何者でもない自分へ
2.高麗国
そこには、綺麗な女の人がいた。


「よう来たな、虫けらどもめ」


その人は挑発的な言葉と笑みで私たちを迎えたけど、私はすぐに"知ってる"と感じた。
…たぶん、私の中に残ってる中身の残骸。
どこが消えてどこが残っているのかももう麻痺してごちゃごちゃでわからない。
ただ、私は知ってるはず。
だから小狼たちはきっとここを通り抜けるはずだけど、私は…
私だけは、わからない。
そして、私が何か行動することによって、何が変わってしまうか、未来の、世界の分岐点が出来てしまうかわからないから。

…正直に、本音を言えば怖いよ。私。空の力を借りたって、海の力を借りたって。
どんな力があっても怖い。それは力を借りることであって、強さを手に入れることではないから。
私は弱い。だから怖い。死ぬのが怖いんじゃない。ただ、


失うことが怖い
私だけの人が誰もいない、この世界で一人
失って声なき亡骸になって、朽ち果ててしまうのが怖い
いったい、この世界で死ねば、私の魂は何処へ行くというの?お父さんお母さんと、きょうだいたち…大好きな人の下へいけるの?…違うから。
きっと。
一人だから。


「誰だ?てめぇ」
「たかだか百年しか生きられぬ虫けら同然の人間達が、口の利き方に気をつけろ。…と、言いたいところだが…
久しぶりの客だ。大目にみよう」


黒鋼の荒っぽい言い方に目の前の黒の女性が高圧的に笑ったけど、
黒鋼はそれでも領主の居場所を荒っぽく、怯むことなく強気で尋ねた。
…尋ねたなんていう綺麗なものでもなかった気もするけど。
面白い童達だ、なんて女の人も笑ってるし。

埒が明かないこの会話の最中、小狼がざ、っと一歩踏み出して口を開く。


「この城の中に探し物があるかもしれないんです。領主がどこにいるか教えて頂けませんか」
「……いい目をしてる」


確かに小狼の目は強い。光が灯って消えなくて、願いを叶える店で残酷な現実を知らしめられても諦めなかったし、その光は弱まらなかった。
その原動力はどこにあるのだろうといつも考える。

でも、その問いには答えることは出来ないといって、女の人は髪飾りをシャラリと鳴らしながらついに立ち上がる。


「えっとそれはー。俺達を通さないためには荒っぽいこともしちゃおうかなーってことですよねぇ」
「その通り」


瞬間、パッと景色が変わった。

美しい綺麗な真珠のような球がいくつも浮かび、底には水面。
一つの小さな建物だけが存在している世界。そこに女の人は佇んで、高みの見物でもしているかのようにこちらを見ていた。

幻かと思ったけど、女の人が爪先ではじいた珠が小狼に当たり、弾けると。
服は焼けてしまい肌も爛れた。
幻じゃなく、これは現実。痛みも作られたものではなくて、景色が元に戻ったとしても傷はそのまま。
つまり。


「私の秘術によって出来た傷は全て現実のものだ」
「ってことは大怪我するとー」


「死ぬ」


ぞくり、背筋に何かが駆け抜ける。
多分私はその言葉が怖かったんだと思う。
…本当に物騒なバーチャル体験だ。や、バーチャルじゃなくて現実。
景色だけが幻。水面にいくつも立ってる柱に足をつく他ないけど、それが全て本当に存在するとは限らない…
気配がある訳でもないし、本当に運だ。水底も珠と同じ焼けて溶けてしまう代物だから、本当に逃げ場がない…!

…どうしよう。ここは空が近くない。海もない。他の要素も見当たらない。
跳ぶことも出来ないから飛び移るしかないけど、体術に自身があるわけじゃない
…落ちたら、ゲームオーバー…

全て、終わり

女の人は一斉に珠をこちらへ放った。
避けなきゃ、そう思うのに思うように動かない。
…動け、動かなきゃ始まらない、全て終わり、取り戻せない、終わりということは

お別れなんだよ
大好きな世界の全部と。
もう、繋がりはないから
だから
私の足は、その瞬間やっと動いてくれて。
飛び移った柱はどうにか本物らしくてしっかりと着地できた。
でも…


「っぅ゛…!」



こめかみに球が掠めた。
動くための判断が遅れたからだ、避け切れなかった…!
バレッタで束ねていた髪はほどけて落ちたし、焼けて随分短くなってしまった。
お気に入りのバレッタは溶けてしまって水底へ落ちた。
…それももう戻らない。
私はこうして、大切なものも、大好きなものも、たくさん失っていくんだろう。
犠牲は多く、手に掴めるものの方が少ない。

感情を捨てて心も捨てて意思も捨てる…
望みも捨てる。

兎様が言ってた、「あんさんが気が付いて望まないと…」という言葉が脳裏に過ぎった。
…何に、気が付けばいいんだろう。人は、何かを切り捨てなければ、何かを諦めなければ一つの望みも叶わないのに、なんで。


「黒みんこれ壊して」
「ああ!?なんでだ」
「素手じゃいつまでも避けるしか出来ないでしょ?」
「…自分でヤレ!!」


切り捨てなきゃいけない。
何かが欲しいのなら、それ相応の対価を。それと同じ。
凄く欲しいものには、それに見合った大切なものを渡さなきゃいけない。
それって、切り捨ててることと同じだ。
だったら私は願いのために。


ちゃんー、これちゃんも…」


腕の一本だって、くれてやる。


向ってきた球を右手で払うようにしてやると、珠は割れて溶けだした。
衝撃を与えることも大事だけど、案外触るだけでも割れ出してしまうようで、
ガラスで言ったらヒビが入るくらいかもしれない。

だったらと次は足で払った。
次は膝で潰した。
次は足の裏で圧した。
次は背中で受け止めた。
次は、次は。


願いのために、欲するもののために。何を対価に差し出せばいいの?


ちゃん、これ」
「……いり、ませ、ん…っ」
「もう全身爛れてるよー。…っよっと…特に右手、大変な感じー」
「…必要な、犠牲、ですよ」
「本当に、そうかな。計算間違ってないー?」


転々とあちこちの柱に跳びまわりながら、黒鋼に壊してもらった長い灯だった棒で、
珠を壊していくファイ。
よくも器用に跳びまわりながら、避け続けて時には壊しながら、
話しかけてなんてこれるものだと関心した。
それをいったら私も必死に避けて壊しながら関心なんて器用なことだと思考の裏で考えてるけど、わからない。

計算って、何


「右手が使えなくなったら他の体の治療ができない。治療が出来なかったら治らない。
足がなくなったら歩けない。歩けなかったら進めない、

進めなかったら、どうなるの?」



計算、という言葉の意味がわからなかった
何を計算すればいいのかもわからなかったし、その瞬間よく単語を理解できていたかも怪しい
でも、今はわかった。
けど、今でも計算式の答えはでない
でも、その言葉は、多分。


「……終わり、です…」
「せいかーい」


バシュ、っとファイが壊した珠の一部が頬に飛んで、皮膚が焼けた。
痛い。全身が痛い。

小狼は私が呆けてる間に二人によってこの部屋から脱出させられたみたいだし、
この部屋は私達三人が残ってるのみ。
世界に私だけが取り残されたまま、思考も周りに追いつかないまま。
考える。考えてみた。
私は器用になれないから、利口になれないから玖楼国でも上手く笑えなかったし、
もう一度の生を楽しく生きようと思えなかった。
前世を引きずって、失った前世を取り戻そうとしてる。
不器用にもほどがある。今は、今なのに
戻らないのに。
でも記憶だけはと、不器用で、そのために切り捨てていいと、思っていたものは
計算ミスだ。


「……いたい…」


これだけ焼けて爛れてしまえば、痛みでショックなんちゃらでもしてしまってもおかしくないと思うのに、私はまた意識を保ってる
確かに致命傷というわけじゃないけど酷い怪我だ

それに、柱から柱へ移ってるとき、珠を壊してるとき、まるで自分の体じゃないみたいに素早く動いた。
どうやればあそこまで跳べるか、力加減はどのくらいか。
どの角度で拳を突き出せばいいか、
膝はどこまで落とせばいいのか、全部全部わかってるようだった。
そんなのおかしい
私にはそんな経験値はない。
そんな能力はない。

なら、なら、私は何なの。
私は、

いったい誰?