第六十四話
4.分岐点誘惑


閻魔庁の各所には自販機が設置されている。
既にあの世全体に導入されてる便利なものだけど、特に閻魔殿の中にある自販機には奇をてらった物が多い気がして、私は遭遇すると冷かすために必ず歩みを止める。
自分の背よりも高く大きい箱を眺めると、さすが地獄と言いたくなる珍製品から、真っ当な飲み物まで各種揃っていた。
小銭を投入して、無難なりんごジュースのペットボトルを購入するためボタンをピッと指で押す。
珍しいものを眺めるのは好きでも、飲むのかと言えばまた話は違う。
ここには昼休憩の間、一人で冷やかししていた私しかいなかった。機械音しか響いていなかった長廊下に、誰かの声が聞こえ始める。ちらりとそちらを一瞥すると、煌びやかな風貌の女性がまず目に入った。


「案内してほしいわ」
「…私にですか?」
「だってあなたが一番詳しそうだもの」

以前会ったことのある、顔見知りと言っていいのかちょっと微妙な接点しかない美女がいた。
リリスという名のあの女性は、隣にいた鬼灯くんの腕に自分の両腕を絡めて、ぴっとり張り付きながら歩み進めていた。密着度が高い。
私はなんだか身内の見てはいけない所を見てしまった気分で、ペットボトルに口をつけながらぎこちなく目をそらした。
二人は自販機の傍で小休憩している私の存在に気が付いたようで、視線がこちらに向いたのが見なくてもわかった。
私の足元に視線を落とした、気まずそうな顔を見てどう解釈したのか、リリスさんは「ごめんなさい、癖なのよ」と謝ってパッと腕を離した。
一応恋人と名乗った私達を気遣ってのことだとすぐに分かったけど、心底すまなそうにしている様子はない。
特に気に障ったという訳ではないし、いえいえと無難に手を振っておく。
…本当に恋人だったしたらここでイエイエと言うのも気にしないのも不自然だなとやってしまってから気付いた。とってつけた弊害だなぁ。

「そうだ。ねえ、あなたも一緒にいきましょ」
「えっ」

ペットボトルの蓋を閉めていると、名案だと言わんばかりに両手の平を合わせながらリリスさんが言う。
脈絡なくこちらに投げられた発言に、驚いて変な声が出た。
なんで。というかどこに何しに…という困惑が顔に現れているだろうことは自分でもわかった。
今まで周囲にいなかったタイプの猫のような女性。自分がそのペースに呑まれて圧され気味になっている事をぼんやりと自覚していた。
饒舌さで周囲を己のペースに乗せて行くタイプというのは数多くいても、このゆったりとしたペースには、じわじわ相手を呑んでいくような底知れない感じがあった。
美しいひとだと心からほうと見惚れてしまったら、多分お終いなんだろうなと同姓の私でも危機を感じる。
私が珍しい慌て方をしている様子を面白がっているのか何なのか、鬼灯くんは助け舟も出さずじっと見て、話の軌道修正を図ることもなくただ放置していた。

「あの、なんで、私を?」
「何故って、楽しそうだからよ」
「ど、どこに行くんでしょうか…」
「現世に行きたいのよ。ねえ鬼灯様、いいかしら?」
「この子を同行させることは構いませんけど…いつどこに何しに行くかは私も聞かされていません」

そこでようやく口を開いた鬼灯くん。いやいやと手を振りながら、暗に詳細がわからないままでは軽率に頷けないと鬼灯くんが釘をさすと、リリスさんは唇に人差し指を添えながら告げた。

「目的地はどこでもないわね。とりあえず、電車に乗ってみたいの」
「……電車?」

テレビではよく流れているその名前を思わず復唱する。久しぶりに口にしてみると、なんだか不思議な感覚に陥った。
現代を生きていた一度目の自分にとっては、とても馴染のある交通手段だったのだ。
何千年も昔からやり直しを始めると、電車どころか現代にあった何もかもがない状態が長く続いて、そのうち存在を忘れかけた。
そういえばそんな便利なものがあったんだった今になってじわじわと実感を伴いながら思い出して来る。
そうそうとリリスさんが頷いて、提案したその意図を説明してくれた。

「あたし現世の日本でお買いものするのが好きなんだけど、勝手が分からないことが沢山あるの」
「ああ…」

現世に住んでいようと、今を生きる日本人だろうとなんだろうと、それは簡単には解決しない問題だろうなあ…。
あの世の住人で、なおかつ外国人で、もし古い時代から存在しているなら特に飲み込むのは容易いことではないだろう。
鬼灯くんは確かに地獄では現世の事情に通じてる方だなんだろうと思う。
あの世にやってくる亡者の現状を細かに知ろうと、視察するために現世にたくさん行って、日々情報を更新し続けている。ついでに言うと個人的な趣味でもあちこち沢山歩いているらしい。
そういう努力を怠っていない鬼灯くんは、確かに案内役を頼むにはぴったり。
…あと、自惚れたようなことを言うけど、ついでに私を引き連れようと起こしたその気まぐれも大正解だったのだ。
少しおかしくなってくすくすとちいさく笑いながら快諾した。

「それなら喜んで。遊びに行きたいなって思ってたので嬉しいです」
「あらよかった。ねえ、鬼灯様もそれでいいかしら」
「…ええ、構いませんよ」

実際に人間に擬態して働いてみたり、目視するだけでなく体験することで理解を深めている鬼灯くんだけど、やはり感覚のズレは大きくあるし、短期滞在ではわかりきらないことがあると言っていた。
元人間だけど生きた年月はたぶん十にも満たないし、今とあの頃では事情が違いすぎるし。
その点私は前の人生の記憶が何故だか鮮明に残って消えない、現代に生きた経験値を持つ元人間。
分野は限られているだろうけど、鬼灯くんより詳細に、しかも経験しているおかげで実感のこもった、説得力ある説明を出来るだろう自負があった。リリスさんは快諾されたことを喜んでいた。

「三人でお出かけ、楽しみね」


その喜びの勢いを殺さないまま、リリスさんの左腕がくるりと私の腕に回った。
反対側では鬼灯くんの片腕をするりと絡めていて、リリスさんは私達二人を両脇にはべらせる形を取っていた。
んん?と引っかかりを覚えた。女性同士のスキンシップは嫌いじゃないけど、お香ちゃんときゃっきゃしたりしているけど、これはなんていうか…。
…リリスさんの素性を本人から語られた訳じゃない。けれど、初めて彼女と偶然対面したその後、彼女についての噂を耳にしたことがあった。

ね?と同意を求めるように上目遣いで見られて内心で悲鳴が上がる。
こ、こっちを誘惑してかかってらっしゃるんじゃないのこれは…?と。
彼女は男性を誘惑するのが性分の悪魔なんだという噂の真偽は未だにわからないけど、本当なんじゃないかと思えてきた。
美しい端麗な容姿で異性を惹かせるというだけではなく、言動や仕草で確実にじわじわと落として行く感じが…。え、でも私は女でリリスさんも女で…
これだと女のひとが女ひとを口説いてるってことになるんだけど。
その上彼女は既婚女性だって聞いた気がするんだけど。ついでに私は恋人(仮)がいるんだけど。…つまりこれどういうこと?
茫然と立ちすくむ私は次々と浮かんだ焦りや疑問を一つも口にすることが出来ず、諦めて一言だけ締めくくるように紡いだ。

「…たのしみ、だね…」
「本当に楽しみだと言うなら、正気なのかどうか疑いますけど」

じゃあこれからすぐに現世にという訳にもいかず、また再び会う約束を残して彼女はさよならと手を振って去っていった。
私が強張った声でいうと隣からツッコミが入ったので、私リリスさんに誘惑されてるんじゃない?という疑念は勘違いじゃなかったようだ。
リリスさんに落される日を楽しみにしてるとも取れる発言をしてしまった。心から言ったというなら、確かに正気ではない。
別に同姓を好きになったってなんでもいいけど、あの誘惑に喜んで乗っかるというのは末期だろうと。
違うちがうと否定しながら顔を覆った。彼女が美しいことは誰が見ても明らか。
魅力的だという認識が私の中にもある以上、立派な予備軍なのだ。一歩間違えたらころりと傾倒してしまうかも。神様とはまた違う恐ろしさを感じていた。



「いえこれはこういう物で…購入するならここではなく向こうで」
「さっきの通りかかったとこ、綺麗だったけどなんのお店だったのかしら。色々あったけど、雑貨?」
「あれは全部お菓子なんです。今流行ってるみたいですね」
「ここよく行くんだけど、いつも迷っちゃうの。どうしたらいいかしら」
「その時間帯だったらここを通った方がいいかもしれませんね。この道順が一番近いし混雑しないから」
「あたしこれがほしいと思っていたの。どこのお店が一番いい?」
「全国どこでも売っていますけど、当地で購入した方が一番質がよくて種類も豊富だと思いますよ」
「そっちの方は今寒いのかしら」
「ちょうど過ごしやすいくらいでしょうね。今が一番いいタイミングかも」

地図を開きながら、道を歩いて指さしながら、言葉尽くしながら、携帯の画面を見せながら、現世の勝手を説明するとリリスさんは感心している様子だった。電車がどうこうだけじゃなくて最早現世全般観光ツアーになっている。
現世風の服を身に纏ったリリスさんは品のあるお姉さま風で、年若い子が着るような服を着ている隣の私はちぐはぐで浮いている木がした。
現世に来る時は浮かないように、自分の趣味ではなくその人にあった系統の服を着る物だけど、選ぶ服で自分を客観視させられると辛い。
鬼灯くんは普段きっちりしている癖に変にカジュアルな格好が似合っている。
団子になっている訳ではないけれど、雑踏の中ではぐれてしまわない位置を保ちながら三人歩く。
見かけはほとんど人間と変わらない私達三人だけど、生粋の生者(人間)の中を異質な自分たちが紛れて歩いているという事実になんとも言えない気持ちになる。

「意外と詳しかったのね」
「ううん…まあ、好きなので」

あながち嘘ではない方便だ。幼なじみたちからも鬼灯くんからも、こいつ現世のモノ好きだよなーと認識されていると知ってからは自分から「すきなんだ」と自称することにしていた。
視察しに行く必要もないくらい詳しいとなるとおかしい。マニアだと言えば詳しすぎるくらい詳しくても不自然はない。
それに、再び恩恵を受けることが出来るようになった今、その偉大さが改めて尊く思えて来た所だったのだ。
嬉々として扱っている姿は嘘には見えないだろうし、感謝を好きと言い変えても違和感はない。
歩きを進める度に、リリスさんの高いヒールが音を立てていた。私のローヒルの音はがやがやと煩い人声や、アナウンスや、多くの忙しない靴音にかき消される。

「私が付いてくる必要なかったんじゃないですかね」

私達の背中を見守り追うようにしてついてくる鬼灯くん。
何かが不具合を起こしているのか煩い機械音を響かせている方面を一瞥しながら、口を挟まずとも進行しているこちらに向けて呟いた。
今度は別の方向からも甲高い電子音が聞え出した。やたらと大きくて、たくさんの人の注意を引いている。
街中はよくも悪くも絶えず多種多様な音が響き渡り、いつも賑やかだ。この騒がしさが懐かしい。そんな感慨深く浸る暇はなく、私は鬼灯くんの言葉を受けて慌てた。

「やだ、鬼灯さま拗ねないで」
「わ、私が知ってて説明できることなんて少ないから…」

見捨てて帰ったりしないでねという懇願を含めて、一歩離れた所からこちらを眺めている鬼灯くんを振り返った。
女友達との買い物と思えば楽しいし、リリスさんとっても気のいい人なんだけど…
私へのスキンシップが完全に誘惑する感じのやつだった。間違いなく誘惑してるやつだった。
後から鬼灯くんに確認したけど、このお方やっぱり悪魔だった。しかも凄い有名なひとだって。
見捨てられたらもしかしたら私は地獄に帰らなくなるかもしれない。リリスさんに堕ちてしまうかもしれない。そんなの困る。
私の動揺の意味を理解しているのか、リリスさんはくすくすと笑った。

「ふふ、鬼灯様。あなたの恋人はかわいいわね」

やっぱり確信犯のようで、あえて含みをこめて鬼灯くんに話を振った。
鬼灯くんがそれにうんと同意してくれるはずがなく、適当に流していた。私は口元を引きつらせながら彼女に言う。

「…あなたは美しいひとですねえ…」
「やだそんなに怯えないで。からかいたかっただけよ」

そう言いつつも、絡めた腕を頑なに離してくれないから心中で悲鳴が上がって止まない。
なんでー…どうしてなんの意図があってこんなことするの?
本当に反応がいいからからかいたいだけなら、もう気の済むまでどうぞと笑って流せる話だけど。なんらかの理由があって本当に堕とそうとしているならとてもこわい。

アレが食べたいこれがいいというリリスさんの希望にかなう店を探して中に入る。
ここにきてまさか古典的な店に入りたい〜なんて言うはずもなく、選んだのは今時の若者が好みそうな華美な装飾の施された、けれど落ち着いていて上品な喫茶店だった。
店員さんに通されたのは丸テーブル。そこに三人で座ったから向かいも隣もなかったけど、四角テーブルだったら鬼灯くんの隣と私の隣どこに座ったのかなと考えると恐ろしかった。テーブルにもイスにも可愛らしい花模様があしらわれていて、それをみてなんとか心を和ませ落ち着かせようと試みる。

「冗談っていったけど、ちょっとだけほんとよ」

注文した品が届き一式テーブルに並べられると、リリスさんは嬉しそうに鞄からスマホを取り出す。
悪魔もカワイイ!という衝動で撮る時代なんだと変な感心をした。
これも同じく花をモチーフにあしらわれたケーキとティーカップに注がれた紅茶をパシャーっとスマホで撮り収めながら、リリスさんはぎょっとするようなことを言いだした。

「あたしは殿方を誘惑するのが本分だけど」
「そうでしょうね」
「この子のことちょっとだけ魅力的に感じるの。女の子なのにね」
「………」

鬼灯くんが黙った。私も黙った。リリスさんは金色のフォークをケーキに差し込み食べ始めた。
その小ぶりな金にさえも素朴な花があしらわれているというのに、
それを手にするリリスさんが口にしているのは花というより、一種の毒のようなものだった。
鬼灯くんはリリスさんの突然の暴露に引いたというよりも、何か思う所があって何か難しい顔で考えこんでいる様子。
手元には私が頼んだ物も届いていたけど、手を付ける余裕がない。
鬼灯くんは考えごとをしながらでも喋りながらでも黙々と口に運んでいたけど、マネできそうにない。飲み物に口をつけて喉を潤すので精いっぱいだった。

「だから友達になりましょ」
「…今の話を聞いてお友達にはなれません…」
「少しそう感じるだけだから大丈夫よ。ちょっと度がすぎた友情ってあるでしょ。それよ」
「いやですだめですむりです」

ぶんぶんと首を振って拒否する私の姿をふふっと笑って眺めている。
艶やかなテーブルの表面に反射して映っているリリスさんの姿。その目は妖艶に細められていて、ただ真っ直ぐ私を射抜いている。
鬼灯くんはただ冷めた目で私達のやり取りを見ていた。リリスさんは頬杖をつきながら今度はちらりと視線を鬼灯くんの方へやった。

「ねえ?どうしましょう」
「……遠慮してください」
「そうね、二人は付き合ってるんだもの」
「未婚だろうが既婚だろうが普段構いませんよね」
「あたしだってちょっとくらいの配慮はするわ」

なんて奔放な人なんだろう。普段はちょっとの配慮しかしないのだ。
終始この調子で翻弄されっぱなしで、今日私はぐったりとくたびれながら地獄に帰ることになりそうだ。
そこで悟った私はようやく諦めてフォークを手に取り始めた。本来通りの味がちゃんとしているのかどうかはわからない。

「どうしたらいいかしら、こういう時どうするべきなのかしら」

歌うように楽しげに言いながら、彼女は端にある今日買った沢山の荷物を眺めて満足そうにしていた。
普段はリリスさんのお付きの羊さんが荷物持ちをしているらしいけど、現世までついて来てくれている訳ではない。この調子で帰り道もあれもこれもと購入していくならとてもじゃないけど持ちきれなくなるだろう。
鬼灯くんは未だに難しそうな顔をした黙していた。


2019.1.23