第59話
4.舞台裏─依存する男
嘆いてばかりはいられない。僕自身のことなんてどうでもいい。何よりも、の怪我の手当が先決だ。
僕は気を取り直して、部屋を見渡し、何か使えるものがないか探す。
「すぐに手当しないと──」
「救急ボックスならプライベートルームには各部屋に一個は備え付けられてます。あの棚の中です」
竜崎は部屋の隅に設置されていた、1つの戸棚を指さした。
しかしそれも僕と竜崎の乱闘で倒れており、中身は床に散乱している。
幸い救急ボックスは観音開きの戸にはなく、引き出しにしまわれているようだった。
なので中身が外に零れ出すというような事はなく、引き出しを開けば、そのまま取り出せた。
ボックスの蓋を開けて、消毒液や包帯などを物色しているいと、トゥルルと電子音が鳴り響いた。
音の発信源を探すように見渡すと、どうやら部屋に設置された固定電話から発されている着信音らしいとわかる。
竜崎はそこまで歩いていくと、受話器を持ち上げ、耳にあてた。
「はい」
『竜崎、やりました!』
「どうしました!?」
『ミサミサがエイティーンの読者人気投票で一位になりました!二か月近く行方不明になっていたのが逆に話題になってよかったみたいです』
「……はい、そうですか」
『「はい、そうですか」って気のない返事ですね──…これは西中監督の次の映画の主役に決まったって事なんですよ!』
「……」
竜崎は最初こそ慎重に受け答えしていたものの、次第に興味をなくしたらしく、一言、二言話すと、受話器を手からパッと落とした。
そしてそれは器用に定位置へと落下し、通話は終了される。
僕が救急セットを漁りながら片手間に聞くと、竜崎はどうでもよさそうに答える。
「どうした?」
「どうでもいい、松田のいつものボケです」
「まあ、松田さんは天然だからな…」
電話の内容こそ聞えなかったものの、随分テンションの上がった松田さんの声は断片的に漏れ聞こえていた。
監視カメラで僕と竜崎が殴り合いをし、が負傷したのは見ていただろう。
それでも興奮しつつ伝えたいことがあったのだ。それが竜崎にボケと言われようが、彼はふざけてるつもりはなく、至って真面目なのだ。
その自覚のない人を、世間では天然と呼ぶ。松田さんはそういう類の人だった。
僕が包帯を片手にの元へ戻ると、ミサがソファーの足元に膝をつき、傷口を渋い顔で眺めていた。
「うわー…すごい血が出ちゃってるよー…ライト、これ傷口洗った方がいいんじゃない?」
「ああ、そうだな…でもとりあえず、傷口を覆わないと、移動中に血で汚してしまう」
「あ、そっか」
僕は「、ごめん。少し染みるよ」と言いながら消毒液をつけてから、軽く包帯を巻きつける。
ミサに言った通り、これは手当のためでなく、その前の応急処置だ。
自分達がやった事とはいえ──こんな嵐が過ぎ去ったかのような破片だらけの危ない部屋で、の治療なんてできない。
手当はの部屋でしよう。そう決めて、移動するまでの間床を汚さないよう、包帯を巻いたのだ。
「竜崎、僕たちは一度の部屋に戻る」
「はい。それは私も、という事ですね」
「しょうがないだろう。手錠で繋いだのはおまえだ」
「…ねえ、…この部屋どうすんの……」
僕はを姫抱きにしながら竜崎に声をかけ、ミサの部屋を出る。
ミサの声は聞こえなかったふりをして。
きっと誰かが掃除しに来てくれることだろう。あの惨状を放っておくほど、捜査本部の人間たちは薄情ではない。
無駄に長い廊下を速足で進み、エレベーターで階移動する。の自室に戻ると、まずをベッドにおろしてから、洗面所にあった桶にぬるま湯をくみ、の足元に置いた。
「…本当にごめん」
「月くん、もう謝らないで。割って入った私が悪いの。……余計な事してごめんね」
跪き、の足の血を流す。そんな僕の頭を撫でて、さらりとその細い指の間に通した。
その手付きは酷く優しくて、は少しも怒ってなんていない事を知る。
僕はの前ではいつでも冷静で、優しくて、礼儀正しい夜神月でいたかった。
長い付き合いなのだ。僕が年を重ねるごとに、どこか冷めていっている事は察しているだろうが──
が大好きでいてくれる、尊敬できる男でいたかった。恋を、していてほしかった。
だから必死に、冷めた自分や怒りを抱える自分をひた隠しにしてきた。
だというのに、よりにもよって、殴り合いの乱闘なんて見せつけてしまったのだ。
軽蔑される事を恐れていた僕は、に許され、変わらず愛されてる事に安堵する。
「こそ、謝らないで。余計だなんて事はない。…でもあんな無茶はもうしないでほしい」
「うん…わかった」
患部の血を洗い流し、間違っても細かい破片が残っていないか確認してから、
ガーゼを当て、その上から包帯を巻きつける。
「キツくない?」
「うん、大丈夫だよ、ありがとう…月くん、手当も上手なんだね」
はいつもと変わらない調子で僕を褒めた。
どうやら、まだの"大好きな月くん"のままでいられているらしい。
僕はそれに救われた心地になって、床に膝をついたまま、の両手を握る。
そして両手で包み込み、祈るようにして額にあて、目を瞑った。
の手は冷たい。元々、は低体温などではない。明らかに栄養失調や、ストレスが原因でこうなってる事は明らかだった。
その上、僕のせいで怪我まで負って。哀れみを禁じえない。
「……は本当に、散々な目にあってばかりだな。かわいそうに」
「まあ確かに、満身創痍ですね。未だに食事も十分にとれていないようですし」
「元々は食が細いのに、このままじゃ体を壊す」
「……どうにかした方がいいのは事実ですが…」
僕が手当する様子を黙ってみていた竜崎も、そこで口を挟んた。
しかしそれは現状を打開するものではなく、むしろ危うさを説くものであった。
「今のさんに、"効く治療"というのはありません。環境のせいでこうなってるのでしょうから。しかし監視を解いて、家に帰すこともできません」
「……だろうな」
「さんも、ミサさんみたいに振舞ってくれたらいいんですけどね」
「ミサは例外だろう。今のの方が、普通だよ」
そもそも、今日四人でミサの部屋に集まったのは、ミサが僕とデートをしたいと言って譲らなかったからだ。
第二のキラ容疑をかけられ、監禁までされたというのに、随分いい神経をしていると思う。
一度は断ったものの、竜崎は僕に惚れているミサに色仕掛けで情報を引き出してほしいと願っているようだし。
竜崎はミサの申し出を断らなかった。
そして僕も、が一人で監視カメラの影におびえ、部屋に閉じこもっているのは毒でしかないと思った。だから連れ出した。いい息抜きになるかと思って…
その結果が、この様だ。
僕は両手で包み込んでいたの手が少し温まってきたのを感じると、の目を見て問い掛けた。
「…、少し落ち着いた?」
「うん、月くんの手、温かいから」
は僕に手を握られて、安心したのだろうか。それとも、僕の体温が移された事で血行がよくなり、気分がよくなっただけだろうか。顔色も少しよくなったように見える。
とはいえこれは一時しのぎでしかない。
根本的な問題を解決しないと、はずっと食欲不振のままだし、手は冷えたままだ。
けれど一時でもの体調がよくなったことがうれしくて、安堵した。
──僕はそこでとある事を思い付き、に声をかけた。
「……ちょっと奥にいける?」
「?…うん」
僕が言うと、治療のために床に投げ出していた足をベッドの上に持ち上げて、
壁際にズリズリと後退した。
空いたスペースに膝を乗せ、靴を抜いでから僕もベッドの上に上がる。
そして掛け布団に手をかけて、ふわりと持ち上げた。
そのまますっぽりと僕との姿を覆い隠すようにして、僕と、2人だけの空間を作り出した。
これで真っ暗だったら、もっとムードが出来上がってよかったのに。
生憎部屋の電気はついているので、布団をかけて遮断したとして、どうやっても光は入り込んでくる。
けれどと吐息さえ交わる距離まで密着して──間近での潤んだ瞳をみれるのは、僥倖だったかもしれない。
はこれから何をされるのか想像して、耳まで赤くなっている。
「…月、くん、っ」
「…黙って」
僕は片手での頬に手を添え、片手で手を繋いだ。反射的に背けようとした顔を、ぐっと顎を掴むことで留める。そして何を言わせる隙も与えず、口を塞いでやった。
「んっ…!」
は僕の肩を押して、抵抗をした。けれど僕が何度も角度を変えて貪るうち、どんどんその体から力が抜けていき、やがてただ僕の口づけを受け入れ、なすがままになっていた。
僕は一度唇を離して、呼吸をさせてやると、の耳元で囁くようにしてこう打ち明けてあげた。
「大丈夫。監視カメラには映らないよ…まあでも、何をしてるかはバレてるだろうけどね」
「……なんで、こんなこと」
「なんで?…理由なんてないよ。ただ、耐えられなかった…もうどれだけ長い間に触れてない?…の肌に触れたい。温もりがほしかった…それだけだよ」
は姫抱きにされる事は、もう諦めている。けれど監視カメラに映ったまま、キスをするのだけは絶対に嫌がるだろう。
それをすれば、流石に軽蔑されるかもしれない。…軽蔑とまではいかなくとも、暫く口を聞いてくれなくなるかも。
でも、これならはきっと許す。の事を知り尽くしている僕が思いついた、ギリギリの策である。
「それに、僕ものこんな表情、誰にも見せたくない…瞳が潤んでるね。…可愛い」
はキスの余韻が残っているのか、うっとりと目を細めていて、呼吸が荒い。
舌もいれたので、その刺激で痺れているのか、思考もぼうっとしているのかもしれない。
僕が頬に手をそえると、無意識にか、猫のように擦り寄ってきた。
それが心底愛しきくて、リップ音を立てながら、の体中にキスを落とす。
さすがにキスマークをつけたら怒られるだろうと思い、そこは自制した。
目元、額、鼻、頬、首筋…いたるところに唇を触れさせる。ただ触れるだけでなく、吐息を吐いて、時には舌を這わせた。
その度は身体をビクリと震わせ、快感を逃そうとしていた。
声を漏らさないよう必死になってなるがかわいくて、やめられない。
離れ難く、やめ時がわからなくなっきていた、その時だった。
「…月くん。私がいるのは分かってますよね?」
「わかってるから、こうして見えないようにしてるんだろう、竜崎」
「そうでしょうね。…そろそろいいですか?私、立ちっぱなしにされるのは嫌ですよ」
僕は竜崎に急かされて、ようやく触れ合いを止める決断を下した。
本当なら、一日中でもこうしていたい。けれどそうもいかない。
最後にの鎖骨の辺りに唇を落とし、「残念」と言って笑いながら、ゆっくりと布団を持ち上げた。
そこには肩で息をして、髪を乱し、瞳を潤ませる、最愛の女性がいた。
耳まで真っ赤になりながら、とろんとした目をしている。
「……うん、も大分顔色がよくなったね」
僕は髪を整えてやりながら、心底満たさたれた気分で微笑んだ。
触れる事に理由なんてない、温もりがほしかっただけ…とには言ったけれど。
一応、僕にも大義名分というものがあった。
の気を紛らわし、つま先からてっぺんまで、体を温めてあげたかったのだ。
くたりと体の力が抜けてしまっているは煽情的で、全身熱を帯びていることは明白だった。
「随分な荒療治ですね」
竜崎は少し呆れたように言った。
布団を被っていたから姿は見られていない。けれど竜崎は間近にいて、その"荒療治"を見守っていたのだ。
それを再確認したは恥ずかしくなったようで、頬を押さえて俯いてしまった。
「…月くんのばか…」
「すき、にしか聞こえないよ」
僕の服を弱弱しく握りながら俯くは、どう見ても僕が好きだ。
恥ずかしい事をされても、突き飛ばす事もなく、それどころか僕を掴んで離さない。
もっとやって欲しいと誘っているのかとすら思ってしまうほどだった。
***
に嫌われる事はなかった。これは喜ばしい事である。
けれど、懸念すべきこともある。
予想通り、が足の裏を怪我した事によって、それまで以上に体力が落ちる結果を招いた。
移動するときは必ず僕が抱えて歩くようになり、それが体力を落とす要因になってるのはわかっていた。
しかしそうしないと、の足の裏の傷は開くだろう。
無理に歩こうとすればするほど、の回復は遅くなる。けれどそうして保身に走るほど、の歩く体力が衰えていく。悪循環に陥っていた。
「月くん、自力で歩かせて、リハビリさせるのも必要だと思いますが」
「そんな事をして、足の裏の傷口が開いたら、もっと長引くだろう」
ミサの部屋に向うため、今日も僕は竜崎を引き連れて、の部屋に迎えに行った。
そして姫抱きをしながら歩く。
僕はこの状況を問題視しているかのように口では言うけれど、頬は緩んでいる。
それを隠すつもりはない。
「まあ僕は、がずっとこのままでも構わないけどね…」
「…月くん」
僕がご機嫌な調子で言うと、は僕の腕の中で、少し咎めるような声で名を呼んだ。
それすら可愛くて、たまらない。
「ごめん、冗談だよ。怪我は治ってほしいと思ってるよ」
「怪我は、ですか」
竜崎はぼそりと揚げ足を取るようにつぶやいた。
僕はそれに否定も肯定もしなかった。
竜崎の考えている事は当たってる。こんなの、僕の機嫌のよさをみれば、誰でもわかるだろう。
僕は現状維持を続けても構わない。
監視カメラはこのビルのそこかしこについていて、依然として僕達は容疑者のままだ。
そして手錠で繋がれてる今、と2人きりなれる瞬間はない。
そんな状況下で、唯一合法的に堂々と密着できるのが、この瞬間なのだ。
僕はに幸せでいてほしい。笑顔で毎日健やかにすごしてほしいと願わない日はない。
けれど今だけは、心のどこかでが不健康である事を喜んでいる自分がいる。
もちろん殴ってしまった事、傷を負わせたことは反省しているし、自責の念も抱いてる。
監禁され、今も軟禁が続き、食欲不振を患うをかわいそうに思う。
けれどそのおかげで、触れ合えるのも事実。
僕はの幸福と不幸を、同時に願っているのだった。
ミサの部屋につくと、僕が指示せずとも、竜崎が率先して開けるようになった。
もちろん、ノックなどしない。
けれどそれをミサが一度たりとも怒った事はない。僕に会える喜びの方が勝っているのだと思う。
「月ー!待ってたよ〜!」と言って、瞳を輝かせ、両手を広げて、いつも通り僕の来訪を喜んでいた。
そして毎度の事ながら、テーブルの上にはデザートと飲み物がセッティングしてある。
今日はアフタヌーンティーのセットがずらりと並べられていた。
「たまにはミサの隣に座ってよ〜」
「私が隣に座るのでは不満ですか?」
「不満しかありませんけど!」
僕がいつものようにをソファーにおろし、その隣に座ると、ミサは頬を膨らませる。
そして竜崎に文句を言い、くだらない言い合いをするのが通例になっていた。
僕は心底どうでもよかったけれど、はそのやり取りが面白くて好きらしい。いつもくすくすと笑っている。
穏やかな表情でリラックスしているを見てるのは、僕も好きだ。
この時ばかりは、いつも突拍子もない事を言うばかりのミサと竜崎に感謝をする。
ミサはひとしきり竜崎に文句を言い終わると、デザートを貪るばかりの竜崎に見切りをつけ、くるりとの方をみた。
「ねー、さんずっと部屋の中にいて息つまらない?たまには外出たら?どーせ監視付きだろうけど」
「はい、外に出るなら、ミサさん同様、監視をつける事になります」
「そう!ミサずーっとマッツーにつきまとわれてて、息つまるんだけど!」
「それだと、ミサさんは外に出ても息抜きにはなってないという事になりますが…」
「それとこれとは別!」
はミサの提案を受けて、決してマイナスの反応はしなかった。
逆に、少し瞳を輝かせ、興味を持ったようだ。
けれど、すぐに瞼を伏せ、視線をつま先に落としてしまう。どうしたのだろう、と思ったのも束の間のこと。その理由はすぐにわかった。
「……私はミサちゃんみたいにお仕事がある訳でもないし。負担かけたくないから…」
はキラ捜査本部が、ギリギリの少数精鋭で回されている事を理解しているようだった。
確かに、僕も「が望むならいくらでも出かけていい」とは言えない。
いくらの事を愛していて、心配だからと言ってもだ。
竜崎に「のために人員を裂いて外出させろ」とは言うつもりもない。
私情と仕事は分けて考えるべきだ。
僕は監視対象でありながらして、監禁される前から、捜査に協力している、捜査員の一人なのだ。
僕にはその責任がある。
ミサもの言い分を理解したのだろう。「そんなの気にしなくていいじゃん!」なんて楽観的なことは言わず、真面目に考えているようだった。
そして、何かを閃いたように瞳を輝かせ、パッと顔を上げた。
「…そうだ!それなら、ミサのロケについてくればいいんじゃない?そしたら、マッツー1人で済むし!」
「……それは、確かにありかもしれないな」
ミサの口からは、思いがけず効率的な代替案が出てきた。
一人に人員を裂けないのであれば、2人まとめてしまえばいい。
2人も一片に監視しなければならない松田さんには負担で、シワ寄せは行くだうが…
十分可能だ。
僕がミサを肯定するように頷くと、心底嬉しそうに笑っていた。
「…竜崎も、の事は心配してるからな。この現状はいずれどうにかしないと」
「えっ竜崎さんって心配とかするんだ…ちょっと意外」
僕がじっと竜崎を見ながら言うと、僕の言葉の裏にある意図をよく分かっていないミサは、"心配"という言葉をそのままに受け取り、意外そうにしていた。
けれど竜崎が心配しているのは、可哀そうなのことでも何でもない。
僕の隣に座る、当事者であるですらもよくわかっていないようで、きょとんとしていた。
「──"厄介"なんだろう?」
「…そうですね。これ以上悪化すれば厄介極まりないです。ですので、リハビリに連れ出すというのには賛成です」
竜崎はことある事に、のことを厄介だと言った。
それは栄養失調に陥ったり、歩行困難に落ちて行ったのことを心配してのことじゃない。
その事で僕がを心底憐れみ、同情し、憎しみ、離れ難く思い──
しかしそれでいてその現状を諸手を上げて歓迎し、過剰に依存する事を恐れてる。
事実、僕はの不幸は望んでいないけれど、不健康である事を喜んでいる。
そしてに怪我をさせたり、怒りを見せたり、不健康である事を喜ぶそんな自分に自己嫌悪し、に縋りついて許しを請う哀れな姿を、"厄介"だと言っているのだ。
僕は少なからず、竜崎に疑われるのと同時に、優秀な頭脳を買われている。
そんな僕に、この異質な閉鎖空間で、恋情や依存関係によってコンディションを崩されては困ると考えてるのだ。
だから、ミサの提案に、竜崎はあっさりと首を縦に振った。
「ではミサさん、足の裏の傷が完治したら、さんをロケの見学に連れて行ってください」
「おっけー!まかせて!」
の意思は関係なしに、三人だけで話を進めてしまった。
完全には置いてけぼりで、困ったような顔をしてる。けれどは監視カメラに監視されてる事が一番のストレスなはず。
外出できるというのは、にとっても魅力的なはず。嫌がるとは思えない。
──この事で一番ダメージを食らうのは、僕だろう。
「はあ…でも、寂しくなるな…僕はずっと今のままでいいのに」
の手を握りながら、僕ははあ、と冗談めかした風にため息をついた。
の手前、冗談っぽく言ったけど。半分は本心である事に、きっとは気が付いている。
は僕の服の裾をくっと引っ張って、自分の方に注意を向けさせた。
そしてじっと僕の瞳を見据えながら、こう言った。
「月くん。私はずっと今のままは嫌だな」
「えっ…」
一瞬、僕は拒絶されたのかと思い、青ざめた。しかし次の言葉を聞いて、顔に熱が集まった。
「だから…、…早く、監視が解けるといいね。そうしたらもっと近くにいられる」
は上目遣いで僕を見上げて笑っていた。
その笑顔は無垢で、その言葉には何の裏もない。
けれど僕は考えてしまった。監視が解ける=それぞれの自宅に戻り、日常を取り戻すという事だ。だだを捏ねる僕を宥めるために、明るい未来を語ったのだろう。
けれど──僕はもう、今までに何度かを押し倒している。何年か触れるだけのキスで我慢していたところを、ここ最近は舌を絡める深いキスにまで進めてもいた。
高校生から付き合って、今の僕達は大学生だ。純愛にもほどがあると思う。
けれど、それでも着実に一歩一歩、距離は縮まっている。
もっと…──もっとの近くにいく。それはつまり、深いキス以上のこと。押し倒す以上の何かをする事──
僕はそう連想せずにいられなかったのだ。は、全然にそこまで考えていないというのに。
僕はこんなにも無垢なに対して、何を言う事も出来なくなってしまった。
何も知らないのはだけ。
それを見ていたミサと竜崎は僕が何を想像しているかも理解して、茶化してきた。
…いや多分、が己は無自覚であるという事には気づいていないかもしれない。
2人して、イチャついてると思われてる。
「ちょっとー!ミサの前でいちゃつかないでくれる!?」
「月君、照れてるんですか」
「照れてない」
僕はぶっきらぼうに竜崎とミサを突き放す。口では否定したものの、今ばかりは図星をつかれたと認めざるを得ない。それが腹立たしい。
やっぱりは発言の意味を理解していなかったようで、よくわからないと言った様子で曖昧に笑っていた。
──そして、それから二週間が経った頃のことだった。
の包帯は完全に取れた。足の裏の傷は、綺麗に塞がっていたのだ。
そして僕が完治を宣言したのと同じ日に、偶然にもミサのロケが予定に組み込まれていた。
そのため、さっそくはリハビリと称して出かける事となる。
僕はメインルームに映るモニターをみて、が出かける姿を見守った。
監視カメラがとらえた映像は、そこに映るように設定されているからだ。
そしてエントランスに三人が出て来るのを見ると、僕はぎょっとした。
「なっ…ミサ、あいつ何考えて…!?」
大方ミサの口車に載せられたのだろう。
どういう流れでそんな事になったのか。は見た事もないくらい、丈の短いゴシックなスカートをはいていた。
恥じらい、露出した太ももを必死に隠そうとして、裾を引っ張ってるのは逆効果だ。
その姿は可愛くて──あまりに煽情的。
「月くん、何か問題でも?」
「あ、いや…」
竜崎は僕を煽っている訳ではなく、心底何が問題かわからない様子だった。
過剰反応しているのはどうやら僕だけらしい。
『じゃ、いくよマッツー!今日は両手に華よ』
『はは、こ、光栄だな〜なんて…』
大方、ここで喜んだらセクハラになるのか…?などと考えているのだろう。
松田さんは引きつった笑顔で受け答えてしていた。
の露出の激しい洋服を気にする素振りはなかった。ひとまず安心した。
けれど、外に出ればそうはいかなすだろう。
ミサの服は本当に露出が激しいものばかりだ。
僕の家にやってきた時、僕の自室に行くため階段を上がる最中、「パンツ見えちゃってるし…」と粧裕が引いていたのを忘れていない。
ミサはその時見せてもいいような下着を履いていたのかもしれないが、今日の名前にもそこまでの配慮をしてくれているのだろうか。
いや、見せ下着だろうがなんだろうが、見知らぬ人間にの素肌をみられる事そのものが許せないのだ。
手錠で繋がれ、監視から逃れられない現状をこれほどまでに呪った事はない。
どうかが無事に帰ってきますように──と、僕は神に祈った。無宗教だというのに、都合のいい時ばかり神に祈るのが日本人の性だ。
そして、はその日、確かに無事に帰ってきた。──けれど。
「………やってくれましたね」
三人が帰ってきた頃には、捜査本部はまるでお通夜状態に陥っていたのだった。
4.舞台裏─依存する男
嘆いてばかりはいられない。僕自身のことなんてどうでもいい。何よりも、の怪我の手当が先決だ。
僕は気を取り直して、部屋を見渡し、何か使えるものがないか探す。
「すぐに手当しないと──」
「救急ボックスならプライベートルームには各部屋に一個は備え付けられてます。あの棚の中です」
竜崎は部屋の隅に設置されていた、1つの戸棚を指さした。
しかしそれも僕と竜崎の乱闘で倒れており、中身は床に散乱している。
幸い救急ボックスは観音開きの戸にはなく、引き出しにしまわれているようだった。
なので中身が外に零れ出すというような事はなく、引き出しを開けば、そのまま取り出せた。
ボックスの蓋を開けて、消毒液や包帯などを物色しているいと、トゥルルと電子音が鳴り響いた。
音の発信源を探すように見渡すと、どうやら部屋に設置された固定電話から発されている着信音らしいとわかる。
竜崎はそこまで歩いていくと、受話器を持ち上げ、耳にあてた。
「はい」
『竜崎、やりました!』
「どうしました!?」
『ミサミサがエイティーンの読者人気投票で一位になりました!二か月近く行方不明になっていたのが逆に話題になってよかったみたいです』
「……はい、そうですか」
『「はい、そうですか」って気のない返事ですね──…これは西中監督の次の映画の主役に決まったって事なんですよ!』
「……」
竜崎は最初こそ慎重に受け答えしていたものの、次第に興味をなくしたらしく、一言、二言話すと、受話器を手からパッと落とした。
そしてそれは器用に定位置へと落下し、通話は終了される。
僕が救急セットを漁りながら片手間に聞くと、竜崎はどうでもよさそうに答える。
「どうした?」
「どうでもいい、松田のいつものボケです」
「まあ、松田さんは天然だからな…」
電話の内容こそ聞えなかったものの、随分テンションの上がった松田さんの声は断片的に漏れ聞こえていた。
監視カメラで僕と竜崎が殴り合いをし、が負傷したのは見ていただろう。
それでも興奮しつつ伝えたいことがあったのだ。それが竜崎にボケと言われようが、彼はふざけてるつもりはなく、至って真面目なのだ。
その自覚のない人を、世間では天然と呼ぶ。松田さんはそういう類の人だった。
僕が包帯を片手にの元へ戻ると、ミサがソファーの足元に膝をつき、傷口を渋い顔で眺めていた。
「うわー…すごい血が出ちゃってるよー…ライト、これ傷口洗った方がいいんじゃない?」
「ああ、そうだな…でもとりあえず、傷口を覆わないと、移動中に血で汚してしまう」
「あ、そっか」
僕は「、ごめん。少し染みるよ」と言いながら消毒液をつけてから、軽く包帯を巻きつける。
ミサに言った通り、これは手当のためでなく、その前の応急処置だ。
自分達がやった事とはいえ──こんな嵐が過ぎ去ったかのような破片だらけの危ない部屋で、の治療なんてできない。
手当はの部屋でしよう。そう決めて、移動するまでの間床を汚さないよう、包帯を巻いたのだ。
「竜崎、僕たちは一度の部屋に戻る」
「はい。それは私も、という事ですね」
「しょうがないだろう。手錠で繋いだのはおまえだ」
「…ねえ、…この部屋どうすんの……」
僕はを姫抱きにしながら竜崎に声をかけ、ミサの部屋を出る。
ミサの声は聞こえなかったふりをして。
きっと誰かが掃除しに来てくれることだろう。あの惨状を放っておくほど、捜査本部の人間たちは薄情ではない。
無駄に長い廊下を速足で進み、エレベーターで階移動する。の自室に戻ると、まずをベッドにおろしてから、洗面所にあった桶にぬるま湯をくみ、の足元に置いた。
「…本当にごめん」
「月くん、もう謝らないで。割って入った私が悪いの。……余計な事してごめんね」
跪き、の足の血を流す。そんな僕の頭を撫でて、さらりとその細い指の間に通した。
その手付きは酷く優しくて、は少しも怒ってなんていない事を知る。
僕はの前ではいつでも冷静で、優しくて、礼儀正しい夜神月でいたかった。
長い付き合いなのだ。僕が年を重ねるごとに、どこか冷めていっている事は察しているだろうが──
が大好きでいてくれる、尊敬できる男でいたかった。恋を、していてほしかった。
だから必死に、冷めた自分や怒りを抱える自分をひた隠しにしてきた。
だというのに、よりにもよって、殴り合いの乱闘なんて見せつけてしまったのだ。
軽蔑される事を恐れていた僕は、に許され、変わらず愛されてる事に安堵する。
「こそ、謝らないで。余計だなんて事はない。…でもあんな無茶はもうしないでほしい」
「うん…わかった」
患部の血を洗い流し、間違っても細かい破片が残っていないか確認してから、
ガーゼを当て、その上から包帯を巻きつける。
「キツくない?」
「うん、大丈夫だよ、ありがとう…月くん、手当も上手なんだね」
はいつもと変わらない調子で僕を褒めた。
どうやら、まだの"大好きな月くん"のままでいられているらしい。
僕はそれに救われた心地になって、床に膝をついたまま、の両手を握る。
そして両手で包み込み、祈るようにして額にあて、目を瞑った。
の手は冷たい。元々、は低体温などではない。明らかに栄養失調や、ストレスが原因でこうなってる事は明らかだった。
その上、僕のせいで怪我まで負って。哀れみを禁じえない。
「……は本当に、散々な目にあってばかりだな。かわいそうに」
「まあ確かに、満身創痍ですね。未だに食事も十分にとれていないようですし」
「元々は食が細いのに、このままじゃ体を壊す」
「……どうにかした方がいいのは事実ですが…」
僕が手当する様子を黙ってみていた竜崎も、そこで口を挟んた。
しかしそれは現状を打開するものではなく、むしろ危うさを説くものであった。
「今のさんに、"効く治療"というのはありません。環境のせいでこうなってるのでしょうから。しかし監視を解いて、家に帰すこともできません」
「……だろうな」
「さんも、ミサさんみたいに振舞ってくれたらいいんですけどね」
「ミサは例外だろう。今のの方が、普通だよ」
そもそも、今日四人でミサの部屋に集まったのは、ミサが僕とデートをしたいと言って譲らなかったからだ。
第二のキラ容疑をかけられ、監禁までされたというのに、随分いい神経をしていると思う。
一度は断ったものの、竜崎は僕に惚れているミサに色仕掛けで情報を引き出してほしいと願っているようだし。
竜崎はミサの申し出を断らなかった。
そして僕も、が一人で監視カメラの影におびえ、部屋に閉じこもっているのは毒でしかないと思った。だから連れ出した。いい息抜きになるかと思って…
その結果が、この様だ。
僕は両手で包み込んでいたの手が少し温まってきたのを感じると、の目を見て問い掛けた。
「…、少し落ち着いた?」
「うん、月くんの手、温かいから」
は僕に手を握られて、安心したのだろうか。それとも、僕の体温が移された事で血行がよくなり、気分がよくなっただけだろうか。顔色も少しよくなったように見える。
とはいえこれは一時しのぎでしかない。
根本的な問題を解決しないと、はずっと食欲不振のままだし、手は冷えたままだ。
けれど一時でもの体調がよくなったことがうれしくて、安堵した。
──僕はそこでとある事を思い付き、に声をかけた。
「……ちょっと奥にいける?」
「?…うん」
僕が言うと、治療のために床に投げ出していた足をベッドの上に持ち上げて、
壁際にズリズリと後退した。
空いたスペースに膝を乗せ、靴を抜いでから僕もベッドの上に上がる。
そして掛け布団に手をかけて、ふわりと持ち上げた。
そのまますっぽりと僕との姿を覆い隠すようにして、僕と、2人だけの空間を作り出した。
これで真っ暗だったら、もっとムードが出来上がってよかったのに。
生憎部屋の電気はついているので、布団をかけて遮断したとして、どうやっても光は入り込んでくる。
けれどと吐息さえ交わる距離まで密着して──間近での潤んだ瞳をみれるのは、僥倖だったかもしれない。
はこれから何をされるのか想像して、耳まで赤くなっている。
「…月、くん、っ」
「…黙って」
僕は片手での頬に手を添え、片手で手を繋いだ。反射的に背けようとした顔を、ぐっと顎を掴むことで留める。そして何を言わせる隙も与えず、口を塞いでやった。
「んっ…!」
は僕の肩を押して、抵抗をした。けれど僕が何度も角度を変えて貪るうち、どんどんその体から力が抜けていき、やがてただ僕の口づけを受け入れ、なすがままになっていた。
僕は一度唇を離して、呼吸をさせてやると、の耳元で囁くようにしてこう打ち明けてあげた。
「大丈夫。監視カメラには映らないよ…まあでも、何をしてるかはバレてるだろうけどね」
「……なんで、こんなこと」
「なんで?…理由なんてないよ。ただ、耐えられなかった…もうどれだけ長い間に触れてない?…の肌に触れたい。温もりがほしかった…それだけだよ」
は姫抱きにされる事は、もう諦めている。けれど監視カメラに映ったまま、キスをするのだけは絶対に嫌がるだろう。
それをすれば、流石に軽蔑されるかもしれない。…軽蔑とまではいかなくとも、暫く口を聞いてくれなくなるかも。
でも、これならはきっと許す。の事を知り尽くしている僕が思いついた、ギリギリの策である。
「それに、僕ものこんな表情、誰にも見せたくない…瞳が潤んでるね。…可愛い」
はキスの余韻が残っているのか、うっとりと目を細めていて、呼吸が荒い。
舌もいれたので、その刺激で痺れているのか、思考もぼうっとしているのかもしれない。
僕が頬に手をそえると、無意識にか、猫のように擦り寄ってきた。
それが心底愛しきくて、リップ音を立てながら、の体中にキスを落とす。
さすがにキスマークをつけたら怒られるだろうと思い、そこは自制した。
目元、額、鼻、頬、首筋…いたるところに唇を触れさせる。ただ触れるだけでなく、吐息を吐いて、時には舌を這わせた。
その度は身体をビクリと震わせ、快感を逃そうとしていた。
声を漏らさないよう必死になってなるがかわいくて、やめられない。
離れ難く、やめ時がわからなくなっきていた、その時だった。
「…月くん。私がいるのは分かってますよね?」
「わかってるから、こうして見えないようにしてるんだろう、竜崎」
「そうでしょうね。…そろそろいいですか?私、立ちっぱなしにされるのは嫌ですよ」
僕は竜崎に急かされて、ようやく触れ合いを止める決断を下した。
本当なら、一日中でもこうしていたい。けれどそうもいかない。
最後にの鎖骨の辺りに唇を落とし、「残念」と言って笑いながら、ゆっくりと布団を持ち上げた。
そこには肩で息をして、髪を乱し、瞳を潤ませる、最愛の女性がいた。
耳まで真っ赤になりながら、とろんとした目をしている。
「……うん、も大分顔色がよくなったね」
僕は髪を整えてやりながら、心底満たさたれた気分で微笑んだ。
触れる事に理由なんてない、温もりがほしかっただけ…とには言ったけれど。
一応、僕にも大義名分というものがあった。
の気を紛らわし、つま先からてっぺんまで、体を温めてあげたかったのだ。
くたりと体の力が抜けてしまっているは煽情的で、全身熱を帯びていることは明白だった。
「随分な荒療治ですね」
竜崎は少し呆れたように言った。
布団を被っていたから姿は見られていない。けれど竜崎は間近にいて、その"荒療治"を見守っていたのだ。
それを再確認したは恥ずかしくなったようで、頬を押さえて俯いてしまった。
「…月くんのばか…」
「すき、にしか聞こえないよ」
僕の服を弱弱しく握りながら俯くは、どう見ても僕が好きだ。
恥ずかしい事をされても、突き飛ばす事もなく、それどころか僕を掴んで離さない。
もっとやって欲しいと誘っているのかとすら思ってしまうほどだった。
***
に嫌われる事はなかった。これは喜ばしい事である。
けれど、懸念すべきこともある。
予想通り、が足の裏を怪我した事によって、それまで以上に体力が落ちる結果を招いた。
移動するときは必ず僕が抱えて歩くようになり、それが体力を落とす要因になってるのはわかっていた。
しかしそうしないと、の足の裏の傷は開くだろう。
無理に歩こうとすればするほど、の回復は遅くなる。けれどそうして保身に走るほど、の歩く体力が衰えていく。悪循環に陥っていた。
「月くん、自力で歩かせて、リハビリさせるのも必要だと思いますが」
「そんな事をして、足の裏の傷口が開いたら、もっと長引くだろう」
ミサの部屋に向うため、今日も僕は竜崎を引き連れて、の部屋に迎えに行った。
そして姫抱きをしながら歩く。
僕はこの状況を問題視しているかのように口では言うけれど、頬は緩んでいる。
それを隠すつもりはない。
「まあ僕は、がずっとこのままでも構わないけどね…」
「…月くん」
僕がご機嫌な調子で言うと、は僕の腕の中で、少し咎めるような声で名を呼んだ。
それすら可愛くて、たまらない。
「ごめん、冗談だよ。怪我は治ってほしいと思ってるよ」
「怪我は、ですか」
竜崎はぼそりと揚げ足を取るようにつぶやいた。
僕はそれに否定も肯定もしなかった。
竜崎の考えている事は当たってる。こんなの、僕の機嫌のよさをみれば、誰でもわかるだろう。
僕は現状維持を続けても構わない。
監視カメラはこのビルのそこかしこについていて、依然として僕達は容疑者のままだ。
そして手錠で繋がれてる今、と2人きりなれる瞬間はない。
そんな状況下で、唯一合法的に堂々と密着できるのが、この瞬間なのだ。
僕はに幸せでいてほしい。笑顔で毎日健やかにすごしてほしいと願わない日はない。
けれど今だけは、心のどこかでが不健康である事を喜んでいる自分がいる。
もちろん殴ってしまった事、傷を負わせたことは反省しているし、自責の念も抱いてる。
監禁され、今も軟禁が続き、食欲不振を患うをかわいそうに思う。
けれどそのおかげで、触れ合えるのも事実。
僕はの幸福と不幸を、同時に願っているのだった。
ミサの部屋につくと、僕が指示せずとも、竜崎が率先して開けるようになった。
もちろん、ノックなどしない。
けれどそれをミサが一度たりとも怒った事はない。僕に会える喜びの方が勝っているのだと思う。
「月ー!待ってたよ〜!」と言って、瞳を輝かせ、両手を広げて、いつも通り僕の来訪を喜んでいた。
そして毎度の事ながら、テーブルの上にはデザートと飲み物がセッティングしてある。
今日はアフタヌーンティーのセットがずらりと並べられていた。
「たまにはミサの隣に座ってよ〜」
「私が隣に座るのでは不満ですか?」
「不満しかありませんけど!」
僕がいつものようにをソファーにおろし、その隣に座ると、ミサは頬を膨らませる。
そして竜崎に文句を言い、くだらない言い合いをするのが通例になっていた。
僕は心底どうでもよかったけれど、はそのやり取りが面白くて好きらしい。いつもくすくすと笑っている。
穏やかな表情でリラックスしているを見てるのは、僕も好きだ。
この時ばかりは、いつも突拍子もない事を言うばかりのミサと竜崎に感謝をする。
ミサはひとしきり竜崎に文句を言い終わると、デザートを貪るばかりの竜崎に見切りをつけ、くるりとの方をみた。
「ねー、さんずっと部屋の中にいて息つまらない?たまには外出たら?どーせ監視付きだろうけど」
「はい、外に出るなら、ミサさん同様、監視をつける事になります」
「そう!ミサずーっとマッツーにつきまとわれてて、息つまるんだけど!」
「それだと、ミサさんは外に出ても息抜きにはなってないという事になりますが…」
「それとこれとは別!」
はミサの提案を受けて、決してマイナスの反応はしなかった。
逆に、少し瞳を輝かせ、興味を持ったようだ。
けれど、すぐに瞼を伏せ、視線をつま先に落としてしまう。どうしたのだろう、と思ったのも束の間のこと。その理由はすぐにわかった。
「……私はミサちゃんみたいにお仕事がある訳でもないし。負担かけたくないから…」
はキラ捜査本部が、ギリギリの少数精鋭で回されている事を理解しているようだった。
確かに、僕も「が望むならいくらでも出かけていい」とは言えない。
いくらの事を愛していて、心配だからと言ってもだ。
竜崎に「のために人員を裂いて外出させろ」とは言うつもりもない。
私情と仕事は分けて考えるべきだ。
僕は監視対象でありながらして、監禁される前から、捜査に協力している、捜査員の一人なのだ。
僕にはその責任がある。
ミサもの言い分を理解したのだろう。「そんなの気にしなくていいじゃん!」なんて楽観的なことは言わず、真面目に考えているようだった。
そして、何かを閃いたように瞳を輝かせ、パッと顔を上げた。
「…そうだ!それなら、ミサのロケについてくればいいんじゃない?そしたら、マッツー1人で済むし!」
「……それは、確かにありかもしれないな」
ミサの口からは、思いがけず効率的な代替案が出てきた。
一人に人員を裂けないのであれば、2人まとめてしまえばいい。
2人も一片に監視しなければならない松田さんには負担で、シワ寄せは行くだうが…
十分可能だ。
僕がミサを肯定するように頷くと、心底嬉しそうに笑っていた。
「…竜崎も、の事は心配してるからな。この現状はいずれどうにかしないと」
「えっ竜崎さんって心配とかするんだ…ちょっと意外」
僕がじっと竜崎を見ながら言うと、僕の言葉の裏にある意図をよく分かっていないミサは、"心配"という言葉をそのままに受け取り、意外そうにしていた。
けれど竜崎が心配しているのは、可哀そうなのことでも何でもない。
僕の隣に座る、当事者であるですらもよくわかっていないようで、きょとんとしていた。
「──"厄介"なんだろう?」
「…そうですね。これ以上悪化すれば厄介極まりないです。ですので、リハビリに連れ出すというのには賛成です」
竜崎はことある事に、のことを厄介だと言った。
それは栄養失調に陥ったり、歩行困難に落ちて行ったのことを心配してのことじゃない。
その事で僕がを心底憐れみ、同情し、憎しみ、離れ難く思い──
しかしそれでいてその現状を諸手を上げて歓迎し、過剰に依存する事を恐れてる。
事実、僕はの不幸は望んでいないけれど、不健康である事を喜んでいる。
そしてに怪我をさせたり、怒りを見せたり、不健康である事を喜ぶそんな自分に自己嫌悪し、に縋りついて許しを請う哀れな姿を、"厄介"だと言っているのだ。
僕は少なからず、竜崎に疑われるのと同時に、優秀な頭脳を買われている。
そんな僕に、この異質な閉鎖空間で、恋情や依存関係によってコンディションを崩されては困ると考えてるのだ。
だから、ミサの提案に、竜崎はあっさりと首を縦に振った。
「ではミサさん、足の裏の傷が完治したら、さんをロケの見学に連れて行ってください」
「おっけー!まかせて!」
の意思は関係なしに、三人だけで話を進めてしまった。
完全には置いてけぼりで、困ったような顔をしてる。けれどは監視カメラに監視されてる事が一番のストレスなはず。
外出できるというのは、にとっても魅力的なはず。嫌がるとは思えない。
──この事で一番ダメージを食らうのは、僕だろう。
「はあ…でも、寂しくなるな…僕はずっと今のままでいいのに」
の手を握りながら、僕ははあ、と冗談めかした風にため息をついた。
の手前、冗談っぽく言ったけど。半分は本心である事に、きっとは気が付いている。
は僕の服の裾をくっと引っ張って、自分の方に注意を向けさせた。
そしてじっと僕の瞳を見据えながら、こう言った。
「月くん。私はずっと今のままは嫌だな」
「えっ…」
一瞬、僕は拒絶されたのかと思い、青ざめた。しかし次の言葉を聞いて、顔に熱が集まった。
「だから…、…早く、監視が解けるといいね。そうしたらもっと近くにいられる」
は上目遣いで僕を見上げて笑っていた。
その笑顔は無垢で、その言葉には何の裏もない。
けれど僕は考えてしまった。監視が解ける=それぞれの自宅に戻り、日常を取り戻すという事だ。だだを捏ねる僕を宥めるために、明るい未来を語ったのだろう。
けれど──僕はもう、今までに何度かを押し倒している。何年か触れるだけのキスで我慢していたところを、ここ最近は舌を絡める深いキスにまで進めてもいた。
高校生から付き合って、今の僕達は大学生だ。純愛にもほどがあると思う。
けれど、それでも着実に一歩一歩、距離は縮まっている。
もっと…──もっとの近くにいく。それはつまり、深いキス以上のこと。押し倒す以上の何かをする事──
僕はそう連想せずにいられなかったのだ。は、全然にそこまで考えていないというのに。
僕はこんなにも無垢なに対して、何を言う事も出来なくなってしまった。
何も知らないのはだけ。
それを見ていたミサと竜崎は僕が何を想像しているかも理解して、茶化してきた。
…いや多分、が己は無自覚であるという事には気づいていないかもしれない。
2人して、イチャついてると思われてる。
「ちょっとー!ミサの前でいちゃつかないでくれる!?」
「月君、照れてるんですか」
「照れてない」
僕はぶっきらぼうに竜崎とミサを突き放す。口では否定したものの、今ばかりは図星をつかれたと認めざるを得ない。それが腹立たしい。
やっぱりは発言の意味を理解していなかったようで、よくわからないと言った様子で曖昧に笑っていた。
──そして、それから二週間が経った頃のことだった。
の包帯は完全に取れた。足の裏の傷は、綺麗に塞がっていたのだ。
そして僕が完治を宣言したのと同じ日に、偶然にもミサのロケが予定に組み込まれていた。
そのため、さっそくはリハビリと称して出かける事となる。
僕はメインルームに映るモニターをみて、が出かける姿を見守った。
監視カメラがとらえた映像は、そこに映るように設定されているからだ。
そしてエントランスに三人が出て来るのを見ると、僕はぎょっとした。
「なっ…ミサ、あいつ何考えて…!?」
大方ミサの口車に載せられたのだろう。
どういう流れでそんな事になったのか。は見た事もないくらい、丈の短いゴシックなスカートをはいていた。
恥じらい、露出した太ももを必死に隠そうとして、裾を引っ張ってるのは逆効果だ。
その姿は可愛くて──あまりに煽情的。
「月くん、何か問題でも?」
「あ、いや…」
竜崎は僕を煽っている訳ではなく、心底何が問題かわからない様子だった。
過剰反応しているのはどうやら僕だけらしい。
『じゃ、いくよマッツー!今日は両手に華よ』
『はは、こ、光栄だな〜なんて…』
大方、ここで喜んだらセクハラになるのか…?などと考えているのだろう。
松田さんは引きつった笑顔で受け答えてしていた。
の露出の激しい洋服を気にする素振りはなかった。ひとまず安心した。
けれど、外に出ればそうはいかなすだろう。
ミサの服は本当に露出が激しいものばかりだ。
僕の家にやってきた時、僕の自室に行くため階段を上がる最中、「パンツ見えちゃってるし…」と粧裕が引いていたのを忘れていない。
ミサはその時見せてもいいような下着を履いていたのかもしれないが、今日の名前にもそこまでの配慮をしてくれているのだろうか。
いや、見せ下着だろうがなんだろうが、見知らぬ人間にの素肌をみられる事そのものが許せないのだ。
手錠で繋がれ、監視から逃れられない現状をこれほどまでに呪った事はない。
どうかが無事に帰ってきますように──と、僕は神に祈った。無宗教だというのに、都合のいい時ばかり神に祈るのが日本人の性だ。
そして、はその日、確かに無事に帰ってきた。──けれど。
「………やってくれましたね」
三人が帰ってきた頃には、捜査本部はまるでお通夜状態に陥っていたのだった。