第五話
1.転校初日〜不憫な生活の始まり
彼は、その日とても不機嫌だった。

前日の自分のうっかりミスのせいで、また遣り繰りしなくてはならないことが増え、彼らしくなく、提出しなくてはならないプリントの存在を忘れ、「らしくないぞ」という担任にとっては何気ない一言のせいで、そして自分がらしくなく生活リズムが乱されていることに気がついていたからこそ、とても不快だったのだ。
こうなると早くどうにかせねば遣り繰り地獄に陥ることだろう。
いつからこんなことなったか、いつからいつも穏やかだったとは言わずとも一定のままを保てていた心まで乱れてきているか。
…そう、全ては転校生のが自分のクラスへやって来たその時からだった。
そしてそれは彼女自身が特に何かした、のではなく、全ては彼、幸村の中にある思いと価値観と過去と感情と、全てが雁字搦めになった末のことである。

そして例のごとく屋上庭園の水遣りと、今度は花壇の水遣りもプラスして朝早くにやらなくてはいけないノルマがある。
ここ最近で一番の早起きを彼はして、若干ではあるが寝不足気味である。

…そして。



「ねえ、これはなんて名前の花?」



花壇の水遣りを終えて屋上庭園へやって来た彼は驚愕した。
それは彼自身が大きな物音を立てて闊歩したり、乱雑な動作をする人間ではない静かな人間だから、こんなにすぐに距離がありながら、気が付かれるとは思わなかったし、おそらくだが転校生の彼女が居ると予想できていたためにいつもより静かにやってきたのに。
…そして。

…──あんなに無視を貫いてたのに、なんで今この瞬間になって話しかけてくるの?それに何、やっぱり花とか植物好きなんだ、でもその割にはその花誰でもみたことあると思うけど、と。
…まあ思いつくことは彼なりに色々あったのだ。

毎朝出くわし話しかけても無視をしていたというのに、今年初めて今朝に開花したばかりの花を見て好奇心を抑えられない、といった楽しげな声色で問いかけられた。
しかし開花してくれたその花を見て嬉しくて綻ぶ気持ちもあったし、花に真摯に向き合ってくれる人間は多いようで少なく、本当にそれが純粋な花に対する好意、ならば、だが。
もしそうならばと考えれば幸村は少し嬉しく感じる。あまり自身のガーデニングの趣味に共感してくれる同学年はいないから。複雑な思いを交差させつつ、幸村はとりあえず、と口を開く。


「なんで俺に聞くのかな」


…そう。なんでそれを自分に聞くのか。確かに自分は率先して、しかも嬉々として花壇の世話をしている人間だ。
そして色々な複雑な事情を抱え、なんとなく意識が向かい視界に転校生の彼女、を入れてしまうことが多発しており、しかしその中の彼女はクラスメイトにも、どんな人間に対しても"無関心"という言葉がピッタリな学校生活を送っていたから、
この屋上庭園に来ても、存在は察していても、自分の姿を彼女が視界に入れたことは一度たりともない。

一度声をかけたが、果たして彼女が自分をクラスメイトの右斜め後ろの席の「幸村精市」だと認識してるかも怪しいと思っていた、しかし…。


「だって毎日花壇の世話してるから」


その疑問もあっさりとした彼女の言葉でスッパリと消え去った。
…なんだ、この子、周りの人間のこと見てたんだ。というか後ろに目がある訳じゃないんだよね?なんで?と考えると切りがない。
なので、素直に言葉を返すことにした。


「…驚いた。さん周りのこと見てたんだね」
「私こそ驚いた。きみ、私の名前なんて知ってるんだ」
「当たり前じゃないか、一度案内したことも覚えてると思うけどあるし、…クラスメイトなのに」


まあ流石に彼女とて覚えてくれて居るだろう、周りのことも意外と見ているようだし、と案内したあの時のことを持ち出し、少しだけ気にならない程度に間を開けて、クラスメイトだから、と理由付けた。
本当はクラスメイトだから名前を知っていて当然でしょ、なんていう素で言ってそうな人懐こい、爽やか王子様のようなセリフは今の彼からは出てこない。

むしろクライスメイトのことは、彼曰く「失望している」状態である。つまりクラスメイトという括りがなんなんだ、状態なのだ。
そしてその敬遠っぷりはが転校してきたあの日から更に加速した。
表面的に穏やかに友好的に接していても、あんなに心無いクラスメイトの人間性にその通り、失望したのだ。あの厄介事の押し付け合いのような静寂は今思い出しても気分が悪かった。


「クラスメイト、好きじゃないくせに?」


するとは何気ない口ぶりで、ズバ、っと彼の核心へと触れた。触れてしまったのだ。たった一言で。その一言は彼にとっては刃だ。鋭利な刃物なのである。
そして見事にそこに切れ込みを入れて、じわりと中の不純物があふれてきて怒鳴ってでもしまうかと思えば、逆にさっぱりとした声がするりと出ていた。


「……本当に驚いた」


。転校してから誰と会話をすることもなく接点を持つこともなく、校内を案内すれば言葉の通りもう完璧に覚えたらしく、
一日教科書を見せたが、次の日からは自前の教科書できちんと授業を受けており困ったことがあったかはわからない、が、あったとしても何事もないのだからなんにしても自分一人でやっていけているらしいるらしい。

幸村自身、なんなんだこの子、掴み所ないし思考が読めないし何故か徹底的にそこに無いものとして無視されるし腹立つと思っていただけなら良いけれど。
周りを見ていないようで彼女は見ていて、まさかこちらの腹の内を知らてるなんて。そんなに自分は分かりやすかっただろうか。幸村はのことなんて全く掴めない、とまで思っていたのに。

一番触れられたくない核心に触れられたのだ。今の彼の核心、それはその人嫌い。
そして徹底した人嫌いになってしまった自分への虚無感。
何故そうなってしまったのか、考えても分からないその過去から今まで。
カッとなり怒鳴りはせずとも触れられて欲しくない所に触れられ、とんでもない不快感に苦虫を噛み潰したような胸のうちを抱えていると。


「だから、…あんまり…話しかけない方がいいのかと、…思ってた。挨拶してくれたあの朝…遠くに知らない生徒が、いたから。」


その言葉だけ繋げて単純に聞くと普通の人間なら瞬時に言葉の裏までは察せないだろうが、幸村には悟れた。
…──ああ、俺がクラスメイトが苦手で、いちいち彼らのことを考えて動いていて、特定の女子などに話しかけていると不都合があると、察した末の行動だったのか…

そう考えると彼は納得がいったらしい。
確かにあの日の朝、こんな早朝には珍しく人気があったのだ。
暫くすると控えめながらも女子生徒の黄色い声が上がり、「邪魔しちゃ悪いよ、いこっ」「う、うん…あぁかっこい…」などというやり取りが聞こえてきたから。
ちなみに幸か不幸か物陰にひっそりとしゃがみこんでいたは彼女らには見つからなかった。つくづく運が良くて悪い女だ。

すると、己のことを一方的に知られていた不快感はともかく、無視された理由を知り尚且つ「馬鹿ではない」のだと分かると彼は少し気が楽になった。
彼女はおそらく馬鹿じゃない、ので、「私幸村くんと親密に話しちゃった」なんて言いふらせばどんな目に合うかもわかってる、それをされたり会話を見られたりすると彼が不都合になることも、
そして何より彼女には親密に話し合う友達、所属するグループ、などがないので良いだろう、と幸村は最初の疑問にくらいは答えることにした。


「その花、ダリアだよ。…結構有名な花だと思うけど、花好きそうなのに知らない?」
「知らない。…いや、もしかしたら…知ってたかもしれないけど。知らないよ」


目の前で咲き誇る大輪を指差して名を教えれば、いつか見たように柔らかく顔を綻ばせた。それはいつもの硬く冷たい表情とあまりにもかけ離れていて未だに彼自身驚くが、
純粋に花が好きなのだろうという愛しげな眼差しを向けられて、
丹精こめて愛情もこめて育てた幸村自身も嬉しかった。

しかし、その後に返されたその曖昧なの言葉に首をかしげる。
普通、そんな返しをするはずがない。普通、ならば。


「変な言い方だけどさんって痴呆か何か?若いのに」
「痴呆、というか、記憶喪失らしいけど」


ならば若すぎるボケでも始まってるのか、とちょっとした、クラスメイトには言わないようなズケズケとした冗談をかましたのだけど、それに対してやりすぎたか、自分を咎める前にきょとん、と彼は呆けてしまった。
…記憶喪失?記憶喪失って、記憶喪失?…少なくとも笑顔で花を愛でながら、ほんの世間話のように親しくもない人間に切り出せる物ではないと認識しているが。

…記憶喪失。


「…あ、時間。…じゃあね。」


初めてこの場でまともに言葉を交わした。彼にとっては無視されたりズケズケと核心にナイフを入れられたりと、今背を向けてあっさりとこの場から去っていった彼女は不快な女だった。変な女だった。
さらりと世間話でもするかのように出てきた言葉はその軽い口調に反してまったく軽くない。
でも彼自身、普段のさんを見ていると、ああ、なるほど、と納得してしまう自分がいたらしい。そんな雰囲気をは纏ってるのだ。

──無表情で居るのも。記憶がないから感情が希薄になる物なのか
──色んな物を見て回るのも何もかもが覚えがなく目新しい物だからか
──話しかければ元々はよく笑う人間だったのか自然な笑顔。でも会話がぎこちないのは…一生懸命ボロを出さないようにそれらしくしようと、必死、だから?
──見て回るの中でも花壇に興味を示すのは、もしかしたら元は花が好きだったのかもしれない。


そんなの彼の考えは憶測でしかないし、自身も自覚してるかもわからないけれど。
そもそも彼女の記憶喪失も本当かもわからなかった。彼、幸村の、そしてさながらアイドルのような扱いを受けているテニス部員達の気を引こうと「わたしは可哀想な子」をアピールしてきた女子はたまに居た。

でも…「記憶喪失なんて、嘘をつけ」なんて本当は彼らとて跳ね除けたりしたくない。
他人を疑りたくない。でも騙して演じて取り込もうとする女子があまりに多かった。だから…

だから、でも、しかし。を「嘘つき」と跳ね除けていい理由になんてならないのだ。
それは彼達とテニス部に関わろうとして害を与える女子との間だけに通じる文句であり、テニス部のテの字もない学校生活を日々送り幸村の名を呼んだこともなく、
クラスメイトにさえ関心がない彼女が、恐らくは花が好きな癖してダリアの名前も他の花の名前も知らないような彼女を幸村は嘘つきだと言う、

…──そんな、いい筈がないのに、いつの間にか「人間なんて」「女子なんて」「仲間以外なんて」「そんな物だ」…と。
ガチガチの偏見で塗り固められてしまった自分の頭や思考回路や心が、幸村はなんだか虚しく感じた。
自分という人間が出来た人間じゃない、むしろ最低だとも思うしある意味では虚しく寂びしい人生を送っているとも思うしそれがベストとも思えない、

だからと言って全ての人間を穏やかに受け入れよう、とはなれない。彼自身、そして彼達は身の保身を考えなくてはいけない生活をしているのも事実だからだ。


…──それでも、俺は…。

2015.11.27