第五十一話
3.地獄女神


社への入り口はいつも見つからないよう、見えないように木々の中に隠されている。
必ず落ちている木片を拾って、私はまるで切符変わりになっているようなそれを手にして山中に入っていくのだ。
今月は既に通ったため、落ちているあれを拾う必要はない。
けれど落ちっぱなしというのもどうなんだろうと首をひねる。
自宅の鍵を道端に落としておくような無用心さを感じて苦笑する。

たまの休日、いつもはあれやこれやと手を伸ばして気ままに満喫しているけど、珍しく何もすることが思い浮かばなくて、散歩代わりにと男神の社のある山の麓まで歩いて来ていた。
なんとなく興味があったのだ。
あれは常時置かれたままなのかどうかとか。男神が引き入れるつもりのない者が不意に手に取ってしまったらどうなるんだろうとか。気になったら落ち着いていられなかった。
まさか実験などする気もないし、普段閑散としている土地だから、早々にそんなことは起らないのだろうけど。一切合財誰も訪れない不毛の地という訳でもない。
無意味に遊びにきたと知られたら怒るかなあと考えながら、随分と気軽に、初めて予定外に訪れた。


「…あれ」

遠目からでも、あの鮮やかな色はすぐに目に飛び込んできた。
その傍でうろうろ困ったように彷徨い歩いている女性がいるのも見えて、私は驚いた。
山への来訪はあまりない、人通りもないというのに、私が気まぐれを起こした今日という日に限って遭遇するなんてとても珍しい。
あのひとは落し物を見つけてしまって、それをどうしようかと迷っているのかと思った。
私は大昔、あの上等そうな板が落し物だと思ったし、届けようという発想に繋がった。
自分には関係ないし手間だからと無視するのも一つの手だろうけど、困ったような顔をして留まっているということは、彼女は見過ごせない性質だったのだろうと。
用がないなら放置してもいい大丈夫ですよと声をかけようとした瞬間、彼女の履物が木片を踏みつけてしまった。

「あっ!」

思わぬ事態に少し大きな声が出た。
ビクッと肩を跳ねさせ、長い黒髪をさらりと靡かせながらこちらを振り返った。
彼女は私を視界に入れると、涼やかな目を驚きで見開かせる。

「あ…」

そのままか細い声を漏らして、くしゃりと泣きそうに顔を歪めてしまった。
私が踏みつけたことを酷く責め咎めたような形になってしまったと思って、弁解しようとすると、もう一度彼女の足が鮮やかな木板を踏みつけた。
二度も繰り返されればわざと悪意をこめてにじっているのかもしれないと勘繰ったけど、咄嗟に身じろぎした瞬間に踏んでしまった…というような自然な挙動だったようにも見えた。
けれど足の裏に当たった硬質な感触に驚いている様子もない。

何にせよ変なのは、彼女は一度も視線をそれに向けてはいないということだった。
そういえば頼りない様子で視線を彷徨わせていた彼女は、ずっと何か、誰かを探すように遠くに眼差しを向けていた。
こちらを見据えた双眸から、はらはらと雫を伝い落とすのを見て息を呑んだ。
今度は私が驚いて肩を跳ねさせる番だった。

「な、なんで泣くんですか」
「だってあなた、…」

言いたけど言えない。言葉を呑みこむしかない。それ以上が紡げない。そんな姿はなんだか痛々しかった。


「……あの、よかったらどうぞ」

鞄からハンカチを取り出して差し出す。泣いている女性から根掘り葉掘り調査でもするかのように聞いたって仕方がない。じっとそれを見た彼女はうんと小さく頷いて受け取る。
上品な仕草で涙をとんとんと拭って、波が緩やかに落ち着いて来た頃「ありがとう」とこちらへ礼を告げてくれた。
そろそろ落ちついて話せそうかなと思ったから、私は恐る恐る伺うようにしながら問いかける。

「あの、どうしてここに?……もしかして道に迷いましたか」

ここらは過疎地域というか、天国にありながらして自然色豊かな絶景という訳でもないし、何か名所のある観光地という訳でもない。農村がある訳でもなかった。
なんの変哲もない山が聳え立ち、その中に男神が住まう社が隠されてあるだけなのだ。
地獄と天国と現世という三層が出来上がる前は、もうすこし栄えていたんだけど。

「探し物があったから」
「もしかしてそれ?」

足元を指さして聞くと、視線を自分の履物の辺りに下げた彼女はしばらくなにか探すように視線を彷徨わせていたけど、何も見つからなかったようで諦めて元に戻した。

「草っ葉に用事はないわ」
「は、はい」

確かに野花や野草だらけで特別実りもない地だし、私達の真下だってそうなんだけど。そのさっぱりした言い方に肩の力が抜けた。
けれどその言葉で確信を得られた。どうやら何故だか、この切符替わりの木板は私にしか見えていないらしい。
あれから身じろぎする度に、何度も踏みにじってしまっていることにも彼女は気が付いていない。

「お手伝いしましょうか。今日は時間もあるし、私この辺の土地勘がある方なので」

華やかな着物を重たそうに引きずって徘徊する妙齢の女性。
放っておけず提案すると、少し驚いた様子だった。

「あるの?ここの土地勘」
「はい、大昔から通ってるので」
「……いつから?」
「え?ええと、何千年も前から」

言うと、物憂げな様子でそうなの、と言った。伏し目がちになにか言葉を探している様子だった。

「ありがとう、でも大丈夫よ。見つからないから」
「…役不足でしょうか?」
「違うの、見つからないのはもう分かってるの。未練がましく来てしまっただけ」
「…そう、ですか?」

よく分からないながら、ただならぬ事情がありそうだな察して曖昧に頷いた。

「役不足なのは私の方」

すると、もっとただならぬ返答が帰ってきた。
未練がましいとか役不足とか、なんだか重々しい。物々しい。
人様の事情に干渉しない方がいいのかと思うも、後ろ髪を引かれてしまう。
思わず同情して深入りしたくなるような、放っておけなくなる弱々しさや儚さを身に纏っているようだった。
断わられても尚てあっさりと踵を返すことができず、引き下がれない私は再び問いかけた。

「何か、お役目があったんですか」
「え?」
「未練を残すような事があったんですか?」

探し物をしにきたということは、ここに落としてしまった時があったということで。
役不足なのだと言うなら、役に立たとうと奮起した事があったということで。
未練がましいと言うのなら、未練を残すような出来事が過去にあったはず。
この地になにか因縁があるのだろうか。
月に一度しか通っていない私は、なにかここで祭事のような物が行われていても知らないかもしれない。

──この女性は正真正銘の女神様だ。
なにかを悔いているようなので、私はその後悔を聞いた。
一介の鬼がおかしな事をしているなと思う。けれど昔よりは随分種族の間にあった境界線のようなものが薄くなり、よくも悪くも気安くなったと思う。
少なくともあの男神のように乱暴に縛られたり害されたり、無理難題を吹っかけられたりというような事は横行していない。
私の神様相手への特殊な自衛も随分緩くなった。
聞いたって話したくないかもしれないし、神様のお悩みを解決するなんて無理だろうと思うけど。
一かバチかの問いだったけど、目を瞬かせたあとおかしそうに表情を綻ばせたのをみて、それで正解だったのだと悟る。彼女は見知らぬ私にその胸中を吐露した。

「望んでこうなったわけじゃないけど、ここに来たわけじゃなかったけど。それでもお役目を果たせなくて悲しかった」

事情を知らない私に順を追って説明しようとする気はないようで、とても断片的だ。何のことを言っているかは掴めなかった。
再びはらはらと一度止まった涙を零した女性は、きっと分かってもらおうともしていなくて、まるで本当に一人きりで見えない何かに懺悔しているみたいだった。

「あなたみたいに価値あるものになりたかった」

涙に濡れた瞳が私を射抜いた。
私はそんなことを言われるとは露とも思わず、驚きに目を瞠った。
価値なんて本当に突拍子もない言葉だ。
私は自分なんて…と自己卑下こそしないけど、万人に求められるような出来た存在だとも思わない。
けれどそれは女神様の口から出た言葉だ。投げかけられる理由に心当たりがあった。

「…私に、価値があるんですか?」

あらゆる神様に特別だ可愛いだなんだと言われ続けた。自惚れでなく私はどこか特別製らしい。何百と繰り返し言われたらさすがに何かあるんだろうと自覚せざるを得ない。
けれど、対面して、目を合わせた瞬間泣かれて、価値があるからと羨まれたのは初めてのことだった。
そもそも特別であるその所以は未だわからないままなのに、価値があるだなんだと新たに言われても、理解できるはずがない。

「私も、最期まで必要とされたかった」

彼女の口から紡がれるそれら全てはやはり後悔と悲しみの色で染まっていた。
私も、と言うけど、私が最期まで価値あるものとして必要とされたことなどあっただろうか。価値あるものとして、終わりを迎えた何かがあっただろうか。
彼女は初対面の私のどこを見て断言しているのだろう。もしかしたら透視か何か出来るのかもしれないけど不思議だ。

「必要とされて、どうしたかったんですか?」

腫れ物にさわるようにしながら静かにゆっくりと問いかける。
問うた所で私にはどうすることも出来ないのだけど。
まるで懺悔室かカウンセリング室のようになっているなと変な気持ちになる。
けれどそんな風に頭の隅で考え事をする余裕も、彼女が次に零した過激な言葉でなくなる。

「一緒に死んでしまいたかった」

最初、落し物を見つけて対処に困っているひとなのだと思った。
けれど、まさかこの美しいひとが心中を望んでいるなんて思うはずもなかった。
迷子になってしまって途方に暮れているかもしれないとも思った。

話して初めて、因縁の土地で悲しみに潰されそうになっているひとなのだと知った。
今度は心中願望があるのだと知って、私の手には余ってしまうなと冷や汗をかいた。
幸い死についての体験はいくつかあるから、造詣が深い…とも違うけど、同じ目線で死生観について語らうことは出来ると思う。
けれど、自ら死にたいと思って死んだことは一度もないから、彼女の気持ちは理解できないし、何と言葉をかけてやればいいのか分からない。
一つたりとも相手に渡せる手持ちの言葉がない。
彼女自身にも、それはもうどうにも出来ない事のようだった。
嗚咽は止まなくて、私はただ無言で慰めるだけ。
ひとしきり悲しみを雫に変えると、彼女は俯いて小さな両手で覆っていた顔を上げて、私に柔らかく微笑みかけた。

「ごめんなさい、あなたが羨ましくて」

包み隠さず潔く言われた。
私は顔を上げてくれたのにホッと安心して、彼女につられるようにして浮かべた笑顔をそのままぎこちなく硬直させた。そのまま気まずい思いでいっぱいになりながらそろりと聞いてみる。

「…価値があるから?私が特別だから?」
「あら、自分が特別な自覚があったの」

意外そうに目を瞬かせていた。何故、という理屈はわからなくても特別だという事実だけは知っているので、うんと首肯した。

「…まあ、うん、身に覚えがあります…」
「実はわたしも特別なのよ。知ってた?」

苦々しく歯切れ悪く言う私とは対照的に、ふふと笑いを零しながら、彼女は誇らしげにしていた。
私はそれを見て疑問を浮かべた。彼女が特別なのは最初から…それこそ初めて姿を目に入れた瞬間からわかり切っていたから、不思議だった。

「ええと、あの、…あなたは神さまでしよね?」
「そう。でも昔はもっと違う価値があったの」

華やかな外貌と、煌びやかな装飾だけが気付いた理由ではない。
距離があっても強く肌にぶつかってくる、あの神様独特の圧はもう何度も体感したことがあったのだ。
神様だから凄い、偉い、強い。そういうシンプルな要素よりも事実よりも、もっと凄くて特別なもの。私にはそれが何なのか見当もつかない。

「特別な子だったの」

悪戯っ子のように笑う彼女が言ったそれも過去形だった。
なんだかその艶やかな唇が紡ぐ言葉は全て切なくて、語る彼女は儚げで、けれどどこか吹っ切れているような気がした。
…違う。もう何もかもどうにもならないという、ただの諦観なのかもしれない。
叶えられない願いを口にして、何かを酷く惜しんでる。

「聞いてくれてありがとう。わたし、もう帰るわ」
「あ、うん、はい。…その…大丈夫ですか?」

視線を彼女の華やかな足元に落としながら言うと、彼女は気が抜けた表情を湛えてくすくすと笑った。

「昔はこんな場所だらけだったじゃない。昔を生きてたものはみんな慣れてるわ。険しい道だろうと、特に私達は着飾って歩いていたのだし」
「ああ、そうだ。余計なお世話でしたね…なんだかすみません」
「いいえ。優しくしてもらえて嬉しかったわ」

その履物で歩けるのか、着物は重くないか、迎えが来る様子もないけどと心配したけど、確かにそうだなと納得した。
どこか一所に留まって優雅な暮らしを送るということもなく、神様たちは自分の護るべき領域を闊歩していた。行動的なひとであればあらゆる場所を行きかっていたのを知っている。少し縮こまりながら謝ると、子供を相手するように柔らかい声で私を容赦した。

「さよなら」

別れの言葉を短く告げて彼女は背中を向ける。
名残惜しそうする素振りも見せず、この場所への未練など微塵も感じさせない足取りで去っていった。
私が向かう方向とは逆だ。私はその背中が見えなくなるまで見送る。
結局この土地とどういう所縁があるのか、具体的なことは少しも分からなかった。

「…まさかねえ」

ひとつ浮かんだものはある。もしかしてあの男神とただならぬ仲の女性だろうかと。
けれど私と同じくらい浮いた話に縁がなさそうな、引きこもりで厭世的な男神の好い人だなんてと首を振った。
この土地は男神の領域だ。何もない閑散とした場所に唯一ある大きな存在が彼だ。
可能性は十分あると思ったけれど、あの性格を鑑みれば違うんじゃないかなあとすぐにその考えを潰す。

彼は何もかもが嫌になったからあそこに閉じこもって独りきりですごしているのだと、それだけは知っている。
長い月日、けれどほんの短い時間を使って語らい続けた中で、何気なく彼がそう零した事があった。
他のどことも断絶して、私だけを引き入れて、短い時間束縛して語るだけで他に何をするでもなく。
彼は孤立した存在だった。今もこれからも、誰とも寄り添う気はないのだろうと私は感じていた。


2019.1.15