第四話
1.生まれ生きる

兄の優しさが怖い。ここに居ることが怖い。当たり前に存在してしまっていることが怖い。差し伸べられる手が怖い。
────それと同時のその全てに安堵している自分が居る。
兄には確かな愛を注がれ、私は当たり前にここに存在しているらしい。差し伸べられる手は私という存在をその一時は絶対的に望んでることは確かで、
まるで私は愛を渇望している子供だった。それでも根本はそれとは違う。

自分がここに居るはずのない存在だから。
この不安定な自分という存在を拒絶されること程怖いことはないから。だから愛されてるという事実を求める。
過去に遥に拒絶された時にはまるで世界の終わりのような感覚さえした。

そして今になり何故か受け入れられ、愛を注がれている、らしい。けど。
やっぱり疑う。やっぱり信じられない。絶対的には。自分の存在も兄の手も愛も世界も。どこまで生きてこの目で肌で確かめられたら、私は確信出来るんだろう。




兄の屈託のない笑顔やスキンシップや撫でてくれる手や優しさ全て、
嬉しいと思いつつも疑心暗鬼になりながら生きる毎日に嫌気が差す。
どこでそこに終止符を打たなければいけないことは分かりきっていたことだった。どんな形であれ、だ。




「…12歳」



時間は早いもので、頭に知識を詰め込んでいっぱいっぱいに、忙しなく過ごしているだけで時間なんて早く経つ。
12歳になった今。私は早く早く、現在に終止符を打つ必要性を実感してる。
兄二人に囲まれてきょうだいとして平和に隣り合うことにはリミットが存在することを知っていたから。
…遥は15歳の時に自ら秘密警察犬を辞め失踪。
兄、洋は遥を探すために自身も警察犬を辞めて探偵事務所を開き、数年後マフィアの一員というかテロリストになっていた遥と再会。
根本的に心は嫌いあったりだとか仲違いなんてしてないブラコンのままなので敵対していても割かし穏やかな関係性ではあった気がするけど、
確かに傍に当たり前に居れる時間のリミットはある。

遥と私は2歳差の兄妹。つまり私が来年13歳になったならば、遥は居なくなっているということ。具体的な日にちは分からないけれど目安があって本当に助かった…。
…洋兄も遥もここから居なくなって、私はいったいどうするか。
その前に終わりを迎えなくてはならない。今私が生きていることにちゃんと納得をしなきゃ。この兄二人の妹であるということを、愛されてるということに納得でも否定でもいい、どちらにせよ踏ん切りをつけなくちゃ。
そうしなきゃ未来のビジョンなんて見えてくるはずもない。


間違いなく、私は焦っていたに違いない。今この瞬間だけじゃない。生まれた時からずっと。






、ゆっくりでいいんだ」
「…洋、にい……、で、も…」
「焦らなくてもにーたんはここに居るだろー?ゆっくりやっていって、ゆっくり…の髪の………毛、いやいや、いや、ゆっくり兄妹愛を育んでいければ!な?」



私に向けて伸ばそうとした洋兄の手は緩々と引っ込められた。
優しい言葉と優しい笑みを浮かべたこの兄はちょっと不純な動機をチラつかせながらも、出来ることなら背中でも撫でて落ち着かせてやろうとしたに違いないけど。
私がついさっきしでかしたことを考えるとそれは妥当ではないと察したらしい。
…そりゃあそうだよね。
何を思ったかいつも距離を取り人の手…というか男との接触を怖がってた妹が手を伸ばしてきて歓喜した兄。
が、その妹は自分に接触した瞬間に激しく嘔吐。汚い話だけど年頃の乙女も恥じも外聞もあったもんじゃなく本当にモロに吐いた。

兄は妹が普段自分が男性恐怖症により迷惑をかけているから頑張らなきゃ!という焦りも察して日々心配していてくれて、そしてその焦りから無理に接触を図って挙句の果て自分の目の前で、というか自分に触れたことで妹に嘔吐されてしまって。…なんて。
もう何に謝ったらいいのかも分からない…。
可愛がってる妹に自分に触れたせいで嘔吐されるなんてショックに決まってる。
なのに笑って受け入れてくれる兄にとんでもなく安心した。

拒絶されなかった、失望されなかった、否定されなかった、存在を。
「こんな妹いらない」と、この兄に限ってあり得ないことだと分かっていてもそれはとてもとても、とても。
そしてそれに安心する度に。





この世に生まれた自分という存在を自分自身が嫌悪して拒絶する。
前世ではこんな風に自分を卑下して自分を否定するような性格の人間ではなく適度に明るく楽観的に生きてるような至って普通の女子高生だったと自負しているけれど…。
こんな風な悪循環が続く限り自分の存在の否定も肯定も出来っこないとわかりきってるのに。
まだ私は。
自分自身も今さっき触れた兄自身も現実として感じてない?
触れた瞬間、どうしようもない吐き気がこみあげてきて、兄の体温も感触も何も感じられる余裕なんてある筈もない。
もう少しで兄妹三人で居られる時間は終わってしまう。私はそれまでに何か変えられるのだろうか。







「ただい、ま…」


まるでテンプレートのように口にした言葉も、自分に与えられた専用の鍵で「自宅」のドアを開けることも実感もわかなければ慣れもしない。
自分ってこんなに順応力なかったかなあ、といい加減嫌気がさしてくる。
だって、元々は普通の平凡な女子高生。もうちょっとで学校卒業して大学生にもなって大人に近づくような年齢。
今世での年齢も重ねてみると、こんな風にうじうじしてる自分ってどうなの、と客観的に見て苦笑は出来るんだけど、なんせ身体はこの世界の全てを異質と捉えて男という生き物を意思とは関係なく拒絶してしまう。
凄く難儀だと思う。頭では馬鹿馬鹿しいと思えるのに、と自嘲するように笑いながらリビングまで歩いて行くと、ソファーで読書をしている兄、遥がいた。


「…?」
「なに、その顔」
「…いた、の?」
「は?…いちゃ悪いの?ここ僕の自宅でもあるんだけど」
「…洋兄は居残り…だけど…」
「ああ、今日、僕手がイカれたからね」
「!?」



洋兄はついさっきまで一緒にいた。けど。
大人の人に引き止められて、私だけ帰宅。遥はどこにいるかスケジュールなんて把握してないから分からなかったけど先に帰宅してるというのは今の時間的にも予想外でびっくりした。
ら、まさかこんな涼しい顔でとんでもないことを言うなんて。
どれだけ脆いのこの兄の身体は。慣れすぎてて顔色ひとつ変えないなんて本当慣れ、怖い。
同じくらい脆い身体をしてるモヤシな私だけれど、いたって健康な身体として生きていた記憶があるので慣れるはずなく自己防衛していて上手く手がイカれるとか、脱臼貧血心肺停止なんて、
……兄に比べればの話だけどあまり数はない。健康な身体を持つ人に比べればあり得ない程に多いけれど。

…右手、包帯ぐるぐる巻きだ。そして既に解けかけてる。片手が使えないなら誰かが巻きなおしてあげるしかない。このモヤシな甘え上手な兄に自分でどうにかする能力があるとは思ってない。
洋兄は「俺は帰りが遅くなるから遥と夕ご飯を食べてて!」と泣きながら言ってた、
…ので、怪我したてホヤホヤの兄は深夜頃帰宅するまでこのまま?
怪我、悪化しない?脆すぎるこの兄の手、再起不能になったりしない?手、どころか身体までどこかこじらせて倒れたりしない?

…この家に居るのは勿論遥と私のみ。この非常時に男性恐怖症とか言って逃げる人間がいたら、
……血も涙もない鬼じゃあないか。
けれど鬼だとか悪魔だとか冷酷すぎだとか自分の人格への保身というよりも、既に随分な大怪我への焦りの方がはるかに勝ってしまっているらしい。ああ、心臓が煩くて痛くて仕方が無い。



だって、人って簡単に死ぬ。だって人って簡単に壊れる。
だって、人って簡単に心も壊れるし、だって人って簡単に消えてしまうんだよ。
そんな瞬間を私は見たくない。それもこの世界の兄が────なんて



、ゆっくりでいいんだよ』



頭の中に昼間のあの瞬間の兄の優しげでそして相反して悲しげな声と表情が浮かぶ。
その時の焦りも覚えてる。
でも今もう一人の兄、遥へと手を伸ばした私の中には確かにあの時とは違うとんでもなく膨大な焦りと恐怖が生まれてた。



人は、死ぬ。
呆気なく、望んでなくても簡単に。なんでもない日常の最中で。
それだけが私はとても怖い。物語の中なんかじゃない、どこにでもあり触れた出来事なんだから。それを私は一番よく分かってた。

2015.11.26