第100話
6.明日からの話天使の未来視

本部を出て、監視カメラが僕達を捉えられない程の距離まで遠のいた時…
レムが地中から姿を現した。
やはり監視カメラの目を逃れ、僕に憑いているという事を気取られないよう工夫してくれたようだ。
の隣を歩いている手前、僕に話しかけてくる事はない。
リュークであれば好きにあれこれ囃し立てて笑っていただろうが、レムはただ黙するだけだった。

と共に今歩いているのは、幼少期から何度も歩いた慣れ親しんだ一本道だ。
幼稚園から一緒の仲の幼馴染。お向かいに住むお友達。
それに加えて母親同士が仲がいいとなれば、僕らが望まなくても、共に過ごす時間は必然的に多くなっていた。


「この道、一緒に歩くの久しぶりだね…」
「…そうだね」
「前に歩いた時は、桜が綺麗だった」
「…もう、紅葉も見納めだしね…」

最寄駅付近の繁華街を抜け、自宅に向かうまでの道乗り。
こんな風に他愛ないやり取りをしながら、何度も何度も歩いてきた住宅街。
なんの変哲もない街路樹が並び、その下の歩道を歩く学生、主婦、子供、老夫婦…
その中に紛れて、隣同士歩く…その時間は愛しく、いつだって幸福感で満ち溢れた。
何度だってその幸福を味わいたかった。そうやっていつまでも…少しでも長く側にを置けるよう、望んだだのは僕自身だ。

「…もうすぐ着くね。月くんはお家に帰るの久々だよね…」
「…うん…。…母さん、呆れてるだろうな」
「…先に月くんのお家寄って行こうか?」
「気にしなくていいよ。元からまだ帰るつもりはなかったし…家族が家を空けるのは、父さんで慣れてるだろうしね」

家を開けがちな父さんをからかって笑うと、もつられて笑っていた。
語る内容はあり触れたものであるというのに、僕の心臓は痛いくらいに早鐘を打っている。
…僕は今、上手く笑えているだろうか。あのLでさえ、欺く自信が僕にはある…
しかし今だけはそんな風に自信を持てない。

「……」

隣を歩くの横顔を覗き見る。風に靡く黒髪も、長いまつ毛も、光を吸い込むその瞳も…
──すごく綺麗だ。変わらずそう思えるのに…
今の僕は、そんなが敵か味方かわからず、猜疑心に苛まれている。
……の側にいる事を望んだ自分の過去が、過ちだったなんて思いたくはない。
に抱いた恋心は、僕の人生で得た唯一の宝物なのだから──

──僕達の関係性が変わったのは、五歳のあの事件がきっかけだった。
幼児を拉致し、凄惨な手口で連続殺人を繰り返す殺人鬼。
そんな男を前にして、涙を流させ…自首をさせるまでに至らせたの行動は、まるで奇跡のようだった。
底抜けの優しさでもって改心させた姿を、僕は尊敬したのだ。
五歳のあの頃も、自分が人より優れているという自覚はあった。
けれどそんな僕にも出来ない事をやってのけ、命を救ってくれた幼馴染を自分と同じ土俵に立つ人間として認めた。
それどころか──いつしか、彼女を愛するようになった。

刑事である父親の影響、そして生まれ持った性格のせいで、僕は悪に厳しく善を尊んだ。
彼女の善性が、眩しかった。彼女の心も、声も、瞳も、仕草も…全てが輝いてみえて、まるで汚れのない天使のようだと──。
……何度そう思っただろう。そんな彼女が、突然こう言ってきた。
大事な話があるのだと神妙な面持ちをして──信じてくれるだろうかと、不安そうに僕の顔色を伺いながら──


「……天使がいるって言ったら、信じてくれる?」

──確かに、そう言ったのだ。

つい数日前までの僕であれば、きっとそんな事を言うをみたら、微笑ましくて笑ってしまっていたはず。
こそが天使に違いないのに…なんて内心笑って、茶化し受流していたに違いない。

けれど、記憶を取り戻し、目の取引をするはずだったミサは…それをしなかった。
僕の元を尋ねてきたミサは、こう言ったのだ。

「あのね、天使様がいるんだって。天使様が目の取引はするなっていったんだって。それがライトのためになるっていうから…!」

──天使。そんな言葉を聞いても、何を馬鹿な事を…と咎める気にはなれなかった。
なんせ、僕らノートを手にした者はすべからく"死神"と相対するのだから。
死神界があるのに、天界がないという理屈はないだろう。

「前にレムが前に少しだけ聞かせてくれた事があるの。…天使様のいうことは、全て月と海砂のためになるんだって」

ミサは天使の存在を以前から知っていたとのだという。もちろん、それをミサに話したレムでさえも──。

──…レム。ミサとが容疑者として監禁され、ミサがデスノートの所有権を放棄した時、僕の部屋を尋ねてきてこう言った…

が関与していたと思わせたい第三者の存在があった」

…──と。あの時は時間もなく、レムも死神界の掟のせいかミサを守るためか、それ以上詳しく話そうとはしなかった。
第二のキラではないし、第三のキラにもなり得ない存在。の事を害する気もないのだと聞いて、僕はそれを信じる事にした。そうせざるを得ない状況だったともいえる。
レムの言葉に嘘はないはずだった。僕が不利になるような事があれば、ミサが悲しむからだ。レムはそれを望まないはずだ…。
──今、点と点が繋がったような気がしていた。レムが言葉を濁したあの"第三者"という存在こそが"天使様"だったのではないか──…と。

全ては憶測にすぎず、真実は今、明かされようとしている──。
憶測が正しければ、きっと「キラ」にとって不利な状況には陥らないはずだ。
しかし、を愛する「夜神月」にとっては、最悪の結末が待っているかもしれない。
そう思うと足が重く、冷や汗さえ滲むほどだ。


「…月くん、大丈夫?少し顔色悪いみたい…」
「…ああ、大丈夫だよ。外を歩いたのは久々だし…人混み酔いしたのかもね」


僕を見上げたが、顔色の変化に気が付いて気遣わし気にしている。
適当な言い訳を並べると、納得がいった様子で「そっか…」と頷いていた。
大事な捜査中であるとわかっていながら、僕を外に引っ張り出したのはだ。

「…ごめんね」
「…そんな、謝らなくていいよ」

僕の邪魔をした事と、僕の具合を悪くさせた事に、罪悪感を抱えているのだろう。
そういう思考はすぐに透けてみえるのに…が何を思って天使の存在を仄めかし、何を明かそうと自宅へ連れて行こうとしているのか、想像もつかない──

──僕は、恐ろしくてたまらない。


「……でも、月くんと2人きりになれたのって、すごく久しぶりで…」

──うれしい。

幸せそうにはにかんだが…キラの真実を知っていたとしたら…。
無垢な顔の裏に、ずっと秘密を抱え込んで知らぬふりを貫いていたとしたら…?
そうなれば、僕の信じるの善性は全て崩れ去る。
は、僕がキラだと知っていて、監禁軟禁されている間も知らぬ顔をしていた…
あのLにも、僕にすら気取られる事なく。そんなのは普通ではない。

──あまりに狡猾で打算的。
僕の認識していたという人間性とは、あまりにもかけ離れたものであった事になってしまう。そんな事に、耐えられるはずがない…
僕が何のためにデスノートを手にしたのか。そのノートに名前を書き続け、理想の世界を創り上げようとしたのか──…
全てが無に還してしまう──。

見慣れた一軒家が視界に入った頃、はちらりと僕を伺いみたものの、家の方へと歩を進めた。
やっぱり一度夜神家に顔を出しに行った方がいいのではないか…と考えたのだろう。
しかし僕の意思を尊重して、バックから鍵を取り出すと、名前の自宅のドアを開けた。


「ただいま」
「…お邪魔します」


家の玄関で靴を脱いでいると、リビングルームからの母親が顔を出してきた。

「…月くん!」

目を丸くして僕の名を呼ぶその人みて、一瞬厳しく叱りつけられる事を覚悟した。
が長い間家を空けたのは、僕と駆け落ちしたから…という事になっているからだ。
大学にも通えなくなる形で駆け落ちするなんてと、咎められても仕方ない。
しかし予想に反して、の母親は好意的だった。

「…それで、2人はいつ籍を入れるつもりなの?」
「お、おかあさん…!?なに言ってるの…っ!?」

……好意的すぎるほどだった。
僕は笑みを浮かべつつ、何の言葉を返す事も出来ず、彼女たちのやり取りを見守る事しかできなかった。

「なにって…お母さん別に学生結婚に反対するつもりないわよ?」
「は…っ話が飛躍しすぎだよ…!」
「長い長〜い駆け落ちまでしておいて、何いってるのよ」
「…もう、月くんを困らせないで……」

こんな状況でなければ、きっと僕は喜んでいただろう。満更ではなかったはずで、の母親の言葉に乗っかり、調子のいいことを言ってをからかったはずだ。
今のは顔を真っ赤にしていて、母親の元に駆け寄り、必死で止めようとしている。

「じゃ、ごゆっくり〜」

家は躾に厳しい方ではなく、放任主義。それは理解していたものの、ここまで寛容だとは思わなかった。
気のすむまでからかったあと、すぐにリビングへと引っ込んでしまった。

「……ごめん、月くん…。…えと…部屋、いこっか…」
「……そう、だね…」


赤くなった顔を覆って隠しつつ、は階段を上がり始めた。
夜神家と家の間取りは大して変わりはなく、階段を上がってすぐ見えて来る扉の奥がの部屋だ。
ベランダに出れば、目の前に僕の部屋が見える形になっている。
の部屋の調度品はシンプルで、いかにも女子らしい部屋はしていない。
カーテンは寒色系だし、レースを使ったクッションなどがある訳でもない。
けれどペンケースの模様がかわいらしい猫の模様をしていたり、使っているマグカップの形だったり…
鏡台の前に置いてある化粧品など、細やかなところに女性らしさを感じられた。
部屋に踏み入れた時に鼻腔をくすぐった甘い香りも、いつも上品にすごしているらしいものだった。
──殺伐とした世界とは無縁の世界で生きている。そう信じていた…そうだと信じたい。

「月くん、適当に座ってね」
「…ありがとう」

の雑談にも気遣いにも、何の気の利いた言葉も返せない。
きっと敏いは、僕が緊張している事にも、普段より口数が少なくなってる事にも気が付いている。
僕が座椅子に腰掛けるのを見届けると、は一つ息を吐いて、決心を固めるようにしてから、僕の向かいに座った。
ベッドの上からクッションを引っ張ってきて、それを座布団代わりにして対面する。
ごくりと、あからさまに固唾を呑むのを、こらえきれなかった。

「……えと…大事な話があるって…あと、天使様がいるかどうか信じるか…とか、言ったよね?私…」
「…うん…」

背筋を正して、僕と向き合うの表情は、真剣そのものだ。
この部屋には勿論、レムもついてきていて、今も背後に立っている…が、がレムの方に視線をやる素振りを見せた腰は一度もなかった。

「……あの、間違っても怪しい宗教にハマったとか、そういうんじゃないの…」
「…大丈夫、わかってるよ」
「……ほ、本当だよ?確かに色々大変なことがあったばっかりだけど…その…病んでたりしないし…」
「…落ち着いて、大丈夫だから…信じてるよ」


本部にいる全員に同じ話をすれば、一瞬で信じてくれるだろう。「死神だけでなく天使までいるのか!?」と、絶対に疑うはずもない。
ましてや「キラ」である僕が、天使の存在を疑うはずもない──…
……それなのに…本題に入る前にこうも必死に弁明を続けるのは何故が理由だ…?
……デスノートや死神の存在を知らない?まさか。天使の存在を知ってるらしき名前が、そんな事…
は僕の言葉を受け止め、深呼吸をしてから落ち着かせると…ようやっと、本題を切り出してくれた。
ずっと僕が知りたかった…知るのが怖かった、真実を──…。


「…月くん。わたし…ずっと…天使様に見守ってもらってたの……」
「……天、使…」


どくりと、心臓が跳ねあがった。…胸が痛い。息が浅くなる。
泣きそうになるのは、裏切られたと思うからだろう。
信じていたに隠し事をされていた事。…それを言うなら、僕だってキラである事をに話さず黙秘していたのだから、お互い様である。
だというのに、身勝手にも傷ついている。幻想が崩れ落ちたと、失意を隠しきれないでいる──…

「あっ…あの…ほんとうに…頭がおかしくなったとか、そういうんじゃないの…」
「…落ち着いて、疑ってなんかないよ、…ねえ、…それは…」

核心に迫る言葉を口にするのが怖くてたまらない。それでも、触れないでいる訳にはいかない…
最早、笑みを浮かべる事すら難しくなってきていた。
もしかしたら口角は上がっていてくれているかもしれないが、きっと目まで笑わせる事はできなくなっているはずだ。

「…それは、いつからなの?…今も、そばにいるの?」

僕が静かに問うと、少し目を丸くしたあと、心底安堵したようにして柔らかく笑った。

「…月くん…こんな話信じてくれるなんて、ほんとに優しいね…昔から変わらない…」
「…のいうことは…、……僕は……何だって、信じるよ…」

──もし、がキラの正体を知っていたのだとしても。天使の存在を背後に隠し続けていたのだとしても。
それでも、盲目的なまでに擦りこまれた信頼は、そう簡単に壊れてくれない…
いっそ壊れてくれたら、どれほど楽だろう。


「……私…証拠なんてみせなくても…月くんなら信じてくれるって…そういったのに」

──そう言いながらなが立ち上がった瞬間、嫌な予感がした。いや、今さらか…
大事な話があると言いながら天使の存在を仄めかせ、自宅にまで招かれた。
そして証拠ときたら、次に何をさせられるのかは大体想像がつく──…
……今のは僕ではなく、何もない空間を見ながら話していた。それこその言う通り、証拠など見せられなくても、もう確信に至るには十分だった。


「ちょっと待っててね」と言いながら、は勉強机の引き出しを開けた。
そこには見慣れた黒いノートがあって、引き出しを几帳面に閉じてから、それを持って元の位置に座った。
レムのノートとリュークのノートの表紙が異なっているように、見たことのない象形文字のようなものが綴られていたが…間違いない。あれはデスノートだろう。

「……月くん、このノートに触ってくれる…?…そうしたら、天使さまが見えるようになるから……」

不安そうに僕を伺いながら、僕にそう願った
無言で差し出されたノートに手を伸ばした僕が…情けなく震えているその理由を、は理解しているのだろうか──…

──次の瞬間。の背後に真っ白な"何か"が見えた。
"ソレ"は大きな目が澄んでいて、羽が生えていて…レムよりも白い。何の混じりけのない、純白と言える姿形をしていた。
……けれど。とてもじゃないが、"ソレ"は天使には見えない。
ただの化物にしかみえない……もっといえば──僕の目には、"死神"にしか見えなかった。


「……、」

僕は驚愕で言葉を無くしていた。
ノートに触れた瞬間、異形の存在を目にする事だろうと想像はついていた。…が、しかし…最早見慣れた死神の姿を見る事になるなんて……まるで予想外だった。

…どういうことだ…?
はなぜ、こいつを天使だなんていうんだ…
そしてどうして僕に…「今」、「このタイミングで」、"天使"とやらを見せようとした…?
「ずっと」天使様に見守ってもらっていた…という言い方をしたのだから、少なくとも数か月は共に居たのだろう。
……は、"第三の"キラなのか…?しかし、記憶を無くした僕は火口を見つける前、本部の設備を使ってくまなく不審死を調べつくしたし、その全てが僕とミサ、そして火口が殺した者たちだという裏はとれてる…

それに、レムが過去に話した第三者=天使だとして…
「そいつは第二のキラ…第三のキラでもない。きっとこれからも、そうはなり得ないんだろうね」とレムは言っていた。
…じゃあ、こいつは一体"何"だというんだ。僕たちに関わって一体何がしたい…?
まさか、レムがミサに肩入れしているように、に情を持っているのか…?

「…その……びっくり、したよね…?」
「……そう、だね…驚いたよ……」

は…人を殺していたのか…?
確かに、は過去に何度も酷い目にあっていて、人を恨んで、殺したくなってもしょうがない境遇にある。
それでも、人を恨めないのがだ。そんなを好きになった。
僕の愛するは心のきれいな女の子。だからこそ、僕この世界を正したくて──
いつかみた小説の中のように、綺麗なものしか存在しない世界をつくってあげたくて…
自然と零れそうになった涙をぐっと堪えて、震える声でに問いかけた。

「……この、中…みても、いいかな……」
「…うん。いいよ…」

から受け取ったノートは、酷く重たく感じた。
僕が触った事のあるデスノートは二冊だけ。その二冊とも、材質も重さも変わりはなかった。
このノートもそうであるはずなのに、恐ろしく冷え切り、鉛のように重いと感じるのは、僕の心理状況がそう錯覚させているのだろう。

──恐る恐る、ページをめくる。そこには恐れていた通り、大量の文字が綴られていた。
僕はきっと、これは人名に違いないと思った。
だから、がどんな人間を殺したのか、確認しようと思った。
いつだって穏やかで、誰かの心を和ませる優しい人間として存在し続けていたが、いったいどんな憎しみをもって、どんな人間を殺したのかと──


「………え」


──なのに。そこにあったのは、僕が想像していたようなものではなかった。


「……、これは…どういうこと…?」
「…?どういうことって…、…えと、どういう意味…?」
「……どういう意味って…、」


──まるで話が噛み合わない。僕が何故困惑しているのかは理解できず、
そんな僕をみても困惑する。お互いの反応が解せず、話は平行線を辿る。
埒が明かないと踏んで、僕は恐れも捨てて、単刀直入に問いかけた。

「………。なんでこのノートに誰かの名前を書かなかった?」
「…なんでって…?」
「その"天使様"は人の名前を書くように言っただろう」


の背後に佇む天使…いや、死神をじろりと見ながら問いかける。
パラバラとめくってみた所、リュークが書いたように、ノートの使い方は書かれていない。
レムのノートもそうだった。リュークはわざと人間界へと落として、人間にデスノートを使わせて遊ぶ事を目的としていたのだから、わざわざ説明書きを書くのは当然とも言えた。
…であれば、この死神の目的はレムと同じようなものなのか…?


「……なんで、そう思ったの?」
「……質問に、答えてくれ」


びっくりした様子で目を丸くしている名前に対して、僕は鋭い言葉を投げつけてしまった。
は少し怯んだ様子で、恐る恐ると口にした。


「……最初は、このノートに名前を書こうとしたんだけど…でも、天使様が駄目だっていうから」
「……名前を書いてはだめだと?天使がそう言ったのか?」
「……そう…」

僕にきつく問い詰められて、は大人に叱られる子供のように萎縮してしまっていた。
罪悪感で胸が痛むも、今の僕に慮っている余裕はなかった。
も、本部から連れ出してからというもの、僕が普段通りでない事を悟っていただろうし、曰く「大事な話」をしている最中、僕が余裕を欠くのも理解できただろう。
僕の感じの悪い態度を咎める事なく、こう説明してくれた。


「…このノートには、絶対に、人の名前を書いてはいけない。天使様がいいと言った瞬間、いいと言った名前、それしかダメだって…」


少し声を震わせながら…僕が望む答えを口に出来ているのだろうか、と伺うようにして、は言葉を続ける。


「使い方を間違ったら、危ないって……でも、何も書いちゃいけない訳じゃないみたいで……だから…」
「……だから、料理レシピを書き留めた…?」
「うん、そう……」


かみ合わなかった会話がようやくまとまり、やっと説明が果たせた事でホッと胸を撫でおろしている。
…そう、の言う通り…このノートのどこにも人名は書かれていなかった。
その代わり、ノートの空白を埋めるようにして大量に書かれた文字は、全てが料理レシピだけ。
必要な具材や工程といった基本的な事に加えて、隠し味がどうだとか、煮詰める時間を変えればどうなるだとか、そんなワンポイントが所々に書き加えられていた。
筆跡は見慣れたのもの。僕はデスノートの筆跡を僕に結びつかないものに変えているし…
僕やLを欺いたこの死神であれば、それくらいの基本的な事はさせるはずだろう。
だけど、それをしなかった。そもそも、名前すら書くなと言った。
死神が、デスノートを人間に渡しておいて…だ。

背後で見守るレムも、"天使様"も、何も言わない。
どうやら、本当にはデスノートを所有しておきながら、その本来の存在意義を知らなかったらしい。
背後にいる化物を、本当に天使だと信じている……。
であれば、僕がキラである事を知らない。…やはり第三者というのは、"天使様"なのだ。こいつの思惑はわからないが…
だとすれば、リュークとレム、どちらの存在も視認でき、意思疎通が取れていた事に納得がいく。


「…ごめん…ちょっと、びっくりして…余裕がなくなってた。…キツ言い方して、本当に…」
「あ、謝らないで…!私も最初は驚いたし…怪しい事言って、こんな風に強引に連れてきたんだもん…身構えて当然だよ…」

僕がはあ…とため息をついて謝ると、は手をひらひらと振って僕を宥めた。
本当に気にしていないらしい。
今想像している通り、本当にが"天使様"に真実を隠され、都合のいい様に動かされていただけだとすれば…
僕は最愛の人を信じる事なく、裏切り者と決めつけてかかって…
関係を修復する事など不可能なほど、傷つけてしまう所だった。
安堵のせいか、を傷つける所だったという恐怖のせいか、僕の手は震えていた。


「……でも、なんで料理のレシピを書こうと思ったの?せっかく"天使様"にもらったノートなのに…大事に…してるんだよね?」

の部屋にも監視カメラが仕掛けられたというのは聞いた話だ。
その時、デスノートは見つからなかったのだろう。僕は二重底で隠していたが…。
カメラを仕掛けた人間が当時、それらしき物をみていれば、今本部で話題に上がっているはずだ。
当時は何の変哲もないノートに見えていたかしれないが、デスノートの存在が明るみになった今、この真っ黒で妙な象形文字が書かれたノートは、=デスノートにしか見えないだろう。
"天使様"の指示により、恐らく普段から隠していたはず。
こいつはリュークよりも小賢しく、用意周到な性格をしているだろう…
そうでなけば、今の今まで僕を欺けるものか…

「…うん、大事にしてたよ…天使様は友達だし…」
「…友達」
「うん。仲良くなったの」

ちらりとの背後の死神をみるも、そいつは瞬きひとつせず、無言で僕を見下ろしている。

「最初はね、ただのメモ帳にしようと思ったの…覚えられなかった芸能人の名前を書いたりして、自由帳みたいにしようと思って…、…でも…」
「…でも?」
「……特別なノートなら、特別なことを書きたいって思ったの、だから…レシピを…」

死神を友達だと言ったは、まるで親友を紹介するように誇らしげに笑っていた。
しかしは語るうちにどんどん尻すぼみになり、恥ずかしそうに頬を染めて俯いてしまった。


「……このレシピは…にとって特別なものなの…?」
「…そう、だよ…だって、全部いつか…月くんに……」
「……僕に?」
「…月くんに…作ってあげたいって思ったもの…だか、ら…」

はとうとう羞恥心に耐えられなくなったようで、顔を覆ってしまった。
それを聞いた瞬間、僕の肌はぶわりと粟立ち、身震いした。
それは驚愕にも似ていたし、歓喜とも感銘とも言えた。
殺人ノートを手にしていながら一切手を汚さず…化物じみた外見の死神を"天使"と呼んで信じている。
人外を友達と言い、禍々しいノートを美しいものと信じてる。
そしてその綺麗な手で…僕への愛情に突き動かされ、ただただ、綺麗なものだけを書き続けた。
手にしているのは同じデスノートで、同じように死神を背後に立たせ続けて。
同じ様にお互いへの愛を抱きながら、同じように綺麗で美しいものを大切にして…
──それなのに、僕らはこうも違う道を歩き続けた。

その事実が、僕の胸にずしりと重くのしかかる。僕は…キラとして君臨し、犯罪者を裁き続けた事を後悔した事はない。
今だって同じだ。間違った事をした事をしたなんて思うはずがない。
ただ、どうして僕たちは同じ境遇にあり、同じものを大事にしていながら、こうも対極的な道を歩んでしまったのだろうと思うと──何も感じずにはいられなかった。

僕が言葉を無くしていると、様子がおかしい事に気が付いたが気遣うように僕の名を呼んだ。


「…どうしたの?月くん」
「…いや、なんでもないよ…。それより…どうして"それ"を…いや、"天使様"を、僕にみせようと思ったの?いや、その前に…いつから天使様がそばにいたんだ?」
「…えと…9月15日。高校三年生の……私が早退した日…帰り道で、このノートを拾って…」

ずっと傍にいたとは聞いていたが…思ったよりも前だった事に驚かされる。
高校三年の頃の9月…つまり、僕がデスノートを拾う少し前の事だ。
…ずっとこの死神は、僕のことをみていたのか…そしてリュークも、この白い死神の存在を視認していながら、僕に黙っていた。
僕はリュークのその姿勢を責めるつもりはないし、正しいと思う、が…どうにも複雑な気分になるのは仕方のない事だろう。


「……なあ…そろそろ…色々教えてくれないか?…"天使様"……」

どういうつもりでにノートを拾わせたのか。まさかリュークのように適当に放り投げたのではないだろう。
恐らく、その行動理念はレムに近いはず。や僕を害するつもりはないと言い、デスノートに絶対に人名を書かせなかった。
その上で、第二のキラに加担したようにして証拠を捏造した。
この状況や、過去のレムの証言を鑑みれば…確実に、犯人はこの死神だろう。

が居る手前、"色々"と言って詳細は濁したものの、この死神には伝わったはずだろう。
しかし死神は口を開こうとしない。ここまできて白を切るつもりかと腹が立っち、じろりと睨んでしまった。
そんな死神を慌てて庇ったのは、だった。


「月くん、あのね、天使様はほとんど喋れないの…」
「…喋れ、ない…?」

まさか、この死神が喋れないなんて思いもしなかった。
僕の知ってる死神はリュークとレムだけだが…当然のように、その二匹の死神と同じように、喋り意思疎通ができると信じて疑っていなかった。


「そう…筆談もできるみたいだけど…できるだけ私としかしたくないんだって。私以外に姿をみせるのも、ほんとはだめだったんだけど…」
「…天使様が言ったんだね?僕に姿を見せるって…」
「うん、そう…。……あのね、……月くんだけは特別なんだって。…えと、だから…聞きたいことがあったら何でも私に聞いて」


は胸を張って、「何でも」と頼もしく言ってくれるものの…
難しいだろう。この死神はにデスノートの真価さえ教えていない。
自分を死神だと明かさず天使だと思わせてる。そんな偽りだらけの死神が、にどこまで情報を与えているか…。
僕は難しい顔で考え込んでいると、は何を勘違いしたのかか、「大丈夫だよ」と宥めるように僕に語り掛けた。


「天使様、怖くないよ…?私のこともいつも守ってくれるし…月くんのことも守ってくれるって言ってた」
「……僕の、ことも?」
「うん、そう」

にこにこと笑うは誇らしげで、その言葉を信じて疑っていない様子だ。

…確かに、レムのように、人間に入れ込む人間もいるというのは知ってる。
けれど…僕との二人に情を移しているのか。どうしたらそんな状況に陥るのか、理解が出来なかった。
けれど、これらの言葉を信じるのなら…今の状況は決して悪いものではないようだ。
最初はに騙されていた…裏切られたと恐怖したものの、勘違いであったとわかった。

海砂が目の取引を天使の指示でやめたと言ったときも、一体これからどうなる事かと思ったが──
レムがミサを守るように、この天使とやらが"僕らの"味方だというなら、こいつにLを殺してもらえばいい。
随分回りくどいが──海砂の目の取引をこいつが止めたのは…
こいつ自身が僕らのために行動したかったから──とか。そんなところだろうか。

「あ、それとね…」

──しかしその想像は裏切られ、の口からは、またも新たな真実が明るみに出た。


「天使様は特別だから、未来がみえるんだよ」
「…み…未来?……その"天使"には…そんな力があるのか?」
「うん。そう言ってたよ」

僕はちらりと、僕を見守っていたレムを振り返り、視線で問いかけた。
死神に未来視する力があるなんて聞いた事がない。
そんな力があるなら、リュークはとっくに僕とLの勝負に飽きているはずだろう。
どちらが勝つか、どういう過程を辿るのか。全て知れるという事なのだから…あり得ない。
その考えはほんとんど正しかった。レムは首を横に振って否定し…しかし、こうも言った。

「いや…死神にはそんな力はないはずだ。ただ…そいつが特別だというのは、本当のことだろう。…そいつは、普通の死神じゃないんだ。
だから死神大王が大昔に…口封じに言葉を喋らせることを禁じたって死神界では噂されていた……」
「……」

僕はその死神の姿を凝視し、絶句した。未来視できる特別な死神が、に…いや僕らに接触を図ってきた…?
…そんなの…これから起こる未来を知っていて、それをこいつの望むように変えたいから行動している…それ以外にないじゃないか…
僕やを守るだなんて言っておいて…一体何をする気だ…?
額面通りにその言葉を好意的に受け取れる程馬鹿じゃない…が、しかしまさか本気で…未来、僕らに降りかかる災厄から守ろうとしているのか…?
──いや、信じてもいいのかもしれない…僕らを…いや僕を貶めたいならもっと簡単に出来たはず…僕には誰にもバレてはいけない大きな秘密があるのだから。それが明るみになれば破滅だ…
だが僕は今、窮地には立たされていない…。…今は…。

「……月くん…あの…大丈夫…?」
「いや、ちょっとびっくりして…」


僕は思わず再び背後のレムを振り返り、意見を求めるように視線を向けてしまった。
誰もいない背後を振り返り、気もそぞろにしている僕をみて心配したは、気遣わし気にこちらを見ていた。
何度も繰り返している言い訳だが、これ以外に言える事はない。
「そう…?」と僕の顔覗き込むの頭を撫でると、嬉しそうに笑ってくれた。
はずっと隠していた秘密を明かしたけれど…
そこに後ろ暗い事など何もなかった。
僕に触れられるだけで心底幸せそうな顔をするは、僕の愛したのままだ。
それだけが救いで…愛しくてたまらない。


「あのね、天使様は未来をひとつ教えてくれたの」
「…そうなんだ…。…それは、どんなものか、教えてくれる?」
「うん、勿論」


最初のピリついた空気はもうそこにはなく…
僕との間には、暖かな空気が流れていた。長年そこにあった距離感が戻り、何の躊躇いもなくの手を取り…もそれを嬉しそうに握り返してくれた。
たったそれだけの事で、きっとこのまま順調に進んでいく…。そんな風に思えた。

──何も恐れる事はない…
結局は、こいつも人間に情を移した死神にすぎないのだ。
であれば、いくら特別な死神であろうと、悪いようにしない…僕らを守る、という言葉を信じてもいいのかもしれない…
──僕は、そう信じていたかったのかもしれない。
僕はこれからもキラとして君臨し、美しい世界を創り上げていく。隣にはがいて、
それこその母親が言ったようにいつか結婚し、平凡な家庭を築いて、幸せに暮らしていく──弱い者が傷つくことのない輝かしい世界の中で。

──僕のその願いは、届く事はなかったというに…
その時の僕は愚直にも、そう信じこんでいたのだった。


2025.11.23