第六十二話
4.分岐点特別
あの問答の中で顔を掴まれたとき、耳の下、首筋あたりに爪が立っていたようで薄く血が滲んでいた。
それに気が付いたのは、あの後別れて一夜明けた朝のことだ。
身支度するために、寝惚け眼で鏡に映っている自分を見た時、がっくりと肩を落としてしまった。
大怪我とは言わなくても目立つ赤い線。髪を下ろしていれば目立たないかもしれないけど、長い髪は邪魔になるので、仕事中は括っている。
見られたらどうしたの?と聞かれるだろうし、理由は応えづらい。医務室にも同じ理由で行き難い。
鬼灯くんは昔、私に怪我させたことをなんだか気にしているらしいし、軽い切り傷とは言え出来れば目立たせたくない。
幸い薬をつけておけばそのうち治るだろうくらいのものだ。知られないまま治るならそれが一番だった。


「んー…」

薬局の扉を潜り出て、購入したいくつかの物が入っている袋を抱え直しながら思案する。
私がとれる選択は二つだった。放置して自然治癒を待つか、薬を入手するか。
もちろん後者を選び、塗り薬を入手出来たので帰ったら塗布するつもりだ。
けれど私は薬が効きにくい…というより強い意志に反して生命力は逞しい方ではないのか、怪我の治りや疲労回復なんかが遅い方だった。
虚弱体質という訳でもないし、木霊さんとも話したようにアレルギーもなく嬉しいくらいの健康体だけど、ここぞという時どこか頼りない。早く治癒する訳ではないだろうなと考えると思わず悩ましい声が出た。

「あれ、ちゃんどうしたの」

名前を呼ばれて振り返ると、色とりどりの着物を纏った老若男女の通行人の中に、白が見えた。
目立つ白い服を着た男の人がきょとんとした顔をしながら立っている。すっかり顔馴染になった白澤さんだった。
私との思わぬ遭遇にきょとんとしながら、片手は美しい女性の背中に手を振っていた。
こんにちはと言う挨拶と共に手を振ると、今度はにこやかに笑って私に手を振り返してくれる。
さっきまで彼女と逢引していたんだろうか。元気だなあと感心する。美しい人との逢引の直後でも、分け隔てなく凡庸な私にも声かけする。
知り合いだから友好的だというのも理由の一つではあるだろうけど、このひとの女性への対応はいつも平等で微塵も変わらない。

「珍しいね」
「…え?何がですか」

歩み寄ってきた白澤さんが不思議そうな声色で言うので、思わず首を傾げながら聞き返した。何のことを言って珍しがっているのか分からなかったのだ。
間近で対面した白澤さんは面白そうに、物珍しそうに私を見ている。

「外に出てるのがだよ」
「…あれ、私引きこもりみたいに思われてたんですか…?」
「ああ違う違う。どっちかっていうと深窓のお嬢さまって感じだね〜」
「…ええー…」

まったく不釣り合いな比喩をされて戸惑った。白澤さんの甘い口説きには慣れたつもりだったけど、これには居心地が悪くなって思わず一歩身を引く。
破天荒な性格はしていないと思うけど、深窓という謳い文句がつけられるような性格もしていない。
私の引きつった表情と引け腰になった姿を見て、白澤さんはおかしそうに笑う。

「だって、一所に留まるか一所にしか行かないんじゃない?」
「まあ、出かけに行くところは決まってるかも…」

神様避けのために余計な外出を控えていた時期もあった。
白澤さんはその私の体質を理解して予想して言ったのだろうか。当たっている。
その自衛も緩めた最近の私は、大昔とは大分変って来た食文化を面白がって、食べ歩きすることが多かった。
引きこもりではない。けれど、それしかしていないとも言う。
いつの間にか新たに出てきた料理なんかがいつから流通しだしたのかは見ないフリ、考えないフリを貫いて。
例の神様云々とか、持病云々があったから下手なことが出来なかったとは言っても、これは色んな意味でマズいと思う。
思わずうーんと唸って頬に手をあてた。これからは積極的に出かけようかな、部屋にいるのが趣味という訳でもないし。運動場にも通おうかなあ。今まで室内で内職していることが多かった分、これからは逆にどんどん外に出て行こう。

「ということで」
「はい?」
「おいでおいで。行こう」
「…え、あ?ええと…どこに…なんで?」

パッと腕を掴まれて、にこにこと笑顔の白澤さんにそのまま引かれて連れられた。
ということでって、どういう事なんだろう。引きこもりや深窓云々の話をしたばかりだから、外にでも連れ出してくれるつもりなのかなとは思うけど。
人混みの間を縫って、商店が並ぶ街路から抜け出し、進んでいるうちに白澤さんが向かおうとしている場所に気が付いた。
あの世暮らしを初めてから何度も通った場所、天国地獄現世の境目の門を通り抜けると、その後からは最近何度か通り歩き慣れてきた道を辿った。


たどり着いたのは天国でも地獄でもとても有名で、私も何度か通わせてもらっているお店、うさぎ漢方極楽満月。白澤さんはお店にたどり着くと私を適当な椅子に座らせて、耳元を見せてとこちらに告げた。
耳元を気にして悩ましげにしていたのに気が付いていたらしい。
何か不調があるのだと察し、善意で連れてきてくれたのが半分で、逢引に誘うための口実が半分だろうなと苦笑した。
耳元はおろした髪で見えていなかったので、不調の原因がこういった傷だとは思わなかったようで、患部を見た時少し驚いていたけど、次第に眉間に皺が寄るようになった。

「あー…」
「…はい…」
「うん」
「……はい…」
「僕どういう反応とったらいいんだろう」
「…お好きにどうぞ…」

怪我は赤がまだ残った切り傷。刃物の傷でもなくヒトの爪痕であるということがすぐにわかったようだった。
じゃあいったいどうして?誰に?自分でうっかり?と推理した後、私の浮かべた微妙そうな笑顔を見て、犯人を察したらしい。
その湧いて出た複雑な思いをどう言葉にしていいのやらと腕を組んで悶々としていた。
私に向かって恨み言を叫ぶ訳にもいかない。嫌いな相手の顔を思い浮かべるだけでムカムカするしツッコミどころも山ほどあるし…という心境が手に取るようにわかる。
治りを早めたいから滋養強壮の薬をくださいと言うと、こちらを振り返って眉を下げて笑った。
不穏な葛藤もパッと消し去れる、切り替えの早いひとだった。

「他より効きが良い薬は選べるけど、即効性がある物はねえ」
「そうですねえ…」

当然魔法のお薬を煎じてくれる訳ではない。パッと完治させることは出来ないだろうとはわかりつつも、出来るだけ早く治したいという希望を告げると、うーんと悩みながら薬棚を物色し始めた。私の体質と希望に見合うものを見繕ってくれているようだ。
私も待っている間忙しなく歩き回る従業員のウサギたちや、そこかしこに点在する薬を珍しげに眺め、漂う薬草の匂いなどに気を奪われながらぼんやりしていた。
そんな中白澤さんがふと思い出したかのようにあっと口を開く。

ちゃんってさ」

薬瓶を片手にしながら、なんでもない雑談をするかのように切りだす。
私もぼやんりしていた意識を戻してそちらに集中させ、聞く姿勢に入った。

「ちょっと特別な子でしょう」
「へ…?」

けれど、他愛無い雑談というには突飛なことを言われて思わず変な声が出た。
白澤さんは気に留めた様子もなく、こちらに背中を向けたまま振り返らない。

「僕ら神様は、ちゃんを特別扱いしてるよね」
「…そうかもしれないですけど、特別な子っていうのは…」

よくわからなくて曖昧に言葉を濁す。認識があやふやなのに気が付いて白澤さんは詳しく補足してくれた。
その間も薬棚を開く手は止まらず、会話しながら手慣れたように動いていた。

「特別な境遇におかれてる子。周りとは違う特別なものを持ってる子。覚えがあるよね」
「……」

まったくないとは言わない。
転生システムがある以上、私の人生やり直し状態は珍しくないのかもしれないけどちょっと状況が特殊だった。
そういうたまたまもあるのかもしれないとは思いつつも、これは本当に偶然だったんだろうかと疑問に思うこともある。
後々に成立されたシステムだけど、転生がもし人為的に起される現象であるというならば、「私をあの時代に生まれ変わりさせた誰かがいる」かもしれないという可能性も考えた。
ハッと己の幼い手を初めて視界に入れたあの時は、確かに一度目の私は"死んだ"という認識があったから、自分ではない何かに生まれ変わったんだということに疑いを持たなかった。
死後の次にあるものが来世だとしてもおかしくはないと。
前世の話とか神隠しにしたって、現代では怪談話も不思議な話もどこでも聞く機会があったから、幸か不幸かそういう物なんだとすぐに理解できたのだ。
けれど、あの世とこの世の事情についてさらに理解が深まった今、疑問点はいくつか出て来る。

「神様だって特別だよ。みんなには出来ないことが出来るし、みんなには視えないものがみえたりする。僕もそう」
「…何がみえるんですか」
「きが特別に生かされてるってこと」

図星をつかれたような気がした。触られると気まずい所に触れられてしまったのは確かだった。
死んで、生まれ変わって、また死んで、ここにきて。
それは偶然ではなくて何か特別な理由があるかもしれない…と言う疑問は白澤さんからの指摘で確信に変わってしまっう。
私は前の人生で志半ばで死んで、再びやり直しが出来たことで救われた部分も多くあるけど、同時に首も絞められて苦しい。
神様なんかはこうして達観してみてくれるけど、その特別は普通快く思われないんじゃないかと、漠然とした懸念があった。

視えるというのは嘘じゃないんだろうなと思う。男神が消えそうになった時に予知したように促してくれたり、あの時の私の不調の原因も見抜いていた。
あの時男神との間にあった長らくの縛りが解けかけて、本来なら身体が軽くなったと感じるべきところだったのに。私が重たく感じたとまるで麻痺したようなことを言ったものだから、たぶんあの時同情してくれてたんだと思う。

「…生かされてる…」

それを生き永らえられた幸せ者だと受け止めず悲観的に捉えるなら、私は死ぬべきだったのにいつまでも生き続けている罰当たりな存在。
生かされてるという言葉を使うということは、やっぱり私のアレは自然な転生ではなくて、不自然な介入があったからなんだろう。
あの時死ぬべきだったのかと一瞬考えた。けれどこれは僥倖だったのだと思い直した。
そう純粋に捉えなければ、不正を働いてしまった時のような罪悪感で潰れそうだった。
小さなズルなら今までたくさん重ねてきた。
前の人生があったからこそ私は技術も知識も効率よく積み立てられた。それはズルいことだなと良心が呵責されることがあっても、ここまで思いつめはしなかった。まあいいかとどうにか割り切れることだったのだ。
けれどこれについては開き直りも割り切りも何もできない。

最近色んなことが起こって、必然的に人生について考え直す機会が増えた。
長い長い人生を振り返る。酸いも甘いもあった生活を思い出す。幸せだったなと思う程に罪悪感が強まって苦しくなる。
またぼろっと涙がこぼれたことに気が付いて、最早慣れた動作で懐からハンカチを取り出す。そんな冷静な私とは正反対に、私の鼻声で涙の気配に気が付いた白澤さんは、ぎょっとした様子でこちらを振りかえった。
こういうことを考えると無条件で泣いてしまうと予想出来ていた私とは違って、白澤さんはこの話題が私の琴線に触れるなんて思ってもいなかったのだ。そりゃあそうだ。びっくりさせて申し訳ない。

「ってああ泣かないで!ごめんごめん、別にいじめたい訳でも責めたい訳でもないからね!」
「あの、はい…」

分かってますよこちらこそ驚かせてすみませんと謝るより前に、わたわたとアレコレ手渡される。
お菓子の箱や茶葉が詰まった瓶や可愛い人形やらが周囲にごった返した。ウサギも手渡され膝に乗せられた。モフモフしていてかわいい。

「あーえーとこれ食べる?あ、こっち飲む?香りもいいし甘くておいしいよ〜可愛いでしょ〜」

わたわたとご機嫌とりをして慰めてくれる。それがおかしくて吹き出して笑うとホッと安堵していた。
この辺りのことになると反射のように涙腺が緩むだけで、別に今心底悲しくて絶望して泣いてる訳じゃない。
気に病んでいるのは確かだけど、もう長い事向き合ってきた問題だ。つい最近…ついさっき知ったばかりの事実とか色々あるけど、根本的な所については、二度目の人生を始めた時からずっと考え続けてた。
平気そうなのを認めてから、あー、うーんと私を傷つけない言葉を探しつつ、白澤さんはどうにかその先を続けた。

「でもね、それでいいと思うよ。僕だってすっごく長く生きてるけどいつかは死ぬんだろうし」
「……死ぬんですか?」
「生きてるってのも死ぬってのもちょっと違うし、消えるってのもなんかねえ。でもまあそんな感じ」

うん、となんでもないように頷いた。
鬼灯くんにしても白澤さんにしても極度にそれを恐れることはなく、自然の理として受け止めることが出来ている。
私だって皆いつかは等しく朽ちていくのだと知っていても、いつまでも恐怖がわいて消えない。
彼らのように余裕をもって構えられなかった。

ちゃんの根源にあるものはみんなと違うのかもしれないけど、さして問題じゃないよ」
「…そうでしょうか」
「そうだよ?ちゃんはそれを問題視しすぎだと思うし、アイツは気にし過ぎ」

うえーと嫌そうな顔をした。…アイツって鬼灯くんのことかなあ。
いつも穏やかでにこやかな白澤さんがこういう顔をするということは…というか今までの話の流れからするにきっとそうなんだろう。
鬼灯くんが気にし過ぎって言っても、どういう風に気にしすぎていたのか見当がつかないけど。

「欠けちゃった分を補ってる最中なんだろうねー、時間かかってるみたいだけど、そのうち足りるようになるよ」
「…足りない?そのうち?なにが足るようになるんですか…?」
「えっ知らなかった?散々僕ら好き勝手に可愛いとかかわいそうとか…色々言いまくってたけど。理由知らなかった?」
「はい、まったく」

手をぱたぱたと左右に振ると、驚いている様子を見せた。
白澤さんがうーんと考えながら、手遊びするように茶葉入りの透明な瓶のフタを開ける。こちらまでいい香りが漂ってきて、リラックスして肩の力が抜けたその直後。

「えーと、命?いや魂?」

軽い返しに、私は唖然として声が出なくなる。その様子を見て、しまったという顔をした白澤さん。

「あー、うん、ちょっと干渉しすぎたかな?ごめんねー、これ以上は言わないでおくね」
「…あ、はい、ええと…」

干渉ってなんなんだろう。そのうちっていつやって来るんだろう。
足りるようになったらどうなるんだろう。多分その時こそが本当にお終いなんだろうなと漠然と思う。でも、それでいいと言われた。
そこに悲壮感も喪失感もなく、ただ包容するような神様の笑顔があるだけだった。


2019.1.23