第六話
2.利用価値─信じてみたいと思いの始め
次の日の早朝のこと。
「それはコスモス。秋の桜って書く花。…流石に分かる?」
彼、幸村が例のごとく、しゃがんでじっと花壇を見つめる小さな背に問いかけると、
彼女は振り返ることなく緩々と首を振った。
だから、表情は分からなかったけれど。
「流石にそれは常識だろう分かるはず」と当たり前だ、とも取れる言葉に首を振らざるを得なかった彼女、はいったいどんな気持ちでいるのか。
…彼は、本当は今日は朝早くから水遣りをしなくてはならい訳じゃない。昨日の昼休みにいつも通りに水遣りを済ませたが、ある思いに突き動かされてここに来た。
「……、」
…彼はが"本当に"記憶喪失なのかは、知らなかった。
情報通である部員の柳という男に尋ねても良かった。きっとアイツなら知っているはずだから、とも考えた、でも彼はそれをせず、無知なままに近づき話しかけたのだ。
…記憶喪失を、信じる。
彼はそうしてみることにした。「本人が言ってること、しかもそんな重い事情を話してくれたのに嘘つき呼ばわりで上から信じるだとか信じないだとか」と嘲笑する声が彼の頭の中に響く。
しかし、信じられない人生を送ってきてしまったからこそ、
やりたい事をやろうと貫いて生きてきたことは後悔していないが、こうも頑なまでに人を信じれなくなってしまったことの虚無感と罪悪の念は僅かばかりは確かに持つからこそ。
彼は信じることにした。信じてみる。もしもが嘘をついていても、ついていなくても、信じてみるという行為こそに意義があるんだ、と。
…彼の負の念の払拭に使われるは、本人からしたら傍迷惑も良いところだろう。
しかし今まで他人に対して心の内、笑顔の裏に隠してはいれど勝手なことばかりを浮かべていい様に他人を動かしたりもしていた自分だ、他人のことを言えるような人となりはしてない、自分が嫌いな自分になりすぎた、これ以上は変わらない、いや、何かが変われたならば、…と。思い至ったのだ。
…純粋に、それがどんな理由であれただテニスがしていたかった。近しい存在である弦一郎や部員の仲間達とテニスを通じて高め合い、目的を貫く。今も彼は「それ」を貫いている最中だ。
──辛いことはあった、悔しいこともあった、でも彼らは普通ならばいつかは暗闇の中から抜け出しどこかキラキラと輝きだしたはずで、いつかはキラキラだけになるはずで、そして確かに今は光の中だけに居るのにキラキラなんてしてなくて、
あれ、おかしい。何かが違う。それは自分自身の内側も、そして貫いてきたそれでさえ…。
…あれ、おかしい。何かが違う。
──何をどこから間違えてどう正したらいいのか正解なんて分からないでも…
彼は、内心とは裏腹に穏やかに口を開く。
「その隣はキンレンカ。…そろそろ、上手く花が開くといいけど」
「…花開くといいね。そしたらきっと素敵」
「…そう思う?」
すると、彼女からも穏やかな言葉が返ってきて少しだけ自然と彼の口角が上がった。
「思う。…花を見たことはないけど…あなたが育てたのなら、きっと綺麗に彩るね」
「……過大評価しすぎじゃないかな?」
言われると気恥ずかしい言葉をあっさりとかけられて少し硬く素っ気無い口調になったが、は気にしてなど居ない様子で、背中越しにだが、おそらくは幸村にもわかる。
きっと笑顔のままで口を開く。
「だって、あなたが育てた花は今まで全てそうだった。…枯そうになった花も、綺麗に咲かせてあげた。元気がない花には、丁寧に大事にしてあげた。芽が出なければ一生懸命試行錯誤して種は芽を出した。
…転校してきたばっかりだから見てないよ。…でも、花壇の花はみんな残らず綺麗に咲いてるし、毎日している作業も多分、細かく鋏入れたりして整えてあげたりだとか、不調整えたりとか、そういうの、かな。難しいこと、よく分からないけど…ただおざなりに水をあげてるだけじゃないもん……そう…だよね?」
ここまで饒舌に話しておいて、ハッとしたように最後、少し不安そうに、確かめるように問いかけてきたに、幸村は笑った。珍しく毒素のない、しかし、薄っすらした無理のない穏やかな笑みだった。
こっそりとキンレンカという種の花に心の中で一種の願掛けをしていた彼は、
にまるで胸の内を見透かされたかのような言葉で返されて一瞬目を見張ったけど、すぐに口角を上げて笑顔を作る。
もう彼のこれは癖である。壁を作り隠そうとするのは治らない、でも、
この泣きそうになるぐるぐるとした熱い胸の内は隠したかった。
彼は彼女の言葉に安堵したのだ。
自分自身の願掛けの内容なんて知りもしないだろうし、お世辞でもないただの事実の確認のような、それが意図せず褒め言葉になってしまっているようなそんな言葉。
この一瞬を、彼のこれからを思いながら、願掛けにするために。それを隠した。
彼女は花は好きでも、花言葉まで知りたがる人間なのかは、分からないけれど。
2.利用価値─信じてみたいと思いの始め
次の日の早朝のこと。
「それはコスモス。秋の桜って書く花。…流石に分かる?」
彼、幸村が例のごとく、しゃがんでじっと花壇を見つめる小さな背に問いかけると、
彼女は振り返ることなく緩々と首を振った。
だから、表情は分からなかったけれど。
「流石にそれは常識だろう分かるはず」と当たり前だ、とも取れる言葉に首を振らざるを得なかった彼女、はいったいどんな気持ちでいるのか。
…彼は、本当は今日は朝早くから水遣りをしなくてはならい訳じゃない。昨日の昼休みにいつも通りに水遣りを済ませたが、ある思いに突き動かされてここに来た。
「……、」
…彼はが"本当に"記憶喪失なのかは、知らなかった。
情報通である部員の柳という男に尋ねても良かった。きっとアイツなら知っているはずだから、とも考えた、でも彼はそれをせず、無知なままに近づき話しかけたのだ。
…記憶喪失を、信じる。
彼はそうしてみることにした。「本人が言ってること、しかもそんな重い事情を話してくれたのに嘘つき呼ばわりで上から信じるだとか信じないだとか」と嘲笑する声が彼の頭の中に響く。
しかし、信じられない人生を送ってきてしまったからこそ、
やりたい事をやろうと貫いて生きてきたことは後悔していないが、こうも頑なまでに人を信じれなくなってしまったことの虚無感と罪悪の念は僅かばかりは確かに持つからこそ。
彼は信じることにした。信じてみる。もしもが嘘をついていても、ついていなくても、信じてみるという行為こそに意義があるんだ、と。
…彼の負の念の払拭に使われるは、本人からしたら傍迷惑も良いところだろう。
しかし今まで他人に対して心の内、笑顔の裏に隠してはいれど勝手なことばかりを浮かべていい様に他人を動かしたりもしていた自分だ、他人のことを言えるような人となりはしてない、自分が嫌いな自分になりすぎた、これ以上は変わらない、いや、何かが変われたならば、…と。思い至ったのだ。
…純粋に、それがどんな理由であれただテニスがしていたかった。近しい存在である弦一郎や部員の仲間達とテニスを通じて高め合い、目的を貫く。今も彼は「それ」を貫いている最中だ。
──辛いことはあった、悔しいこともあった、でも彼らは普通ならばいつかは暗闇の中から抜け出しどこかキラキラと輝きだしたはずで、いつかはキラキラだけになるはずで、そして確かに今は光の中だけに居るのにキラキラなんてしてなくて、
あれ、おかしい。何かが違う。それは自分自身の内側も、そして貫いてきたそれでさえ…。
…あれ、おかしい。何かが違う。
──何をどこから間違えてどう正したらいいのか正解なんて分からないでも…
彼は、内心とは裏腹に穏やかに口を開く。
「その隣はキンレンカ。…そろそろ、上手く花が開くといいけど」
「…花開くといいね。そしたらきっと素敵」
「…そう思う?」
すると、彼女からも穏やかな言葉が返ってきて少しだけ自然と彼の口角が上がった。
「思う。…花を見たことはないけど…あなたが育てたのなら、きっと綺麗に彩るね」
「……過大評価しすぎじゃないかな?」
言われると気恥ずかしい言葉をあっさりとかけられて少し硬く素っ気無い口調になったが、は気にしてなど居ない様子で、背中越しにだが、おそらくは幸村にもわかる。
きっと笑顔のままで口を開く。
「だって、あなたが育てた花は今まで全てそうだった。…枯そうになった花も、綺麗に咲かせてあげた。元気がない花には、丁寧に大事にしてあげた。芽が出なければ一生懸命試行錯誤して種は芽を出した。
…転校してきたばっかりだから見てないよ。…でも、花壇の花はみんな残らず綺麗に咲いてるし、毎日している作業も多分、細かく鋏入れたりして整えてあげたりだとか、不調整えたりとか、そういうの、かな。難しいこと、よく分からないけど…ただおざなりに水をあげてるだけじゃないもん……そう…だよね?」
ここまで饒舌に話しておいて、ハッとしたように最後、少し不安そうに、確かめるように問いかけてきたに、幸村は笑った。珍しく毒素のない、しかし、薄っすらした無理のない穏やかな笑みだった。
こっそりとキンレンカという種の花に心の中で一種の願掛けをしていた彼は、
にまるで胸の内を見透かされたかのような言葉で返されて一瞬目を見張ったけど、すぐに口角を上げて笑顔を作る。
もう彼のこれは癖である。壁を作り隠そうとするのは治らない、でも、
この泣きそうになるぐるぐるとした熱い胸の内は隠したかった。
彼は彼女の言葉に安堵したのだ。
自分自身の願掛けの内容なんて知りもしないだろうし、お世辞でもないただの事実の確認のような、それが意図せず褒め言葉になってしまっているようなそんな言葉。
この一瞬を、彼のこれからを思いながら、願掛けにするために。それを隠した。
彼女は花は好きでも、花言葉まで知りたがる人間なのかは、分からないけれど。