拝啓、私の愛した世界へ
1.私が日常を失うまで
「でっさー、そんな夢みてパニックになってて、最後は夢落ちってわけでさー。異常な程リアルで、一回転んだんだけど、そこも夢の中なのに痛く感じるのよーもうびびったわー」


けらけらと笑いながら靴箱を開ける。使い慣れたそこはもう考えなくても身体で覚えていて、無意識のうちに行けてしまったりする。
この高校に入学してから半年。みんなようやっと色々なことに慣れてきてもいい頃…。
でもきっと、学校の色んなことを誰よりも早く覚えたのは私だと思う。

勉強は、頭がいい訳ではないけど嫌いじゃない。好きな教科も嫌いな先生も当たり前に居るけど嫌いじゃない。
運動も、特別得意じゃないけど嫌いじゃない。私の友達はみんなプールが嫌だと言うけど、私はその場所が嫌いになれなくて。

家庭科も好き。不器用で料理は得意じゃないけど、その空間がとても好き。
苦手なクラスメイトも居る。誰かに嫌がらせをしたり陰口を叩いたりする子が居るのも知ってる。
でも私は学校が嫌いじゃない。
何があっても無条件でその場所を愛してしまっていて、それを話したら友達はみんな「変だよ」と言って。

校門から出て、後は各々帰路に付くだけ。
私は笑う、けらけらと。でも、隣の幼馴染は俯いて暗い顔をしたままで。
私はそれを見て少しだけ苦笑した。


「今日はあの夢の続き見れるかなーって。あ、そういえば京、私あんたの読みたがってた漫画持って──…」
「──怖くないの、?」


──みんなは私が変だという。その理屈も分かってるつもりだ。
…だって皆は学校で楽しいことがあっても嫌なことも感じたことは絶対にあるし、
全てを愛せるほど無邪気だけの場所じゃない。
他もそう。


「……こわい……」


──あそこの八百屋さんのおじさんは少し愛想が悪い。でもあの空間が好きだから、嫌いじゃない。
──二丁目のおばさんはとても変人ということで有名で、煙たがられてる。でも私は嫌いになれない。
──いつもの公園はあまり良くない噂が多くて、人気が他と比べて少ない。だから雰囲気が悪いけど、私はそこにぽつんと座ってる男の子と仲良くなって。…だから、好きだよ。
全部全部すき、嫌いなことも理由がなくても好きになれる。
メリットがあるから多少のデメリットがあっても人は上手く"ソレ"を受け入れる。
でも私はそうじゃないんだ。

それが変。
だから今朝の夢の話を聞いて、いつも続けて見てるという変な話も知ってて。
少し"そっち"に敏感な体質の幼馴染…京はとても不安そうな目で私を見上げてる。
でも。


「…こわく、ないよ」


いつも答えてる通りに言葉を紡いで笑うと、きゅ、っと眉を寄せた京は悲痛な声を漏らす。


「……おかしいよ、……小さい頃からずっと一緒で、大好きだけど、は、いつも理不尽なことも受け入れて、好きになっちゃう…本当は、私、ここの学校あんまり好きになれないの…でもはいつも笑ってて、大好きだ、幸せだーって顔してて、私も楽しいけど、辛いことも多くて、だから、だけど…」
「…それが当たり前だと思う」
「…──知ってるの!、最近あの公園に通ってる!そこで会ってる男の子、何?……人、だと思う、近所の人も認識してる、でも、あの子は今まで周りに不……!」
「──京」


私が宥めるように静かに名を呼ぶと、京はぴたりと言葉を無くした。
私の言いたいことが分かってるんだろう。それと同じで、京の言いたいことも分かる。
…私は、普通の環境下におかれて普通の家庭で育った一般人の女子高生。
でも、周りは違和感を感じるほど、理不尽なものも…
そう、言うなら、"当たり前"の景色を愛してしまってる。

それを宗教のように日々崇めてる訳じゃないし、日常生活で支障はない、
でも友達と接するには少し問題が起きる。…例えば、少しの価値観の相違とか。


「……いつも、いつも心配してくれてありがとう、でも大丈夫。あの子は普通の子だよ」


でも京は今までずっと隣に居てくれたし、周りの友達も寛容な子が多くて、
ズレた私でもなんとかやっていけてる。

…京はその男の子が周りから良く思われていないから否定してるんじゃなくて、
少しだけそっちに"敏感"な京だからこそ、何かがおかしいと気が付いているんだろうと思う。
でもあの子は人間だ。普通の人間だ。喜も怒も哀も楽もある、小さな男の子。

なんでだろう、あの子と居ると、本当に心が温かくなって仕方がないんだ。
例えそれが人じゃない物だったとしても、ずっと傍に居てあげたくなるくらいに。


「昨日は突然いなくなっちゃっていや、かたじけないーって感じで。あはは。で、お詫びとしてこれ、京の読みたがってた絶版されてる漫画。親戚が知らないで古本屋に売ろうとしてて、もー慌てて譲ってもらっちゃったー!私のタイプのジャンルじゃないし、うん、京にあげる」
「………」


まだ曇った表情をしてるけど、少しずつ笑顔を作ってくれてる京に、本当に優しい子だと笑ってしまった。
…人は自分と比べて、自分たちと比べて何か欠けてしまってる物と距離を置きたがるし、テリトリーから追い出したくなる。
私は近しくなってみないと分からないような"普通"の欠け方だったけど、一番近いはずの京がずっと受け入れて、心配までしてくれてんだ。
…ほーんとに優しい子だ。心の綺麗な純粋な子。
京の敏感さは、だからこそのものだとも思ってる。

ふ、っと笑って、京との帰り道の分かれ道に立って、手を振りながら口を開く。


「だから、京、それ大事にしてね、元は私のじゃないんだけどさー、でも。…ねぇ、京」



そして流れるように口にしようとした言葉を自覚して一瞬言葉を失ってしまった。
…なんで?なに、今の


「…??どうしたの?」
「…ううん、なんでもない。……また、明日!徹夜で読んで感想聞かせてよー!あっはは、ばいばいっ」
「…あ、っ!」


何かを言おうとして手を伸ばす京に背を向ける。
そして向かうのは、京にバレてしまったあの公園。
親が共働きなのか、それとも…
まだ分からないけど、お家の都合で夕方遅くまで公園でぽつんと座り込んでる男の子。
私は最初は「こんな遅くに一人で危ないよー」と注意するだけだったんだけど、
話していくうちにその子の一挙一動がおかしくて、可愛くて、微笑ましくて、
とてもいい子で優しい子で。

その子が帰る時間まで夕暮れの公園に一緒に居る。ただそれだけの、謎の関係、小さな友達。
公園までいつも走ってるけど、今日はその足がとても慌しい。
何故だか急がなくちゃって焦ってしまってる。

──なんで?最近の私はわからないことだらけだ。
昔から見る夢もちよっと変、私の性格も変、今朝見た夢もとても変、
さっき私が京に無意識に言いかけた言葉も、とてもとても変……
変だから。とても変だから。
今朝の夢の中で怪我したのと同じ膝が痛む。京が同じ所を怪我をしているのに気が付いて青い顔をしてたのも知ってる。

とてもおかしい、おかしすぎる、私も自分自身にも現実にも気が付いてるよ、だから。


「…──くん!危ない!」



なんで私は京に無意識に、「今までありがとう、さよなら」なんて言おうとしてしまったんだろうと。
公園から出た公道にふらりと歩いていき、明らかにスピード違反だろう!と人目でわかるような暴走車に轢かれそうになっている、
あの公園の男の子の手を咄嗟に引いて。
抱きしめて一緒に目を瞑った瞬間、ああ、こういうことだったんだなて、漸く理解した。
──なんて、何処かでは有り勝ちな出来事で、なんて普通じゃない出来事に遭遇してしまったんだろうか。

──小さい、とても小さい、初めて抱きしめた男の子は、見かけにはあまり分からなかったけど痩せていてあまりにも。
健気に笑顔を作る姿は切なくて、私が学校のことを愚痴ると一生懸命慰めてくれるこの子の優しさがとても愛しくて、
何かを待つようにこの公園で独りのこの子が離せなくて、
まだ、こんな所で終わっていい訳がないのに、この子はまだ、これからなのに、
今が辛くても、それでもと、車が迫りくる一瞬の間、遣る瀬無く思って。


私は今朝の夢を走馬灯のように思い出しながら思った。
──あの店が本当にあったらいいのに
──あの夢が現実ならばいいのに
──…願いが叶う店だというなら、この子を助けてくれたらいいのに…


そうすれば
私はこの普通の世界が、善悪が蔓延った表裏の世界が、平凡な日常が。とても愛しいまま終われるのになあ。危機が迫った瞬間の人間の脳のスローモーション、
走馬灯ももう終わり。…京に、また明日ねなんて残酷な言葉、言わなければ良かったなあ。
最期の言葉のつもりでぽつりと頭の中で考えた瞬間のこと。

私の身体に衝撃が与えられて、あ、ついにかと思った瞬間。


「…は?」


予想していた車の固さと衝撃には到底及ばない、柔らかな感覚を覚えて、
そろりと目を開けば。


「……来たわね」
「……──」
「いらっしゃい。待ってたわ。」
「こ、こ…」


いつの間にか、あの子供は腕の中から消えていて。
私は夢で見たあの黒髪の女の人の店の庭に居て。
投げ飛ばされるようにやって来た私を受け止めてくれた白くて背の高いお兄さんがにっこり笑って。
左右には機嫌の悪そうな黒い服を纏ったお兄さんと、可愛い女の子を抱きかかえて深刻で焦ったような顔をしてる男の子が居て。


私は呆然とするだけ。それしか出来なかった。