第106話
6.明日からの話─あり触れた人生
月君は、ときどきぼうっと遠くをみるような目をする。
──心ここにあらず。月くんのそんな姿をみると、いつもこう思う。
その言葉がこれほど相応しい典型的な光景は、そうみられるものではないだろうと、見る度に思う。
結婚し、同居を始めた後の生活は順調だ。けれど心配事はいくつかある。
心ここにあらずな月くんの様子と…私自身の奇妙な現象についてだ。
──ある日の休日。あれは、月くんと買い出しに出かけたときの事だった。
「月くん、コンビニ寄ってもいい?」
「ん、いいよ。何がほしいの?」
「デザート。秋の新作スイーツがね、凄く美味しいってテレビで特集されてたの」
にこにこしながら言うと、月くんは目を細めた。繋いでいた手をぎゅっと握り直しながら、くすくすと笑いだした。
「は、本当に好きだね。甘いもの」
「ふふ、そうかも…。…あ、そういえば…あれ、高校生のときだったかな」
「うん」
コンビニスイーツといえば…と、昔の記憶を不意に思い出して、口に出す。
「家に帰ろうとして…もう玄関の前までたどり着いて…それなのに、突然コンビニスイーツ買いにいかなきゃって思っ……」
そこで、急に言葉がつっかえて出てこなくなった。私はそんな自分自身の事が不思議でならなくて、訳もわからず混乱していた。
そんな私の顔を、月くんが心配そうに覗きこんで見てきた。
「……?どうしたの?」
「……ごめんね、なんでも…。…ただ…なんで私、あの時玄関先で、突然携帯を出したのか…調べなききゃって思ったのか…なんだか、不思議になって…。調べなくても、お店でみればよかったのに…」
「………そう」
普通に考えれば、今私がそういう笑い話にしたように…
帰宅寸前なのに、突然甘い物が食べたくなって、コンビニスイーツの下調べをしてコンビニに向かった。たったそれだけのことなのに…なんだかそれだけじゃなかったような…
もっと別の意味があってそうしたような…。…そう、パズルのピースが一つ欠けている。
そんな風に突っかかって、モヤがかかって…
こんな風に上手く考えられなくなるのは、何もその時が初めてではなかった。
そういう私を見ると、必ず月くんは悲しそうな目をする。
そして、宥めるように優しく言うのだ。
「それって、あれじゃないかな…デジャヴ。夢か本当かわからなくなる、不思議な感覚」
「…そう、なのかも」
「。それは…何もおかしなことじゃないよ」
「…そうだね」
笑って頷きながら、心の中で思う。
…本当におかしなことでないなら…特別なことでないなら。どうして月くんは大事なことを言い聞かせるように、真っすぐに私をみるのかな。
どうしてそんなに真剣な顔をしてるのかな。…わからない。
でも、月くんはきっと聞いてほしくないはず。教えたくなるような話なら…こうして隠さない。
そして私は、月くんが隠したいと思う事を、私の知的好奇心だけのために暴きたいとは思わない。
このやり取りをする度、疑問に思って…それでもついぞ、私は月くんに真相を尋ねる事はなかった。
***
私が不思議な既視感を味わって混乱癖があるように。
月くんにもまた、不意にぼうっとする癖が確かに根付いていた。
ある日。ソファーでくつろぎながらテレビを観ているとき。飲み物がほしくなって、月くんに一言断ってから台所に向かっていた。
そうして、2人分のコーヒーを入れる。
いるかいらないかも聞いてないけど、月くんならきっと断らない。
けれど、買ったばかりのコーヒー豆をどこにしまったのか忘れてしまって、私はたった二杯のコーヒーを入れるのに随分時間をかけてしまった。
「……、」
そうして、暫く経ってからリビングに戻った時。
見えた月くんの横顔は…やっぱりぼうっとしていて、遠くをみているような感じだった。
何か悩み事があって憂いているといった風でもない。
ただ、心がここにない…それだけの事…。
「……月くん。もしかして、退屈?」
「……え?」
2人分のマグカップをテーブルに置きながら、私は問いかけた。
いつもだったら「ありがとう」と即座に笑ってくれる月くんは、珍しく何も反応を示さず、ただ驚いていた。
「…どうしてそう思ったの?」
「月くん、たまに遠くを見て、ぼうっとした表情してるから…」
「ああ…そうだね。が傍にいない瞬間は、いつだって退屈だ」
確かにコーヒーを入れるだけにしては長い間離席した。けれど、こんな短時間で退屈と言われるなんて。
月くんの肩に寄り掛かり、体重をかけて抗議してみる。
「…もう。ちょっと台所に行ってただけだったのに」
「はは。だから僕が退屈しないよう、ずっと傍にいてよ」
…ずっと傍に、か…。月くんの言いたい事は、なんとなくわかる。
私達は長い時間を過ごして、十分な信頼関係と絆を築いてきたから、擦れ違いの多い生活に不満や不安を抱くことはない。
でも…。
「私は月くんの退屈しのぎのおもちゃ?」
「いいや。そんな軽いものじゃないさ…。は、僕の全てだよ。…生きる意味だ」
私が考えていた事が表に出ないよう、誤魔化すように茶化すと。月くんは至極真剣な顔でそう言ったのだ。
…わかってた。月くんは小さい頃からもうずっと私に恋をしていて、その愛情は色褪せる事がない。どころか、時が経てば経つほどにその愛が深まっているのは、きっと自惚れじゃない。
「そう…」
私が瞼を伏せて言うと、月くんは改めて言葉を尽くして伝えてくれた。自分の気持ちが、私にきちんと伝わってないと思ったのだろう。
「本当だよ?僕は傍にがいるだけで幸せになれるんだから…」
「…それじゃあ、私が傍にいない時の月くんは…退屈で不幸なのかな」
月くんは笑って、否定も肯定もしなかった。
その切ない笑顔をみて、私はついに決意した。月くんが日々退屈にすごしているのかもしれない。寂しい思いをしているのかもしれない。
そう気が付いた時から、ずっと考えていた事。
「…月くん」
「ん?」
「私、仕事辞めたいと思うの。…ダメかな?」
「……それは…構わないけど…」
月くんはびっくりしたようにまじまじ私を見ながら、次にこう言った。
「…嫌なことでもあったの?…辞めるなんて言う前に、…もっと早くから相談してくれてたら…なにか酷い事でもされた…?」
「…違うの、わたし…わたしはね…」
一呼吸おいてから、月くんを真っすぐ見据えて言った。
「──月くんのためだけに生きていたいの」
言うと、月くんは息を呑んだ。その瞳がゆらゆらと揺れて──…
次第に、自嘲するような笑みを浮かべた。あんまり私の前で見せた事のない寂しい笑い方だった。
「…僕の、ため…?僕が退屈そうで不幸なのが可哀そうだから?…そんな義務感で尽くさなくていい…」
「違うよ。月くん言ったよね。私がいるだけで幸せだって。…それは、私もおんなじだよ」
月くんの手をぎゅっと握って、こう告げる。月くんが気持ちを伝えようと言葉を重ねたように…私も、この心を伝えるために、言葉を惜しまなかった。
「──月くんのためだけに生きていけたら…もうこれ以上ないってくらい、私は幸せになれるの」
これは嘘じゃない。月くんが私を好きだと思ってくれているように、私だって月くんの事を好きだ。…愛しているのだと思う。
「……月くんがただいまって言ったら、必ずおかえりって言えるようにしたいの。…それじゃ、だめかな?」
私を愛する月くんが…私の傍にいる時だけは幸福なのだという月くんが。
少しでも満たされた日々を送れるように。
自惚れだったら凄く恥ずかしいセリフだけど…私が月くんに求められてる事は十分わかってる。ずっと昔から。最初はただの親愛で、恋じゃなかったけど…月くんと同じ想いを返せるようになってよかったと思う。
言うと、月くんは──
「…え」
──ぼろりと、突然に涙を零した。頬に絶えず伝う雫が、ぱたぱたと落ちていく。
私はそれを認めるとぎょっとして、慌てて月くんの肩に手をそえた。
「ら、月くん…どうして泣いてるの…?」
月くんがこんな風に泣いてる姿をみるのは、初めて……
………──だったと、思う、のに。どこか既視感を覚えてもいる。
見た事があったっけと、深く思い出す余裕なんてなくて。私は必死になって月くんの頬に手を伸ばした。
「どうして?私、月くんのこと困らせた…?」
「っちがう…逆だ…逆なんだよ…が…僕のことを喜ばすから…。…幸せで」
月くんは必死に言い繕い、涙を拭った後…少し感情の波が落ち着いた頃に、こう言った。
「──ありがとう…」
その言葉には、深い深い重みがあった。困らせてるのとは逆だと月くんは言ったし、私の言葉は確かに、月くんを喜ばせたのだと言う。
でも…きっとそれだけで泣いてるわけじゃない。それだけで、こんなに深く感謝を口にしたわけじゃない。
なんとなく、そう思った。だって、幸せだというのに。嬉しいのだというのに。その笑顔はどこか切なそうで…。
──でも、なんで?何が月くんをそうさせるの…?
月くんがぼうっとして、退屈そうにしている時とおんなじだ。
見えない壁が隔たっていると、時々そう感じる。
これから月くんはずっとこうして幸せだといいながら、どこか寂しい人生を送っていくのかな。
…そんなの、嫌だな…。
幸せな日々の中にあるいくつかの心配事…そして、たった一つだけ存在する、私の悩みだった。
けれど、私の心配とは裏腹に、月くんの様子に引っ掛かる回数は、それからどんどん減って行った。
***
月くんがぼうっとする事は、次第に全くなくなっていった。
時々仕事で疲れた様子を見せることもあるけれど…基本的には、いつだって朗らかで、幸せそうな笑みを浮かべて、人生を謳歌している様子だった。
私達は、世間一般が"普通"とする幸せな新婚生活を送っているのだろう。
──出会いは、ご近所さんだった事。幼稚園・学生の頃からの付き合い。
高校生の頃に交際を始めて、社会人になってから籍を入れて。私はでなく、夜神になっていた。
披露宴はそこそこの規模で行った。
会場の下見やセッティグの思案などは、私よりも月くんの方が張り切って楽しんでいたくらいだ。
披露宴では、ごく普通に親族や友達、同僚を呼んで。お父さんお母さんへの手紙を読んで泣かせ…
ケーキ入刀して、お色直しをする間に、出会いや私達の成長を振り返るムービーを流す。
司会者が語ってくれる私達の過去に、両親だけでなく友人知人…もちろん、海砂ですら涙していた。
披露宴が終われば新婚旅行にも行った。
月くんが忙しく働いていたから、海外なんてもっての他。国内であっても、遠出をして何拍もする事はできなかったけど…。
2人で近場の旅館でのんびりするだけでも、観光して歩くだけでも。月くんと一緒なら、十分に楽しかった。一生忘れられない思い出になるくらいに。
チェックインする時に、受付で「夜神」と書いた時の緊張感や高揚…暖かい気持ち。きっといつまでも、忘れる事はないだろう。
****
そして私は結婚後しばらく社会人をした後、紆余曲折あって専業主婦になる道を選んだ。
…とはいえ、ずっと家事だけしてると時間を持て余すし…何よりも、私の心が耐え切れなくなってしまった。
働き者という性格をしているつもりはないけれど…労働せず、対価も得ず、全てを月くんに頼り切りで暮らす事が、自然と辛くなっていく。
それからは在宅の仕事を得て、それでも家事は十分にできるようほどほどにセーブして…月くんの帰宅を必ず出迎えられるようにした。
そうやって暮らしていると、月くんは「そろそろ子どものこともも考えないとね」と言った。
──順風満帆で、とてもあり触れていて、大きな変化なんてなくて……我ながらまるでお手本のよな人生を謳歌していた。
ニュースをつけると、最近人気を誇っているらしいお天気お兄さんが、爽やかな笑顔を浮かべて映っていた。今日は絶好の洗濯日和ですと伝えてくれている。
雲一つない青空、晴天。
2人分の洗濯は大した量にはならないけれど、ここ数日雨続きだったせいで、それなりに溜まってしまっていた。できる限り部屋干しを避けた結果だ。
カラカラと音を立てながら窓を開け、ベランダに出ようとする。
「…本当にいい天気」
青空を見て幻想的と感じた事は、あまりない。
けれど今日の空は澄み渡っていて、まるで現実じゃないような…天国って、きっとこんな感じなのかな…なんて思うくらいに、とても美しく感じられた。
「…もう、秋なんだ」
9月は、どうしてか感傷的になる。昔はそうじゃなかったのに。
春の桜や、12月の浮足立つ景色には特別なものを感じてた。それは前世から変わらない感慨だ。
けれど、知らぬ間に私は、9月の秋の始まりに心動かされるようになっていた。
…どうしてだろう。その理由を考えても、わからない。
そんな特別な空気を吸い込みながら、目を瞑る。
ひとしきりそうして浸ったあと、さあ洗濯を干さないとと動き出した時。
「……え?これ…、……どうして」
足元に、そこにあるはずのないものを見つけた。
ここが一軒家だったり、マンションの一階だったりしたらあり得たのかもしれない。
けれどここはマンションではあるけど、上階だし…
こんな物が落ちていているはずがない。私はそれを拾い上げながら、なんどもまじまじと眺めた。
くるくると回転させてみても、どう見てもそれは"それ"でしかない。
「……月くんが帰ったら…話してみようかな」
話した所でどうという事もないんだけれど…。今日あった不思議な出来事として、月くんに話す雑談の1つのネタにはなった。
ひたすら不可解ではあるけど、特段怖がるような出来事でもないだろう。
とにかく今は洗濯、掃除、それに買い物にいって、郵便局にも行きたいし…。
そうして一日忙しく過ごしているうちに、すっかりその事が頭からすっぽ抜けてしまった。
夜、月くんが帰宅して、お風呂に入り、ご飯を食べて…ひとしきり落ちついあと。
ソファーに隣り合って座りながら、他愛のない話しをした。
月くんが健全な時間に帰れた時は必ず行う、恒例行事みたいなものだ。
「今日はどんな事をしてすごしてたの?」
「あんまりいつもと変わらないかな…あ、でも…本棚やっと組み立てられたよ」
「そう。すごいね」
月くんが何でもやってしまおうとするので、せめてそれくらいはやらせてと言ったものの、
日曜大工が得意な訳でも何でもない私が苦戦した家具の組み立て。
私が言うと、月くんは微笑まそうに笑って頭を撫でた。そして、ふと思い出す。
「そういえば…ひとつ、今日、不思議なことがあったの」
「不思議なこと?」
「うん。…ベランダにね、落ちてたの」
「えっと…なにが?」
じらすつもりはなかったんだけど。ついもったいぶった言い方になってしまって、月くんはひたすら不思議そうにしていた。
「林檎がね、落ちてたんだ…いくつか。凄く綺麗で、どこも痛んでなくて…なんだかすごく美味しそうだった」
言うと、月くんの表情から笑顔が消え去った。代わりに眉を寄せて、酷く真剣な顔をしている。
「…月くん?」
どうしたのかと伺いみると、ハッとした様子の月くんが、今度は私の頬を撫でた。
「…美味しそうだったからって、拾い食いしてないよね?」
「そんなことしないもん……」
さすがの私も、いくら状態がよかったからと言って、出所のわからない林檎を食べるほど食い意地は張ってない。
むくれると、「はは」と月くんがおかしそうに笑った。
…ああ、いつもの月くんだ。柔らかい表情をみていると、ホッとする。
ぼんやりしていた姿を見せる時期もあったから、つい不安になってしまう。
でも、特に問題はなさそうで安心した。
****
そんな風に日々を過ごしていた頃。
あれはベランダで林檎を拾った次の日の事だった。月くんは休日で、今日は家でのんびり過ごそうという話になり、お互いくつろいでいると。
私はリビングのテープルで書き物をしていて、月くんは書斎兼仕事場の部屋の扉を開けている所で。
「…あれ?」
突然、月くんが不思議そうな声を上げたので、思わず走らせていたペンを止めて、顔を上げる。
「どうしたの?」
私は椅子から立ち上がり、月くんのところへ歩み寄った。
「…いや…見当たらなくて…」
「なにが?携帯とか?」
一緒になってきょろきょろと辺りを見回していると、月くんはふと、書斎の床に落ちていた真っ白なノートを手にして…目を開いていた。
「もしかして、探し物ってそれだった?」
「うん…これ…だね」
ちょっと片付けてくると言ってから、月くんは書斎部屋に籠ってしまった。
ノートの表紙には、象形文字のようなものがかかけていた。どこかの国の言語なのかもしれないけれど、少なくとも私にはどこの国のものなのか、判別がつかなかった。
6.明日からの話─あり触れた人生
月君は、ときどきぼうっと遠くをみるような目をする。
──心ここにあらず。月くんのそんな姿をみると、いつもこう思う。
その言葉がこれほど相応しい典型的な光景は、そうみられるものではないだろうと、見る度に思う。
結婚し、同居を始めた後の生活は順調だ。けれど心配事はいくつかある。
心ここにあらずな月くんの様子と…私自身の奇妙な現象についてだ。
──ある日の休日。あれは、月くんと買い出しに出かけたときの事だった。
「月くん、コンビニ寄ってもいい?」
「ん、いいよ。何がほしいの?」
「デザート。秋の新作スイーツがね、凄く美味しいってテレビで特集されてたの」
にこにこしながら言うと、月くんは目を細めた。繋いでいた手をぎゅっと握り直しながら、くすくすと笑いだした。
「は、本当に好きだね。甘いもの」
「ふふ、そうかも…。…あ、そういえば…あれ、高校生のときだったかな」
「うん」
コンビニスイーツといえば…と、昔の記憶を不意に思い出して、口に出す。
「家に帰ろうとして…もう玄関の前までたどり着いて…それなのに、突然コンビニスイーツ買いにいかなきゃって思っ……」
そこで、急に言葉がつっかえて出てこなくなった。私はそんな自分自身の事が不思議でならなくて、訳もわからず混乱していた。
そんな私の顔を、月くんが心配そうに覗きこんで見てきた。
「……?どうしたの?」
「……ごめんね、なんでも…。…ただ…なんで私、あの時玄関先で、突然携帯を出したのか…調べなききゃって思ったのか…なんだか、不思議になって…。調べなくても、お店でみればよかったのに…」
「………そう」
普通に考えれば、今私がそういう笑い話にしたように…
帰宅寸前なのに、突然甘い物が食べたくなって、コンビニスイーツの下調べをしてコンビニに向かった。たったそれだけのことなのに…なんだかそれだけじゃなかったような…
もっと別の意味があってそうしたような…。…そう、パズルのピースが一つ欠けている。
そんな風に突っかかって、モヤがかかって…
こんな風に上手く考えられなくなるのは、何もその時が初めてではなかった。
そういう私を見ると、必ず月くんは悲しそうな目をする。
そして、宥めるように優しく言うのだ。
「それって、あれじゃないかな…デジャヴ。夢か本当かわからなくなる、不思議な感覚」
「…そう、なのかも」
「。それは…何もおかしなことじゃないよ」
「…そうだね」
笑って頷きながら、心の中で思う。
…本当におかしなことでないなら…特別なことでないなら。どうして月くんは大事なことを言い聞かせるように、真っすぐに私をみるのかな。
どうしてそんなに真剣な顔をしてるのかな。…わからない。
でも、月くんはきっと聞いてほしくないはず。教えたくなるような話なら…こうして隠さない。
そして私は、月くんが隠したいと思う事を、私の知的好奇心だけのために暴きたいとは思わない。
このやり取りをする度、疑問に思って…それでもついぞ、私は月くんに真相を尋ねる事はなかった。
***
私が不思議な既視感を味わって混乱癖があるように。
月くんにもまた、不意にぼうっとする癖が確かに根付いていた。
ある日。ソファーでくつろぎながらテレビを観ているとき。飲み物がほしくなって、月くんに一言断ってから台所に向かっていた。
そうして、2人分のコーヒーを入れる。
いるかいらないかも聞いてないけど、月くんならきっと断らない。
けれど、買ったばかりのコーヒー豆をどこにしまったのか忘れてしまって、私はたった二杯のコーヒーを入れるのに随分時間をかけてしまった。
「……、」
そうして、暫く経ってからリビングに戻った時。
見えた月くんの横顔は…やっぱりぼうっとしていて、遠くをみているような感じだった。
何か悩み事があって憂いているといった風でもない。
ただ、心がここにない…それだけの事…。
「……月くん。もしかして、退屈?」
「……え?」
2人分のマグカップをテーブルに置きながら、私は問いかけた。
いつもだったら「ありがとう」と即座に笑ってくれる月くんは、珍しく何も反応を示さず、ただ驚いていた。
「…どうしてそう思ったの?」
「月くん、たまに遠くを見て、ぼうっとした表情してるから…」
「ああ…そうだね。が傍にいない瞬間は、いつだって退屈だ」
確かにコーヒーを入れるだけにしては長い間離席した。けれど、こんな短時間で退屈と言われるなんて。
月くんの肩に寄り掛かり、体重をかけて抗議してみる。
「…もう。ちょっと台所に行ってただけだったのに」
「はは。だから僕が退屈しないよう、ずっと傍にいてよ」
…ずっと傍に、か…。月くんの言いたい事は、なんとなくわかる。
私達は長い時間を過ごして、十分な信頼関係と絆を築いてきたから、擦れ違いの多い生活に不満や不安を抱くことはない。
でも…。
「私は月くんの退屈しのぎのおもちゃ?」
「いいや。そんな軽いものじゃないさ…。は、僕の全てだよ。…生きる意味だ」
私が考えていた事が表に出ないよう、誤魔化すように茶化すと。月くんは至極真剣な顔でそう言ったのだ。
…わかってた。月くんは小さい頃からもうずっと私に恋をしていて、その愛情は色褪せる事がない。どころか、時が経てば経つほどにその愛が深まっているのは、きっと自惚れじゃない。
「そう…」
私が瞼を伏せて言うと、月くんは改めて言葉を尽くして伝えてくれた。自分の気持ちが、私にきちんと伝わってないと思ったのだろう。
「本当だよ?僕は傍にがいるだけで幸せになれるんだから…」
「…それじゃあ、私が傍にいない時の月くんは…退屈で不幸なのかな」
月くんは笑って、否定も肯定もしなかった。
その切ない笑顔をみて、私はついに決意した。月くんが日々退屈にすごしているのかもしれない。寂しい思いをしているのかもしれない。
そう気が付いた時から、ずっと考えていた事。
「…月くん」
「ん?」
「私、仕事辞めたいと思うの。…ダメかな?」
「……それは…構わないけど…」
月くんはびっくりしたようにまじまじ私を見ながら、次にこう言った。
「…嫌なことでもあったの?…辞めるなんて言う前に、…もっと早くから相談してくれてたら…なにか酷い事でもされた…?」
「…違うの、わたし…わたしはね…」
一呼吸おいてから、月くんを真っすぐ見据えて言った。
「──月くんのためだけに生きていたいの」
言うと、月くんは息を呑んだ。その瞳がゆらゆらと揺れて──…
次第に、自嘲するような笑みを浮かべた。あんまり私の前で見せた事のない寂しい笑い方だった。
「…僕の、ため…?僕が退屈そうで不幸なのが可哀そうだから?…そんな義務感で尽くさなくていい…」
「違うよ。月くん言ったよね。私がいるだけで幸せだって。…それは、私もおんなじだよ」
月くんの手をぎゅっと握って、こう告げる。月くんが気持ちを伝えようと言葉を重ねたように…私も、この心を伝えるために、言葉を惜しまなかった。
「──月くんのためだけに生きていけたら…もうこれ以上ないってくらい、私は幸せになれるの」
これは嘘じゃない。月くんが私を好きだと思ってくれているように、私だって月くんの事を好きだ。…愛しているのだと思う。
「……月くんがただいまって言ったら、必ずおかえりって言えるようにしたいの。…それじゃ、だめかな?」
私を愛する月くんが…私の傍にいる時だけは幸福なのだという月くんが。
少しでも満たされた日々を送れるように。
自惚れだったら凄く恥ずかしいセリフだけど…私が月くんに求められてる事は十分わかってる。ずっと昔から。最初はただの親愛で、恋じゃなかったけど…月くんと同じ想いを返せるようになってよかったと思う。
言うと、月くんは──
「…え」
──ぼろりと、突然に涙を零した。頬に絶えず伝う雫が、ぱたぱたと落ちていく。
私はそれを認めるとぎょっとして、慌てて月くんの肩に手をそえた。
「ら、月くん…どうして泣いてるの…?」
月くんがこんな風に泣いてる姿をみるのは、初めて……
………──だったと、思う、のに。どこか既視感を覚えてもいる。
見た事があったっけと、深く思い出す余裕なんてなくて。私は必死になって月くんの頬に手を伸ばした。
「どうして?私、月くんのこと困らせた…?」
「っちがう…逆だ…逆なんだよ…が…僕のことを喜ばすから…。…幸せで」
月くんは必死に言い繕い、涙を拭った後…少し感情の波が落ち着いた頃に、こう言った。
「──ありがとう…」
その言葉には、深い深い重みがあった。困らせてるのとは逆だと月くんは言ったし、私の言葉は確かに、月くんを喜ばせたのだと言う。
でも…きっとそれだけで泣いてるわけじゃない。それだけで、こんなに深く感謝を口にしたわけじゃない。
なんとなく、そう思った。だって、幸せだというのに。嬉しいのだというのに。その笑顔はどこか切なそうで…。
──でも、なんで?何が月くんをそうさせるの…?
月くんがぼうっとして、退屈そうにしている時とおんなじだ。
見えない壁が隔たっていると、時々そう感じる。
これから月くんはずっとこうして幸せだといいながら、どこか寂しい人生を送っていくのかな。
…そんなの、嫌だな…。
幸せな日々の中にあるいくつかの心配事…そして、たった一つだけ存在する、私の悩みだった。
けれど、私の心配とは裏腹に、月くんの様子に引っ掛かる回数は、それからどんどん減って行った。
***
月くんがぼうっとする事は、次第に全くなくなっていった。
時々仕事で疲れた様子を見せることもあるけれど…基本的には、いつだって朗らかで、幸せそうな笑みを浮かべて、人生を謳歌している様子だった。
私達は、世間一般が"普通"とする幸せな新婚生活を送っているのだろう。
──出会いは、ご近所さんだった事。幼稚園・学生の頃からの付き合い。
高校生の頃に交際を始めて、社会人になってから籍を入れて。私はでなく、夜神になっていた。
披露宴はそこそこの規模で行った。
会場の下見やセッティグの思案などは、私よりも月くんの方が張り切って楽しんでいたくらいだ。
披露宴では、ごく普通に親族や友達、同僚を呼んで。お父さんお母さんへの手紙を読んで泣かせ…
ケーキ入刀して、お色直しをする間に、出会いや私達の成長を振り返るムービーを流す。
司会者が語ってくれる私達の過去に、両親だけでなく友人知人…もちろん、海砂ですら涙していた。
披露宴が終われば新婚旅行にも行った。
月くんが忙しく働いていたから、海外なんてもっての他。国内であっても、遠出をして何拍もする事はできなかったけど…。
2人で近場の旅館でのんびりするだけでも、観光して歩くだけでも。月くんと一緒なら、十分に楽しかった。一生忘れられない思い出になるくらいに。
チェックインする時に、受付で「夜神」と書いた時の緊張感や高揚…暖かい気持ち。きっといつまでも、忘れる事はないだろう。
****
そして私は結婚後しばらく社会人をした後、紆余曲折あって専業主婦になる道を選んだ。
…とはいえ、ずっと家事だけしてると時間を持て余すし…何よりも、私の心が耐え切れなくなってしまった。
働き者という性格をしているつもりはないけれど…労働せず、対価も得ず、全てを月くんに頼り切りで暮らす事が、自然と辛くなっていく。
それからは在宅の仕事を得て、それでも家事は十分にできるようほどほどにセーブして…月くんの帰宅を必ず出迎えられるようにした。
そうやって暮らしていると、月くんは「そろそろ子どものこともも考えないとね」と言った。
──順風満帆で、とてもあり触れていて、大きな変化なんてなくて……我ながらまるでお手本のよな人生を謳歌していた。
ニュースをつけると、最近人気を誇っているらしいお天気お兄さんが、爽やかな笑顔を浮かべて映っていた。今日は絶好の洗濯日和ですと伝えてくれている。
雲一つない青空、晴天。
2人分の洗濯は大した量にはならないけれど、ここ数日雨続きだったせいで、それなりに溜まってしまっていた。できる限り部屋干しを避けた結果だ。
カラカラと音を立てながら窓を開け、ベランダに出ようとする。
「…本当にいい天気」
青空を見て幻想的と感じた事は、あまりない。
けれど今日の空は澄み渡っていて、まるで現実じゃないような…天国って、きっとこんな感じなのかな…なんて思うくらいに、とても美しく感じられた。
「…もう、秋なんだ」
9月は、どうしてか感傷的になる。昔はそうじゃなかったのに。
春の桜や、12月の浮足立つ景色には特別なものを感じてた。それは前世から変わらない感慨だ。
けれど、知らぬ間に私は、9月の秋の始まりに心動かされるようになっていた。
…どうしてだろう。その理由を考えても、わからない。
そんな特別な空気を吸い込みながら、目を瞑る。
ひとしきりそうして浸ったあと、さあ洗濯を干さないとと動き出した時。
「……え?これ…、……どうして」
足元に、そこにあるはずのないものを見つけた。
ここが一軒家だったり、マンションの一階だったりしたらあり得たのかもしれない。
けれどここはマンションではあるけど、上階だし…
こんな物が落ちていているはずがない。私はそれを拾い上げながら、なんどもまじまじと眺めた。
くるくると回転させてみても、どう見てもそれは"それ"でしかない。
「……月くんが帰ったら…話してみようかな」
話した所でどうという事もないんだけれど…。今日あった不思議な出来事として、月くんに話す雑談の1つのネタにはなった。
ひたすら不可解ではあるけど、特段怖がるような出来事でもないだろう。
とにかく今は洗濯、掃除、それに買い物にいって、郵便局にも行きたいし…。
そうして一日忙しく過ごしているうちに、すっかりその事が頭からすっぽ抜けてしまった。
夜、月くんが帰宅して、お風呂に入り、ご飯を食べて…ひとしきり落ちついあと。
ソファーに隣り合って座りながら、他愛のない話しをした。
月くんが健全な時間に帰れた時は必ず行う、恒例行事みたいなものだ。
「今日はどんな事をしてすごしてたの?」
「あんまりいつもと変わらないかな…あ、でも…本棚やっと組み立てられたよ」
「そう。すごいね」
月くんが何でもやってしまおうとするので、せめてそれくらいはやらせてと言ったものの、
日曜大工が得意な訳でも何でもない私が苦戦した家具の組み立て。
私が言うと、月くんは微笑まそうに笑って頭を撫でた。そして、ふと思い出す。
「そういえば…ひとつ、今日、不思議なことがあったの」
「不思議なこと?」
「うん。…ベランダにね、落ちてたの」
「えっと…なにが?」
じらすつもりはなかったんだけど。ついもったいぶった言い方になってしまって、月くんはひたすら不思議そうにしていた。
「林檎がね、落ちてたんだ…いくつか。凄く綺麗で、どこも痛んでなくて…なんだかすごく美味しそうだった」
言うと、月くんの表情から笑顔が消え去った。代わりに眉を寄せて、酷く真剣な顔をしている。
「…月くん?」
どうしたのかと伺いみると、ハッとした様子の月くんが、今度は私の頬を撫でた。
「…美味しそうだったからって、拾い食いしてないよね?」
「そんなことしないもん……」
さすがの私も、いくら状態がよかったからと言って、出所のわからない林檎を食べるほど食い意地は張ってない。
むくれると、「はは」と月くんがおかしそうに笑った。
…ああ、いつもの月くんだ。柔らかい表情をみていると、ホッとする。
ぼんやりしていた姿を見せる時期もあったから、つい不安になってしまう。
でも、特に問題はなさそうで安心した。
****
そんな風に日々を過ごしていた頃。
あれはベランダで林檎を拾った次の日の事だった。月くんは休日で、今日は家でのんびり過ごそうという話になり、お互いくつろいでいると。
私はリビングのテープルで書き物をしていて、月くんは書斎兼仕事場の部屋の扉を開けている所で。
「…あれ?」
突然、月くんが不思議そうな声を上げたので、思わず走らせていたペンを止めて、顔を上げる。
「どうしたの?」
私は椅子から立ち上がり、月くんのところへ歩み寄った。
「…いや…見当たらなくて…」
「なにが?携帯とか?」
一緒になってきょろきょろと辺りを見回していると、月くんはふと、書斎の床に落ちていた真っ白なノートを手にして…目を開いていた。
「もしかして、探し物ってそれだった?」
「うん…これ…だね」
ちょっと片付けてくると言ってから、月くんは書斎部屋に籠ってしまった。
ノートの表紙には、象形文字のようなものがかかけていた。どこかの国の言語なのかもしれないけれど、少なくとも私にはどこの国のものなのか、判別がつかなかった。