第三十七話
3.地獄─なんとか説
幼なじみの茄子と共に獄卒となってから、暫くが経っていた。
第一補佐官の鬼灯様には、最初こそ対面する度身を固くさせられたけれど、今は程ほどに慣れてきた。
前よりは気軽に、しかし聞き漏らしのないように神経を尖らせながら茄子と共に鬼灯様からの指示を受けていると、向かいから年若い女性がのんびりと歩いてきたのが見えた。
今まで見かけたことがない女鬼だ。片腕に数冊の本と書類を抱えていた。慣れたように歩いているのでおそらく閻魔庁の鬼だろうと目星をつける。
事前に示し合せて合流したらしい、獄卒の一人に書類を手渡し何か話している。
まだ務めて長いという訳でもない。地獄も閻魔殿も広しだ。
見たことがないひとが居るのは当たり前だったけど、慣れてきた今、それなりには把握出来ているつもりだった。
久しぶりに閻魔殿でまったく知らないひとに遭遇して、なんとなく姿が目に留まる。
失礼だけど華がある風貌でもないので、憧れのお香さんの所属する衆合地獄で働いてる女鬼ではないだろう。
腕の中の荷物を軽くして、獄卒のひとりを見送った彼女は、ふとこちらの存在に気が付いたようだ。あっと声を上げて表情を明るくした。
「あ、鬼灯くん」
「えっ!?」
仕事を終えて去っていくことなく、一方的に観察していたひとに振りかえられて、ぎくりと心臓が跳ねた。
不躾に送っていた視線がバレて咎められるのかと思ったけれど、ああ鬼灯様の知り合いかと胸を撫で下ろした。
隣の茄子はそもそも彼女の存在に気づいていなかったので、いきなり見知らぬ女鬼が視界に入ってきて、気が抜けた顔をしている。
近づいてきた彼女をぼんやり見ていたけど。その片手がぽんと鬼灯様の背中に置かれて今度は違う意味で心臓が跳ねて痛かった。
思わず向かいに立っている鬼灯様を見あげたけど、しらりと呆れたように目を細めているだけだ。
このひとの動作は、人と距離が近い女性の自然な仕草だったけど。
鬼灯様には本能的に畏れを感じさせるのか、どれだけ気安い気質を持った鬼でも、無意識に一歩距離を置いてしまうのだ。
鬼灯様を誘惑したいと思っている者でも触れるのは容易い事ではない。
そもそもこのひとの立場が立場なので下手なことはできないのだ。
顔よし収入潤沢という優良な物件なため、抜け駆けはヤメロという女同士の牽制が水面下で行われている事を俺は知っていた。
そんな様々の理由があって、この補佐官様に腹の底から遠慮なく接することの出来る女性は多くいなかった。
暗黙の了解のようなものが浸透しているこの地獄で、こんなに普通で邪気ない女性が気安くしている姿には違和感を覚える。
もしかして見かけに寄らずとても偉い人なのかもしれない。そういうひと達は男女問わず鬼灯様相手にも臆さず対等に接する事が多かったのだ。
しかし彼女は「やってしまった」とでも言う風に口元に両手をあてていて、うっかり失言してしまった(手癖で触ってしまった)という事実を全身で白状していた。
「あの、鬼灯様…この人は…」
「見たことない人だなぁ」
俺の問いに続いた茄子も、見かけたことがなかったらしい。
恐らく向こうも俺達を見て、見慣れない顔だと不思議に思っている事だろう。
思えば茄子は、鬼灯様にある意味構えず気安く接する事のできる数少ない存在かもしれない。
ポカしてボコ殴りにされたことも何度もあるのにそれでも怯まない、恐れを知らないやつなのだ。
俺達から向けられた視線に瞬きをしている彼女の仕草は、なんだか幼かった。
「…ああ、お二人は会ったことがありませんでしたか。このひとは…」
「あ、俺しってるかも!えーと、確か鬼灯様のおねーちゃんですよね」
「は、はあ!?いきなり何言ってんだお前っ」
説明しようとした鬼灯様の声を遮り茄子が放った言葉は、にわかに信じがたいものだった。
いやいやどう考えても違う。初対面の偏見かもしれないけど、この二人からは同じ血を一滴たりとも感じない。
「アッ違ったっけ。親戚の子?幼馴染?それともご近所さん説?」
ぽかんと口を開けた彼女と無表情を崩さない鬼灯様に向けて、茄子はどんどん追撃を放った。
説ってなんだよとツッコミを入れることも出来ないまま、俺はなんとなく挙動不審になっていた。
茄子はあらゆることに頓着をしないので、行動を起こすことに躊躇いがなかった。
度胸があるといえば聞こえはいいが、よくも悪くも後先を考えないやつなのだ。
俺も同じく答えが気になりつつも、鬼灯様に踏み入りすぎて居心地が悪くてたまらなかった。
答えてくれたのは先ほど説明しようとしてくれた鬼灯様ではなく、おかしそうに笑いを零し始めた彼女の方だった。
「えーと…いつも弟がお世話になってますって言えばいいのかな」
「えっ!?ほんとだったんですか!?」
「変な悪ノリしなくていい」
「あ、ごめんね、ついつい」
どっちかって言うとお世話になってるの私の方なんだけどねえ、と眉を下げて呟く彼女に翻弄された。
「え、ええー…」
「つまりどっち?」
悪ノリってことは結局きょうだいではないということか。結局具体的なことがよく分からない。
鬼灯様の周りには…こう言ってはアレだけど、類友的なちょっとした変な人達が集まると思っていたので、毒っ気も特徴もない女性がいると違和感を覚える。
鬼灯様の昔馴染の蓬さんにも烏頭さんにもも強烈な個性があった。
お香さんは綺麗で器量よしな女性だけど、趣味が少しだけ…。少しだけ個性的だった。
彼女ももしかしたら琴線に触れるとどこか豹変する所があるのかもしれない、独特な所があるのかもと思うと思わず身構えてしまう。
「世話なんかしなくても勝手に呑気にぼんやりやってるでしょう。あとさっき見かけましたけど、食堂で居眠りするのやめた方がいいですよ」
「い、今ここで言わなくてもいいのに」
鬼灯様の背中をバシバシと叩いている。自然なスキンシップどころの話じゃないけど、こういうひと達、こういう物なんだろうと受け止めて驚かないように努めた。
恥ずかしそうにはにかみつつ、彼女はこちらに軽くぺこりと頭を下げる。
「なんかごめんね…三人とも、一日お仕事がんばってね」
ばいばいと手を振った彼女はそのまますれ違って、俺達がさっき歩いてきた方へと入れ違いに歩いて行った。その背中が廊下の奥へと消えて行ったのを見届けてから、恐る恐る鬼灯様に聞いてみる。
「…見たことないひとでしたけど、結局どこの人ですか?あ、もしかして獄卒じゃなかったり…他の庁に勤めてるとか」
「ここの獄卒ですよ。あのひとは…一所に落ち着かない時もあるので、あまり顔を覚えられていないかもしれませんね」
「へえ、ミステリアスだなあ。なんか隠しキャラみたい」
「お前あんまりズカズカ変なこと言うなよ…なんだよキャラって」
「いや茄子さんの言いたいこと分かりますよ。意味深に出てきたものの、特に役に立つ訳でもない謎のキャラ」
茄子が妙な方向で捉えはしゃいでるのを窘めるも、予想外に鬼灯様もそれにノってきた。ノったというか、思いもよらない変化球を投げられて頭を抱えた。
…結局あのひとは誰でどういう関係なんだろう。この言い草でますます分からなくなってこんがらがった。
鬼灯様は元人間で、生贄として捧げられ死んだのだという話を聞いたことがあった。
けれどそこに血縁者の話は出て来なかったし、今も否定されたし、じゃあ親しげに接するほどの仲っていったい…
…恋人?いやいやミステリーハンターのお姉さんが好みとか(脳)ミソ汁を笑顔で飲める人がタイプとか言ってたらしいひとだぞ。
あの人からはミステリーをハントしそうな行動力も感じなかったし、脳ミソ汁を飲み干せそうな素養はあの笑顔からは感じられない。
──と、言う話を飲みの席でこそっとお香さんに持ちかけた。
あのお香さんと話をするためのいい口実でもあったし、お香さんも鬼灯様の昔馴染なのだ。
何か知っているかもしれないという個人的な好奇心、どちらの意図も含んでドキドキしながら問いかける。
するとお香さんはうーんと言い淀んで、少し困ったように笑っていた。
「ちょっと言いづらいんだけど」
「え、なにがですか?」
「あの二人、きょうだいでもご近所さんでもないわよ」
「…へ?じゃあやっぱり、昔馴染ってやつだったりしますか?」
「それも近いかもしれないけど、ちょっと違うわねえ」
近いけど違うとはいったい。じゃあ恋人説の方はどうなんですかとはなんとなく聞きづらくて躊躇ったけど、好奇心を殺しきれない。
お香さんともっと話していたいという欲求が躊躇いを消して俺の背中を押し、あと一歩を踏み込んだ。
口実があるためいつもより自然と話も弾み、近い距離で眺められる今はとんでもない幸福な時間だった。
「…も、もしかして……あの二人は恋人ってやつだったり…」
「んー…それも違うわね」
「……あの、それ以外に何があるんですか?」
血縁でも幼馴染でも恋人でもご近所さんでもなければ、もう関係性を表すことが出来なくなってきた。
腐れ縁だとあえて現しそうな捻くれた雰囲気もなかったのに。
「そうねえ、付き合いは長い方だと思うけど…アタシにもわからないわ。あの子…とはずっとお友達なんだけど」
「えっ!そうだったんですね。…でも昔から知ってるお香さんにも分からないなら、誰なら分かるんですか…あ、閻魔様とか」
「本人達にもわかってないんだもの。他の誰にもわかるはずがないわ」
なんということだろう。なんだか親密に見えたから、似ていない血縁なんだと言われてもまぁ納得できたし、どれにでも当てはまるなと思ったのに、どれでもないなんて。
…いやいやなんかあると思うんだけど。ただの顔見知りってことでもないよな何なんだほんと。
アレはうっかりの失言をした彼女への呆れで気が抜けたのもあっただろうけど、珍しく鬼灯様のビシッとした低い声が、和らいだ気がしたのだ。
本人達にもわからない関係って、どれだけ意味不明で面倒臭い関係を築いているんだろう。どこか屈折してる、難解なあのひとらしいと言えばらしい気もするけど。…やっぱり類友なのか彼女の方も。
「あと1000年のうちに進展あるかしらねえ」
「それ気が長すぎませんか…」
「あの二人のことは長い目で見れないと、きっとたえられないわよ」
ふふと面白そうに含みをこめて笑い、お香さんが言う。期待されてる進展というのはやっぱりそういう方面か。
獄卒になって鬼灯様の元で働くようになってしばらく経っても、それでも鬼灯様の昔馴染たちに比べたら俺なんて全然付き合いが浅い。
金魚草に熱を入れているなんていうプライベートや他の独特な趣味嗜好も知っているけど、理解が及ばない所はまだまだ多くある。
長い時間見守ってきた癖のあるひと達でも分からないなら、俺なんかには一生かかっても分からないだろうなと思った。
「それにしても、結構気さくで驚きました。烏頭さんとかは遠慮ないですけど、お香さんもちゃんとしてるし…なんかこう…」
あの鬼灯様に気さくに接するだけならまだしも、背中をバシバシと叩く姿なんて奇妙すぎて。あの仕草に遠慮も何もなかった。
そして鬼灯様も鬼灯様で、それが気に障っている様子もなく、咎めもしない。
あまりに自然に許している様子が俺には異様に映った。
濁した言葉の意図が伝わったらしくお香は苦笑している。
「あの人は…結局あの子に頭が上がらないから。厳しくしようとしても、どこか弛んじゃうのよね、きっと」
「えっ!?鬼灯様の方が!?」
失礼な話、彼女の方がそうであるならまだしも、反対が起るとは思えなかった。
お世話になってばかりだと困り笑していた彼女の姿は記憶に新しい。
鬼灯様のあの独特な個性とペースに呑まれて、彼女も当然振り回されているんだろうと思っていたのに。
女は強しというやつか。母の方が強い家庭みたいな。うちの姉も我が強いから、それだとしたら得心がいく。
生まれ持った気の強さのに加え、姉という立場があいつを益々強くしている。
弟の俺は逆らえない宿命なのだ。
昼間あったあの穏やかな彼女の姿を思い浮かべると、淑やかな姉を持つ同級生を羨ましく思っていた学生時代を思い出し苦々しくなった。
けれどかつて羨望した淑やかな女性を彷彿とさせるあのひとが、鬼灯様に圧をかけている姿なんて想像がつかない。
「こういったら可哀そうだけど…二人とも可愛くて、見ててとても面白いわ」
くすくすと笑うお香さんに悪意はなく、昔馴染みへの柔らかい慈愛だけがあった。
「…そう…なんですね…」
理解が追い付かず、乾いた笑いで相槌を打ってしまった。
そりゃあ振り回されてる所は正直見てみたい。あの鬼灯様がいったいどんな風にぐるぐる翻弄されているというのだろうと好奇心はいくらでもわく。
──だけど、なんていうか、面白いだけでは済まないだろうなと思った。
あの後鬼灯様と別れてから、茄子が言っていた"説"とやらの出所聞いてみたけど、うわぁと引いてしまうような物だったのだ。
微笑ましいとか面白いだけで終わらなそうだと予想ができる。
俺は案外、昔から見てきた友人じゃないからこその客観的な視点で彼らを見れてるんじゃないかと思う。
あの時鬼灯様の声は和らいだ気がしたけど、しかし目だけはいつも以上に厳しかった。
一見じろりと睨んでいるだけ、呆れているだけ。でもなんというか…アレをなんと表せばいいんだろう。わからない。
厳しくしようとしているというお香さんの言葉が脳裏を過った。
…うん、本当に意味がわからない。
こういう所が複雑怪奇だとからかわれている所以なんだろうか。
「……鬼灯様、人気あるんですよねぇ…」
「そうねえ、昔からね。人目を惹くのよね。…よくも悪くも」
「…大丈夫でしょうか」
「ううん…駄目かもしれないわね」
やっぱりお香さんからみても駄目だったかとまた乾いた笑いがもれた。
詳しいことは分からないながら、パッとみただけで何かしら縁があるのだということが筒抜けの関係性。
彼らと親しいひとから直に深堀できた俺とは違って、事情を一切知らなければアレコレと邪推をすることだろう。
茄子が言っていたあらゆる「説」。あれこそがその"邪推"だったのだ。
ずっと昔から居たというのに、最近になって急に噂が飛び交うようになったらしい。
あんな意味深な姿をみれば、鬼灯様を狩ろうと…狙おうと…玉の輿を…
…いや至極純粋に慕っている女子達が反応しない訳がない。
バレンタインの時、沢山の女鬼からチョコレートを投げられていた姿を思い出していた。敵はとても多そうだ…。お香さんも困り笑を零している。
「、急に大人びちゃったから」
ふうと憂いを帯びた息を吐くお香さんは美しくて見惚れる程だった。
一瞬聞き流して理解が遅れてしまったけど、ハッとして頭を捻ってみても、その言葉の真意はわからなかった。
──後から知った話、ずっと幼い体格をしていた彼女が急に随分と大人びて、
鬼灯様の隣に居て釣り合うほどの姿になり現れたために、急激に波紋を広げ始めたというのが真実だったようだった。
3.地獄─なんとか説
幼なじみの茄子と共に獄卒となってから、暫くが経っていた。
第一補佐官の鬼灯様には、最初こそ対面する度身を固くさせられたけれど、今は程ほどに慣れてきた。
前よりは気軽に、しかし聞き漏らしのないように神経を尖らせながら茄子と共に鬼灯様からの指示を受けていると、向かいから年若い女性がのんびりと歩いてきたのが見えた。
今まで見かけたことがない女鬼だ。片腕に数冊の本と書類を抱えていた。慣れたように歩いているのでおそらく閻魔庁の鬼だろうと目星をつける。
事前に示し合せて合流したらしい、獄卒の一人に書類を手渡し何か話している。
まだ務めて長いという訳でもない。地獄も閻魔殿も広しだ。
見たことがないひとが居るのは当たり前だったけど、慣れてきた今、それなりには把握出来ているつもりだった。
久しぶりに閻魔殿でまったく知らないひとに遭遇して、なんとなく姿が目に留まる。
失礼だけど華がある風貌でもないので、憧れのお香さんの所属する衆合地獄で働いてる女鬼ではないだろう。
腕の中の荷物を軽くして、獄卒のひとりを見送った彼女は、ふとこちらの存在に気が付いたようだ。あっと声を上げて表情を明るくした。
「あ、鬼灯くん」
「えっ!?」
仕事を終えて去っていくことなく、一方的に観察していたひとに振りかえられて、ぎくりと心臓が跳ねた。
不躾に送っていた視線がバレて咎められるのかと思ったけれど、ああ鬼灯様の知り合いかと胸を撫で下ろした。
隣の茄子はそもそも彼女の存在に気づいていなかったので、いきなり見知らぬ女鬼が視界に入ってきて、気が抜けた顔をしている。
近づいてきた彼女をぼんやり見ていたけど。その片手がぽんと鬼灯様の背中に置かれて今度は違う意味で心臓が跳ねて痛かった。
思わず向かいに立っている鬼灯様を見あげたけど、しらりと呆れたように目を細めているだけだ。
このひとの動作は、人と距離が近い女性の自然な仕草だったけど。
鬼灯様には本能的に畏れを感じさせるのか、どれだけ気安い気質を持った鬼でも、無意識に一歩距離を置いてしまうのだ。
鬼灯様を誘惑したいと思っている者でも触れるのは容易い事ではない。
そもそもこのひとの立場が立場なので下手なことはできないのだ。
顔よし収入潤沢という優良な物件なため、抜け駆けはヤメロという女同士の牽制が水面下で行われている事を俺は知っていた。
そんな様々の理由があって、この補佐官様に腹の底から遠慮なく接することの出来る女性は多くいなかった。
暗黙の了解のようなものが浸透しているこの地獄で、こんなに普通で邪気ない女性が気安くしている姿には違和感を覚える。
もしかして見かけに寄らずとても偉い人なのかもしれない。そういうひと達は男女問わず鬼灯様相手にも臆さず対等に接する事が多かったのだ。
しかし彼女は「やってしまった」とでも言う風に口元に両手をあてていて、うっかり失言してしまった(手癖で触ってしまった)という事実を全身で白状していた。
「あの、鬼灯様…この人は…」
「見たことない人だなぁ」
俺の問いに続いた茄子も、見かけたことがなかったらしい。
恐らく向こうも俺達を見て、見慣れない顔だと不思議に思っている事だろう。
思えば茄子は、鬼灯様にある意味構えず気安く接する事のできる数少ない存在かもしれない。
ポカしてボコ殴りにされたことも何度もあるのにそれでも怯まない、恐れを知らないやつなのだ。
俺達から向けられた視線に瞬きをしている彼女の仕草は、なんだか幼かった。
「…ああ、お二人は会ったことがありませんでしたか。このひとは…」
「あ、俺しってるかも!えーと、確か鬼灯様のおねーちゃんですよね」
「は、はあ!?いきなり何言ってんだお前っ」
説明しようとした鬼灯様の声を遮り茄子が放った言葉は、にわかに信じがたいものだった。
いやいやどう考えても違う。初対面の偏見かもしれないけど、この二人からは同じ血を一滴たりとも感じない。
「アッ違ったっけ。親戚の子?幼馴染?それともご近所さん説?」
ぽかんと口を開けた彼女と無表情を崩さない鬼灯様に向けて、茄子はどんどん追撃を放った。
説ってなんだよとツッコミを入れることも出来ないまま、俺はなんとなく挙動不審になっていた。
茄子はあらゆることに頓着をしないので、行動を起こすことに躊躇いがなかった。
度胸があるといえば聞こえはいいが、よくも悪くも後先を考えないやつなのだ。
俺も同じく答えが気になりつつも、鬼灯様に踏み入りすぎて居心地が悪くてたまらなかった。
答えてくれたのは先ほど説明しようとしてくれた鬼灯様ではなく、おかしそうに笑いを零し始めた彼女の方だった。
「えーと…いつも弟がお世話になってますって言えばいいのかな」
「えっ!?ほんとだったんですか!?」
「変な悪ノリしなくていい」
「あ、ごめんね、ついつい」
どっちかって言うとお世話になってるの私の方なんだけどねえ、と眉を下げて呟く彼女に翻弄された。
「え、ええー…」
「つまりどっち?」
悪ノリってことは結局きょうだいではないということか。結局具体的なことがよく分からない。
鬼灯様の周りには…こう言ってはアレだけど、類友的なちょっとした変な人達が集まると思っていたので、毒っ気も特徴もない女性がいると違和感を覚える。
鬼灯様の昔馴染の蓬さんにも烏頭さんにもも強烈な個性があった。
お香さんは綺麗で器量よしな女性だけど、趣味が少しだけ…。少しだけ個性的だった。
彼女ももしかしたら琴線に触れるとどこか豹変する所があるのかもしれない、独特な所があるのかもと思うと思わず身構えてしまう。
「世話なんかしなくても勝手に呑気にぼんやりやってるでしょう。あとさっき見かけましたけど、食堂で居眠りするのやめた方がいいですよ」
「い、今ここで言わなくてもいいのに」
鬼灯様の背中をバシバシと叩いている。自然なスキンシップどころの話じゃないけど、こういうひと達、こういう物なんだろうと受け止めて驚かないように努めた。
恥ずかしそうにはにかみつつ、彼女はこちらに軽くぺこりと頭を下げる。
「なんかごめんね…三人とも、一日お仕事がんばってね」
ばいばいと手を振った彼女はそのまますれ違って、俺達がさっき歩いてきた方へと入れ違いに歩いて行った。その背中が廊下の奥へと消えて行ったのを見届けてから、恐る恐る鬼灯様に聞いてみる。
「…見たことないひとでしたけど、結局どこの人ですか?あ、もしかして獄卒じゃなかったり…他の庁に勤めてるとか」
「ここの獄卒ですよ。あのひとは…一所に落ち着かない時もあるので、あまり顔を覚えられていないかもしれませんね」
「へえ、ミステリアスだなあ。なんか隠しキャラみたい」
「お前あんまりズカズカ変なこと言うなよ…なんだよキャラって」
「いや茄子さんの言いたいこと分かりますよ。意味深に出てきたものの、特に役に立つ訳でもない謎のキャラ」
茄子が妙な方向で捉えはしゃいでるのを窘めるも、予想外に鬼灯様もそれにノってきた。ノったというか、思いもよらない変化球を投げられて頭を抱えた。
…結局あのひとは誰でどういう関係なんだろう。この言い草でますます分からなくなってこんがらがった。
鬼灯様は元人間で、生贄として捧げられ死んだのだという話を聞いたことがあった。
けれどそこに血縁者の話は出て来なかったし、今も否定されたし、じゃあ親しげに接するほどの仲っていったい…
…恋人?いやいやミステリーハンターのお姉さんが好みとか(脳)ミソ汁を笑顔で飲める人がタイプとか言ってたらしいひとだぞ。
あの人からはミステリーをハントしそうな行動力も感じなかったし、脳ミソ汁を飲み干せそうな素養はあの笑顔からは感じられない。
──と、言う話を飲みの席でこそっとお香さんに持ちかけた。
あのお香さんと話をするためのいい口実でもあったし、お香さんも鬼灯様の昔馴染なのだ。
何か知っているかもしれないという個人的な好奇心、どちらの意図も含んでドキドキしながら問いかける。
するとお香さんはうーんと言い淀んで、少し困ったように笑っていた。
「ちょっと言いづらいんだけど」
「え、なにがですか?」
「あの二人、きょうだいでもご近所さんでもないわよ」
「…へ?じゃあやっぱり、昔馴染ってやつだったりしますか?」
「それも近いかもしれないけど、ちょっと違うわねえ」
近いけど違うとはいったい。じゃあ恋人説の方はどうなんですかとはなんとなく聞きづらくて躊躇ったけど、好奇心を殺しきれない。
お香さんともっと話していたいという欲求が躊躇いを消して俺の背中を押し、あと一歩を踏み込んだ。
口実があるためいつもより自然と話も弾み、近い距離で眺められる今はとんでもない幸福な時間だった。
「…も、もしかして……あの二人は恋人ってやつだったり…」
「んー…それも違うわね」
「……あの、それ以外に何があるんですか?」
血縁でも幼馴染でも恋人でもご近所さんでもなければ、もう関係性を表すことが出来なくなってきた。
腐れ縁だとあえて現しそうな捻くれた雰囲気もなかったのに。
「そうねえ、付き合いは長い方だと思うけど…アタシにもわからないわ。あの子…とはずっとお友達なんだけど」
「えっ!そうだったんですね。…でも昔から知ってるお香さんにも分からないなら、誰なら分かるんですか…あ、閻魔様とか」
「本人達にもわかってないんだもの。他の誰にもわかるはずがないわ」
なんということだろう。なんだか親密に見えたから、似ていない血縁なんだと言われてもまぁ納得できたし、どれにでも当てはまるなと思ったのに、どれでもないなんて。
…いやいやなんかあると思うんだけど。ただの顔見知りってことでもないよな何なんだほんと。
アレはうっかりの失言をした彼女への呆れで気が抜けたのもあっただろうけど、珍しく鬼灯様のビシッとした低い声が、和らいだ気がしたのだ。
本人達にもわからない関係って、どれだけ意味不明で面倒臭い関係を築いているんだろう。どこか屈折してる、難解なあのひとらしいと言えばらしい気もするけど。…やっぱり類友なのか彼女の方も。
「あと1000年のうちに進展あるかしらねえ」
「それ気が長すぎませんか…」
「あの二人のことは長い目で見れないと、きっとたえられないわよ」
ふふと面白そうに含みをこめて笑い、お香さんが言う。期待されてる進展というのはやっぱりそういう方面か。
獄卒になって鬼灯様の元で働くようになってしばらく経っても、それでも鬼灯様の昔馴染たちに比べたら俺なんて全然付き合いが浅い。
金魚草に熱を入れているなんていうプライベートや他の独特な趣味嗜好も知っているけど、理解が及ばない所はまだまだ多くある。
長い時間見守ってきた癖のあるひと達でも分からないなら、俺なんかには一生かかっても分からないだろうなと思った。
「それにしても、結構気さくで驚きました。烏頭さんとかは遠慮ないですけど、お香さんもちゃんとしてるし…なんかこう…」
あの鬼灯様に気さくに接するだけならまだしも、背中をバシバシと叩く姿なんて奇妙すぎて。あの仕草に遠慮も何もなかった。
そして鬼灯様も鬼灯様で、それが気に障っている様子もなく、咎めもしない。
あまりに自然に許している様子が俺には異様に映った。
濁した言葉の意図が伝わったらしくお香は苦笑している。
「あの人は…結局あの子に頭が上がらないから。厳しくしようとしても、どこか弛んじゃうのよね、きっと」
「えっ!?鬼灯様の方が!?」
失礼な話、彼女の方がそうであるならまだしも、反対が起るとは思えなかった。
お世話になってばかりだと困り笑していた彼女の姿は記憶に新しい。
鬼灯様のあの独特な個性とペースに呑まれて、彼女も当然振り回されているんだろうと思っていたのに。
女は強しというやつか。母の方が強い家庭みたいな。うちの姉も我が強いから、それだとしたら得心がいく。
生まれ持った気の強さのに加え、姉という立場があいつを益々強くしている。
弟の俺は逆らえない宿命なのだ。
昼間あったあの穏やかな彼女の姿を思い浮かべると、淑やかな姉を持つ同級生を羨ましく思っていた学生時代を思い出し苦々しくなった。
けれどかつて羨望した淑やかな女性を彷彿とさせるあのひとが、鬼灯様に圧をかけている姿なんて想像がつかない。
「こういったら可哀そうだけど…二人とも可愛くて、見ててとても面白いわ」
くすくすと笑うお香さんに悪意はなく、昔馴染みへの柔らかい慈愛だけがあった。
「…そう…なんですね…」
理解が追い付かず、乾いた笑いで相槌を打ってしまった。
そりゃあ振り回されてる所は正直見てみたい。あの鬼灯様がいったいどんな風にぐるぐる翻弄されているというのだろうと好奇心はいくらでもわく。
──だけど、なんていうか、面白いだけでは済まないだろうなと思った。
あの後鬼灯様と別れてから、茄子が言っていた"説"とやらの出所聞いてみたけど、うわぁと引いてしまうような物だったのだ。
微笑ましいとか面白いだけで終わらなそうだと予想ができる。
俺は案外、昔から見てきた友人じゃないからこその客観的な視点で彼らを見れてるんじゃないかと思う。
あの時鬼灯様の声は和らいだ気がしたけど、しかし目だけはいつも以上に厳しかった。
一見じろりと睨んでいるだけ、呆れているだけ。でもなんというか…アレをなんと表せばいいんだろう。わからない。
厳しくしようとしているというお香さんの言葉が脳裏を過った。
…うん、本当に意味がわからない。
こういう所が複雑怪奇だとからかわれている所以なんだろうか。
「……鬼灯様、人気あるんですよねぇ…」
「そうねえ、昔からね。人目を惹くのよね。…よくも悪くも」
「…大丈夫でしょうか」
「ううん…駄目かもしれないわね」
やっぱりお香さんからみても駄目だったかとまた乾いた笑いがもれた。
詳しいことは分からないながら、パッとみただけで何かしら縁があるのだということが筒抜けの関係性。
彼らと親しいひとから直に深堀できた俺とは違って、事情を一切知らなければアレコレと邪推をすることだろう。
茄子が言っていたあらゆる「説」。あれこそがその"邪推"だったのだ。
ずっと昔から居たというのに、最近になって急に噂が飛び交うようになったらしい。
あんな意味深な姿をみれば、鬼灯様を狩ろうと…狙おうと…玉の輿を…
…いや至極純粋に慕っている女子達が反応しない訳がない。
バレンタインの時、沢山の女鬼からチョコレートを投げられていた姿を思い出していた。敵はとても多そうだ…。お香さんも困り笑を零している。
「、急に大人びちゃったから」
ふうと憂いを帯びた息を吐くお香さんは美しくて見惚れる程だった。
一瞬聞き流して理解が遅れてしまったけど、ハッとして頭を捻ってみても、その言葉の真意はわからなかった。
──後から知った話、ずっと幼い体格をしていた彼女が急に随分と大人びて、
鬼灯様の隣に居て釣り合うほどの姿になり現れたために、急激に波紋を広げ始めたというのが真実だったようだった。