事実の重みと染み渡る光
2.初めてのお留守番の変化の出会い
「明日、出かけるの。
だから、レンに留守番させちゃうことになるかもしれない。だから、」

そこまで言ったときのレンの顔は、もう思い出したくない。泣きそうだったとか、不安そうだったとか、悲しそうだったとか、そんなんじゃない。
ただ、
諦めたみたいに、薄く笑ってた。


****

は、いつも元気すぎて、時々苦笑いしてしまうこともある。
その元気さで今朝、今俺の住んでいる家に、平謝りしてお願いしてきたことを思い出すと、
本当に嵐のようだと思う。


「では、カイト兄さん、よろしくお願いします!レン、行って来るね!すぐ帰ってくるからー!急ぐから!走る!風になるからっ」
「…事故るよ、マスター」
「ハイハイ事故らないマスターですからー。じゃ!」


玄関口でバタバタしてるはなんていうか、通常運転すぎて、苦笑してしまった。
それに平然と受け答えしているこのレンもレンで、順応力が高い。聞いた話では、来たばかりだっていうのに。

そんなレンだからこそ、は俺に預けることを選んで、
お願いしにやってきた。

…うん、そうだなあ、一人で留守番させることを選ばないで、うちに預けてくれてよかったと思う。
やっぱり、らしいや。
…うん、本当に、どこか抜けてるらしい。
ボーカロイドのことを、やっぱりまだ深く知らないらしい。そうでなければ、こうして今まで通り笑うこともなかったと思う。

そんなことを考えて、にこにこと笑いながら、「さ、上がってレン」と促せば、じっと足元を見つめていて、
何かと思ったけど…それもすぐに解決した。


「ねえ、思ったんだけどさ、」
「ん?なあに?」
「玄関って、靴、脱ぐんだよね」
「…え…?いや、日本式では、そう、だね。外国では靴のまま上がるとこが多いと思うけど…レンって、外国から来た?」
「…いや、英語は多少話せるけど、日本で生まれた」
「…靴、脱ぐの知らない?」
「知らなかった。マスターがやってたから真似ただけで。知らないことの方が大半だよ、俺」


その言葉を聞いて、まさかと思った。こんな常識のことがわからないレンが、知らないことが大半だというのだから、
きっと本当に普通の常識的なことが欠けているのかもしれない。

そんな、馬鹿な。有り得ないのだ。そんなこと。あってはならないのだ。
だからこそ、ざわりと胸騒ぎがして、俺はレンに一言声をかけた。


「……ちょっと、ここで待っててねレン」
「ん」


俺は玄関口から廊下を真っ直ぐ進んで右に曲がり、
そこに置いてあった電話でまだ通勤途中であろうの携帯に電話をかけた。

何コールかしてから、ブツッと通話が開始された音が聞こえて、『もしもーし、え、もう何かあったのレン!?そんなっいくらなんでも早いっ』
と間の抜けた声が聞こえてきたために、少し肩の力を抜きつつも、受話器を耳に傾ける。


「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど、レン、玄関で靴を脱ぐのも知らなかったって言ってて…」
『あー…有り得るね。アレ、見よう見真似だったんだなぁ。ていうか、それが普通じゃないの?』
「…どうして、そう思うの?」
『だって、レンがボーカロイドって、マスターが必要だって言うの。
それは、ボーカロイドが生まれたばっかりの時、赤子みたいに何も知らない状態だから、助ける人が必要なんじゃないかって思って』
「…レンも、そうだと?」
『え?だってね、レン、私が昨日本を読ませるまで、単語と単語を繋いだみたいな会話しか出来なくて。でも、今は普通に生意気な口調してるけど、あれも努力の結晶なんだよ。一日半も使ってないけどね。……ていうか、さ、もしかして』


それって普通じゃなかったり…?

受話器越しに、強張った声が聞こえてくる。
も馬鹿じゃない。
最初こそ親が子自慢するように和やかな口調だったけど、次第に緊張した空気が張り詰めてきたように思える。

とりあえず、ここで「普通じゃない」なんて言って心配かけても、
これから仕事するには重荷だろう。
社会人ならそんなことに左右されては、なんて思うけど、は気分屋なところがあるし。
仕事自体もその日の感情に左右されやすいものだし。俺は和やかな口調でいやー、と流す。


「ちょっと気になっただけ。帰ってきたら、色々話そう」
『……うん。ありがとう、カイト。じゃあ、また』
「はーい、いってらっしゃい、頑張って」


ぷつり、通話が切れたあと、受話器を置くと、靴を脱いだレンが廊下の入り口に立っていた。

無表情ではあるけども、張り詰めているのがわかる。
そこに居たのは気が付いていた。でも、聞かれてまずいことでもない。むしろ、これから話さなければならないのだ。


「俺が、フツウじゃないって。わかってるんでしょ」
「……レン」
「あんた、KAITOでしょ。ボーカロイドの。結構優秀な性格みたいだね」
「…レンも、優秀だよ」
「覚える早さのことだけで優秀って言い切るなら、めでたいもんだね」


だって、


「欠陥品なのに」


薄っすらとわかっていた事実も、告げられる言葉が重過ぎて、ずしりと重い鉛を背負ったみたいだった。

その顔は、悲しい顔でも、泣きそうな顔でも、平気な顔でもなんでもない。
ただの無表情。何でもないように。強いていえば、全てを諦めたように。
その重さを、現実を諦めるのは、受け入れるのは。とても簡単には出来ないはずで。


「…捨てられた、ボーカロイドなのかなって、薄っすらわかってたけどね。多分、何かしら、欠陥でなくとも、個性と呼べる性格がズレてたりして、それが原因になったんだろうってことも」
「ズレなんてものじゃない。俺には感情の起伏がない。例え笑うことがあっても、平坦すぎてつまらない。個性すらない。仕事であるはずの歌に、感情をこめることも出来ない。
それって、つまりどういうことかわかるでしょ、優秀なカイトさん」
「……」
「利用価値も、存在意義も何もないってこと。…欠陥も、それだけに留まらないしね」


平坦だった。
辛さもなかった。
哀しみもなかった。
憂いもなかった。
絶望さえもない。
ただ平坦に、淡々と生きてる。

個性が、性格が少しズレている、一般的な欠陥と呼べるソレなら、例えばきっと、俺がお世話になってる俺のマスターなら、へらへら笑って受け入れてしまうのだと思う。
俺のマスターでなくとも、そんな人はいっぱいいる。

でもレンは、その比ではない。受け入れる人間も、拒絶はせずとも、戸惑ってしまうかもしれない。
それが、
レンに対する一番の凶器。
レンを苦しめる、ナイフ。
例え本人が悲しくないと、諦めたと言ったとして、それでも、

…レンは、笑えるんだ。
心が、無いわけじゃないんだ、そんなの、そんなのは。無だとは言えない、価値がない、なんて
決め付ける必要、ない、のに
俺はぐ、っと喉元まで競りあがってきた感情を押さえ込んで、ふ、と笑いながら、レンに言ってみた。
へらへらと、アホみたいに間抜けに、突拍子もないことを。


「ねえ、あのさ。俺のマスターって、凄い馬鹿な男なんだよ」
「…へ?何、いきなり」
「行動力があって、考えなしで、いつもへらへらしてる。無謀なこともいっぱいしてみせて、ふらふら放浪癖もあるしさ」
「……」
「でも、凄いんだよ。…捨てられたボーカロイドを、新しく受け入れるのって、大変で面倒臭いことだって知ってるよね?
手続きとか、受け入れるためにマスターになる人間が本当に長い間審査をされることとか。もう二度と捨てられないように。
それに、捨てられたボーカロイドは中々心を開かないから、そんなこと誰もやろうとしない。たまに物好きな人間がいるけどね。…それが俺のマスターだった」
「!」


俺はにっこりと笑った。
レンは、少しだけ目を見開いていた。


「俺も、捨てられた、欠陥品だよ、レン」