第八話
3.仲良しの噂をされる程度の仲良しそれなりに
私は記憶喪失らしい。
らしい、と未だに他人事なのは、私自身に記憶喪失になるような原因も思い当たらず、医者も教師も思い当たらないらしく、
ある日当然記憶喪失になった。ただそれだけでどうしても何も分からず、実感も何もないからだ。

…確かに私の記憶が著しく欠けている自覚は、ある。何の記憶か、といえば、
主に人間関係…かなあ。
今まで関わった人間の記憶が一切ない。それって物凄く重度の記憶喪失で生活に支障が出るだろうし学校に転校なんてしてる場合じゃないんじゃ先生、と思うも、
何故か教師や主治医は「軽度の記憶の混濁でしょう。日常生活に問題はないですよ」と診断したらしく、先生も医者の診断は絶対で、そのまま転校を許してしまった。

…なんで?お医者さんとしてそれはちょっと大丈夫なのか…先生も先生で…まあ本当に問題はないから良いんだけど…自分でもびっくりなくらい。



「…んー…」



今日の宿題も完璧だ。
日中の授業が終わり、部活にも入っていない私は一目散に帰宅した。

悲しくなるようなセリフだけど友達も居ないし、知り合いも本当に記憶の中にも一切いないし。
何故かクラスメイトに遠巻きに見られて凄く怯えられてるみたい。なんで?
…と言いたいけど分かる。
たぶん転校初日はね、もう本当に直前に意識が、自我が覚醒した、というか。訳も分からない状態に近かったから、無も良い所だったのだ。

話しかけられてもよく分からないし状況を飲み込めないし、転校、って。記憶喪失、って。どうなってる…?なんて思いに耽る間もなくああだったから…
…今も隣の席で恐怖心に苛まれている田辺君には合掌。
女性恐怖症だけじゃなく、あの無言の圧力は自分でも怖いよ、と振り返れる事柄だったから。

割とグループで固まっていないと浮いてしまうことを恐れる中学生にしては私は達観しているらしく、それでも良かった。
むしろ近づきすぎて記憶喪失がどうのこうの、と変な噂を広められても今更困るしね。
…しかし。
一人だけその困った記憶喪失のことを知っている男がいる。
なんというか、ぽろりと世間話でもする感覚で話してしまったんだけど…結果的には良かったかなと思ってる。
ノートを閉じて、用意周到に明日の荷物を準備して制服も近くに置いて、電気を消して寝る体制に入る。




…見渡すその部屋はいつ見ても広く、静かだ。
家具も一切なく、カーテンさえもなく、綺麗すぎるキッチンに埃一つない剥き出しのフローリング。そしてこのマンションの一室を訪れる人間は一切いない。…家族も居ない。天涯孤独なのか、と考えても確かめる気には今はなれなかった。
唯一部屋にあったのは多額のお金が振り込まれていすぎて目を剥いた通帳と、家の鍵。

記憶を失う前の私はいったい、この悲しすぎる部屋で何を思い生きていたんだろう。






「おはよう、幸村くん」



朝、遮光カーテンもただの布切れさえもないあの部屋には朝日が直に入りすぎて自然と目が覚める。
冬真っ只中の今は明るくなるのも割りと遅いし、
それでも今後光がまぶしい不快感で起されたくない私は早起きの習慣をつけた。カーテンの取り付けは面倒臭い。
そもそも夜やることもないのでとても早寝早起きの規則正しい生活をしてる。

起きて、コンビニで買っておいた菓子パンをカバンに詰めながら通学路を歩き、朝日に照らされながら伸びをして深呼吸。
…うん、早起きは気持ちがいい。うろちょろと色んなものに目を奪われ寄道しながらも学校にたどり着き、たぶん、今ならまだ誰よりも一番に学校へ登校!
…と言いたい所だけども、屋上庭園にたどり着くと見覚えのある背中が見えた。

…もういつものことだ。
やることも沢山あるはずの普通の学生な彼はいったいどんな生活リズムを送ってるのかわからない。謎すぎる。
私のおはよう、という軽やかな挨拶に振り返った彼は少し土で頬が汚れていて、
笑いながらハンカチを差し出す。こういうことが多々あったし、日々の必需品なので流石にこういったものは買い揃えておいた。
何もないからこそ、細々とした物をちまちま買い足して埋めていくのが私の唯一の楽しみだ。
…寂しい子とかいうなかれ、です。


「…ありがとう。…というか、言いたいことは何個かあるけど…その幸村くんってのいい加減やめないかい?」
「あれ、みんなそう呼んでるから呼んでみたんだけど…同学年の男子の苗字に君付けって、もしかしておかしいのかな?」
「そうじゃなくて、…うーん気持ち悪いかな。鳥肌立つ」
「…凄く綺麗な顔してるのに結構な口だよね幸村くん。なーに?普段実はくん付け嫌に思ってるの?」
「そうじゃなくて、結構な性格してるさんにくん付けされるとなんとなくね」
「なら結構な性格してる幸村くん、さん付けやめてくれませんか?」


お礼はしっかり言いつつも躊躇いなく泥を新品のハンカチで拭った幸村を見て、
なんか打ち解けてきたな、と思いつつ、結構な口を叩いてくれたので少し口元が引きつった。
何ですか。私そんな幸村くんほど結構な性格してません。
幸村くん顔も言葉遣いもとても流れるように綺麗だし、少なくともクラスメイトにはそうだけど、こうして朝に顔を合わせる度にどうやら、「ああ、今話してたあの子幸村くんの機嫌凄く損ねたな…」というような、
周りは分からないような幸村くんの喜怒哀楽のポイントを計れてきてしまっている。

穏やかな優等生に見えて実は幸村くんはこう、…なんというか上から下の者をズバズバと従えさせるようなカリスマ人、というかもう一言で言うと底知れぬ怖さがある。威圧感だ。クラスメイトはそれに気がついているのかいないのか、
そしてそんな結構な人と一緒にされてしまってはこちらも困る。


「…だって人の粗探しするの得意だしね」
「ちょっと、粗探しとか酷いこと言わないで。人間観察がちょっと趣味なだけです。幸村だって洞察力あるじゃないの」
「あ、洞察力、って言えばよかったのかな。ごめんね」


…困るんです。こういう笑顔でさらりと人様をおちょくってくるような人と一緒にされても。
…まあそんな裏表ありまくりな幸村、でも。
例え他の人間が「胡散臭い」と感じ取っていても私は彼の素を大胆に見せてもらっているので表裏のギャップを含めて、彼の人間性は気に入ってる。

ただ人をおちょくり、粗探しして、貶して、優等生の立場を使って人をいいように操ったりだとか、そんなのはない。
むしろ彼を優等生にしたいのは彼自身ではなく周りの方で、「アイツ優等生ぶって」「幸村くんってほんと優しい」と言う生徒達はその言葉が自ら優等生の冠を縛っていることに気がついてない。
…なんでこんなに察力ありすぎるのか、察しが良すぎるのかは分からないけど…
記憶喪失成りたてのぼんやりとした私が幸村の一番隠している部分に触れられたのだから、私ももしかしたら記憶があれば、幸村みたいにとても疑り深い、といったらあれだけど…
身を守る殻を持ったような人間だったのかもしれない。



「……それと、は最近凄く笑ったりするようになったよね」



すると土いじりの手はやめないながら、近くで如雨露に水を汲んでる私に向けて独り言のように、少しの間をおいて幸村は呟いた。
それには何か含みがあるように感じたけど、流石にエスパーにはなれないので意図は分からなかった。
…そう、かな。うん、そうかも。クラスメイトとの初コンタクトに失敗したのも、記憶喪失なりたて、というか意識浮上したばっかりです、というタイミングが悪くて気がついたら印象根付いちゃってて、もういいや、と表では無表情貫いてるんだけど、


「私、最初から笑えたよ」
「…そうなの?」
「幸村に屋上庭園まで案内してもらった時、笑ったよね?確か。クラスメイトにどういう口調で話しかけたらいいのかさじ加減がよくわからなくて詰まり詰まりだったけど、感情がない訳じゃないですから私」


そういうと思わず、といったように振り返った幸村だったけど、すぐに視線を土へと戻して、そういえば、と納得がいったようだった。


「まあ、正直に言うとね、あの時いつの間にか学校にいた、みたいな感じで、いつの間に私記憶喪失に?っていう驚きの瞬間で、自分なりに戸惑ってたんだよね」
「……は?それって…なんか、記憶喪失っていうか精神的に来てそうだけど」
「ズバッと頭おかしいみたいなこと言わないでください。…記憶喪失を知ってる大人は軽度だっていうけど、重度な自覚はあるし、…まあそれの一環だったのかなあ…」


ぼけー、っと空を見上げながら、片手間に如雨露でおざなりに水をやる私を視線で咎めてきた幸村に気がついて私は慌てて丁寧に植物達へと水をやる。
ごめんなさい幸村のファミリー達。ちゃんとやります、ちゃんと。


「君って凄くポジティブというか……うらやましい生き方してるね」
「聞いた?幸子ちゃん。幸男ちゃん。パパがあんなこと言いますよ。きっとアレ、馬鹿だよね、とか能天気だよね、とかいう遠まわしな嫌味ですよ」
「何その幸子ちゃんと幸男ちゃんって、………まさか」
「このアネモネちゃんとサザンカちゃんのことですよ。あなたの育てた子供達じゃないですかパパ兼ママ」
「………そういえば俺、テニスでとあるプレースタイルをしてるんだけど、それ、一応日常生活でも使えてね?」
「さあ一番遠くの花壇へ水遣りに行かないと!」



突然の転校をしてから記憶喪失にも学校生活にも十分慣れた。勉強は何故か高校生レベルまでは習得していることが分かったので問題は今の所なし。
そしてこの知り合い以上友人未満な彼、幸村精市という、朝のひと時だけしか顔を合わさない癖のある性格をしている彼のあしらいにも慣れた。

私は人間観察をしているとたまに物凄く酷い動悸に襲われることがある。
何故かは知らない。でも馬鹿じゃない私は、自分自身を観察した結果、そしてとある一つの色濃く存在する「記憶」もかね合わせて、その理由を分かっていた。





私は人が、大嫌いだった。人という存在が受け入れられず、ある意味幸村のように仮面をかぶった人間だったのかもしれない。
その理由は、わからない。
でも実は、最近幸村を見ていると、ただ「大嫌い」というだけではなかったように思えてしかたがないと気がついた時から、視界に一切入れなかった彼の行動を、
周りに悟られないように追ってきた。そして朝に彼の目を見て、言葉を聞き。それは確信に近づいてきたように思える。

幸村は私の、希望だった。希望になろうとしていた。
きっとそれは酷く勝手で、私個人が生きるための一つの希望に彼を心のうちで仕立て上げていることなんて、知らないだろうけれど。
2015.11.27