第三十二話
2.あの世神嫌い

帰路に就こうと歩く足が自然と重たくなった。
なんとか歩を進め、我が家へと帰ったとき、見えたのは黒い着物を纏った見慣れた後ろ姿だった。
振り返った時に見えた荒んだ形相にはびっくりしたけど、正直予想はしていた。
縮こまりながら室内に入る。
恐る恐ると、煎餅蒲団の上であぐらをかいている鬼灯くんの傍に歩み寄った。


「……あれから、何日経った…?」
「二週間」


言った瞬間、鬼灯くんが手に持っていた湯呑が割れたのを見て、私は無言で布巾を取りに奥へと向かった。
鬼灯くんの手からぼたぼたと茶が滴り落ちている。りんごも軽く潰せそうな握力だ。末恐ろしい。
さくさくと手から床から水分を取り除いていく。湯呑の破片は鬼灯くんが自分でパパッと片つけてしまった。
目に見えて不機嫌だ。手に取るようにわかる剣呑さだ。
怒りを直接向けられているのは私ではないとはいえ、内心悲鳴を上げるほど刺々しいものだった。
…心配することはあっても、鬼灯くんがそこまで怒るようなことかなあと一瞬疑問に思ったけれど、殺されかけたのは事実。
しかも私が消えず今も生きているのはただの僥倖で神の気まぐれ。
これは穏やかではいられないような事態なんだよねと改めて思い直しながら、濡れた布巾を絞る。
喉元過ぎれば熱さ忘れるというか、私はそろそろ落ち着いてきてしまったんだけど。
こうなってしまったならもうやるしかないと前向きに腹を括ったというか。
それにしたって少し様子がおかしいような気がして、あらかた片付けを終えた後、ちらりと彼を見あげてみる。


「…もしかして、って思ってたんだけど」
「はい?」
「鬼灯くん神様きらい?」
「当然でしょう」


さらりと即答されて、ああやっぱりなと思った。
「ああ、サクヤ姫などは別ですよ」と丁寧に訂正された。けれど、一部の神様のもつ性質が嫌いなんだろうなと納得した。
サクヤ姫はとても穏やかで、理不尽なことをしそうにない。
彼女のように、みんながよく思い描く神様らしい神様というのも存在する。

けれど、力あるものが必ずしも穏やかにソレを振るうとは限らない。
嵐のように荒々しく力を行使する神なんて、お近づきにはなりたくない。当然の心理だ。
圧倒的な力によって押さえつけられ、嘲るように笑われ、束縛されることは鬼灯くんにとっては理不尽な事で、恥辱なのだろうなと思う。
鬼灯くんが直接害された訳ではないけど、身近でこんなことが起これば不愉快にもなるものか。
私はといえば、辛い怖い痛い嫌だと子供のようにシンプルな悲鳴を上げるだけだった。
誰だって辛いことなんてされたくはないし、酷いことをされたら怒りも湧く。
けれど特に、負けず嫌いなこの子とは相性がとても悪いんだろう。
怒りを通り越して憎悪に近いものを孕んでいそうだった。
煎餅布団がお茶でダメになってしまったので冷たい岩肌に直に腰を下ろしているけど、その身体が強張っている気がするのはきっと冷気のせいだけではあるまい。


「彼ら全てをひとくくりにする程盲目にはなっていません」
「うん」
「…でも、横暴な神は嫌いです。こちらを害するものを好きになれなんて無理な話」


敵と決めたらとことんまでやる。やられたらきっちら報復する。強い意志をこめて、言葉、身体、行動で徹底した拒絶を示すのが彼だった。
そういう彼の姿を見ても苦笑するだけしか出来ない。


「迷惑かけてごめんね」

いきなり失踪したり、宣言して出かけてもまた長期間帰ってこなかったり。振り回しているという罪悪感がある。
気にしないで放っておいても良いよと言いたいけど、流石にそれは無理な話だろう。

あまり仕方ないという言葉は使いたくないんだけど。
「やっぱりな」「またか」と心のどこかで思ってしまった。
二度死んで、三度目の人生を歩み始めて、自分ではどうにもならない物事に翻弄されることに慣れてしまっているのだった。
それでも絶望はしていない。無気力にもなっていない。これ以上のことがないように精一杯の抵抗はするけれど、やっぱりどこか諦観している。
片付けをするついでに、自分の分も一緒に入れ直してきたお茶を差し出しながら謝ると、鬼灯くんはそれを素直に受け取りながら苦々しい声を出した。


「…笑ってないで少しは怒りなさい。反発しなさいよ。乱暴な事は出来ない、向いていない、仕方ないでは済まされません」
「一応してみたんだけどなぁ…」


一度目の人生での体験を含めても、私というモノにしては結構反発できた方だった。
持っていた湯呑を下に置いて、こーやって、と両手を使って身振り手振りで再現するも、伝わった様子はない。
状況は伝わらなくても心意気は伝わってほしい。
最大限の反抗、足掻きを見せただろうと自負しているのだ。無抵抗で奪われるなんてマネはしなかった。
そのせいで傷だらけになって鬼灯くんに怒られたんだし。ある意味ではあの傷は勲章だった。


「一応じゃない、確実に今後もずっと」
「和解…っていうか、一応話し合いもできてるし、いつまでも喧嘩腰でいても…」
「そうやってつけあがらせてどうするんですか?というかまた一応って、結局あやふやじゃないですか」


…これ、つけあがらせているのかな?
あちらの言う通りに素直に従っていることが調子に乗らせてしまっているというならそうなんだろう。
相手がいくら神様だろうと全て鵜呑みにしても、どうにもならないからと言っても。
再びあの時みたいに理不尽に命を奪われそうになったり、致命的に害されそうになれば、無駄だろうがなんだろうがじたばたと足掻くつもりだった。
出来るだけ物分りよくありたくない。仕方ないと言っていいことと悪いことがあるとというのは、昔々鬼灯くんが言っていたことだ。今でも私の中に残っている。
鬼灯くんがごとんと鈍く音を立てながら湯呑を地面に置いた。


「…あなたへの恨み言も小言もいくらでも言いたいことはありますけど。ただ責め立てている訳じゃない」
「え、ああうん、分かってるよ。大丈夫」


鬼灯くんの中で苛立ちのような物がわきあがる理由も原因も根源も成り立ちも、それが向かう矛先さえも一応、わかっているつもりだった。
ふーっと湯呑の中のお茶に息を吹きかけ、冷ますに勤しんでいた口を離して、誤解を解く。諸々の反省は勿論しているけど、別に鬼灯くんの荒々しい物言いや態度に当てられて憔悴してはいない。


「……そういう所が、ダメだと言っているんです」


すると心底呆れた様子で、それに加えてどこかもどかしそうに歯切れ悪く言う。
そういう所とはどういう所?…あ、今私わかってる、って言ったな。
これが物分りがいい、反骨心がなさすぎると言われる所以なんだろうか。
これって私の癖なのかもしれない。悪い思考のクセというより、生まれ持った気質な気がする。
でも本当にわかってるし、相手の語気が荒くなった所でムカッともしないし、気を悪くする要素が私的にはなかった。
話ながら、飲み終えてしまった鬼灯くんの湯呑をこちらに引き寄せ回収する。
あとで他の洗い物と一緒に洗いに行こうと考えていた時、ぽつりとした呟きを耳が拾い顔を上げる。


「…先に言っておきますが」
「うん」
「今物凄くイライラしています」
「……え?」
「自分にも他人にも物事にも腹が立つし、上手い事いかないことだらけで苛々する」
「…え、え、…うん。そうなんだ…そっか…」


その宣言をわざわざされて、私はどういう反応したらいいんだろう。分からなくて引き気味に曖昧な返事をしてしまった。
ごめんと謝るのも違う気がしたし、どんまいと励ますのも絶対に違うのは分かる。
手元にもう一枚あった未使用の布巾を無意味に開いたり畳んだりしながら考えた。
荒れてささくれ気味なのは、そういう年ごろなのか最近ずっとの事だったけど、ここに来て明確にむかっ腹が立つ事件が起こってしまった。
上手く行かない事だらけっていうのはどれを指してのことなのか。今回のことが含まれているのはわかるけど、全部はわかりきれない。悩みも多い年ごろだろう。
今日はこんなことがあったよと食卓で一日の報告をしあうような風潮も存在していなかったし。今のようにデリケートな内心を告白されるというのはちょっとだけ珍しいことだった。


「あんなのがいて、神殺しでもしようかなと意気込むものが今までいなかったのが不思議です。有難いと拝むようなモノでもない。堕ちた祟り神かなにかですかアレ」
「あんなのって言っても、一応世のため人のためにもなってる神様みたいだけど」
「私にとって、あなたにとっては害あるものでしかない」
「…そうだとしても、多くの人にとってはありがたい神様だから居るんだろうね」
「………わかっていますよ」


私達のように害だと感じるものより善だと感じるものが多かったから、存続され祀られている。
ちっぽけな私達が恨み言を言おうが、その多くのひと達の声にかき消される。
まぁあまりにも手ひどいことを幾度も繰り返すようなら、多くの人は感謝していても、恨んでいる数少ない誰かにいつか神殺し…?捨て身の復讐でもされることだろう。
でもそれが未だ現実に起きていないということはそういうことで。
やっぱりあの神様は今はまだ私達以外には「善い」神様という認識をされているという事になる。

何もかも分かっていてもつい八つ当たりをしたくなるのは当然で、それでもその当然のことをあまりしない鬼灯くんにして珍しい。
恨み言は零しても、子供の癇癪のような八つ当たりというのははあまり見ないのだ。
抱え込まず鬱憤を晴らしたり、報復をしてやりたくとも、神相手となると分が悪い。
私の件がなかったとしても、最近慢性的にお疲れ気味なのだ。
よく見れば目元にはクマが出来ていて、彼の白い肌にはよく目立ってしまっている。
これは決して今回の私の失踪で迷惑をかけてしまった事だけが原因ではない。
私がいない間もあくせく働いていたんだろう。
ここ最近ずっと鬼灯くんは忙しそうにしているし、長期間留守にすることもあった。
一人で留守番も出来ない年という訳ないのに、あまりに長いので若干鬼灯くんロスに陥りかけたほどだった。
家に人の気配とか生活音がないという状況は割と辛い。
こういう多忙な時期に余計な負担をかけてしまったという後ろめたさがじわりと改めてわいて出る。
あとで暖かいおしぼりで目を温めてもらおうかと、もう一度湯をわかす用意をするため立ち上がる。


「…どうしたらいいんでしょうね」
「私の件に関しては…うーん、時間が経つのを待つしかないのかな」


動き回る私の背中を眺めながら、鬼灯くんが投げかけた。
飽きるかノルマ達成するか自然消滅するか、どんな形になるかはわからない。
時間が解決してくれる…というか。突然どうにかなるということはない気がする。
それこそ、神殺しとかいう荒々しい報復を試みなければどうにもならないだろう。
入念な計画と下準備をしなければ成功はしなさそうだ。


「……時間が経てば、望むようになるんでしょうか」
「…うーん…」
「ほしいものは、手に入るんでしょうか」
「…え?なんのこと?……ええと、わ、わかんないかなぁ…」
「私にもわからない」


突然何を言いだしたのかと驚いて、手を止めて振り返った。ぶすっと不機嫌そうな顔をしている。うーん、それじゃ堂々巡りだなあと苦く笑う。
鬼灯くんにわからないことを私に聞かれても困っちゃう。そもそも内容も抽象的でよくわからないし。
珍しく困惑とか憔悴とか、弱さともとれるような所を表にわかりやすく出していた。
肉体的に疲労している所などよく見かけるけど、精神的な疲労を表に出す所はあまり見かけない。
悩み相談とか愚痴というよりも、今のは鬼灯くんなりの弱音だったのかもしれない。
…やっぱりわかりにくい子だなあ…未だに掴めない…

湯に浸けて絞って温めた布を渡すと、無言で受け取って目に当てた。
今、お互いの肩も触れないような距離にいる。けれどいつもの鬼灯くんの距離の開け方を考えると近すぎるくらいだった。
自分からの接触をあまり好んでいないというのはもう知っているので、望んでこの近さに座りこむことを選んだというのは珍しい事だった。
私が強引に押し切ったりペタペタと無遠慮に触ることは多いけど、あちらから近づいたり手を伸ばしてくる…ということはほぼなかった。どうしよう本当に弱ってるのかも。


「思うように事を運びたい。でも策を練るにしたって、根源にある物がそもそも曖昧で、漠然としてる」
「…」
「なんで、と考えても、いつもわからないと首を振るしかなくなる。堂々巡りで滞ってて、探しても手がかりは見つからない。答えが出ない。それがもどかしい」


解決しないでいつも平行線。
今ある手持ちのものだけではどうにもできないらしい。そういうどん詰まりに陥ったら、出来ることはあまりない。
布を当てているせいで乱れている前髪を梳きながら、私も考える。


「鬼灯くんが何に悩んでるかわからないけど…あれだね、やるしかない?」
「…」
「やけっぱちになって変にかき混ぜたら、ぐちゃぐちゃになっちゃうかもしれないけど」


今回の悩み事にも、今までの苦労にも、私もこうなったらもうやるしかないと半ば自棄にもなりつつ、しかし前向きに向き合った。


「…そう、なんでしょうね」
「…何もしなかったら何もならないままなんだろうなー私も…」


あの男神だって、生きてるだけでいいなんて寛容すぎることを言っていたけど、
それに胡坐をかいていたらきっとどうにもならない、何にもならない。
プラスにもならないだけならそれもいいだろうけど、現状維持をしているうちにマイナスに陥るようになったら目も当てられないし。
梳いていた手が下に滑ると、暖かいものを当ててるくせして冷たい頬に一瞬触れた。
それに嫌な顔もしない状況というのが本当に珍しくて、少し引け腰になりながら手を引っ込めた。


「もとより、曲げるつもりなんてなかったんですけど。諦める気もなかったけど」
「うん」
「いっそ、と思わないでもなかったんですけど」
「…ううん…んー…うん…」


本当に何のことを言ってるのか欠片も理解できないけど、理解や同調を求めている訳ではないだろうとわかっていたから、無理矢理相槌を打つ。
鬼灯くんは冷めてきた布を取り払い、心なしか血色のよくなった瞼を開いた。その強い瞳でこちらを見やりながら一言断言する。

「決めました」
「そっか。よかったね。…よかったのかな?」
「迷いが晴れて決断がついたなら、よかったんでしょう」
「…うん、よかったね鬼灯くん」

自分の中で区切りがつけられたなら、それはいい事だ。
わからないなりにホッとして弛んだ顔をしてしまった。回収した布を畳みつつ、横目にみた彼の表情は少し険しさが抜けて和らいでいるような気がする。
多分こういう風に甲斐甲斐しく世話を焼いてくる所とか、微笑ましそうに声かけする姿に呆れたんだろう。せっかく色の良くなった目をキツく細めた。


「…いつまでも子供みたいに扱いますねえ、こんなに図体デカイ男を」
「だってちっちゃい頃から知ってるし…体格で態度変えろなんて無理だよ」
「中身が昔と同じ、子供のままだと言いたいんですね」
「あ、怒った?ちゃんと大人になったと思うよ。…子供な所は子供なままだけど」
「まあ自分が大人だなんて思わないですけど」
「…またこの子は…」

ひらりと手のひらを返す口達者な彼にがっくりと肩を落とす。こういうのも彼の変わらない所の一つだった。

「子供のままでいいとも思えるようになってきました。大人にならなければと思っていたのですが」
「なんか色々一皮むけたっていうか、成長したんだねえ」
「要するに何がどうであろうと、結果出せばいい訳でしょう」
「そういう言い草やめようね」


彼は変わらず口達者で調子がよくてどこかズレていて物言いが酷くて、けれどそういう変わらない所を見ては安心するのだ。
安定感のない、何の保証もされない、綱渡りみたいな暮らしを続けることはとても苦しかった。
けれどそんな生活の中でも変わらないままでいられた、根を張れている部分を見つけては安堵を覚える。
大人になったという言葉は嘘ではないし、しかし子供のまま変わらないというのも事実。
──でも、彼の根本にあるモノは変わってなどいないんだと、私はずっと思っていた。


2018.12.27