第五十六話
3.地獄欲求

夜も更け、人の気配も薄まって来て、静寂が広がり始めた閻魔殿の長廊下。
薄暗いその中で男女が向き合っているシルエットは、それらしいものだというのに、ここに漂っているのは妙な緊迫感だけ。主に強張らせているのは私の方で、声も、伸ばした手さえも硬質でした。



「………ほしい」

意図して願望を絞り出すと、小さく引きつった歪な声が出た。
それでも一度喉を滑らせてしまえば、後はつっかえることはなさそうでした。
ゆっくりとその子に両手を伸ばす。
頬に触れると、指先から冷たさが伝わり驚きに手が震えました。
空調が合わず寒かったのか、頬まで冷たくなっていて、肌は青白い。
この光景に確かな既視感がありました。私は今までこの子にこんな風に含みをこめて触れたことなどないというのに。

「…な、なに」

さすがのこの子もたじろいでいました。随分と居心地が悪そうだけど、この手を振り払うことも突き飛ばすこともない。
今までにない距離感とこの接触に違和感を覚えることはあれど、嫌悪を感じることはないようでした。

「恋人じゃないのかとか、夫婦だと思ってたとか。散々言われてきましたよね」
「え、うん…言われたね。ずっと一緒だもんね」

血の繋がりもない顔も似てない男女が共にいれば、変に囃し立てられることは必須。
それをこの子も身に染みてわかっているし、私の知らない所でも散々言われてきたことだったのでしょう。
耳にたこが出来るほど言われて来たそれが、最近になってその頻度が増えた。
いい大人がそんな距離にいて、何もないはずが無いという邪推が発生するようになって。
お年頃と言われるあの時期に囁かれていたのは、どこか実のない物ばかりで、所詮は青臭い子供のからかい。可愛い物でした。
今は経験を積んだ大人たちが断定的に口にするだけ性質が悪いかもしれません。

「この間なんて…甲斐性のない、可哀そうなことをしてやるなとまで言われました」
「かわいそう…?私のなにが?」
「無愛想すぎる、構ってやれとか。それらしいことの一つや二つ出来ないのかとか」
「……つまり、こういうことかあ」

壁ドン?いや頬ドン?と悠長に考え事をしている。
私達の間には色めいたものがないのだと、この反応を見れば手に取るように分かった。
触れている私自身も、緊張をすることもないし、そういう意味での愛しさなどわかないし。むしろ昔から何故だか触れることに忌避感すら抱いてるくらいでした。

「だからって言われた通りにしなくてもいいのに」

はあ、と気が抜けたような溜息をついて身体から力を抜き、壁に寄りかかる。
そんなこの子を見下ろしながら、どうしようか、やめようかと悩みました。
これから取れる行動はいくつもある。パッと手を離してしまってもいいし、動物でも相手するようにしてやってもいい。私の意志次第でどうにでもなる。
──それをわかっていながら、自分の意志でこれを選ぶ。
ぐっと頬に触れる手の平に力を入れる。困惑と緊張がなくなったせいで緩み、落ちた視線を合わさせました。

「……必要だと思ったからするんです」
「必要?恋人みたいなことが?」

意味がわからないと本気で困惑していました。私達の関係を表すために使える言葉は星の数ほどありましたが、恋人ほど不適切なものはありません。
家族、腐れ縁、友人、昔馴染み、顔見知り、同郷、色んなものがあるけど、男女の仲というには距離が遠いし、お互いに性別の意識をあまりしていない。
していたなら、幼い頃ならともかくとして、思春期のあの時期に一つ屋根の下、あんな平気な顔をして過ごせなかったはずです。

「……これ、やって何になるの?」
「……わかりません」
「…わからないのに必要って思ったの」

こちらの意図がよくわからないで困っている。
私の方も上手く説明が出来ず困っていました。何になるかはわからない。何のためなのかもわからない。
衝動だけで動くのが得策だとは思えない。直感に従うだけの生き方などいつか破綻する。
…そうです、これはただの直感です。こうした方がいいと、掴んで離さないでいた方がいいと、今すぐにでも繋留めなければならないと頭のどこかで言っているのです。
──裏を返せば、この子はどう足掻いても傍には留まっていないのだと言う現実を私に知らしめる囁きでした。
必死になるほど、毎回この子との間に深くある溝を生々しく突きつけられるのです。

恋人?夫婦?家族?違う。全部間違っていた。これのどこが親密なヒトなんでしょうか。
縁はあるかもしれない、同郷かもしれない、それだけはいつまでも覆らない。
それでも、間違っても親友にはなれない。友人とも言えない。
こんなに長い間誰よりも傍にいてです。こんなに長い間たくさんの言葉を交わしてです。
決してこの子も私のことを嫌ってはいないだろうに。
じゃあそこにあるのはなんだろう。嫌悪でないなら無関心か。どうしてなんでしょう。
沢山の人が囃し立ててきたみたいに、傍から見てそう感じるんだと言うならばなおさら。
何か色濃い情があっておかしくないはずでしょう。
なのになぜこの子にはそれがなく、私自身にも歪んだ執着以外のものがないのでしょうか?
これからもずっとこのままでいる?付かず離れず傍にいて、いつかは距離が開いていく。
どうしようもないくらいの深い溝ができて、私達は離れ離れになる。
そうしたらもう二度と届きはしない。
…そんなことは。


「………どうしても許せない」

縋るように、その身体を抱きしめました。
頬だけでなく芯まで冷えているようで、この子の全身からは凍るような冷たさが伝わって、それがまた恐ろしくて肌が粟立つのを感じていました。なんでこんなにも恐ろしいんでしょう。
触れてやれと散々言われた通り、触れてやりました。それが何だというんでしょう。どうだというんでしょう。私は決して幸福になどなれませんでした。
私達は恋人ではないけれど。ヒトとヒトが触れあうことが幸福なことだと言うならば、今私は満ち足りているはずでしょう。つくづく思うようにはいかない。
抱き込んで顔も見えなくなったこの子は、動揺で咄嗟に声を上げることもなかったので、どんな気持ちでいるのか察することは出来ませんが。

「…なに、が」

驚きでひっくりかえったような声で問いました。
何でこんなことをするのかという問いでもあっただろうし、何がほしいのかという問い掛けでもあったのでしょう。

「……留められるだけの、情がほしい」

留める腕に力をこめる。骨を軋ませないよう、皮膚を裂かないように丁重に扱っている自分の滑稽なこと。
こんな腕の一本や二本でほしいモノが手に入るはずもないのです。
ねだるような言葉一つで心動かされてくれるはずがないのです。
わかっていて聞き分けよく出来ない自分はまるで幼いまま。ここに進歩も変化もない。
この子は返事かわりに、すぐに行動でその意志を示しました。

「……あ、ご、ごめんつい」

ドンと強く突き飛ばされ、両腕が解けて距離ができる。
その程度の力で足元がフラつくことはなかったけど、意識的に一歩退く。
無意識に衝動的にやってしまったらしく、乱暴なことをした自分に困惑しているようでした。
荒々しく伸ばしてしまった自分の両手を不思議そうに眺めている。
本人には自覚がなくても、私にはそれがこの子の本心だとみてとれます。

この子は私の「家族」という宣言の裏にある薄っぺらさも無意識に見抜いていたし、きっと私の今の行動の裏にある物も感じ取っているのでしょう。
そうして逃れようとする度私は執着するけれど、昔見透かされた時のように、今度こそは面白いとは思えない。
ただどこからか焦燥感がわいて出て落ち着かない。
その違いはなんでしょう。早く早くと急かされているような心地になるのはなんででしょう。

「……ねえ…もしかして、寂しいの?」
「……さみしい?」
「昔からたまに、許せないとか言ってたね。そういう風な顔して」
「…どういう顔ですか」
「えーと、焦ったような…?」
「…焦ってましたか?」
「うん、たぶん…」

少し自信がなさげなのは、能面だとかチベスナとか、散々言われ続けているこの変化ない人相のせいでしょう。
なんとなくは機微を感じ取っていても、完全には確信が持てないらしい。

「…違います」
「…うん?なにが」
「私って子供でしょう。大人げなくて」
「…うんって言ってもいいの?怒らない…?」
「さあ」
「さあじゃなくて…」

天邪鬼に振り回されて困り顔をしている。
振り回している自覚がありながらこういう口ぶりを繰り返して、ここもまた進歩がない。
図体と知恵ばかりが発達しただけに過ぎないように感じます。

「こんなの子供じみた我儘なんだって、とっくの昔からわかってます」
「…ええと、そう、大人っぽくはないから…だから寂しいのかなって思ったんだけど」

子供のような行動、衝動、表情をしていると言われているのだろう。
言葉を選びつつも、しかし失礼さは隠しきれず、やってしまった…と唸りながら額に手を当てていました。

「…寂しいとか、思えたら苦労してない」
「なんの苦労をしてるの…」
「途方もない苦労」

とても難解なものに苛まれていると、我が事ながら思います。
きっとこの子には微塵の理解も出来ないのでしょう。こちらを見あげる瞳は困惑で揺れていました。

「傍にいなければ寂しいとか、恋しいとか。そんな風に言えたなら苦労しなかったのに」

参ってしまいました。進歩がないのは私の精神もだし、このどん詰まりの欲求もです。
ハリボテの繋がりではいつかは断たれてしまう、ならば何か決定打になるものをと思いながら過ごして、あれから何も得られることがない。
──けれど停滞することは許さないし、許されない。
今度こそ私が手を伸ばして、その拳の中に納めなければならない。掴んで、離さないで済むように、自分で。

「ただ、あなたがほしいだけなんです」

──その手段が見つからないままならば、ただダダコネのようにこう口にした所で、この子が手に入る訳がないのでした。


2019.1.17