第102話
6.明日からの話天使のお披露目

駅から本部へ向かうまでの道乗り。そこでも散々迷ったというのに、再び駅に向かうまでの道乗りにもまた迷ってしまった。
タクシーを使まえれば簡単なのだろうけど…自宅まではそこまで近くない。
電車を使えば安上がりに済むものを、道に迷っただけで大枚をはたく羽目になる。
「…どっちだっけ…」と途方にくれたように呟くと、月くんがふっと笑った。

「駅はこっちだよ。おいで」

未来の地図アプリに頼り切り、この時代に生きていて尚、自分の頭を使おうとしない自分に我ながら呆れていた。
けれどずっと緊張していた月くんが、おかしそうに笑ってくれたから。
今ばかりは、学習のしない自分自身に感謝した。

電車に乗ってしまえばもう簡単だ。自宅の最寄駅まで乗り継ぎして、あとは歩き慣れた地元を歩くだけ。
昼下がり。通勤ラッシュにも被らない今の電車内はすいていて、隣同士並んで席に座る事ができた。
窓の外に流れている風景を視界に入れながら、月くんと他愛のない話をした。


「…久しぶりの自宅はどうだった?のご両親は、やっぱり怒ってたかな」
「…えと…あんまり何も変わらなかった、かな。昨日まで普通に大学に行ってて、今日も大学から帰ってきただけ…みたいな…?…ほんとに昨日の続きが始まったみたいな感じがして…。…それに、お母さんは…」
「?…お母さんがどうしたの?」

そこで意味心に言葉を切った月くんは不思議そうにして、言葉の続きを待っている。
自分で言いだした事だというのに、とてもじゃないけれど本当の事を口に出来そうもなかった。
いきなり休学して異性と家出しても、怒りもせず…どころか、むしろこの時を待っていたと喜ばれた事。
随分短い駆け落ちだったわね、と言われた事を思い出すと恥ずかしくて、つい月くんから視線を逸らしてしまった。

「…お母さん、怒ってなかった。お父さんも…。月くんと一緒だったって聞いてたから、心配しなかったみたいで…」
「そう…。信頼されてるんだね。…僕もも」
「…私じゃなくて、月くんのことを信頼してるんだよ…」
「それは、…お世辞でも嬉しいな」

…嘘ではない。相手がどこの誰とも知らない同級生だったら、きっと怒られただろう。
でも、月くんだったからお父さんもお母さんも放置できたのだ。
視線も合わせず言った私の様子がおかしい事には気が付いていただろうけど、かと言って暴き立てようとすることもなく、月くんは笑っていた。
私自身、両親に見放された放蕩娘という訳ではない。それなりに愛されてる実感はある。
けれど、愛と信頼は別物だ。
月くんが飛び抜けて「出来た人」だから、お父さんもお母さんも昔から何かと月くんを褒めていたし…
月くんと過ごす時間が昔から多かったからこそ、お父さんお母さんもここまで私を放任して育てる事が出来たのだと思う。
だから、この場合は信頼されてるのは月くんである、という言い方で間違ってはいないだろう。

1つ乗り換えをして、使い慣れた路線のホームを歩く。
そんな中、ふと駅のホームに設置された監視カメラが目に入って、ぽつりと零した。

「…何も変わらなかったって言ったけど…でも、やっぱりちょっと変わったかも」
「…なにが変わったの?」
「…監視カメラ。たまに、今でも見られてるんじゃないかって思う時があって…」
「…自宅にまで監視カメラが仕掛けられてたんだからね。それは当然だよ」


さんの自宅に監視カメラを仕掛けたのも私の指示です」と言って、竜崎くんが暴露したのは、私の監禁生活が終わるほんの数日前のことだった。
けれど、私は天使様に言われていたから、カメラの存在には、即座に気が付けていた。
この事自体、物語に出てきた流れだったのだろう。
玄関先で携帯をいじって待っていろと天使様が言ったあの時、天使様は今日が「監視カメラが設置される」展開が訪れる日だと察知して、確認しに行ったのだ。
月くんが気遣わし気にみていたから、ハッとして顔を上げた。

「あの、もう監視カメラのことは気にしてないの…ご飯もちゃんと食べてるし…今はもうただ…なんだか夢みたいだったなって思うだけ」
「…夢と思うにはまだ早いんじゃないかな?まだ帰宅して数日なのに…。でも、いいことだね」

嫌な思い出は忘れてしまった方がいい。そう言いたげに頷く月くんを見て、胸をなでおろした。
私が監視生活が続く中、酷く疲弊していた事を気に病んでいた月くん。
監視が解かれても尚、まだトラウマを抱えたように引きずってると勘違いさせる所だった。
さっきみたいに、まだ見られてるかもしれないと思う時は、実際ある。
けれどただそう思うだけだ。
監視カメラを仕掛けられた事が物語の展開通りであるというなら…──主人公が監禁され、容儀が晴れ、ようやく自由の身になった。それも物語の通りだろう。
自由の身になったと見せかけて実際はまだ監視してました、なんて展開はくどすぎる。
それに、天使様が何も言わない上、自宅では自由に会話したり筆談しているのだから、もう何も問題ないはず。
月くんに言った通り、今では三食美味しくご飯を食べているし、夜も快眠だ。

改札を通り抜けると、見慣れた景色が広がった。
馴染の飲食店から漂う香りも、駅前を散歩をするわんちゃんも。嗅ぎなれた匂い、昔から見慣れた子。
私は数日前に自宅に戻っているから、もう久々の地元に感慨を抱く事もなくなったはずだった。
それでも、月くんと一緒にここを歩くのは、随分と久しぶりに感じて…
懐かしい故郷に戻ってきたかのような、不思議な感覚を再び味わっていた。


「この道、一緒に歩くの久しぶりだね…」
「…そうだね」

駅前の繁華街はさほど大きくなく、少し歩けばすぐに通り抜けられる。
抜けると、差し掛かるのは住宅街だ。
ちらりと隣を歩く月くんの横顔を見ると、やっぱりその顔は少し強張っている。

「前に歩いた時は、桜が綺麗だった」
「…もう、紅葉も見納めだしね…」

春には桜が吹雪く並木道を歩き、他愛ない会話を続けた。
今日は私が喋ってばっかりで、月くんはもっぱら聞き役…。
いつもなら、月くんがたくさん話してくれて…話上手な月くんの会話に私が笑わせられる。
そんな風だというのに、今日は私がぽつぽつ、取り留めのない事を言うばかり。
今日の月くんは決して愛想が悪い訳ではないけど、無難な返ししかしてこない。
…天使様の言う通り。凄く警戒されてる…。

「…もうすぐ着くね。月くんはお家に帰るの久々だよね…」
「…うん…。…母さん、呆れてるだろうな」


見慣れた公園も通り過ぎ、そろそろ私達の家が見えてくるという所まで歩いたところで…
ふと月くんが遠い目をしていうものだから、私はじっと月くんを見つめて、こう提案してみた。

「…先に月くんのお家寄って行こうか?」
「気にしなくていいよ。元からまだ帰るつもりはなかったし…家族が家を空けるのは、父さんで慣れてるだろうしね」

月くんがお父さん…総一郎さんの事をからかうから、それがおかしくて私も笑ってしまった。
確かに、月くんのお父さんは家に全然帰らない暮らしを送ってるだろうな。
私のお父さんも不在がちな方だけど、その比じゃないはず…。特に、今の時期は。
キラという人物が世の中を騒がせるようになってから、警察関係者はいつも以上に忙しく過ごすようになったはず。
月くんのお母さん…幸子さんは普段家を開けがちな旦那さんに何も思わない訳ではないだろう。
けれど、許しているのだと思う。

月くんのお父さんの正義感の強さ…刑事局長という立場から背負っている強い責任感…
昔から信念のある人だとは思っていたけど、数か月、監禁生活を送る中で、改めてそれを知らされる事になった。
…きっと、月くんも父親の背中をみて育つ…主人公は、将来正義のヒーローになる。
いや、物語が進行している今だって、月くんはヒーローだ。それに…。
幼稚園バスに一緒に乗り込んだあの日から、私にとって月くんは特別な人。
緊張していると思ったのだろう、私の手を繋いでくれて、一緒に歩いてくれた。
誰に対しても礼儀正しくて、どこに席に座りたいかと聞いてくれた。
たった3歳の男の子が出来る気配りじゃなかった…
あの頃から、月くんは私のヒーロー。


「……月くん?」


月くんは、いつだって強かった。…たまに子供みたいな行動をして、困らせたり、殴り合いの喧嘩をしたりもしてたけど…
でも、問題事に直面した時の月くんはいつも冷静で、持ち前の頭脳で最善策を見つけて切り抜けていた。
そんな月くんの顔色が…明らかに悪い。
…このタイミングに「大事な話がある」と言ってきたら身構えると天使様は言っていたけど…
…でも…本当にそれだけなの…?

「…大丈夫?少し顔色悪いみたい…」
「…ああ、大丈夫だよ。外を歩いたのは久々だし…人酔いしたのかもね」
「……そっか……」

月くんは笑って、酷く心配する私を宥めた。
なんでもないはずが、ない…と思う。多分…何かある。
その何かというのが何なのかは、"物語"を知らない私にはわからないけど…
でも、天使様があえてこのタイミングを選んだこと。月くんがここまで緊張していること。
このことからして、ただタイミングが悪いだけでなく、月くんなりに何か別の問題を抱えている事だけは理解できた。


「…ごめんね」

第一に、天使様は絶対に、意地悪をするために月くんが忙しいタイミングを選んだわけじゃない。
そして私は、天使様のお願いを叶えたい。私の役割りを果たしたい。
必要なことをしているのだと思う。でも…私は今きっと、月くんを困らせてる。
そのことが心苦しい。


「…そんな、謝らなくていいよ」

月くんは私の顔を覗き込んで、頬を撫でてくれた。
…嫌われたわけじゃない。わかってる。月くんはこんなにも優しい…いつだってそう…。

「……ありがとう…。…でも、月くんと2人きりになれたのって、本当に…すごく久しぶりで…」

月くんの温もりを感じながら目を瞑る。

「…うれしいな」

例え困らせていても。例えこれから真剣な話し合いをする事になるのだとわかっていても。
嬉しいという感情は、どうやったってわいてくる。
月くんは何も答えず、ただ優しく笑うだけだった。
……考えない。月くんが今何を考えているのか…どんな事情を抱えているのか。
主人公の役割が何であるのか…
今までそうしてきたように。何も知らないままでいる。それこそが、私に課せられた"役割り"なのだから。


「ただいま」
「…お邪魔します」


月くんの自宅は目と鼻の先にある。一度は断られたものの、やっぱり少しくらい顔をみせた方がいいんじゃ…そんな風に考えたけど、
それでも月くんが全く自宅の方を気にした様子がなかったから、私は何も言わず自宅の玄関扉をあけて、靴を脱いだ。
そうしているうち、声を聞きつけたお母さんがバタバタと足音を立てて、廊下へと顔を出してきた。
そして大きな声を出した。

「…月くん!」


娘が数か月ぶりに帰ってきてもここまで目を輝かせたりしなかったのに…。
お母さんは月くんの声を聞き、その姿を見ると、明らかにテンションを上げていた。
夜神さんちのご両親は勿論自慢の息子だと思っているだろうし、私のお父さんお母さんも月くんが大好き。
…私だってそうなのだから、人のことは言えないけれど。それにしたって現金すぎる反応で、苦笑いしてしまう。
そうやって呑気にしていられたのも、ここまでだった。


「…それで、2人はいつ籍を入れるつもりなの?」
「お、おかあさん…!?なに言ってるの…っ!?」

今度は私が声を大きくする番だった。もし今飲み物を飲んでいたなら、私は酷く咽ていたと思う。
あまりにも突拍子もない事を言うものだから、私はわなわなと震えてしまった。

「なにって…お母さん別に学生結婚に反対するつもりないわよ?」
「は…っ話が飛躍しすぎだよ…!」

お母さんたちが私と月くんが付き合っていると知ったのはつい最近の事だろう。
それなのに結婚まで飛躍するなんて…それに、学生結婚なんて…。
…普通反対しないかなあ…?うちのお父さんお母さんが底抜けに大らかなだけなのか、月くんが信用を勝ち取りすぎているだけなのか、判断に迷う所だ。

「長い長〜い駆け落ちまでしておいて、何いってるのよ」
「…もう、月くんを困らせないで……」

…結婚。そんな事、考えた事もなかった。
月くんにずっと恋をされてる自覚はあったし、遊びみたいに軽い気持ちで付き合っている訳じゃない事も理解してる。
それでも、いずれ私達がもっともっと大人になって、結婚するする…そんな未来を思い描いた事はなかった。
強制的にそんな未来を突き付けられて、想像したら恥ずかしくて顔が熱くなってしまった。
思わずお母さんの所に駆け寄って、腕を掴んで必死に止めると、「もう、わかったわよ」と言ってお母さんはあっさりと引きさがった。


「じゃ、ごゆっくり〜」

決してからかった風ではない。至極自然に見送られ、手をひらひらと振られ。
リビングに引っ込んでいくお母さんの姿を見送って、しばらく呆然と立ち竦んでしまった。

「……ごめん、月くん…。…えと…部屋、いこっか…」
「……そう、だね…」

熱くなった顔を手の平で覆い隠しながら、パタパタと先導するようにして階段を駆け足で上がった。
こんな顔、見られたくない。監禁生活中にも散々月くんにもからかわれて、恥ずかしい思いをしてきたけど。
他人…お母さんにからかわれると、また違った羞恥を味わせられて、居た堪れなくなった。
階段を上がってすぐの所にある扉を開けて、月くんを自室に招きいれた。

「月くん、適当に座ってね」
「…ありがとう」

お母さんが毎日掃除してくれていたおかげで、私の部屋は月くんを迎え入れても恥ずかしくないくらいに綺麗だ。
私の部屋には月くんの部屋のようなちゃんとした椅子はないけど、腰かけられる座椅子くらいはある。
私が一人ベッドに座るのもなんだか変だと思ったから、クッションを引っ張ってきて、その上に腰を下ろした。
お互い腰を据えて対面すると、不思議な沈黙が流れる。
それはお世辞にもいい沈黙とは言えなくて、率直に言えば気まずく重いものだった。
私の方が用があって月くんを連れ出してきたのだ。私から口を開かないといけない。
1つ深呼吸をしてから、意を決して本題を切り出そうと口を開いた。

「……えと…大事な話があるって…あと、天使様がいるかどうか信じるか…とか、言ったよね?私…」
「…うん…」

話していると自然と、ピンと背筋が伸びた。
声も強張って、小さくなる。まるで内緒話をしているかと見紛われる程、頼りない。
…そうもなるだろうな、と自分を客観視する。
何せ、今から話すことは極めて重要で…極めて"怪しい"話だから。
十分にそう自覚しているせいで、前置きが随分念入りになった。

「……あの、間違っても怪しい宗教にハマったとか、そういうんじゃないの…」
「…大丈夫、わかってるよ」

私と向き合う月くんは、酷く冷静だ。月くんが冷静であればあるほど、私は逆に焦ってしまう。

「……ほ、本当だよ?確かに色々大変なことがあったばっかりだけど…その…病んでたりしないし…」
「…落ち着いて、大丈夫だから…信じてるよ」

やんわりと優しい笑顔を浮かべる月くんは、本当に私を胡散臭そうな目でみることなく、真剣に話を聞いてくれていた。
…今から"天使"の存在について真面目に語ろうとしていると理解しているだろうに。
これも月くんの人柄か、それこそ私が月くん相手に培ってきた信頼のおかげか。
天使様にも言った通り、月くんは私が「天使様がいるの」と言ったら、信じてくれる。
少なくとも、私にはその姿が見えていて、本当に存在していると信じているという事は理解してくれるだろうし、馬鹿にしたりしない。
寄り添ってくれると思う。そういう信頼関係が私達の間にはある。そう確信している。


「…月くん。わたし…ずっと…天使様に見守ってもらってたの……」


──そう確信していても。この言葉を切り出すのは、酷く勇気がいった。


「……天、使…」

月くんは、目を丸くしながらぽつりと呟いていた。
その瞳に、侮蔑の色はない。けれど、どこか現実離れしたものを見るような…
少し放心したような感じだったから、私は焦ってしまった。

「あっ…あの…ほんとうに…頭がおかしくなったとか、そういうんじゃないの…」
「…落ち着いて、疑ってなんかないよ、…ねえ、…それは…」

私の肩をぽんと叩いて言う月くんは笑ってはいるけど、雑談をする時のような柔らかなものではない。
月くんは、今真剣に会話しているのだということが伝わってくる。


「…それは、いつからなの?…今も、そばにいるの?」

今度は私がびっくりして、目を丸くする番だった。
信じてくれるという信頼はあった。馬鹿にしないってわかってた。
それでも、こんなにも真面目にいくつも質問してくれるとは思わなかったから…
思わず、笑ってしまった。


「…月くん…こんな話信じてくれるなんて、ほんとに優しいね…昔から変わらない…」
「…のいうことは…、……僕は……何だって、信じるよ…」
「……ふふ、そうだよね……そう…」


月くんは昔からそういう人。月くんは私の事を尊重してくれてる。
私に恋をしてるからとか、それだけじゃなくて。私を一個の人間として認めて、敬意を払ってくれている。
好きな人を盲目的に甘やかすのは違う、絶対的な絆があった。

「……私…証拠なんてみせなくても…月くんなら信じてくれるって…そういったのに」

私はそう言いながら立ち上がった。
あのノートを取り出すためだ。
天使様は、私が監禁されるという事を事前にわかっていたのだろう。
元から慎重に保管するように指示していたけど、ある時を境に隠し場所を変えて、誰の目にも届かない場所に保管するようになった。
その場所は、私も知らない場所だった。ハッキリと理由を聞いたわけじゃないけど…
監禁された事で精神錯乱した私が天使様に縋ったりして、そこから芋ずる式にノートの存在が明るみに出ないように、私ですらわからない場所に隠したのだと思う。

そうでなければ、私の知らない場所に隠す理由がない。
私が簡単に秘密を明かす人間だと軽く見られたのとは事情が違う。追い詰められれば、人間はどんな行動に出るか誰も予測はつかない。元からそういう風につくられてる生き物だから、仕方ない。
私たちの会話をずっと見守っていた天使様に視線を向けて、同意を求めるように微笑んだ。
今はあのノートは私の手に帰ってきていて、勉強机の引き出しに入れてある。

「ちょっと待ってね…」


月くんに断わりを入れてから、引き出しを開けた。
こんな無防備に保管したのは、監禁が解かれて帰宅した後が初めてだった。
鍵もない引き出しに入れる事ができる。それを天使様が許した。
…監視は完全に解かれていて、もう物語は終る。その証明だ。
引き出しを閉じてから、くるりと振り返り、月くんの目の前で膝をついた。

「……月くん、このノートに触ってくれる…?…そうしたら、天使さまが見えるようになるから……」


そして、月くんにノートを差し出す。
月くんは瞳をゆらゆらと揺らしながら、それでも何も言わずに…私の言う通り、ノートに触れてくれた。
その手は少しだけ震えている。これから天使の姿をみるかもしれないと思うと緊張するのか、怖いのか…。
…それとも、好奇心から?…わからない。

「……、」


目を丸くした月くんは、その目に天使様の姿を映しているはず。
だって、視線が向かう先は…私じゃない。私の背後を見ていたから、すぐにわかった。
でも、いつまでも月くんは何も言わない。無言で、表情を無くして…真剣な面持ちで天使様を凝視するだけだった。
…今、どういう気持ちでいるんだろう。怖がってるのとも違うし、警戒してるのとも違う。
…困惑してる?とにかく、何の言葉も出てこないくらいの心境でいる事はわかった。
いつまでも続く沈黙を破ったのは、私だった。


「…その……びっくり、したよね…?」
「……そう、だね…驚いたよ……」

私が恐る恐るとわかり切った問いかけをすると、月くんはぎこちなく頷いた。
そして少ししてから、視線を手元のノートに落とす。
私の掲げたノートに、月くんが手をかざしてる形になっている。
月くんは、そのノートをよく観察しようとしてるのだろうか。俯いていて、膝を立てている状態の私からは月くんの表情が伺えなくなってしまった。

「……この、中…みても、いいかな……」

月くんは、少し震えた声で問いかけてきた。月くんに見えていない事はわかっていたけど、私は反射的に首を縦に振っていた。


「…うん。いいよ…」


触れただけで、天使様の存在は認識できるようになった。
それだけで、ひとまず第一の目的は果たせた。
ノートの中まで見せろという指示は下されていないけれど、天使様はきっと許すだろう。
そうでなければ、ノートの中身を憂いた私に対して「誇っていい」なんて言って励まさないはず。
私も天使様も、月くんがノートの中身を見るだろう事を前提に会話していたのだ。

ぺらりと、音を立て、月くんはノートのページをめくった。


「………え」


すると、月くんは驚いたような声をもらした。そしてそれを皮切りに、一枚、また一枚と丁寧にページをめくっていき…
白紙のページにたどり着くまで、何十回もそれを繰り返していた。
不思議なことに、このノートはいくら書いても白紙がなくならない。そういうものなのだと天使様は言っていた。
「財布に優しいノートだね」と感心したら、「そんな事を言うのはあなたくらいね」と天使様が笑っていたのを覚えている。
そんな事を思い返して1人でほのぼのしていると、月くんは俯いていた顔を上げて、私に困惑した様子で問いかけてきた。

「……、これは…どういうこと…?」
「…?どういうことって…、…えと、どういう意味…?」

いい加減膝立ちしているのも痛くなってきて、ぺたんとお尻をついて、月くんと再び視線を合わせた。
月くんが天使様を見て驚くのもわかるし、状況に困惑するのもわかる。
でも、月くんが何を疑問に思っているのかがわからなくて、私も困ってしまった。


「……どういう意味って…、」

途方に暮れた様子の月くんをみて、胸が痛くなる。
疑問には答えてあげたいけど、知りたい事が明確にわからない以上、どうしようもできない。
このままでは埒が明かないと思ったのだろう。月くんは一度居住まいを正してから、真剣な眼差しを向けて改めて私に問いかけた。

「………。なんでこのノートに誰かの名前を書かなかった?」
「…なんでって…?」
「その"天使様"は人の名前を書くように言っただろう」

月くんの疑問は、これで明確になった。だというのに、私は更に困ってしまった。
……どうしてこんなに噛み合わないんだろう。
お互い動揺してるせいでか会話が成立していないならともかく…
私達はこんな状況だというのにお互い冷静だし、お互いに相互理解を深めようという共通意識がある。
なのに、何もわからない。…なんで、名前…?
幻想的な天使の存在。不思議なノート。それを目の前にしたとき、真っ先に出て来る疑問なんだろうか。
名前を書く…?なんで月くんは、そんなに確信をもってそう言えるんだろう。
月くんは私の背後で成り行きを見守る天使様にちらりと視線をやった後、再びノートをめくりだした。
表紙を角度を変えて眺めてみたり、裏表紙を確かめてみたり、検分しているように見える。


「……なんで、そう思ったの?」

そんな姿をみていたら、わいて出た疑問がつい口に出ていた。

「……質問に、答えてくれ」

月くんは、厳しい声で私に改めてそう言った。
質問に質問で返すような事をしてしまったと、そこで初めて気が付いた。
天使様と不思議なノートの存在に慣れた私とは違って、いきなり呼びつけられていきなり見せられたばかりなのだ。
それなのに、私がこんなにぼうっとした調子だったら、月くんも困るだろう。
自業自得とはいえ、ちょっとピリっとした空気になった事が怖くて、ちょっと背中が丸まったしまった。

「……最初は、このノートに名前を書こうとしたんだけど…でも、天使様が駄目だっていうから」
「……名前を書いてはだめだと?天使がそう言ったのか?」
「……そう…」


そんなに念入りに聞き直すほど、不思議なことだろうか。
頭のいい人にしかわからない着眼点があるのかもしれない…最早そうとしか思えない状況だった。
本当に理解が追い付かない。月くんの思考回路にはついていけないと白旗を上げて、私はただ聞かれた事だけに素直に答える事にした。

「…このノートには、絶対に、人の名前を書いてはいけない。天使様がいいと言った瞬間、いいと言った名前、それしかダメだって…」

…月くんの望む答えを、果たして口に出来ているのだろうか。
知りたいことは、ちゃんと知れてるのかな…?

「使い方を間違ったら、危ないって……でも、何も書いちゃいけない訳じゃないみたいで……だから…」

そこで言葉を切ったのは、やっぱり気恥ずかしかったから。

「……だから、料理レシピを書き留めた…?」
「うん、そう……」


でも、羞恥よりも、ようやく話がまとまってきた事に対する安心の方が勝って、力が抜けた。
それは月くんも同じな様子だった。今まで見せていた緊張をようやく解いて、肩の力を抜いて、ようやくいつもの調子で優しく語り掛けてくれた。


「…ごめん…ちょっと、びっくりして…余裕がなくなってた。…キツ言い方して、本当に…」
「あ、謝らないで…!私も最初は驚いたし…怪しい事言って、こんな風に強引に連れてきたんだもん…身構えて当然だよ…」

月くんがあまりにも自分を責めた様子で…本当に、悲痛な表情を浮かべるものだから。
私は慌てて手を振って、一生懸命になって月くんに言葉を重ねた。
どう考えたって不審だったし、連れ出したのも我儘だし…天使なんていう不思議な存在を見せたのだから。
いつも通りでいられなくて当然だ。確かに空気が悪くなったことに関しては怯んでいたけど、それはただの反射だ。
謝られるような事は何もないし、気にしてない。

「……でも、なんで料理のレシピを書こうと思ったの?せっかく"天使様"にもらったノートなのに…大事に…してるんだよね?」


月くんは、今度は探りを入れてるというより…純粋に浮かんだ疑問を問いかけるようにして、自然な様子で問いかけてきた。
こくりと頷いてから、事情を説明する。


「…うん、大事にしてたよ…天使様は友達だし…」
「…友達」
「うん。仲良くなったの」


笑顔で言うと、月くんはちらりと私の背後の天使様をみた。
けれど天使様は喋れない。私相手には身振り手振りでジェスチャーをする事もあるけど、月くん相手にそうする所はあんまり想像がつかなかった。
だから、やっぱり私が代わりに全部説明しないといけない。
一から十まできちんと答えられるよう、このノートを手にした始まりの頃を思い出しながら言葉を尽くした。


「最初はね、ただのメモ帳にしようと思ったの…覚えられなかった芸能人の名前を書いたりして、自由帳みたいにしようと思って…、…でも…」
「…でも?」
「……特別なノートなら、特別なことを書きたいって思ったの、だから…レシピを…」


天使様は誇っていいと言っていた。でも…やっぱり気恥ずかしくて、どんどん言葉尻がすぼんでいって、俯いてしまった。
月くんはそんな私の様子をまじまじと眺めていた。


「……このレシピは…にとって特別なものなの…?」
「…そう、だよ…だって、全部いつか…月くんに……」
「……僕に?」

…説明、しなきゃ。天使様のお願いを叶えるために。月くんの疑問を解消してあげるために。
…それでも…。


「…月くんに…作ってあげたいって思ったもの…だか、ら…」

好きな人のためにいつか手料理を振舞いたくて頑張ってました、なんて…
口にするのは、勇気がいる。どうしても羞恥が伴う。
顔が熱くなるのが抑えきれなくて…ああ、いやだな。今、絶対私、変な顔してる。
そんなの見られたくなくて、手で顔を覆った。
だから、今月くんがどんな顔をしてるのかわからなかったし、わかりたくなかった。
重たいと拒絶されても嫌だし、嬉しそうに破顔されても、やっぱり恥ずかしくて見たくない。

けれど、そうして逃避していると…あまりにも長く沈黙が続くものだから。
結局恐る恐ると手を解いて、自分から月くんの顔をみて、様子を伺っていた。


「…どうしたの?月くん」

私が問うと、月くんは長い沈黙などなかったかのようにして、質問を重ねてきた。
レシピに対して賛否する類のものでなかった事に感謝しつつ、私は月くんの疑問に答えた。

「…いや、なんでもないよ…。それより…どうして"それ"を…いや、"天使様"を、僕にみせようと思ったの?いや、その前に…いつから天使様がそばにいたんだ?」
「…えと…9月15日。高校三年生の……私が早退した日…帰り道で、このノートを拾って…」

ノートに何故名前を書かなかったのかと聞かれるよりは、納得がいく疑問と質問だった。
月くんは高校三年の、といった所ですぐに顔色を変えて、酷く驚いた様子を見せていた。
そんなに前から傍にいたのか…と驚いたのだろう。
そしてその驚きの感情は色をかえて、どこか剣呑な様子で私の背後…つまり天使様を見上げた。


「……なあ…そろそろ…色々教えてくれないか?…"天使様"……」

そしてついに、天使様に対して直に問いかけ始めたものだから、私は慌てて間に入って手を振った。


「月くん、あのね、天使様はほとんど喋れないの…」
「…喋れ、ない…?」

月くんは、それを聞くと信じられないものを見たかのように、唖然とした反応をした。
…天使様が喋れないって、そんなに不思議かな…?
人間が動物や昆虫の言葉を聞けないように、意思の疎通ができない可能性だって…。
あ、でも、名前を書いたらだめと言われたとか、友達だなんて言ったり…
そんな話したんだから、会話が出来てると思って当然かも…
自問自答しながら、月くんに説明を続けた。

「そう…筆談もできるみたいだけど…できるだけ私としかしたくないんだって。私以外に姿をみせるのも、ほんとはだめだったんだけど…」
「…天使様が言ったんだね?僕に姿を見せるって…」
「うん、そう…。……あのね、……月くんだけは特別なんだって。…えと、だから…聞きたいことがあったら何でも私に聞いて」

とことん月くんの質問に答えよう。
それが私の役目だ。今までただそこにいるだけで、何も知らないままで…それこそお人形のようにすごしていた。
でも天使様のおかげて、私は今、大切なことを出来ているのだという実感があった。
使命感に燃えていたのだった。

けれど、月くんは思慮深い人だ。思いついた事をなんでも聞いてくる事はなく、慎重に言葉を探している様子だった。

「大丈夫だよ、月くん」

天使様といえば、人に優しい存在という先入観がある。
けれど、結局のところ人間ではない異種族という事には変わりはなくて。
そんな存在を相手にするのだから、月くんが慎重にならないはずがなかった。
誤解を解くために、天使様の存在について語り続けた。


「天使様、怖くないよ…?私のこともいつも守ってくれるし…月君のことも守ってくれるって言ってた」
「……僕の、ことも?」
「うん、そう」


これも本当。天使様は常々、「あなたのことを守るから」と言ってくれてた。
その言葉に甘えて、私は冗談半分でこう言ったことがあった。

「じゃあ、月くんのことも守ってくれない?大事な人なの」というと、天使様はあっさりとこう答えたのだ。
「あたしは最初から、二人共を守るつもりでいるわよ」──と。


「あ、それとね…」

天使様に纏わる過去を振り返っていると、それに紐づいた記憶が蘇った。

「天使様は特別だから、未来がみえるんだよ」

それは、私も今日初めて知らされた事実だった。天使様は、預言者だ。
天使様が前世は人間だったのか、それとも前世も天使なのか…
詳細はわからないけれど。少なくとも物語についての知識があり、転生について造詣が深い事だけはわかる。
月くんはさすがに驚いた様子で、声を上ずらせていた。


「…み…未来?……その"天使"には…そんな力があるのか?」
「うん。そう言ってたよ」

月くんはちらりと、自分の背後に視線をやっていた。
もしかして天使様が移動したのかと思って私も自分の背後を振り返ったけど、
天使様は今まで通り、私の背後に立ったままだった。


「……」

驚いた様子で振り返り、また天使様を凝視して──そして、再び自分背後を振り返る。
珍しく声を上ずらせていた事からもよくわかった。月くんは、今凄く動揺してる。

「……月くん…あの…大丈夫…?」
「いや、ちょっとびっくりして…」

月くんは苦笑いして、なんでもないのだと言い繕った。
本当に無理をしてないか気になって、じっと月くんの顔を覗き込む。


「そう…?」

すると、私と視線を合わせると、ぽんと私の頭を撫でてくれた。
いつもだったら、月くんは隙があればすぐ手を繋いでくるし、髪に触れたがる。
でも、今日はずっとそういう様子を見せず、一線を引いてた。
だから普段通りに接してもらえたことが嬉しくて、嬉しくて。
きっと凄くだらしない表情を浮かべてたと思う。にこにこ笑うのは止められなかった。
調子に乗って、どんどん天使様について得意げに説明を続けた。

「あのね、天使様は未来をひとつ教えてくれたの」
「…そうなんだ…。…それは、どんなものか、教えてくれる?」
「うん、勿論」

これこそ、天使様が私に求めたことのもう一つ…
──月くんに姿を見せること。そして…
──月くんに予言を伝えること。

月くんは未来を教えると言っても、もう全然身構えた様子はなくて。
いつもと変わらない笑顔、いつもと変わらない距離感。
いつもと同じように自然に手を握ってくれて。
まるで今日あった事を一生懸命話す子供を相手するみたいに、笑いながら聞いてくれていた。
だから、私はもうとっくに緊張せず、安心して全部を明かすことができた。


2025.11.25