第二十九話
2.あの世二度目
二度目があったのは、一度目の時からそれなりの時間が経ち、彼女よりも背が伸びて、自分が同世代の子らより優れている所も劣っている所も自己評価を下せるようになった頃のことだった。
しかしいくら自我が固まってきたところで、自制できるかどうか、大人になれるかどうかは別の話。
丁度いつもなんとなくイライラして、荒れていた頃のことだった。みんな今ちょうどそういう年頃なんだと言われたらそれまでですけど。
自分の境遇に、そしてそれに対する周囲の反応にうんざりして、反発心が芽生え荒んでいたのでしょう。
絡まれ拳を振るわれたら拳で返すのは昔からのことだったけど、その数が段違いに多くなっていた。


彼女が一夜帰ってこなくても、夜遊びくらいすることもあるだろうとあまり気にせず過ごした。
しかしそのまま三日、四日と経っていき、これは夜遊びなんて可愛い物ではなく、"いなくなった"のだという事実を前にした時の私は、荒み、苛立ち、怒り、そのどれとも言えない複雑な感情で支配されていた。
漸く帰ってきた時、彼女を視界に入れた瞬間胸に広がったものは、間違っても「安心した」などという柔らかな思いではありません。
いなくなった時も、帰ってきたその後もずっとです。
じゃあそれが安心以外の何かと明確に区別することが出来なくても、それだけは確かなことでした。



「目をつけられたんですか」


と尋ねて。


「…うん」


と首肯された瞬間、目の前が見えなくなった。
ぐらぐらと胸のうちで何かが沸騰する。その頷きを真実だと思いたくない。性質の悪い嘘だと思いたい。
いや、私は彼女が場を性質悪く混乱させるような虚言を吐かないと知っています。
それでも否定したかった。
こんなこと、冗談ではありません。

──自分の中に存在する執着心。ほしい。自分のものにしたい。
誰かに奪われようとすればもっともっと欲しくなって、絶対に奪いかえしたくなる。ゆるせない。
大昔から自覚していた子供のような衝動が今加速しているのが今、わかりました。

基本的には神は人間よりも鬼よりも強大な存在であり、弱い彼女はもとより、腕っぷしはさして弱くはないと自負している私自身でさえ、相手と状況によっては対抗手段を持つことは難しいだろう。
ポテンシャルが違うのです。勝とうと思うなら実力行使されるより前に、相手を上回れるよう頭を使うしかない。

彼女が目をつけられた。唾をつけられた。拘束された。約束させられた。奪われた。縛られた。
自分ではない誰かに、強制力なら他の種よりも飛びぬけて強い"神"に。
──ずっとずっと大昔から、傍で捕まえようと躍起になっていた自分ではない。たかだか浅い興味と好奇程度しか抱いていないだろうモノなんかに。
手が奪い返そうともがく様に無意識に彼女へと伸びていた。
そうした所で現状は何も変わらないとわかっているくせに、ふらりと。


「…っう」


掴んで、小さく呻き声が上がった時ハッと意識が戻ってきた。
両手が彼女の腕と肩を掴んでいたことに今更気が付きます。

──彼女の下に血だまりができている。
その事実にも、一拍遅れて気が付きました。
なぜこんな状態に?なぞ考えるまでもない。これは自分の過ちなんだと気が付き、我に返った瞬間すぐに水を汲んできて、傷口を洗い流し、綺麗な布を巻きつけた。
私が正気に戻ったことに気が付いて、ホッとしていた彼女の額の汗を拭いました。

なぜ抵抗しなかったのか、悲鳴を殺し続けていたのかという理由さえも、痛いほどわかっていました。
こちらが正気ではなかったからだ。怒りに呑まれていたからだ。彼女はそれに逆らうことが無意味だと分かっていた。
彼女が咄嗟に諦め逆鱗に触れぬよう努めるほどに力の差は大きいのだと、彼女は弱く私はは強いのだということを改めて痛感する。
彼女の下、いつの間にか広範囲に広がっていた赤い血だまりがまるでその象徴のようだった。それを作るのは私にはとても容易いことだったのです。


「すみませんでした、」


と、謝ろうとしてぐっと飲み込んだ。
謝ってどうなるのだろう。何を謝りたいんだろう。彼女は傷つけられて痛くて、けれど謝罪なんて求めているんだろうか。
大らかな彼女の気質を考えれば、おそらくそうではないだろう。

口をついて出てきただけの謝罪など無意味でした。自分にも相手にも意義あるものでないなら不毛です。
ごめんと言われて慰めになるのかどうか。相手の癇に障るか気が晴れるのかの判断もつかず、淡々と手当を続けた。
看病と暴力くらいしか他者に施したことがなく、加減がわからず慎重になろうとして手つきがぎこちなくなる。
看病と言ってもそれも彼女相手のものであり、その時は接触の必要があまりなかった。
初めて意図して肌に触れてみると、その骨格も肌質も自分と比べあまりに虚弱で、未知の生物にでも遭遇した時心境だった。
新たな発見に対して興味を抱く性質でしたが、この得体の知れないものにはあまり触れていたくないと嫌悪か恐怖に近いものを感じていました。


「…私は元人間で鬼で、神になどなったことがありません」
「…うん」
「だから彼らの気持ちは理解できない。推測でしかありませんけど、神々はどうしてもあなたに興味惹かれるらしい」


幼い日に神様見物に行ったときの異様な反応を見ただけでも、推測するだけなら材料として十分でした。
推測の域をこえて確信を持ったのは、その後のこと。
どこぞの神々の視線がふらりと彼女に向かい、手が伸びようとしている瞬間が幾度かありました。
それを私が直に口で交渉して手を引かせたり、近づかれる前にその場から逃げたりあの手この手を使ってきた。
彼女の様子をみるに、それらが「危ないひと」または「得体の知れない妖怪」かなにかだったと自覚はしていても、「神」だったとは思っていなかったのでしょう。
姿かたちはそれぞれ違ったし、彼らは必ずしも神々しい形はしていない。
禍々しい形をしたものほど人間にとっては善なるものだったりもする。
…それでは彼女も危機感を抱けなくて、自覚できなくて仕方なかった。
しかし私の言葉が足りなかったのだからと割り切るには至れません。
歯がゆくて、憎くて、もどかしくて苛立つ。
この現状には煮えるような怒りを。彼女に対してはもどかしさを感じてどうしようもなくなり、その説明以上のことを語ることができないまま時間がすぎていく。
その沈黙を破ったのは彼女の方だった。


「……心配かけて、ごめんね」


怒りを殺すように、キツく握りしめていた私の拳を手に取って解き、手当につかった布の残りを今度は私の手のひらに巻きつける。
爪が立って、平からは血が滲んでしまっているようでした。
彼女からなんの躊躇いもなく触れられるとも、穏やかに話しかけられるとも思わず拍子抜けした。
私が品行方正でないのは今更のことです。今更衝動的になった所で怯えられることはないだろうとは思っていましたが、さすがの彼女もこんな扱いを受ければ思う所もできるだろうと考えていました。


「正直…鬼灯くんがこんなに心配してくれるなんて思わなかったなあ、私」


彼女の身体の痛みの波は布で固定されたおかげか、時間経過のおかげか、とりあず去ったようで。テキパキとその手は動いていく。
ながら作業で語られた内容に、こちらこそ拍子抜けしました。
…心配。確かに彼女の心配を一切しなかったと言えば嘘になる。
けれど私の自衛しろという言葉も、危ないことはするなという注意も、自分本位な思惑から出て来たものでした。ただ奪われたくない一心で言ったものなのです。
それに彼女が下心など感じず、親切心配と受け取ってくれたというなら大変都合のよいことです。


「………家族、なんでしょう。心配するのも当たり前です」

なんとなく覚えた違和感がじわりと胸を浸食していく。
念でも押すようにもう一度、いつだか押し付けたものを、繰り返し主張してみました。
うーんと少し悩み言葉を探しながら、彼女は思いついた言葉たちを並べます。


「鬼灯くんはお兄ちゃんみたいな心配も、親みたいな甲斐甲斐しさも、弟みたいな慕い方も見せてくれないじゃない。それでいいんだよ、不満なんてないけど…
よくある家族像の中のどれにも当てはまらないなって思ってて」

それで正解です。彼女は聡かった。
この違和感は勘違いではなかったのです。
私の中にあるものが親愛家族愛などではなく、ただの子供のだだこねであり、執着なのだときっと無意識のうちに気が付いていた。
彼女はあの時押し付けたこの宣言を喜んでいて、しかし自分の中に確かな家族の理想像があったからこそ、本能的にこれは望んでいた状態ではないのだと悟れたのでしょう。

──ああ、負けたと心底思った。
私はそれらを隠していた訳でも、偽ろうと思っていた訳でも、駆け引きを楽しんでいたつもりでもなかったのです。
しかし、何も言わなかったはずなのに、核心を突かれた…言い当てられたことに敗北感を覚える。
いくら「家族」なんだと宣言して繋ぎ止めようとしても、やはりどこか薄っぺらく中身は伴っていなくて、それだけでは不十分だったんでしょう。
失敗したというのに後味はそこまで悪くなく、その紙のような薄さが相手に伝わったのだということが面白く感じるくらいでした。


「鬼灯くんは弟って言うには出来すぎてるし、お兄ちゃんって言うにはちょっとアレだし…私も私で妹って感じでもお姉ちゃんって感じでもないでしょう?よくある家族って言っても、そうなるのは簡単じゃないねえ」


──ああ面白くていい気分で楽しくて、でもやはり不愉快だ。
言わずとも真実が伝わったという現象は面白くて興味深い。しかし伝わってしまったからこそ繋ぎ止められなかったのです。
彼女もなんだか面白そうにしていて、その事実を前にして平然と笑っている。

…どうやって彼女を手に入れたらよいのでしょう。当然のように傍に置くことが出来るでしょう。
彼女が私から引き離されようとする度にこの衝動は色濃くなっていきます。
自然とじゃ駄目です。なんとなくでは駄目です。
彼女がほしいと言う私のような子供がもう一人現れてしまえばきっと取り合いになるでしょう。いつかの子供らのようにきっと醜く引っ張り合うのでしょう。
定位置など定まっていない彼女はそのままちぎれてしまうか、それともどちらかの手の中に納まるのか、どう転ぶかなど不確実なのです。
もしもがあってしまうかもしれないなんて。
──誰かの手に渡ってしまうなんて、絶対に許さない。

家族ではだめでした。兄にもなれず弟にもなれず、男親にもなれず友人にもなれませんでした。
定位置に収めるには何かが足りない。ハリボテの枠組みでは価値はない。
薄っぺらくなどないもの。関係を固定させるために十分な、名前のついた分厚い情が必要なのだと、私はようやく気が付きました。

2018.12.12