第五十二話
3.地獄昔話

一週間も、二週間も、一ヶ月も。ついでに言うと一年も二年もあっという間に過ぎていく。
気が付けば前回訪れた時からひと月が経とうとしていた。
私は慣れた道を歩いて、色鮮やかで繊細な柄を草原の上に見つけて、慣れたようにそれを拾って山奥へ足を踏み入れた。



「これって私専用なんだね」

門を潜り、中にいた男神に木板を手渡しながら言った。
今日は木陰に座って読書していたみたいで、彼の傍らに本が山積みになっていた。
木板は毎回柄も色も変わっているけど、触れるのも躊躇うくらい上品で上質だということは共通している。
昔のように荒々しい風に吹かれて境内へ押し込まれることも、押し出されることもなく、私は安定した一歩で踏み込んで、相手もそれを穏やかに迎え入れる。
…あれ。もしかしてこれって気に食わない私を誘い入れるための罠として仕掛けたものだったのかもしれないと、今更嫌なことに気が付いてしまった。
神様なら…自分の領域内であるならなおさら、対面しなくても踏み入れた者の存在を感知出来るのかもしれない。
気に食わない目障りな者がやってきたぞと、あの日事前に分かっていてやったんだろうか。
思い至ってしまったそれを話すと、男神は顔を顰めた。

「違う。わざわざ落としておくなんて、そんな不毛な事はしない」
「じゃあなんで?なんか変なの」

落としておくことが不毛だと言うなら、なんで繰り返すんだろう。
はあと珍しく荒く息を吐いて本を手放す。木の幹に背を預けていた男神は膝を立てた。

「放ったって自然発生している。そういうくだらない、お前が言う変な理由のせいで俺は祀られている」
「…ふーん」

心底心外そうに言って膝の上で頬杖をつくから、それ以上は追及しないで置いた。苛立っているのが手に取るように分かる。
言葉の端々から断片的に察する事はあっても、彼の成り立ちのような物を直接吐露されるのは今が初めてだった。
詳細が気にならないと言えば嘘になるけど、私は彼の過去が知りたいのでもない。
相手の過去を重要視して過ごしてはいない。それは相手だって同じだ。
知らないままでも事足りるのだ。あくまで今現在を共有して過ごすだけの仲だった。
いくら親しく話せるようになった所で友達とは違うし、だからといって敬虔にしてもいない。どこかあやふやで線引きされた関係を築いていた。

「なんか、無用心だなと思ってた」
「お前以外に見えないのに用心も何もない」
「そうだね。踏まれててびっくりした」

へえ、と興味がなさそうに相槌を打っていた。本当に煩わしいだけで、これに愛着など少しもないんだろう。
美術品に目がない者であれば目を輝かせるものだろうと思うし、作りが繊細で美しいから、売れば高値をつけられるだろうと思う。彼以外の多くのものにとっては価値を感じさせる造りなのだ。もったいない。
どういう理屈でそうなっているのか分からないけど、私以外には視認できないとなると、どうやったって宝の持ち腐れになってしまうだろうけど。
価値がどうたらこうたらと考えれると、連想してしまうのはあの美しい女性の顔だ。

「この辺にあんなに綺麗な女神様が来るんだね。華やかで鮮やかで綺麗な履物、綺麗な簪、綺麗な着物」

山に入るには適さない装い。けれど彼女が慣れていると言っていた通り、しっかりとした足取りで歩いていた。
価値あるものになりたかったと言いつつ、私を価値あるものだとして羨んだ。
もう二度と会うことはないかもしれない。地獄も天国も広いから。
現世の神様が気まぐれに遊びにきていたのかもしれないし、そうだとしたら今後の遭遇率はもっと低くなる。

「……え、あ、まさかあの後心中?」

死にたかったなんて言って泣いて…としんみり思い浮かべてハッとした。
私はあの時人里のある方…来た道を帰ろうとしていて、彼女はそれとは真逆の、もっと奥深くへと足を踏み入れていた。
男神の社があるのともまた別方向の、険しい区域だ。
あの口ぶりだと一緒に遂げたい相手がいたんだろうけど、それも諦めてしまったようだし。
共に死ねなかった後悔で泣いていたなら、向かう先は希望か絶望か生か死か。
一人で生きるか一人で死ぬか。残るかのか消えるのか。
現世の者もあの世の住民もみんな背負っている宿命、両極端なもの。

「なんの話だ」
「いや…」

つい大きな独り言を零してしまった私の方を、己の膝にもたれながら気怠そうに見た。
まだご機嫌は斜めそうだけど、さっきよりは幾分かマシになっているようだ。
人様の事情をベラベラと喋って良いものか。
けれどここまで思わせぶりなことを言っておいてなんでもなーいと言うのも酷な事だろう。
この状況でそれをしたら絶対に神経を逆なですることになるだろうと予想できる。
この男神、最初に私にしでかしたことから分かるように、穏やかな性根はしていないし、上品な外貌と仕草とは裏腹に、思考回路は荒々しいし両極端だ。乱暴で短気で、子供みたいなひとだった。

「……一緒に死にたかったとか、価値あるものになりたかったとか…なんたら…」

凄く濁したつもりだったけど、だいたい重要な所は話してしまった。
男神は話に興味を覚えて顔を上げていて、今度は私が入れ替わりに顔を伏せて項垂れた。
口が達者になれたらいいのにと思う。繕えないし回らない。私の口は利口な方ではなかった。

「お前は価値あるものだな」
「え」

当然の事のように男神は話した。特別だなんだというのは口を揃えて言われていたことだけど、価値があるないと言うのはまたそれとは意味が違う。
そういう称し方をされると居心地が悪くて仕方なくなる。
まさか彼までそういうことを言い出すとは思わなくて、私はどうしたらいいのか分からなくなった。

「……女神様よりも?」

思わず言ってしまったけど、まさか本当に驕ってはいない。自嘲したみたいなものだった。だってそんなのおかしい。
一介の鬼で、本当は何も特別なものなんて何も持っていないはずだ。秀でた能力もない、華やかな容姿もしていない。万人に愛され求めらるような出来た性格だってしていない。

「女神が自分を価値がないと言ったか」
「……うん」

曖昧に、浅く首肯した。

「神格があるというだけで価値はあるのに」
「…そうだよねえ」

男神自身も自分が価値ある物だと分かって言っているのだ。謙遜など必要ない。そういうモノなのだ。だから祀られている。そうするに値する。
大なり小なり人や鬼には出来ないことが彼らには出来る。

「お前は神格も人徳もないくせに、嫌になるくらい価値がある」
「……なんか刺さる」

特別だの価値あるなどと言われるだけの理由もない。不相応だと私も思う。本当のことなんだけど胸に刺さった。

「価値があればほしくなるのは道理だ」
「……あなたは本当は私なんていらないんでしょう」

嘲るように鼻を鳴らしながら言った男神は、とてもじゃないけど私に好意的なように思えない。
ほしくなんてない、視界に入れるのも煩わしい。
最初の頃なんて絶対にそうだった。途中で心変わりをしてしまっただけだ。
神にとっては必要不可欠な、信仰心に変わるという旨味を見つけた、だから傍に置き続けた。ただそれだけの話だ。
感情的な部分では私のことを受け入れてなどいない。
ある意味利用価値があるからと心変わりをしても、未だに私のことを好意的には見ていない。


「必要にはしている。けれど俺はお前に価値は見出していない」
「…なんか矛盾してない?」
「別に。価値があろうとなかろうと、ガラクタでもゴミでも塵でも無価値なものを必要にする時はあるだろう?」
「ねえ、もう、やだ、ひどい」


思わず顔を覆った。なるほどどういう訳かこの男神は、途中で私という価値も存在意義もない埃みたいなものを必要とするようなった訳か。
思えば口を揃えて百発百中で特別だと好意的にみられることこそがおかしかったのだ。
万人が素晴らしいと手放しに称賛するものなどない。
永く生きていれば散々悪口を言われたこともあったし、称賛されることもあれば酷評される事もあるのは当たり前だったし、ただ否定的なことを言われたからと言ってそれだけで動揺はしないけど。
こんなに冷酷なことを言われるのは初めてだった。彼が悪意なく当然のことのように言ってくる分辛い。
彼は私が苦しそうに悲しそうに背中を丸めて呻いてのを見て、どっと笑いだした。
針の筵だ。公開処刑だ。いじめだ。なんて残酷なことをするんだろう。

「特別だと言われたり、甘やかされたり、価値を見出されたり、手放しにほしがれて、」

指折り数えながら、謡うように羅列していった。

「不相応なものを背負わされて大変だな」

憐れむようなことを言うくせに、少しも可哀そうには思っていないのは察した。
初対面で可哀そうに思わない、甘やかしてはやらないと宣言されたのだ、今さらのことだった。彼が態度を軟化させてくれるかもしれないなんてもう期待していない。
この関係性については現状維持でそれでいい。
いつかこのおかしな縛りが解けたらいいなと期待はするけど。
ただ友人の所にお喋りに来るように足を運ぶだけならなにも気負わないのに。
私もあの世の住人だから気は長いし、長い間通い続けることは苦ではない。縛りなどなくても嘘になんてしない。
私が肩を落としてくたびれているのをみて、彼は付け足した。

「同情しているのは嘘じゃない」
「…可哀そうには思わないって言ったのに」
「身に余るものを甘受していると思う。けれどお前がそれで幸福だとは思わない。哀れだと思う」


どこか言葉足らずでいつも自己完結してしまってる彼のことを、今更理解しようと思う方が間違っているのかもしれないけど、私には到底理解できない物言いだった。

「ただ、それが憎たらしい」

…やっぱり私に好意的でも同情的でもなんでもないじゃないのかなあ。攻撃的というか批判的というか。

「……価値があるひとってああいう女神様みたいなひとを言うんだろうにね」

彼女の人間性…というか神性なんて、あの少しの会話だけじゃ計り知れないけど、
例えばあの美貌や、耳心地のいい声や、洗練された一挙一動だけを見ても価値があると言いきれる。
うんと首肯した。彼は女神の姿を目視していないけど、そのひとが女神なのだと聞けばそれだけで頷けたのだろう。私の口から出た話の真偽は定かではないだろうけど。

「なのにあんな風に笑いながら卑下するの」

なんだか悲しいと言うと、彼はその悲しみには同調はしなかった。けれど。

「神が自分を諦めるなんて、馬鹿なことを」

独り言のように。諦めた女神の姿をまるで見てきたかのように吐き捨てた。

「諦めるのは自分じゃない、自分以外なのに」

忌々しそうに言う割には、表情は穏やかだった。
それを見て、私は驚きで息を呑んだ。視線が釘付けになる。彼は多分美丈夫というやつだけど、大昔から美男美女を見慣れていたせいか一度も見惚れたことはなかったのに。
けれど今だけは視線が離せなかった。だって、珍しい、おかしい、美しい。

「誰かのことなど言えないけど」

彼は穏やかに、一筋涙を伝せていた。顔を歪めることなく、喉を震わせることなく、ただ伝い落とすだけの姿はどこか痛々しいのに、美しかった。
彼は自分が泣いていることに気が付いているんだろうか。
神経が昂ぶった様子もないし、もしかしたらあまりに静かに伝ったものだから、自分でも自覚していないのかもしれない。
…彼は自分のことをいつの間に諦めてしまっていたんだろう。
いつも傲慢で、自分本位で、人を翻弄することに躊躇はなくて。昔から自分が価値ある物、高見にいる者だということを前提にして物を語る。
偉そうというよりは、それが自然に身についているようだった。
初めから持ち物が多かった存在なんだと思う。私のような、生まれついての持たざるモノとは正反対な存在だった。

私は女神様にするように、慰めることも出来なかった。
ハンカチを渡すのには一分もかからない。今回は長く話した方だ。もうそろそろ帰らなければならない時間だとはいっても、それくらいの滞在時間は伸ばしてもよかった。
けれど、表向きは長居しすぎだからという理由で、本当は意図して素気無く去る。
泣き顔など見られたくないだろうという単純な理由だった。
お節介な配慮かもしれないけど。
去っていく私をいつものように素っ気なく見送った彼は、涙を自覚出来たのだろうか。


「…うーん」

やっぱりあの女神様とは因縁があるのだろうなと思う。
ザクザクと枯葉や枯枝、乾いた土を踏みしめながら山を下る。
私も女神様に負けず劣らず慣れたように歩きながら、物思いに耽り続けた。
死にたかったとか、諦めたとか、お互い本当に不穏だ。
けれど、女神様の方には悔いや悲しみといった負の感情が強く見え隠れしたのに対して、男神の方はただひたすらに穏やかだったと思う。
悲しむどころか──

「うれしそうだった」

そうだ。彼は悲しんでなどいなかった。本当に捻くれた人、と茫然と呟いた。
帰り際、横目に入った彼の口元はささやかに笑みの形を作っていた。いつもの意地悪いものとは違って、満ち足りた、幸福そうなものだった。
真っ直ぐではないひと。身勝手なひと。なんだか悲しいひとだ。
交流が始まって何千年が経った今日になってやっと、なんとなく彼についての理解を深めた。
今さらだ、と思う。けれど大昔に知れた所でどうにもならなかったなとも思う。
潔癖そうな彼は誰にも…おそらくあの女神様にだって寄り添って欲しくなどないのだろうし、誰にも涙を拭ってほしくなどない。
ならば彼が初めて見せた弱みに、同情しても共感しても、何もかも意味がなかった。
──何もかも全部。自分本位な彼のことは、きっと誰にも、どうにも出来ないことだったのだろう。

2019.1.15