第1話
届かないひとへ
決して届かなかった訳じゃない。決して響かなかった訳じゃない。
──じゃあ、どうしてなんだろう?どうしてこんな風になってしまったのだろうか。
もしも付喪神よりもっと強大で、世界を動かすことが出来るような神様がいるというならば。きっとその神様には正しく願いを聞いてもらえなかったのだろう。
どうであれ。届いてしまったことが嬉しいのだ。響いてしまったことが悲しいのだ。
死にゆく人に、生きたいと思わせてしまったことが、とても苦しい。
いつか死に行くのだと分かって、それでも生きてほしいと言葉を紡ぎ続けたくせに。虚しくてたまらなかった。




「主さんってたまに何考えてるのかわからないです」


その長い黒髪の少年は、うら若い少女をじっーっと凝視する。
不躾とも取れる視線を受けて、少女は怒るでもなく、ただ訝しげにするだけだった。
手もとにある湯呑から湯気が立ち上っているのを横目にいれながら、少女はその発言の意図を考える。


「…いきなりなに?それなんのこと」
「いやあ、主さんて俺達が怪我するとピーピーなくじゃないですか。擦り傷だけでも」
「ピーピーとか言わないでよ!いちいち嫌な言い方するなあ」
「なのにたまーに、何も言わず静かに黙々と手入れして。こわい」
「…こわいてあなた…」
「弟たちなんて特にビビッてますよー、叱られるの?無茶したから?えっ?やばみたいな」
「やばくて大変申し訳ございませんでした!別に怒ってないよ」


少女…ここの本丸の審神者は、この刀剣男士とのくだらないやり取りを見ればわかるように、所謂ピュア運営をしている。
元が一般人の少女はひょんな事から才を見出され、抜擢、就任とトントン拍子に事を運ばせてきた。
才があったところで平々凡々な女子であるので、もちろん戦のいの字も知らない。日常ではありえない怪我をされると、
刀剣男士という存在の真髄をわかっていても取り乱す。彼らは怪我を負っても、折れる前であるなら、手入れをすれば直るのだ。
だというのに過度に慌てて、事態を重くみて、重症軽傷問わずに手入れ札を反射で使ってしまい、刀剣男士から無駄遣いをするなと苦言を申し立てられる始末であった。

そんな性質をしているので、無茶をして怪我して帰ってきたからと言って、よく帰ってきてくれたねと褒めることはあれど、
無茶をしやがって!と咎めることなどありえない。
審神者にはそんなつもりはなかったけど、しかしそう思われてしまうような態度をとってしまっている自覚というか、心当たりはあるにはあった。
お茶を啜りながら、隣から送られる視線を素知らぬふりで受け流す。


「いやあ…まあ…うん…えー…はあ…」
「…まあ、怒ってないならいいんですけど」

後ろめたさからついに目をそらした審神者は、近時である鯰尾の許しの声で、再び視線を戻した。
ホッとして隣の彼を見ると、すねたように頬を膨らませているのが見えた。
あざとい仕草の似あう男子ってなんなんだろうと思った。神様って…いや鯰尾籐四朗という刀は凄いと的外れな事を考えつつ、
審神者は「なに、どうしたの?」と恐る恐る問いかけた。
…いいんですけど、なんだろう。その物言いが引っかかって問いかけてみると、鯰尾はもどかしそうにあー、と唸りながら、ぐしゃりと髪をかき混ぜながら言った。 縁側に置かれたままの彼の湯呑は未だ手つかずだ。茶を粗末にするなんて鶯丸が泣くことだろう。


「言いたくないなら仕方ない。でも頼りにされてないのかなって、勝手にふがいなく思ってるだけです」


ふてくされた近時の言い分のなんとかわいらしいことだろうか。
その子供っぽいぶっきらぼうな言い方と表情を見て、審神者がぷっと吹き出し笑うと鯰尾は少し頬を赤らめた。
「人の純情を持て遊んで!」と誤解の招きそうな照れ隠しをするものだから、審神者は慌てて口をふさいだ。この刀の長兄は弟たちのセコムだ。
件の刀は、余所のよりも過保護な気があり、弟たちのこととなると盲目になってしまうようで、
あまり話を聞かず突っ走り気味になる事が多々ある。つまり誤解されたらたまったもんじゃあない。
塞いだ鯰尾がもごもごと何か言っていたけれど、審神者にはその不明瞭な言葉は理解できず、届かなかった。



審神者は平凡なので、戦も血も怪我も怖いし、おそらくいつまでも慣れない。
審神者は心が強くないので、死が怖い。
死は人間が絶対に逃れられないものであり、神様に助けてくれと願った所でどうしようもないものだ。
現代医療で治せる怪我や病気ならいい。しかし老衰や、手の施しようのない…死を待つしかないような致命傷を負ったのであれば…
そんなときに何を誰に願った所でどうしようもなく。
審神者はそんな当たり前のことが、とてもとても怖かった。

なのでたまに、死を連想させる怪我を負ってくる刀剣がいると、泣く事も忘れてしまうのだ。
怪我とあれば大小関係なく泣きわめく…のかと思えばピタリと静かになる事もある。
そうなる基準が分からないと鯰尾が言う。
けれど、審神者には明確なラインがあった。
人間であれば死んでいる怪我。とても怖い。こわくてたまらない。
刀剣は手入れで直るだけでなく、人間ならとっくに死んでいるような致命傷を負っても痛みに"耐えられる"。

そもそもが頑丈な刀剣が負傷する程の攻撃。それをもし人が…自分が受けたなら?なんて想像したら、審神者は恐ろしくて震え上がってしまう。
人間が斬撃を受けたらどうなるのかなんて、最初からほとんど分かり切ってる事だ。
刀剣は痛みを感じない訳じゃないので、当然その負傷に見合うだけの苦痛を抱える事になるのだろうけど。
──その苦痛は、人間の脆弱な精神でも"耐えられる"ものだろうか?
もしも身体は死ななかったとして、心は死んでしまうのではないだろうか。その痛みは、絶望は、恐怖は、自分に受け止めきれるものなのか。

この審神者は無念も後悔も未練もなく、ポッキリと折れてしまった刀を見たことがあった。それは自分の顕現した刀剣ではなかったのだけど。
主のために折れることが出来て嬉しいと晴れ晴れしていたのを見た。自分には出来ないなと考えた。"刀"だから、審神者のためを想ってくれる彼らだから出来るような終わりだと思った。

審神者はその恐怖の所以を鯰尾に…いや自分の刀剣達に話すことは出来なかった。出来るはずがない。
本丸の主たる審神者が、死が怖い戦が怖いと情けないこと喚けるはずないし、べきでないし。
刀剣男士と人間とを区別するような、まるで彼らを軽んじるような、その死生観を語るべきではないと思っていたのだ。
彼らには物を語る口と、機微を感じる心と、思考する頭と、動かす身体があって。
彼らはいつだって痛い時は痛いと言えたし、苦しいものは苦しいと言えた。
それなのに、刀剣なら耐えられて人間なら耐えられないものがあるなどと言いたくもなかった。彼らに耐えろと強いたくなかった。
自分がそういう風に思ってしまっている事を、信頼する彼らに知られたくなんてない。それこそ耐えられない。




***
「なんでそんな無茶するんですか!手伝い札もいりません!手入れもそんなぶっ続けでやらなくていいです!」

休憩しましょ?ね?倒れちゃいますと窘めてくる鯰尾の表情には、審神者が心配ですと書いてあるかのようだった。
手入れ部屋で手入れ待ちをしている中傷、軽傷を負った刀も、苦笑しながらやり取りを見ている。
部隊が帰還した後、運悪く重傷を負ってしまった何振りかの手入れを済ませた後、審神者はさあ次だと中傷の刀に手を伸ばしたのだ。
審神者は怪我してるものを痛ませたまま、少しの時間でも放置するなんて嫌だった。

反対に、重傷の刀を数振り手入れして疲労しているはず。霊力は多く奪われたはず。それなのに何を無茶をするつもりだと、鯰尾はハラハラしていたのだ。
このくらいの怪我なら耐えられるだろう、我慢はきっと苦ではないだろうからと、審神者を静止させようとした。
審神者はそれを暫く無言で見上げていた。彼女の口は、未だに弁解の言葉も謝罪の言葉も感謝の言葉も何も紡がない。
しばらく二人の睨み合いが続いていた。


──そもそも、この甲斐甲斐しい脇差が、初期刀を差し置いて近時についたのには訳があった。
この本丸の初期刀は山姥切。初鍛刀が鯰尾だ。
山姥切はなんだかんだといって審神者に寄り添いつくしてくれるけど、不器用な所があり、しょっぱなから無茶ばかりしていた審神者のフォローは、
出会って間もない頃の山姥切には難しかった。
しかしなんだか世話焼きな鯰尾はそこそこフォロー上手。それを知った山姥切は自ら「頼む」とその席を譲ったのだった。
初期刀という立場、近侍の席に憧れる刀剣は多い。その二つを得られたことを誇りに思っているはずの彼が、そうすることが審神者のためになるからと言って、
あっさり譲ってしまえたのはとても凄い事だと鯰尾は思っている。

傍にいる誉がほしい。しかし今の自分では力不足で、それでは審神者のためにならず、自分ではないモノが傍につく事で審神者の助けになるのなら…
そう思い至って決断し、心から尽くした彼は審神者に従う刀剣男士の鏡で、鯰尾は山姥切を今でも尊敬している。刀が持ち主のそばにいたいと思うのは本能みたいなものでもあった。それを一瞬で断ち切れた彼の意志の強さにも驚かされた。
その譲られた席で、精一杯自分に出来ることをやろうと思った。

と言っても、審神者のフォローは鯰尾だけでなく、この本丸に所属している刀剣全てが協力してやっているのが現状だけど。
誰より近く傍に置かれても、鯰尾は審神者を独占している訳ではない。

少々扱いが難しく、性格に難がある審神者だけど、根は心優しい。
そんな彼女が愛され守られ慈しまれているのは、鯰尾にとって好ましく微笑ましく思える事だ。
やはり年若く、平凡で、こうは言いたくないのだけど、"女の子"である審神者には出来るだけ物騒な所とは違った、もっと平穏な所で笑っていてほしいと思ってしまうのだ。

情がわいてしまった。幸せを願ってしまった。審神者が幸せを得られる場所は、血を見ないで済む、元いた現世であると思った。
戻ることはきっと叶わないだろう。
けれど、ならば、出来るだけ暖かく、穏やかに暮らしてほしい。鯰尾だけでなく彼女の刀剣みんなが大なり小なり思ってる。そうなれるよう彼らは審神者を慮ったし、尽くしてきたのだ。
しかし審神者の弱さや恐怖は、それで拭えるはずもなかったのだった。


「……違うなんてわかってる」

だから、審神者はつい言ってしまった。


「無茶をしたら倒れるなんて、わかってる」


怪訝そうな顔をしている彼に。


「……あなた達と私が違うなんて、わかってる」

言えるはずがないと思っていた言葉を。


「あなたは耐えられても、私には耐えられない!」


信頼する彼らにだけは、知られたくないと思っていた、"区別"を。


2019.1.31