、これからは第二のキラ容疑や、Lに拘束されたかもしれないという事は否定していく。ミサと名前は模木さんにガードしてもらい、タレントとしてだけ動くんだ」
「……」
ミサは少し考えるように沈黙した。
「…ライトがそうしろって言うなら、そうする」
すると、真面目な顔でこくりと頷いた。僕はそれに安堵する。
僕のためなら命も惜しまないと言いながら無茶な行動をされても、嬉しくはない。
無茶をしがちなミサが頷いてくれた事で、肩の力が少し抜けた。
「…じゃ、ミサ疲れたし、明日のロケ早いから寝るね」
ミサは長居する事なく、明日のスケジュールのために部屋に戻ると告げ、くるりと背を向けた。
そしてこの部屋から退室しようとしながら、ふと思いついたような出入口の付近で足を止めた。
「ライト、一緒に寝ない?」
「………。……何言ってんだミサ」
僕は呆れて、もうその感情を隠す気にもなれない。
ミサは出入口から顔をひょっこりと出して、笑顔で僕を誘っている。
僕はそれに対して、大きなため息と険しい顔でもって返事をした。
しかしミサがそれに屈する事はなく、楽しそうな笑みを浮かべたまま奥へと引っ込んだ。
「わかってるー。それはキラを捕まえてからね!照れなくていいよーライト」
楽し気に言いながら、ミサがエレベーターに乗り込んだ音がした。
そしてドアが閉まった音がして、僕はようやく解放された気持ちになった。
ミサには散々振り回されている。ミサは危険から守るべき一般人であるのと共に、僕との事を翻弄する、遠ざけたい女性でもある。
「照れなくていいです月くん」
「…僕は照れてない」
僕のため息とこの表情が見聞きできなかったのだろうか。竜崎は淡々とふざけた事を言う。
「何真剣に答えてるんですか月くん」
「真剣になるに決まってるだろう。…、こっちにおいで」
模木さんの隣で暗い顔をしてたに向けて、僕は手招きをして呼び寄せた。
すると、素直に歩み寄ってきてくれた。
はミサの軽口には慣れてしまったようで、傷ついたり振り回された様子もない。
だからと言って、それに甘んじてフォローもせず放置するのは、誠実とは言えないだろう。
いや、そんな事は建前で──何よりも、僕がに言い訳をしたくてたまらないのだ。
ミサとの間に特別な感情なんてない。一方的に言い寄られてるだけ。
愛してるのはだけ。それをみっともなくも…言葉や行動で示したくてたまらない。
「本当に照れたりしてないから。僕が以外の女性と一緒に寝るなんて、ありえない」
「え……わっ」
僕はの腕をぐっと引いて、腰を掴んだ。そのまま僕に背を向けさせる形で膝に座らせて、その腹に腕を回した。
竜崎はともかく。松田さんや模木さん、父さんも、僕とのじゃれ合いにはもう慣れてしまったようで、無反応だ。
わざと見ないようにしているのではなく、もう日常の一部として受け止められているらしいい。これは好都合だった。
は言わずもがな、僕も人前でイチャつくのを好むような性質ではない。
けれどこんな状況だからこそ、人目など憚っていられない。
要するに、余裕がないのだ。
「…、バック開けて」
僕がに言うと、の肩がびくりと跳ねた。
体制的に、意図せず耳元で囁くような形になってしまい、吐息がかかったのかもしれない。
それが可愛くて、もっと意地悪をしたくなる気持ちを抑えつつ、素直にバックを開けてくれたに指示する。
至近距離にいるからは甘い香りがして、くらくらする。香水をつける習慣もないので、これはシャンプーの匂いだろうか。それとも、名前自身の香りを本能的に好ましく思っているせいで、これほどに甘く感じているのかもしれない。
「携帯かして」
「………うん」
が携帯を持つようになったのは、中学生の頃からだ。
の側にいる時間が長く、自然とがパスコードを打ち込む所を見る機会は多かった。
4桁の数字のパスワードなど単純すぎて、探ろうとせずとも、すぐにわかってしまった。
束縛する男など見苦しいだけだ。
パスワードが分かったとして、悪用するつもりなんてなかったけれど…。
高校生になってからのは、どういう心境の変化か、定期的にパスワードを変えていたようだった。
けれど、僕はその全てを把握していた。
監視されるようになってから、の側にいる時間が減り、"今"のパスワードを知る機会が少なくなってしまった──そのため、確証はなかった。
けれどの打ち込みパスワードには規則性がある。
最後に確認したパスワードは、僕が初めてテニスの大会で優勝した時の日付だった。
だとしたら今は──
「……わ。すごい」
僕が初めてテニスの中学生チャンピオンになり表彰された日付を打ち込んでみると、すぐに開いた。
の作るパスワードは、僕に関連するものばかりだ。
さすがに僕の誕生日だとか、そんな安直な4桁は選ばなかったけれど…
僕はいちいち表彰された日なんかを覚えてはいない。けれど前が打ち込む4桁の意味と規則性を初めて理解した時…自分に纏わる受賞歴を洗いざらい振り返り、暗記したのは記憶に新しい。
こうして名前の携帯をいじろうとする気はなかったけど…それに気が付いた時は嬉しすぎて、衝動的にそんな行動を取っていた。
僕にとっては数ある賞の1つでしかない。けれどが大切なものとして憶えていてくれているものは、僕も覚えていたかった。
「月くん、何でもできちゃうんだね」
「…何でもは無理だけど…に関することだからね」
僕が携帯をいじる所はにも見えていたので、パスワードを突破されると、感嘆の声を漏らしていた。
多少前に引かれる覚悟をしていたけれど…概ね予想通りの反応だ。
のんびりならしい。…いや、僕のことが大好きならしい反対だった。
パスワードを把握されている事に何の疑問も嫌悪も抱いていない。ただ素直に感心するだけ。きっと「さすが月くん」と言って内心にこにこ笑っていることだろう。
悪用なんてするはずないと、信頼されてる事が嬉しくてたまらない。
僕は名前に嫌われたくないし、ポジティブな感情だけを抱いていてほしい。
僕は携帯を持ちあげて、今度はに見えない角度で操作した。
メールボックスを開いて、受信したメールを確認する。
面接が終わって2時間も経っていないのに、ヨツバ社員たちから10件以上のメールが送られていた。
そして確認している間も、また新着メールが届く始末だ。
僕は中身を検閲しながら、眉を顰めた。
「……これは…確かに度が過ぎてるな」
「…なに?」
「一番しつこいのは火口だろうけど…一番に入れ込んでるのは紙村ってやつかな」
「……私、ミサが携帯三つも持ってる理解がやっとわかったかも」
「ああ、そうだろうね…」
名前しく険しい顔を隠さなかった理由や、パニックになっていた理由がよくわかった。
こいつらにLに対する探りをいれるつもりが微塵でもあるのか疑わしい文面ばかりだ。
下心しか感じられない。
仮に下心だけで誘っているにしても、もっと警戒心を抱かせないような、上手いやり方があったはずだろう。あまりに愚策で、賢いとは思えない。大手企業に勤める人間のやり口とは思えなかった。
「……私、もうモデルのお仕事しないつもりだったけど…少なくとも、ヨツバさんの広告のお仕事はしなきゃだよね」
「ん…そうだね…少なくとも、今辞退する訳にはいかないね」
僕はこの作戦には乗り気でないし、今でも反対だ。
けれど、実行してしまった以上、今引く方がリスクを伴うのも事実。
「もう何もしなくていいよ」と優しいだけの言葉をかけてやりたかったけれど、そうもいかない。
僕は名前の肩に顎を乗せて、体重をかけて抱きしめた。
まるでぬいみのような扱いをされても嫌がる事なく、名前は身を委ねてくれている。
そんなは隣に座る竜崎の方を見たかと思うと、声をかけた。
「竜崎くん、ちょっといいいかな」
「なんでしょう」
「……私、買い物にいきたい。…だめ、かな」
「ダメ、という事はありませんが…」
「できれば、今日」
「………さんは男性不審の気でもあるんですか?もしくは潔癖症」
僕はそれに対してyesともnoとも答えられなかった。
僕は小さい頃から、が下心を持った男に絡まられないよう、牽制し続けていた。
だから、が今までこんなに露骨な下心でもって接された事はないのだ。
それ故に、が男性に言い寄られた時、どういう反応をするのかは未知数だった。
ぐいぐい詰め寄られるのが苦手である事くらいは想像がついていたし、喜ばないという確信はあったけれど。
けれど男性不信や潔癖症と称されるほど、嫌悪を示すとまでは予測がつかなかった。
「接待の時は中々のやり手だと思ったんですけどね。訂正します。さんは、案外芝居が得意だったのかもしれません」
「………」
悔しいが、竜崎の言う通りだ。
松田さんを助けるため、ヨツバの者たちを招いて接待した時、は紙村相手に、魔性を感じさせるほどの距離の詰め方をしていた。
至近距離で肌を近づける事も厭わず、視線を合わせてそらさなかった。
そんな姿をみたら──間違っても男好きとは言わないが──が"男性不信"であるなんて思えなかった。
ミサとはまた違ったタイプの小悪魔…天性の、相手を蠱惑する力を秘めていたのかも、とすら感じた程だ。
けれどそれが"素"でやった事でないというのなら、"演技"が上手だったという事だ。
演技が下手だからこそ、アイバーの演技指導を受けずに面接に挑んだ。
しかし今になって、その評価が覆される事となったのは、皮肉な事だ。
本当に、の事は解ろうと思っても解りきれない。
僕は何とも言えない気持ちになって、の首筋に顔を埋めた。
「いいでしょう。……では模木さん、出ずっぱりで申し訳ありませんが、今からさんの買い物に付添ってくれませんか?」
「はい。問題ありません」
「…模木さん、すみません」
「いえ。これが自分の仕事ですから」
模木さんは「車を回してきます」と言って、すぐに退室した。
も出かけるために立ち上がろうとした。が、僕はの腹に回した腕の力を強めて、押し留めた。
が困ったように眉を下げているだろう事は、顔を見なくても察せた。
優しく僕の手の甲を撫で、離してほしいという合図を送ってくる。しかし僕は離れ難くて、それに応じる事ができなかった。
「……月くん」
「……離れたくない……」
「月くん。ここは照れてください」
竜崎がまた淡々と言ってくるので、先程のように軽口を返す気にもなれず、代わりに大きなため息が出た。
ミサに対して漏らした刺々しい物とは違う、弱々しいものだ。
いつまでもこのままではいられないのは事実。
このままではズルズルと、いつまででもこの体制のまま居付いてしまうだろう。
僕は理性でもって、パッと両手を離そうとした。
けれどやはり離し切れなくて、そのまままた抱きしめてしまう。
すると、は暫く沈黙してから…小さな声でこう言った。
「……月くん。えと……、……また…後でね」
僕は思わずパッと顔を上げる。
からそんな積極的な事を言ってもらえるとは思わなくて、驚いた。
僕を宥めるための言葉だとわかってはいても、嬉しくならないはずがない。
「…」
僕はの体に回していた腕を解いてから、の手を取って立ち上がらせてやる。
は凄く恥ずかしそうにしていて、頬がむくれていた。
拗ねているのではなくて、照れているのだ。
照れて僕と視線を合わせるのも出来ない様子だったのに、僕はをもっと恥ずかしがらせたくてたまらなかった。
「"またあとで"…何をしてくれるのかな。楽しみに待ってるよ」
は頬を赤く染めて、何も答えずそのまま小走りに去ってしまった。
「月くん。もう一度言いますが、いい加減照れてください。嫌われますよ」
「まさか。…はこんな事くらいで、僕の事を嫌いにならない…いや、なれないよ」
僕はのことを心から愛しているし──も、僕の事が心底大好きだ。
僕はそう断言できるようになったことが嬉しく、誇らしい。
それを改めて実感するきっかけになったのは、監禁生活の中で起ったいざこざのおかげ。そう考えると、この生活もそう悪くないのかもな、なんて気楽な事を考えて笑っていた。
『申し訳ありません!さんを、火口に連れていかれました!』
──模木さんから、そんな不穏な連絡が来るまでは。
***
仕事用の携帯を買うために、模木さんは近場にある大きなショッピングモールの地下駐車場に車を止めたのだという。
そのまま、モールの建物内に繋がっているエスカレーターを上ったはずが、屋外へと出てしまったらしい。
そこで、偶然車で通りかかった火口に声をかけられ、ドライブに誘われた。
仕事を理由に断ったものの、強引に誘われて、模木さんはどう対処したらいいか少しの間悩んだ。
を守るべきか、潜入捜査を優先すべきか。
…そのほんの少しの思索を感じ取り、は自分から決断したのだという。
心の中では嫌悪感でいっぱいだったのにも関わらず、「使命感」だけで接待をしていたように。
今回もまた、使命感だけで、火口の誘いに乗った。
のその真面目さは美徳だけれど、僕は心配で翻弄されるばかりだ。
火口は模木さんを同乗させる事をもちろん許さず、2人きりのドライブをする事となる。
すぐに模木さんは火口の車の後ろから追尾したらしい。
そして目的地に到着すると、車は火口が止めた駐車場とは別の場所に止め、「偽名偽名ーッ!遅刻するぞーッ!」と言って名前を呼び寄せたのだという。
「……戻りました…」
結局は、珍しく強引な我がままを言ってまで望んだ買い物をする事は叶わず…
酷く憔悴した様子で、すぐに本部へと舞い戻る事になったのだった。