第五十五話
3.地獄憔悴と停滞


目元を真っ赤にしながら憔悴して帰ってきた姿をみて、一体何事かと身構えました。
震える声で吐露された事情を聞くも、私は彼女の悲しみに寄り添うことは出来ず、
それどころか「清々した」とさえ思う始末だった。
流石にこの子に向かってそれを言う気は今もこれからも一切ないけど、悲観的になる所かとても気分がいい。ようやく解放された気分だ。
縛りが解けたのはこの子の方なのに、軽くなったのはこちら。どうしてこんなことになるのやらと、その点は憂鬱になる。

「悲しいことでしたね、私も無念です」と嘘でも慰めることもできず、無言でこの子の頭を手の表面だけで撫でた。
小突いたり蹴ったりといったじゃれ合いなら平気だというのに、意図して触れようとするとどうしても強張る。
未だに苦手意識が払拭できなくて、いつまでもぎこちない。

「…これから大変ですね」

しかし、これだけはうんざりと口に出してぼやかずにいられない。
きょとんとしてこちらを見上げるこの子は何もわかっていないけど、"この子が関わって神が消滅した"という事実はこの子が思うよりも重い。周囲はその言葉通りに受け取ってはくれないだろう。

「…あなたは、神を殺してきたんでしょう」
「…ころす…」
「聞こえが悪いでしょう。けど多分どうやったって一緒なんですよ。神は想いを受け取ることを拒絶して、あなたはそれを見送った。どんな事情があっても、結果的にあなたが殺したという風に見られるんです」
「……それ、知ってたんだ」
「噂くらい届きました。お喋りな性質の神は多いから」

ある日から、たまに耳にするようになった信仰がなんたらという話。
お喋りな彼女らと何度かすれ違えば、断片的な会話達を繋ぎ合わせて、一つの答えを出すことは容易いことでした
探らずとも自然に手に入るような情報だった。だとしたら今回のことが広まるのも早いだろうと予想できる。
経緯や事実がどうあれ、周囲にとってはどちらでもいいのだ。
今回の件でこの子が何の罪に問われることはないけど、世間の目は硬質なものに変わる事もあるだろうと予想できました。もちろん無関心で無頓着な者だっているでしょう。
地獄の鬼は腕っぷしが強く残酷で居られてナンボという所があるので、むしろその度胸と神経を称賛されることもあるかもしれません。
その反応はどんな種類でもいい。普段通りではいられなくなるということが問題でした。

…まったく仕方ない。あの男神はお人よしのこの子にとってはともかく、私にとっては最後まで厄介事ばかり生み出す禍の元でしかなかった。
私が自らの手で縛りたいと思い苦節して来たものを、アレは容易く縛り付け続けていたのだ。腹立たしくも思っていた。羨ましくも思っていた。この手法は私には絶対に取れないのですから。
やっと解放されたと思えば嫌な置き土産を残していくなんて、最後まで憎たらしい。



「みろ、あれが神殺しだ」

予想通り、囁かれるようになった言葉がこれだった。
あの世にいるのは気が長いものばかりなのだ。きっと百年経っても消えない、忘れられない、誰かの口から口へと続けられる噂話になる。
神殺しとか、妖怪殺しと聞くと大層な話に聞えるけど。
想いだけで神を殺したこの子を強いと捉えて恐れるか、思いがなくなっただけで殺されたあの神を脆弱と捉えるか、二つに一つの簡単な話のはずだ。
「彼がその程度の弱いものだった」と結論を出されたのであれば…もしくはこの子を強いと捉えてくれたのなら、単純かぎてあっさりと忘れ去られただろうに。
物々しく解釈する余地があれば、いくらでもアレだコレだと言い続けることができた。
私は囁きを耳にして苦笑している子を見下ろしました。
何も聞こえなかったかのように今も閻魔殿を闊歩しているけど、この子は耳がいい方だからあのくらいなら容易く聞き取れる。

「目立ちますね。それも悪目立ち」
「……うん」
「いっそ隠居生活でもしてみますか?」
「隠居するような年なのかなあ……あーうんそうかなあ…」

わざわざひーふーみーと指折り数えなくても、果てしない時を過ごしてることはとうに分かっていること。
上には上がいるとはいえ、下と比べたら遥かに私達は年寄りでした。

隠居と言われてこの子が否定しなかったのは、神殺しと呼ばれ初めてから散々なことが起こり続けてきたからでしょう。
その名が広まることで一番関心を寄せるのは誰か?もちろん鬼でも妖怪でも亡者でもない。その同族達だ。
誰が恐れ多いことを成し遂げたかと、ひっきりなしに見物客がやってこようとした。
二割が鬼や妖怪。八割が天国地獄そこかしこからやってきた神々。
神殺しという名を聞いて震えあがるのも怒りを覚えるも同族である神々のはずだろう。
しかし実際に会ってみれば神は破顔した。
いえ、微笑ましそうに表情を綻ばせたり、憐れんで目を伏せたり、瞳を輝かせてたり、実際は様々でしたけど。いつも通り大抵好意的でした。
反応はいつものことと言えばいつもの事でも、何かしらの理由をつけてひっきりなしに見物にこられるとなると、この子も困るようになっていた。

この子が彼らの関心を引くのはなぜだろう。この子の他と違う体質の根源はなんだろう。
なんにせよ、長い間あの子を縛っていた神が殺されてくれた…自滅してくれたのです。
再び同じことを繰り返すなんて冗談ではない。

──女たらしの憎たらしい神は、この子を目に入れると、驚いたように目を丸くした後、すぐに嬉しそうに笑みを深めた。
いいもの見つけた!と言わんばかり表情を輝かせたあと、少し憐れような視線を向けたこともある。つまり複合型だったということ。
アレはきっと出会えば一直線に盲目に求愛するだろうなと思ってたので、憐みを見せたのを目視した時、少し意外に思っていました。
みんながみんなこの子を憐れむ訳ではないし、微笑ましそうにみる訳ではないし、その差異が起こる理由もますますわからない。

「…隠居なあ」

復唱しながら仰々しい響きに苦笑をしつつも、それに近い形を取ろうかと考えているらしい。
この子も少しでもほとぼりか冷めてくれたならホッとすることでしょう。
私も隠遁でもなんでも、引込められてそれで安心だ。
安定だ。安全だ。彼女は害されないしもう縛られない。そうやって保っていられる。今度こそは私が繋ぎ留め縛るのだと安心して意気込める。

「いいかもねえ」

──違う、いいずがない。それはただの停滞だ。そうしているうちに掠め取られる。
気が緩んだ次の瞬間、強烈な危機感と共に警戒心がわきだす。
冗談っぽく言って、くすくすと空元気で笑うその子を見下ろした。
……これは私が繋ぎとめておきたいものです。留めたいもの。傍に置きたいもの。手に入れたいもの。ずっと執着しているもの。手離せるはずがない。
これで一息つける?そんなはずがない、冗談ではない。掠め取られるなんて。


「…許せるはずない」

仕事に戻るといってこちらら手を振り踵を返し、遠ざかって行くあの子の背中を見送った。
曲がり角を曲がってついに姿が見えなくなった頃、ぽつりと呟きました。
共に暮らしていれば大昔から同じ冷やかしばかりを受け、同じような認識を受け、
ここ最近になってからは少し種が違う目を向けられながらも、相変わらず変わり映えしない日々が続いていた。

──しかしここに来て、大昔から続いていた流れが変わりました。途絶えました。大きな変化が訪れました。
ずっと変わらなかった日常が大きく変わった。きっとここが分岐点なんでしょう。
あの子の心境も、纏う空気も、男神が消えたことでどこか変わったことが分かる。
悲しみに打ちひしがれすぎたのでしょうか。深く思う所があったのでしょうか。
どちらにせよ、何にせよ。
私は変わらずあの子に手を伸ばす。同じことは繰り返さない、諦めたりしない。許してなるものか。

じゃあ、今度こそ、どうしましょう?



「鬼灯くんって」
「…なんですか」
「ほしいものはないの?」
「私の部屋が散らかっているは知ってますよね」
「そうだね、ほしいもの買うお金もあるもんね」
「じゃあなんで聞いたんだ」
「んー…なんとなく」

なんとなく、なんとなく色々な物事が変わっていく。
私だって始めはなんとなくの気まぐれでこの子と共にいようとしたのです。
なんとなく口にした言葉が、本当に取るに足らないもモノであるとは限りません。

「今日は珍しいことしていましたね。いつも夜に麺類なんて食べないのに」
「んー…なんとなく気分で?」
「…曖昧ですねえ」

食堂で相席をしていつものように食事を摂った帰り。他愛のない話を繰り返しながら歩きました。
この子は自室のある寮へ向かう道へ。私はこの子が確かに散らかっていると頷いた自室のある方面へ。
雑談の一環として、恐らくこの子はただのなんとなくで。
「ほしいものはないのか?」とほしいモノから聞かれた。


「…私は」

「あなたがほしい」なんて、この時咄嗟に睦言のような言葉を続けたなら、それがおかしくてこの子は笑って、そのまま流されて終わりだったかもしれない。
しかし私はここで躊躇った。ごくんと喉の奥にしまいこんでしまった。
…このまま押し黙り続けてもよかったはずです。なんでもないと誤魔化してもよかったはずです。
でもそれは許されなかった。
この時を逃してはならないと、頭のどこかで警鐘めいたものが鳴り響くのです。ガンガンと煩くて頭が痛い。
その子は私を見上げたまま、黙ってしまった私の言葉の先を待ち続けていて、不思議そうにその瞳を瞬かせている。

私はゆっくりと、少し乾いた唇の隙間からどこか歪な声をもらしました。

2019.1.16