第一話
1.if─生き死に、どこそこ
私にとって、生きることは何よりもムズかしく、何よりも楽しいものだった。
「明日死にます」と言われても驚かない。今すぐ死ぬわけじゃない、でも長生きをするのは難しい。
そんな曖昧なライン上で生きてきた私は、ついにそこからぐらりと落下したらしい。
──生きる事は難しい。しかし何よりも幸福なことであった。
少なくとも、私にとってはそうだったのだ。
瞼を開く。視界に青い空が広がる。
瞬きを何度か繰り返したあと、自分が見知らぬ場所で気絶していたという事実に気が付いた。
「…ここ、どこ…」
空、草、土の三色ばかりが、どこまでも広がっていた。
抑えた胸の下で、どくどくと心臓が動いている。それに、とてつもない違和感を覚えた。
草原に吹き抜ける風の音、自分の浅い呼吸音。
聴覚と五感に訴えかけるその全てに、まるで現実感はない。私はただ茫然とするだけだった。
知らない間に、薄い白い着物を纏っていた。青臭い草の匂いが鼻腔を擽る。肌寒いと感じる。
こんなことはあり得えない。
夢を見ているのかもと思い、頬をつねったその瞬間。
「ねえ、きみ、どこの子?」
突然背後から声をかけられて、驚いて肩が跳ねた。
「どこから来たの?」
そろりと背後を振り向く。そこには、白い衣服をまとった男の人が佇んでいた。
そのひとはにこにこと笑顔を湛えていて、怖いひとには見えない。
やましい人ほど笑顔を浮かべる者だ、という教訓を瞬時に思い出した。
「…どこでもないところ…かな…?」
だというのに、私は警戒する事もなく、するりと受け答えしてしまった。
あまりに現実感がなさすぎて、何かを訝しむ事も出来ないのかもしれない。
──という人間は、ある朝死んでしまったのだ。
それは理解していた。自分が死者だという自覚は持っていたのだ。
だというのに、これはいったいどういう事だろう。
痛みを感じ、五感が働き、誰かと会話する身体があるこの状態。現実味の欠片もない、奇妙な事だった。
***
青い空、奥の深い木々、草原、それらが見渡す限りに広がっている。コンクリートも電柱も車も電車も通ってない。
どこ、と言われても、どうとも答えようがない。
死んだ人間はどこに行くのだろう。きっと死後の世界だろう。
じゃあ、今自分は死後の世界のいるのだと仮定して。今ここで、なんと答えるべきだろうか。長い時間、私は言いあぐねた。
「…どこの子かなぁ、迷子なら送ってあげようかなぁって思ってたんだけど」
困ったように笑われて、私も困ってしまった。
多分きっと、私が望む場所を答えたところで、送り届ける事は出来ないのだろう。
「…どこの子でもないです、たぶん…」
首を横に振って、同じ言葉を繰り返した。
──は死んだ。慣れ親しんだ日常にはもう戻れない。
私は違う何かになってしまったのだと、漠然と感じていた。
切り離されてしまった、とも思う。
見下ろした身体は、とても小さい。自分は10にも満たない子供の身体つきをしている。
なんておかしいんだろう。
今いる場所も分からなければ、自分の身に何が起こっているかもさっぱり分からない。
「うん、それじゃあ僕の自己紹介をしよっか。まだ名乗ってなかったよね」
俯きお通夜のような表情をした私に、彼は明るく話しかけた。空気を切り替えてくれたようだ。
「僕は白澤。今はね、旅行中なんだ」
「…旅行?こんな何もないところにですか?」
「何もなくないよ〜。こっちの子って凄く可愛いってきいたからさあ。そうしたらやっぱり来て大正解だ!大和撫子ってやつだよね」
「…もしかして、あなたは外国の方なんですか?」
「うーん、外国っていったら外国だね」
彼の顔立ちはアジア人のソレであり、流暢に日本語を喋っていた。同じ日本人なんだと信じて疑いもしなかった。
そもそも自分がどこにいるかも分かっていない。
自分の住んでいた土地を基準に物事を考えても、もう仕方がないかもしれない。
それにしたって…女の子に会うための旅行って…すごい事するなぁと思った。
そんな理由で旅立つ人なんてはじめてみた。
旅支度は簡単じゃないし、見知らぬ土地に足を踏み入れる事は勇気のいる事だと思う。
それを軽々とこなせるこの人は、身軽な人だと思った。
楽しそうに語る彼をまじまじと見ていると、「そう言えば、」と思い出したように彼は口を開いた。
「きみも随分かわいい子だよねぇ」
「えっ」
彼はしゃがみこみ、小さい私に視線を合わせながら言った。
私は肩を強張らせる。鏡を見てないから実際の所は分からないけど…多分、今の私は10にも満たない体格をしていると思う。
何故そんな事になったのか?を考えるのは後だ。
雲行きが変わってきたぞと、ようやく危機感のような物を抱き始める。
この話の流れは…ちょっとまずい。今のはずいぶんと怪しい発言なんじゃないだろうか。
彼のような人は、世間でロリコンと呼ばれている。
肯定的な響きではなく、多くは侮蔑の意味も含まれていた。
そうは言っても、どんな性癖だって、持つだけ思うだけならタダである。…タダなんだけど…。
私が目に見えて警戒を露わにしたのを見て、彼は慌てて手を振って弁明した。
「違うちがう!変な意味はないから!ていうか僕子供に興味ないしね!」
「あ、そうなんですか…?それならよかった」
張りつめた緊張を解き、ほっと肩を撫で下ろすと、彼も安堵したように息を吐いた。
「さっきのはそういうんじゃなくて…うん、きみが可愛いからとしか言いようがないんだけど…」
「はあ…子供が好き、なんですか?…あっ普通の、言葉通りの意味で」
「いや、嫌いじゃないけど、特別好きって訳でもないかな」
うーんと腕を組みながら思案し、彼は答えた。
子供を可愛いと思う人もいれば、嫌う人もいる。そして、そのどちらでもない人だって一定数いた。彼は後者だったという訳だ。
だとしたら、やっぱりしみじみ可愛いと言われる理由が分からなくて、さらに謎が深まった。
首を傾げる私を余所に、彼は感慨深げに言った。
「きみ、ほんとに変わった子だよね」
「そんなに言うほど変な顔してますか?…あ、この着物が見慣れないとか」
「特別珍しい子」
「そこまで言うほど…?」
「うん。こんな子初めてみたよ」
「ええと…お上手ですねえ」
今纏っている着物は質素だけど、特別変な造りはしていない。
けれど、現代で着物を常習的に纏う者は多くない。
外国の人だというなら、尚更珍しく映るのかもしれないと思った。
しかし、それが理由でもないようで。
髪を撫でつけて確認してみても、乱れてない。
褒めても一銭も出はしないのは、手ぶらなのを見れば一目瞭然だと思うんだけど。
煽て上手ですねと言うと、彼は微妙そうな顔をした。
「煽てとかじゃなくて…本当にそうなんだけどなぁ」
「そう、と言われましても…特別秀でたものはないと思いますが」
「いや、きみは特別だよ。だって普通じゃないし」
「………褒めてますか?
「うんうん褒めてる、超かわいい子」
「は、はい」
喰い気味に首肯されて、ちょっと圧倒された。
ビュウッと吹き抜ける風が、だんだんと冷たくなってきている。陽も傾いてきているようだ。
肌を撫でる風を払うようにしながら腕を摩った頃。
彼はぽんと手の平に拳を乗せ、閃いた!とでも言いたげに溌剌と言い放った。
「でもわかった。きみは行く宛がない訳だ」
「えっ!今の話で何でそんな…いや、本当になんで?」
言い当てられて、心底驚き、そしてすぐに困惑した。
今の会話の中で、何をどう分かれたというのだろう。私自身分かっていない、私を取り巻く現状を、彼は理解しているようだった。
「きみはついさっき死んだんだよね」
出し惜しみする事もなく、もったいつける事もなく、彼はあっさりと言った。
私は息を呑み、否定も肯定も出来ず黙り込んでしまった。
「もしくは、死にかけてる。きみは今、半分抜け出した状態だね」
「………それって、もしかして、幽体離脱みたいな…?」
「そうそうソレだね。物知りだねえ」
理解が追いつかず、固まってしまった頭をなんとか稼働させ、なんとか奥の方に眠っていた知識を捻り出した。
すると、よしよしと褒めるように頭を撫でられる。外見は子供でも、中身は違う。とても複雑な心境だった。
「なんで…なんで見ただけでそんなこと分かるんですか…?」
「不思議だからかな。きみは多分人間なんだろうけど…うーん、生気って言うの?そういうの全然感じないからね」
「せ、生気」
もしかしてこの人は霊能力者とかいうやつなんだろうか。私は死んだ…もしくは死にかけていて、霊体のような私を彼は霊視しているとか。
にわかには信じがたいその仮説を、荒唐無稽だと言い切ることは、今の私には出来なかった。
私は死んだのだ。死んでしまったはずなのだ。
生から離れ、死に近づいたのだという実感だけは、いつまでも消えなかった。
「なにかの縁だしさ、ちょっと話そうか」
彼はおいでとでもいうように手招きする。私は少し迷った後、小さく頷き、歩き出した彼の背を追った。
どうせ行くあてなどないのだ。流れに身を任せる他なかった。
1.if─生き死に、どこそこ
私にとって、生きることは何よりもムズかしく、何よりも楽しいものだった。
「明日死にます」と言われても驚かない。今すぐ死ぬわけじゃない、でも長生きをするのは難しい。
そんな曖昧なライン上で生きてきた私は、ついにそこからぐらりと落下したらしい。
──生きる事は難しい。しかし何よりも幸福なことであった。
少なくとも、私にとってはそうだったのだ。
瞼を開く。視界に青い空が広がる。
瞬きを何度か繰り返したあと、自分が見知らぬ場所で気絶していたという事実に気が付いた。
「…ここ、どこ…」
空、草、土の三色ばかりが、どこまでも広がっていた。
抑えた胸の下で、どくどくと心臓が動いている。それに、とてつもない違和感を覚えた。
草原に吹き抜ける風の音、自分の浅い呼吸音。
聴覚と五感に訴えかけるその全てに、まるで現実感はない。私はただ茫然とするだけだった。
知らない間に、薄い白い着物を纏っていた。青臭い草の匂いが鼻腔を擽る。肌寒いと感じる。
こんなことはあり得えない。
夢を見ているのかもと思い、頬をつねったその瞬間。
「ねえ、きみ、どこの子?」
突然背後から声をかけられて、驚いて肩が跳ねた。
「どこから来たの?」
そろりと背後を振り向く。そこには、白い衣服をまとった男の人が佇んでいた。
そのひとはにこにこと笑顔を湛えていて、怖いひとには見えない。
やましい人ほど笑顔を浮かべる者だ、という教訓を瞬時に思い出した。
「…どこでもないところ…かな…?」
だというのに、私は警戒する事もなく、するりと受け答えしてしまった。
あまりに現実感がなさすぎて、何かを訝しむ事も出来ないのかもしれない。
──という人間は、ある朝死んでしまったのだ。
それは理解していた。自分が死者だという自覚は持っていたのだ。
だというのに、これはいったいどういう事だろう。
痛みを感じ、五感が働き、誰かと会話する身体があるこの状態。現実味の欠片もない、奇妙な事だった。
***
青い空、奥の深い木々、草原、それらが見渡す限りに広がっている。コンクリートも電柱も車も電車も通ってない。
どこ、と言われても、どうとも答えようがない。
死んだ人間はどこに行くのだろう。きっと死後の世界だろう。
じゃあ、今自分は死後の世界のいるのだと仮定して。今ここで、なんと答えるべきだろうか。長い時間、私は言いあぐねた。
「…どこの子かなぁ、迷子なら送ってあげようかなぁって思ってたんだけど」
困ったように笑われて、私も困ってしまった。
多分きっと、私が望む場所を答えたところで、送り届ける事は出来ないのだろう。
「…どこの子でもないです、たぶん…」
首を横に振って、同じ言葉を繰り返した。
──は死んだ。慣れ親しんだ日常にはもう戻れない。
私は違う何かになってしまったのだと、漠然と感じていた。
切り離されてしまった、とも思う。
見下ろした身体は、とても小さい。自分は10にも満たない子供の身体つきをしている。
なんておかしいんだろう。
今いる場所も分からなければ、自分の身に何が起こっているかもさっぱり分からない。
「うん、それじゃあ僕の自己紹介をしよっか。まだ名乗ってなかったよね」
俯きお通夜のような表情をした私に、彼は明るく話しかけた。空気を切り替えてくれたようだ。
「僕は白澤。今はね、旅行中なんだ」
「…旅行?こんな何もないところにですか?」
「何もなくないよ〜。こっちの子って凄く可愛いってきいたからさあ。そうしたらやっぱり来て大正解だ!大和撫子ってやつだよね」
「…もしかして、あなたは外国の方なんですか?」
「うーん、外国っていったら外国だね」
彼の顔立ちはアジア人のソレであり、流暢に日本語を喋っていた。同じ日本人なんだと信じて疑いもしなかった。
そもそも自分がどこにいるかも分かっていない。
自分の住んでいた土地を基準に物事を考えても、もう仕方がないかもしれない。
それにしたって…女の子に会うための旅行って…すごい事するなぁと思った。
そんな理由で旅立つ人なんてはじめてみた。
旅支度は簡単じゃないし、見知らぬ土地に足を踏み入れる事は勇気のいる事だと思う。
それを軽々とこなせるこの人は、身軽な人だと思った。
楽しそうに語る彼をまじまじと見ていると、「そう言えば、」と思い出したように彼は口を開いた。
「きみも随分かわいい子だよねぇ」
「えっ」
彼はしゃがみこみ、小さい私に視線を合わせながら言った。
私は肩を強張らせる。鏡を見てないから実際の所は分からないけど…多分、今の私は10にも満たない体格をしていると思う。
何故そんな事になったのか?を考えるのは後だ。
雲行きが変わってきたぞと、ようやく危機感のような物を抱き始める。
この話の流れは…ちょっとまずい。今のはずいぶんと怪しい発言なんじゃないだろうか。
彼のような人は、世間でロリコンと呼ばれている。
肯定的な響きではなく、多くは侮蔑の意味も含まれていた。
そうは言っても、どんな性癖だって、持つだけ思うだけならタダである。…タダなんだけど…。
私が目に見えて警戒を露わにしたのを見て、彼は慌てて手を振って弁明した。
「違うちがう!変な意味はないから!ていうか僕子供に興味ないしね!」
「あ、そうなんですか…?それならよかった」
張りつめた緊張を解き、ほっと肩を撫で下ろすと、彼も安堵したように息を吐いた。
「さっきのはそういうんじゃなくて…うん、きみが可愛いからとしか言いようがないんだけど…」
「はあ…子供が好き、なんですか?…あっ普通の、言葉通りの意味で」
「いや、嫌いじゃないけど、特別好きって訳でもないかな」
うーんと腕を組みながら思案し、彼は答えた。
子供を可愛いと思う人もいれば、嫌う人もいる。そして、そのどちらでもない人だって一定数いた。彼は後者だったという訳だ。
だとしたら、やっぱりしみじみ可愛いと言われる理由が分からなくて、さらに謎が深まった。
首を傾げる私を余所に、彼は感慨深げに言った。
「きみ、ほんとに変わった子だよね」
「そんなに言うほど変な顔してますか?…あ、この着物が見慣れないとか」
「特別珍しい子」
「そこまで言うほど…?」
「うん。こんな子初めてみたよ」
「ええと…お上手ですねえ」
今纏っている着物は質素だけど、特別変な造りはしていない。
けれど、現代で着物を常習的に纏う者は多くない。
外国の人だというなら、尚更珍しく映るのかもしれないと思った。
しかし、それが理由でもないようで。
髪を撫でつけて確認してみても、乱れてない。
褒めても一銭も出はしないのは、手ぶらなのを見れば一目瞭然だと思うんだけど。
煽て上手ですねと言うと、彼は微妙そうな顔をした。
「煽てとかじゃなくて…本当にそうなんだけどなぁ」
「そう、と言われましても…特別秀でたものはないと思いますが」
「いや、きみは特別だよ。だって普通じゃないし」
「………褒めてますか?
「うんうん褒めてる、超かわいい子」
「は、はい」
喰い気味に首肯されて、ちょっと圧倒された。
ビュウッと吹き抜ける風が、だんだんと冷たくなってきている。陽も傾いてきているようだ。
肌を撫でる風を払うようにしながら腕を摩った頃。
彼はぽんと手の平に拳を乗せ、閃いた!とでも言いたげに溌剌と言い放った。
「でもわかった。きみは行く宛がない訳だ」
「えっ!今の話で何でそんな…いや、本当になんで?」
言い当てられて、心底驚き、そしてすぐに困惑した。
今の会話の中で、何をどう分かれたというのだろう。私自身分かっていない、私を取り巻く現状を、彼は理解しているようだった。
「きみはついさっき死んだんだよね」
出し惜しみする事もなく、もったいつける事もなく、彼はあっさりと言った。
私は息を呑み、否定も肯定も出来ず黙り込んでしまった。
「もしくは、死にかけてる。きみは今、半分抜け出した状態だね」
「………それって、もしかして、幽体離脱みたいな…?」
「そうそうソレだね。物知りだねえ」
理解が追いつかず、固まってしまった頭をなんとか稼働させ、なんとか奥の方に眠っていた知識を捻り出した。
すると、よしよしと褒めるように頭を撫でられる。外見は子供でも、中身は違う。とても複雑な心境だった。
「なんで…なんで見ただけでそんなこと分かるんですか…?」
「不思議だからかな。きみは多分人間なんだろうけど…うーん、生気って言うの?そういうの全然感じないからね」
「せ、生気」
もしかしてこの人は霊能力者とかいうやつなんだろうか。私は死んだ…もしくは死にかけていて、霊体のような私を彼は霊視しているとか。
にわかには信じがたいその仮説を、荒唐無稽だと言い切ることは、今の私には出来なかった。
私は死んだのだ。死んでしまったはずなのだ。
生から離れ、死に近づいたのだという実感だけは、いつまでも消えなかった。
「なにかの縁だしさ、ちょっと話そうか」
彼はおいでとでもいうように手招きする。私は少し迷った後、小さく頷き、歩き出した彼の背を追った。
どうせ行くあてなどないのだ。流れに身を任せる他なかった。