第六話
1.if─学び
もうすぐ冬が来る。
それにきがついてから、白澤さんは足を進めるのを止めた。
森の中に、恐らく人工的に作られた開けた土地があった。
木の間を縫うようにして進んだ先に、伐採を行われたような跡があったのだ。
その周辺にあった、湖の傍が、私達の暫くの野営場所になった。
滞在した数日で白澤さんは歩き周り、土を掘り、草花を積み、煎じた。
火にくべ灰にしたものもあれば、砂糖漬けにしたものもある。
完成品のいくつかを袋詰めにすると、森から歩いて半日ほどにある集落に持って行き、金銭に代えていた。
「白澤さーん」
──その金銭は、家に代わった。
白澤さんの交渉術が上手いのか、売り物の希少価値が高かったのか、どちらだろう。
彼が集め煎じた薬草は、冬の間仮宿として滞在するには十分な家と等価交換できてしまったのだ。
現代日本の居住区を見慣れている私からすれば、生活水準は正直低い。
隙間風は入るし鍵もない。防犯面はザルである。
けれど、この"時代"のものとしては上等だろう。
「朝ですよ。今日は約束があるって、昨日の夜言ってました」
「…うーん、寝言だったんじゃないかなあ」
「…子供みたいな言い訳するんですねえ…」
あまりにおかしくて、ふっと息が出た。
部屋数が多い訳ではなかったけれど、寝室と居間を分ける壁くらいはある。
寝室と定めた部屋で眠ってたいた彼は、私に笑われたことに気が付いたようで、布団の中にうずめていた顔を不機嫌そうにしてのぞかせた。
「子供って年じゃないよ僕」
「ううん。でも、子供でも通用しそうなお顔してますよね」
「うそ。そこまで若作りした覚えはないんだけど」
ぺたぺたと頬を触ったりつねったりしながら布団から這い出て来た。
青年ではなく、ぎりぎり少年と言っても差し支えのない顔立ちをしていると思う。
揃えられた前髪と、若々しい仕草口調と、荒れのない肌が彼を若くみせた。
詰まるところ童顔である彼は、立派な薬剤師で、縁も人脈のない土地でもすぐに生活基盤を整えてしまった。
冬の間の旅路は私にはきついだろうと、この地に留まるため画策した。あっという間に日銭を稼ぎ、活動拠点を作り、生活必需品を揃えた。
私は呆気にとられつつも、彼が煎じる度に教えてくれる手順だとか、毒と薬の見分け方だとかを頭に叩き込んだ。
私はどうやらこれから、薬師の弟子になり勉強をして行くらしいのだから。
急展開に気持ちが追い付いていない。けれど頭では、自分が今何をすべきなのかきちんと理解していた。
秋の終わりがすぎ、本格的に空気が凍てついてきた頃のことだった。
****
「えーとね。今からきみに、おつかいを頼むことにします」
改まった彼が口にした言葉は、そんなのんびりとした内容であった。
「…………はい」
しばらく沈黙したあと、私は一つ頷いた。
いったいどういう事かと、聞きたい事はいくつかあった。ツッコミ所というやつだ。
けれど私は聞き分けよくただ頷く事を選んだ。何から訪ねていいか分からなかった。
彼は口元を緩く引き上げ、苦笑していた。
「素直なのはいいことだけどねえ」
素直なのはいいことだけど、今聞き分けよくする事は悪いことでもあったのだろうか。
居住まいを正し、改めて聞く姿勢に入る。
彼に買ってもらった着物は厚手で、作りは悪くない。白地に花柄の刻まれたソレは、朝の冷気もしのげる一品だった。
「ぶっちゃけきみには、世間ってやつを知ってもらいたくてね」
「はあ……世間」
「出会ってからさ、ずっと僕と旅して、歩いて、それからはこの家に閉じこもってばっかだったでしょ?きみは今の"ご時世"ってやつを知らないわけだ」
やけに強調するなぁと思った。世間とか、時勢だとか。
確かに私は極端に物を知らない自覚はあった。
だってここは20XX年の現代日本ではない。私が生きてきた時代の日本国でないというなら、そりゃあ私は何も知らない無知な人間に違いない。
私が今まで培ってきた常識というのは常識でない。
学校で学んできたものが、果たしてこの生活の中で活きるのだろうか。
蓄積されてきた処世術というのも、対現代人用のものである。
今の私はきっと子供にも劣る、浅学どころではない人間だ。
「辛くても、がんばれるよね」
彼は机の上に肘を立て頬杖をついていた。
じっと私の姿を見下ろした後、脈絡なく私に話かけた。
「…がんばる」
「そう。これからがんばれる?」
「……世間を知る事を?」
「そうそう。それとももう、頑張れそうにない?知らない事を知るのは、怖いし大変だよね」
子どもを甘やかすように、彼はふにゃりと笑った。顔についた彼の手が、彼の白い頬を弛ませていた。
柔らかそうに見えるこのひとは、いつも逃げ道を残す言い方をするのだ。
見かけどおりに柔らかい性格をしているのだろう。
ただし、その柔らかいというのは、見方を変えれば淡白とも言い代えられた。
ふるふると私は横に顔を振った。
「がんばってきますよ」
私が向う先は、彼がよく向かっている集落だった。
貧困にあえぐ者が多い訳ではない。かと言って潤沢な資源に囲まれた富裕層が住まう土地でもない。
嗜好品の売買の交鈔をする余地は十分ある。そのくらい余裕を持った人種が住まう集落だった。
藁を編みカゴを作り、余った布で頑丈な紐を二本作った。
そのふたつを複合させれば、荷物入れの完成だ。背負って歩ける。
おつかいと称して渡された小包を中に詰め込み、扉を開けた。
冷気が室内に流れ込んでくる。
多少暖かかった手足の熱が一気に奪われる。
私は白澤さんの思惑の通り、世間の厳しさを知るための短い旅に出た。
足元でざくりと音がして、霜柱を踏みつけた事を知る。
吐いた息が白く煙ったのを眺めつつ、灰色の空の下を歩いた。
***
悲しいと思う事が少なくなっていた。
わすれてしまったのではない。
目の前の事で精一杯になって、考える余地もなかったのだ。
心の底でくすぶっている虚しさというのは、浮上しきる前に現実の苦労に打ち消される。
足は痛いし疲れるし知らない世界は怖い。
だけれど、孤独感を抱かないのは、一重に彼…白澤さんのおかげだった。
覚える事が日々多い。見知らぬものばかりで、目が白黒する。
悲しむ暇もない。
けれどそれ以上に、彼の人柄や、何気ない気遣いに、私は安心させられていたのだ。
彼はもしかしたら、私を騙そうとする、善人の皮を被った悪人かもしれない。
そういう可能性を考える事はほとんどなくなっていた。
「……」
──悲しい目をした子供と目が合った。
物陰に隠れるように体育座りをしていたその子は、ぼろ布を纏っていて、真冬だというのに、半裸にも等しい状態だった。
集落に向かってしばらく歩いた。40半ばほどの髭面の男が路地にぽつんと立っていた。
彼は道の真ん中を背筋を伸ばし歩く私のことを、憎たらしげに見ながら、隅の方から一歩も動かなかった。彼も身なりはみすぼらしく、頬はこけていた。
老婆が倒れていた。私は思わず駆け寄った。大丈夫ですか、と声をかけも返答がない。
──彼女には、既に息がなかった。眠るように死んでいた。
唖然としているうちに、サラサラと砂のようになり消えていってしまった。
「逃げてきたんだって」
華美というほどではない。しかし比較的裕福そうな身なりの淑女たちが、井戸端会議でもするように寄りあって、囁きあっていた。
桶を抱えている。水場にでも行って、洗濯物でもするのだろうか。
「あらお嬢ちゃん、こんな所で珍しい。何を売るの?」
背中の荷物をじろじろと見られ、「おつかいなのでわかりません」と答えた。返答になるようでならない。的外れなことを言って言い逃れしたのだ。
だって、どう言っていいのか分からない。
白澤さんは売る人だけど、私に商売はできない。中身が何と言われても、私にも実際のところあまりよく分かっていない。
子どもの言う事だからと彼女らはそれで納得し、「いってらっしゃい」と手を振られた。
「…逃げてきた」
虚ろな目をしていた子供と壮年の男。息の絶えた老婆。
ふと草むらの中に視線が吸い込まれ、目を凝らしてみると、惨い姿の男が死んでいたのを見つけてしまった。
──逃げてきた。何からだろう。きっと彼女らが噂していたのは、彼らの事なのだろう。
まるで他人事のように噂していた彼女らは何に脅かされた様子もなく、最後には今夜の献立の話に移り変わっていた。現代の主婦と変わらない穏やかさだ。
貧富の差というやつなのだろうか。これが?
彼女らと道端の彼らとでは、住む世界が違う。それは分かった。白澤さんが知れと言った時勢というのは、きっとこの事だ。
当たり前らしいこういう情景に驚くような私だから、白澤さんは勉強してこいと送り出してきたのだ。
なるほど確かに、現代社会とは違いすぎる。私の持つ価値観は緩すぎるのだろう。会話してる最中、彼がたまに苦く笑う理由が分かった。
私が彼の指定された通りの場所に向かい、待っていた彼の顧客に届け物をし、金銭を受け取り、来た道を戻ったあと。
タイミングを見計らっていたのだろう。軒先で待っていてくれた彼に「おかえり」と暖かく出迎えられた。
冷えた身体を温めるようにと、暖かな飲み物を二人分入れてくれた。
二人で口をつけながら、道中であった出来事を話した。
「僕らは厳密に言えば生き物じゃない。生きてないはいないんだけど…あえてこういう言い方するね」
ぽつぽつと語られた私の話に耳を傾けた彼は、何も口出しはしなかった。
ただ、最後にこう切り返した。
「きみは流されるように死なされて、流されるように生かされたね。自分では抗えない何かに殺されて、なんとなく僕に生かされて」
黒い眼が、私をじっと見つめていた。
「ねえ、それでも生きていたい?辛いことがあって、苦しいことがあって、痛みを感じることがあって、見たくないものもたくさんみて。きっと今までとは違う事がたくさん起って行くよ」
彼は達観しているひとだった。淡白とも言い代えられた。
けれど優しいひとだった。思いやりのあるひとだ。だからこそ、こうして私の意志を尊重しようとする。
残酷なまでに。
「…はい、それでも」
私からこれから惨いものを目に映していきてゆく。誰かを押しのけて、酷いことをする日もあるだろう。
そうまでして生きていたいのだ。
一度死んで尚、それでも諦めたくはないのだ。
苦しい事もあるけれど、幸せなこともある営みを。もしかしたらほとんど悲しい事しかない旅路を。
白澤さんに拾ってもらえたように、たまに僥倖が降ってくるこの生を、どうしても諦められない。
迷いのない答えを受けて、彼は「そう」とだけ言い私の頭を撫でた。
「…あの。もし私がもう無理だと言ったら?どうしたんですか」
「ううん…きみとはお別れだったね。残念だけど」
責任を持つのは無理だけど弟子には出来ると言った。
ろくでなしだから責任は持てないのだと、彼は再三言ったのだ。
彼は責任を取れないひとだから、無理だと諦めた私を殺してはくれなかっただろう。
さよならと言って、言葉通りただお別れをしたに違いない。
見捨てるというのとも違う。じゃああとは自己責任だよと、やんわりと自立を促すだけなのだ。
はっきりしていると思う。優しくて淡白なひとだと思う。そういう理解を示せるほどに、私達の仲は深まっていった。
ただの顔見知りというには深い仲だ。
彼に拾われ、弟子になった。彼の傍で何かを学び、暮らす事が、次第に当たり前になって行ったのである。
1.if─学び
もうすぐ冬が来る。
それにきがついてから、白澤さんは足を進めるのを止めた。
森の中に、恐らく人工的に作られた開けた土地があった。
木の間を縫うようにして進んだ先に、伐採を行われたような跡があったのだ。
その周辺にあった、湖の傍が、私達の暫くの野営場所になった。
滞在した数日で白澤さんは歩き周り、土を掘り、草花を積み、煎じた。
火にくべ灰にしたものもあれば、砂糖漬けにしたものもある。
完成品のいくつかを袋詰めにすると、森から歩いて半日ほどにある集落に持って行き、金銭に代えていた。
「白澤さーん」
──その金銭は、家に代わった。
白澤さんの交渉術が上手いのか、売り物の希少価値が高かったのか、どちらだろう。
彼が集め煎じた薬草は、冬の間仮宿として滞在するには十分な家と等価交換できてしまったのだ。
現代日本の居住区を見慣れている私からすれば、生活水準は正直低い。
隙間風は入るし鍵もない。防犯面はザルである。
けれど、この"時代"のものとしては上等だろう。
「朝ですよ。今日は約束があるって、昨日の夜言ってました」
「…うーん、寝言だったんじゃないかなあ」
「…子供みたいな言い訳するんですねえ…」
あまりにおかしくて、ふっと息が出た。
部屋数が多い訳ではなかったけれど、寝室と居間を分ける壁くらいはある。
寝室と定めた部屋で眠ってたいた彼は、私に笑われたことに気が付いたようで、布団の中にうずめていた顔を不機嫌そうにしてのぞかせた。
「子供って年じゃないよ僕」
「ううん。でも、子供でも通用しそうなお顔してますよね」
「うそ。そこまで若作りした覚えはないんだけど」
ぺたぺたと頬を触ったりつねったりしながら布団から這い出て来た。
青年ではなく、ぎりぎり少年と言っても差し支えのない顔立ちをしていると思う。
揃えられた前髪と、若々しい仕草口調と、荒れのない肌が彼を若くみせた。
詰まるところ童顔である彼は、立派な薬剤師で、縁も人脈のない土地でもすぐに生活基盤を整えてしまった。
冬の間の旅路は私にはきついだろうと、この地に留まるため画策した。あっという間に日銭を稼ぎ、活動拠点を作り、生活必需品を揃えた。
私は呆気にとられつつも、彼が煎じる度に教えてくれる手順だとか、毒と薬の見分け方だとかを頭に叩き込んだ。
私はどうやらこれから、薬師の弟子になり勉強をして行くらしいのだから。
急展開に気持ちが追い付いていない。けれど頭では、自分が今何をすべきなのかきちんと理解していた。
秋の終わりがすぎ、本格的に空気が凍てついてきた頃のことだった。
****
「えーとね。今からきみに、おつかいを頼むことにします」
改まった彼が口にした言葉は、そんなのんびりとした内容であった。
「…………はい」
しばらく沈黙したあと、私は一つ頷いた。
いったいどういう事かと、聞きたい事はいくつかあった。ツッコミ所というやつだ。
けれど私は聞き分けよくただ頷く事を選んだ。何から訪ねていいか分からなかった。
彼は口元を緩く引き上げ、苦笑していた。
「素直なのはいいことだけどねえ」
素直なのはいいことだけど、今聞き分けよくする事は悪いことでもあったのだろうか。
居住まいを正し、改めて聞く姿勢に入る。
彼に買ってもらった着物は厚手で、作りは悪くない。白地に花柄の刻まれたソレは、朝の冷気もしのげる一品だった。
「ぶっちゃけきみには、世間ってやつを知ってもらいたくてね」
「はあ……世間」
「出会ってからさ、ずっと僕と旅して、歩いて、それからはこの家に閉じこもってばっかだったでしょ?きみは今の"ご時世"ってやつを知らないわけだ」
やけに強調するなぁと思った。世間とか、時勢だとか。
確かに私は極端に物を知らない自覚はあった。
だってここは20XX年の現代日本ではない。私が生きてきた時代の日本国でないというなら、そりゃあ私は何も知らない無知な人間に違いない。
私が今まで培ってきた常識というのは常識でない。
学校で学んできたものが、果たしてこの生活の中で活きるのだろうか。
蓄積されてきた処世術というのも、対現代人用のものである。
今の私はきっと子供にも劣る、浅学どころではない人間だ。
「辛くても、がんばれるよね」
彼は机の上に肘を立て頬杖をついていた。
じっと私の姿を見下ろした後、脈絡なく私に話かけた。
「…がんばる」
「そう。これからがんばれる?」
「……世間を知る事を?」
「そうそう。それとももう、頑張れそうにない?知らない事を知るのは、怖いし大変だよね」
子どもを甘やかすように、彼はふにゃりと笑った。顔についた彼の手が、彼の白い頬を弛ませていた。
柔らかそうに見えるこのひとは、いつも逃げ道を残す言い方をするのだ。
見かけどおりに柔らかい性格をしているのだろう。
ただし、その柔らかいというのは、見方を変えれば淡白とも言い代えられた。
ふるふると私は横に顔を振った。
「がんばってきますよ」
私が向う先は、彼がよく向かっている集落だった。
貧困にあえぐ者が多い訳ではない。かと言って潤沢な資源に囲まれた富裕層が住まう土地でもない。
嗜好品の売買の交鈔をする余地は十分ある。そのくらい余裕を持った人種が住まう集落だった。
藁を編みカゴを作り、余った布で頑丈な紐を二本作った。
そのふたつを複合させれば、荷物入れの完成だ。背負って歩ける。
おつかいと称して渡された小包を中に詰め込み、扉を開けた。
冷気が室内に流れ込んでくる。
多少暖かかった手足の熱が一気に奪われる。
私は白澤さんの思惑の通り、世間の厳しさを知るための短い旅に出た。
足元でざくりと音がして、霜柱を踏みつけた事を知る。
吐いた息が白く煙ったのを眺めつつ、灰色の空の下を歩いた。
***
悲しいと思う事が少なくなっていた。
わすれてしまったのではない。
目の前の事で精一杯になって、考える余地もなかったのだ。
心の底でくすぶっている虚しさというのは、浮上しきる前に現実の苦労に打ち消される。
足は痛いし疲れるし知らない世界は怖い。
だけれど、孤独感を抱かないのは、一重に彼…白澤さんのおかげだった。
覚える事が日々多い。見知らぬものばかりで、目が白黒する。
悲しむ暇もない。
けれどそれ以上に、彼の人柄や、何気ない気遣いに、私は安心させられていたのだ。
彼はもしかしたら、私を騙そうとする、善人の皮を被った悪人かもしれない。
そういう可能性を考える事はほとんどなくなっていた。
「……」
──悲しい目をした子供と目が合った。
物陰に隠れるように体育座りをしていたその子は、ぼろ布を纏っていて、真冬だというのに、半裸にも等しい状態だった。
集落に向かってしばらく歩いた。40半ばほどの髭面の男が路地にぽつんと立っていた。
彼は道の真ん中を背筋を伸ばし歩く私のことを、憎たらしげに見ながら、隅の方から一歩も動かなかった。彼も身なりはみすぼらしく、頬はこけていた。
老婆が倒れていた。私は思わず駆け寄った。大丈夫ですか、と声をかけも返答がない。
──彼女には、既に息がなかった。眠るように死んでいた。
唖然としているうちに、サラサラと砂のようになり消えていってしまった。
「逃げてきたんだって」
華美というほどではない。しかし比較的裕福そうな身なりの淑女たちが、井戸端会議でもするように寄りあって、囁きあっていた。
桶を抱えている。水場にでも行って、洗濯物でもするのだろうか。
「あらお嬢ちゃん、こんな所で珍しい。何を売るの?」
背中の荷物をじろじろと見られ、「おつかいなのでわかりません」と答えた。返答になるようでならない。的外れなことを言って言い逃れしたのだ。
だって、どう言っていいのか分からない。
白澤さんは売る人だけど、私に商売はできない。中身が何と言われても、私にも実際のところあまりよく分かっていない。
子どもの言う事だからと彼女らはそれで納得し、「いってらっしゃい」と手を振られた。
「…逃げてきた」
虚ろな目をしていた子供と壮年の男。息の絶えた老婆。
ふと草むらの中に視線が吸い込まれ、目を凝らしてみると、惨い姿の男が死んでいたのを見つけてしまった。
──逃げてきた。何からだろう。きっと彼女らが噂していたのは、彼らの事なのだろう。
まるで他人事のように噂していた彼女らは何に脅かされた様子もなく、最後には今夜の献立の話に移り変わっていた。現代の主婦と変わらない穏やかさだ。
貧富の差というやつなのだろうか。これが?
彼女らと道端の彼らとでは、住む世界が違う。それは分かった。白澤さんが知れと言った時勢というのは、きっとこの事だ。
当たり前らしいこういう情景に驚くような私だから、白澤さんは勉強してこいと送り出してきたのだ。
なるほど確かに、現代社会とは違いすぎる。私の持つ価値観は緩すぎるのだろう。会話してる最中、彼がたまに苦く笑う理由が分かった。
私が彼の指定された通りの場所に向かい、待っていた彼の顧客に届け物をし、金銭を受け取り、来た道を戻ったあと。
タイミングを見計らっていたのだろう。軒先で待っていてくれた彼に「おかえり」と暖かく出迎えられた。
冷えた身体を温めるようにと、暖かな飲み物を二人分入れてくれた。
二人で口をつけながら、道中であった出来事を話した。
「僕らは厳密に言えば生き物じゃない。生きてないはいないんだけど…あえてこういう言い方するね」
ぽつぽつと語られた私の話に耳を傾けた彼は、何も口出しはしなかった。
ただ、最後にこう切り返した。
「きみは流されるように死なされて、流されるように生かされたね。自分では抗えない何かに殺されて、なんとなく僕に生かされて」
黒い眼が、私をじっと見つめていた。
「ねえ、それでも生きていたい?辛いことがあって、苦しいことがあって、痛みを感じることがあって、見たくないものもたくさんみて。きっと今までとは違う事がたくさん起って行くよ」
彼は達観しているひとだった。淡白とも言い代えられた。
けれど優しいひとだった。思いやりのあるひとだ。だからこそ、こうして私の意志を尊重しようとする。
残酷なまでに。
「…はい、それでも」
私からこれから惨いものを目に映していきてゆく。誰かを押しのけて、酷いことをする日もあるだろう。
そうまでして生きていたいのだ。
一度死んで尚、それでも諦めたくはないのだ。
苦しい事もあるけれど、幸せなこともある営みを。もしかしたらほとんど悲しい事しかない旅路を。
白澤さんに拾ってもらえたように、たまに僥倖が降ってくるこの生を、どうしても諦められない。
迷いのない答えを受けて、彼は「そう」とだけ言い私の頭を撫でた。
「…あの。もし私がもう無理だと言ったら?どうしたんですか」
「ううん…きみとはお別れだったね。残念だけど」
責任を持つのは無理だけど弟子には出来ると言った。
ろくでなしだから責任は持てないのだと、彼は再三言ったのだ。
彼は責任を取れないひとだから、無理だと諦めた私を殺してはくれなかっただろう。
さよならと言って、言葉通りただお別れをしたに違いない。
見捨てるというのとも違う。じゃああとは自己責任だよと、やんわりと自立を促すだけなのだ。
はっきりしていると思う。優しくて淡白なひとだと思う。そういう理解を示せるほどに、私達の仲は深まっていった。
ただの顔見知りというには深い仲だ。
彼に拾われ、弟子になった。彼の傍で何かを学び、暮らす事が、次第に当たり前になって行ったのである。