第二十八話
2.あの世─爪立
「…どこへ行っていたんですか」
彼の姿はすぐに視界に入った。元々広くはない場所で二人暮らしをしているので、探すまでもないし、向こうも向こうで帰ってきたことにはすぐ気が付く。
俯いて顔をあげられなかったけど、このまま黙ってても仕方がないと意を決して口を開こうと顔を上げた。
最初は背中だけが見えて、寝起きでもないだろうに珍しく髪が乱れ跳ねてることに気が付いた。
そしてこちらに完全に振り返った時、その目の鋭さにびっくりした。
もともと柔らかい方ではなかったけど、更に重くキツくなっている。
目が赤くてクマもできているし、鬼灯くんが寝不足な上に不機嫌なんだろう事はすぐに見て取れた。
人でも殺してそうな顔をしているとか言ったら私が殺されちゃうだろうなあとか考えて頭の隅では現実逃避、表面ではどうにか言葉を探している。
「……ちょっと…」
「ちょっと?どこへ?一週間も」
ちょっとそこまでー…と言きることは出来ずきゅっと口を噤んだ。
口角も眉も下がった。肩も落ちて背も丸まった。蛇に睨まれた蛙というか青菜に塩というか畏縮してるというか申し訳ないというか。
…そっか一週間も経ってたんだあ…ちょっとなんて言って誤魔化せないねえ…。
ご近所さんにどこまで?って執拗に聞かれる訳だよねえ…家出って発想になる訳だね…
いくら鬼灯くんでも少しは心配してくれたはず。みんなの言ってることは的外れなんかじゃなかった。
…時間までは奪わないなんてもっともらしくよく言ったなぁあのかみさま…!と床に四肢をついて叫びたくなった。
内心を台風のようにかき乱し荒らしつつも、身体を硬直させて立ちすくんでいると、鬼灯くんは片手でこっちへ来いというジェスチャーをした。
しかし畏縮してしまって足が進まない。
加えて例の男神相手にめいっぱい抵抗して、全身を使って足掻いたせいで疲労もしている。
遅れて筋肉痛がやってくるかのように、我が家に帰って安堵した途端痛みや熱が今さら波のようにこちらへと押し寄せてきていた。
痺れを切らした様子の鬼灯くんは立ち上がってこちらまでやってきて、私の腕を掴んだ。
「い、いたっ」
腕に爪が食い込んだ。眉を寄せ悲鳴を上げてもお構いなしに引っ張って入口から洞窟内の中心部へと引き寄せる。
「そこに座ってください」
「ちょっと、あの、一回手離して」
「座れ」
ついに命令口調になった彼を見て、痛みも悲鳴も堪えて咄嗟に従った。
脂汗が滲むくらいに痛くて泣き叫びたかったのだけど、これ以上抵抗しても何もいいことがない。
怒らせた自覚もあったし心配をさせてしまった、迷惑ををかけてしまったという罪悪感もあった。呼び寄せられて従わない理由はそこにはない。腕を掴まれるのが嫌なのでもなく、ただこの痛みは堪え難い。
「疲労、発熱、擦り傷、切り傷、打撲、痣、着物の汚れと切れ目。よくもまあここまで、どうやって」
説教をしようとしたのか私を一度正座させてから、掴んだ腕の熱さに違和感を覚えたらしく、私が発熱してると気づくと躊躇なく畳んである布団の上に転がす。
普段から体調を崩しやすい私に付き合っているため、どの程度が平熱でどの程度が発熱している状態なのかすぐに察せるようになっていた。
押入れなどの収納スペースもないため、日中は部屋の隅にたたんで積んであるだけなのだ。
今は大きな座布団程度の大きさになっているそれに上半身だけを預けた。
足を庇って歩いていることにも目敏く気が付いて、着物の裾を捲り触診され、負傷もどんどん発覚する。
正直腕や肩を掴んだときの鬼灯くんの握力、立てられた爪によるダメージ、そっちの方が指摘された負傷よりも総合すると重症な気がする。物凄く痛い。骨が軋んでいる気がする。
そういう事実は見て見ぬふりをしているのか、怒りで目の前が見えていないのか。
今までどこでどうしてた、どうやって何がという詳らかな説明を求めていることは分かったので、恐る恐る口を開く。
「…か、神様に…」
「…神?」
ぴくりと、鬼灯くんが不可解そうな反応をした。
「…まさか」
その次の瞬間、はっとして切り傷擦り傷でいっぱいの身体を見下ろした。
風で地面に押し倒された時も手のひらを切ったけど、石畳の上で足掻いたことで乱れた袖から覗いた腕も、捲れた着物から覗いた脛も、傷でいっぱいになっている。
その傷ひとつひとつをみて、最後に私の目を見て確信した様子だった。
「目をつけられたんですか」
「…うん」
「なぜ」
「…何故って…不興を買っちゃった…?っていえばいいのかな、あとは気まぐれだったのかも」
「…どこで」
「山の中の社。今までなかったよね?隠されてたのかな。帰りには消えちゃってたし」
「…近寄った?神域に?」
「入らないようにしたけど、届け物があって、そしたら引っ張られて」
「届け物なんて正気ですか?なんで端から逃げ出さなかったんですか」
「な、なんでって言われても…」
からまれたら面倒臭いことになるとは知っていても、届け物を放置することはできなかったし、妖怪神様危ない注意と言われていても、
現代で培っていた神様は基本ありがたい存在なんだという擦り込みが消えなかった。
年末年始にはお参りして一年が無事でありますようにと祈る、守ってほしいと手を合わせる。アレはそういう存在なはず。
実際にここでも危険視されながらもありがたい存在として祀られてもいる。
けれど現代と違って視える視えない、存在する存在しないなど、認識と状況、関係性は明らかに違う。近づけば触れて見えて話せるんだから、みんな極端に祀りながら極端に防衛もしている。
それでも私はどちらの意味でも極端になれなかった。
「あれほど言いましたよね。自衛しなさいと」
「……自衛?」
「あなたは目をつけられやすいからと言いました」
「…いや、でもそれは…」
見るからに弱そうだから、子供だから、変な人に絡まれないようにという意味だと思ってた。
もちろん言われなくても夜道は歩かないし人通りの多い所を歩くしスリには気を付けたし出来るだけ一人にならないようにした。
物騒な場所、時代だし、そういうものから守ってくれる人なんていないし。警察も正義のヒーローも親もいない、護衛なんて雇えるはずがない。
自分らには身一つしかないんだと痛感してる。
きちんとそういうことを分かっていたから、日々無防備にふらついてなんていなかったよと反論しようとしたけど。
「あなたは神に好かれやすい」
「……え」
「いえ、目をつけられやすいと、遊ばれやすいと、忠告したはず」
「…そう、だったの?あれ冗談じゃなくて、全部そういう意味だったの」
「…道理も通じないような輩相手に自衛した所で、何かの拍子に目をつけられるかもしれないなんてわかっていました。そうしたら抗うのは容易くないだろうことも。…でも、そんな自覚さえもしていなかったなんて」
ぎりっと手が再び腕に、肩に食い込んだ。
腹いせに苛立ちをぶつけて発散しているというより、無意識に力がこもっているようだった。
さっきのこともあって、悲鳴を上げても抵抗しても火に油を注ぐようなものかもしれないと思い必死で押し黙る。痛みで息が止まった。
鬼灯くんが、自分より一回りも二回りも大きい鬼相手に喧嘩して圧勝している姿をみたことがある。
喧嘩に強いし力も強いと知っていたし、同世代の子より飛びぬけてるということも理解していた。
そんな彼の力を私なんかに向けられたら、逆に同世代の子よりも頑丈さでは劣っている私は痛めつけられるばかりだった。
腕からたらりと血が滴ったのが視界の端に見えた。爪が皮膚を切ったんだと思う。
幸い布団は汚さなかったようで、岩肌にぱたりと落ちて小さな水たまりを作っていた。
鬼灯くんの説明を聞いて、自分はなんて浅慮だったんだろう今更自覚して落ち込んだ。
そういう自覚があったら、落し物は近づかずどこか目に付きやすい所に置くだけして、即座に山を下っていたかもしれない。そもそも山には入らなかったかも。
好かれやすいと言われるような心当たりは、言われてみればいくつか見つかった。
鬼灯くんはそこから「問題あり。自衛不可欠」と判断を下して忠告してくれていたのに、私はといえばそれに少しも気が付くこともなく、のんびりとほどほどの防犯をするだけで過ごしていた。
事が起ってからじゃ遅い訳で、この食い違いをこのタイミングで知った鬼灯くんがもどかしく思わない訳がない。
ぱたりとまた追いかけるようにして落ちた赤い雫を横目にしながら、私はかけるべき言葉を探していた。
結局、言うべきは謝罪でもなく感謝でもなく泣き言でもなく言い訳でもないとなれば八方塞で、特別なものは何も出て来なくて。
私は鬼灯くんの衝動を黙ってその身に浴びることしか出来なかった。
2.あの世─爪立
「…どこへ行っていたんですか」
彼の姿はすぐに視界に入った。元々広くはない場所で二人暮らしをしているので、探すまでもないし、向こうも向こうで帰ってきたことにはすぐ気が付く。
俯いて顔をあげられなかったけど、このまま黙ってても仕方がないと意を決して口を開こうと顔を上げた。
最初は背中だけが見えて、寝起きでもないだろうに珍しく髪が乱れ跳ねてることに気が付いた。
そしてこちらに完全に振り返った時、その目の鋭さにびっくりした。
もともと柔らかい方ではなかったけど、更に重くキツくなっている。
目が赤くてクマもできているし、鬼灯くんが寝不足な上に不機嫌なんだろう事はすぐに見て取れた。
人でも殺してそうな顔をしているとか言ったら私が殺されちゃうだろうなあとか考えて頭の隅では現実逃避、表面ではどうにか言葉を探している。
「……ちょっと…」
「ちょっと?どこへ?一週間も」
ちょっとそこまでー…と言きることは出来ずきゅっと口を噤んだ。
口角も眉も下がった。肩も落ちて背も丸まった。蛇に睨まれた蛙というか青菜に塩というか畏縮してるというか申し訳ないというか。
…そっか一週間も経ってたんだあ…ちょっとなんて言って誤魔化せないねえ…。
ご近所さんにどこまで?って執拗に聞かれる訳だよねえ…家出って発想になる訳だね…
いくら鬼灯くんでも少しは心配してくれたはず。みんなの言ってることは的外れなんかじゃなかった。
…時間までは奪わないなんてもっともらしくよく言ったなぁあのかみさま…!と床に四肢をついて叫びたくなった。
内心を台風のようにかき乱し荒らしつつも、身体を硬直させて立ちすくんでいると、鬼灯くんは片手でこっちへ来いというジェスチャーをした。
しかし畏縮してしまって足が進まない。
加えて例の男神相手にめいっぱい抵抗して、全身を使って足掻いたせいで疲労もしている。
遅れて筋肉痛がやってくるかのように、我が家に帰って安堵した途端痛みや熱が今さら波のようにこちらへと押し寄せてきていた。
痺れを切らした様子の鬼灯くんは立ち上がってこちらまでやってきて、私の腕を掴んだ。
「い、いたっ」
腕に爪が食い込んだ。眉を寄せ悲鳴を上げてもお構いなしに引っ張って入口から洞窟内の中心部へと引き寄せる。
「そこに座ってください」
「ちょっと、あの、一回手離して」
「座れ」
ついに命令口調になった彼を見て、痛みも悲鳴も堪えて咄嗟に従った。
脂汗が滲むくらいに痛くて泣き叫びたかったのだけど、これ以上抵抗しても何もいいことがない。
怒らせた自覚もあったし心配をさせてしまった、迷惑ををかけてしまったという罪悪感もあった。呼び寄せられて従わない理由はそこにはない。腕を掴まれるのが嫌なのでもなく、ただこの痛みは堪え難い。
「疲労、発熱、擦り傷、切り傷、打撲、痣、着物の汚れと切れ目。よくもまあここまで、どうやって」
説教をしようとしたのか私を一度正座させてから、掴んだ腕の熱さに違和感を覚えたらしく、私が発熱してると気づくと躊躇なく畳んである布団の上に転がす。
普段から体調を崩しやすい私に付き合っているため、どの程度が平熱でどの程度が発熱している状態なのかすぐに察せるようになっていた。
押入れなどの収納スペースもないため、日中は部屋の隅にたたんで積んであるだけなのだ。
今は大きな座布団程度の大きさになっているそれに上半身だけを預けた。
足を庇って歩いていることにも目敏く気が付いて、着物の裾を捲り触診され、負傷もどんどん発覚する。
正直腕や肩を掴んだときの鬼灯くんの握力、立てられた爪によるダメージ、そっちの方が指摘された負傷よりも総合すると重症な気がする。物凄く痛い。骨が軋んでいる気がする。
そういう事実は見て見ぬふりをしているのか、怒りで目の前が見えていないのか。
今までどこでどうしてた、どうやって何がという詳らかな説明を求めていることは分かったので、恐る恐る口を開く。
「…か、神様に…」
「…神?」
ぴくりと、鬼灯くんが不可解そうな反応をした。
「…まさか」
その次の瞬間、はっとして切り傷擦り傷でいっぱいの身体を見下ろした。
風で地面に押し倒された時も手のひらを切ったけど、石畳の上で足掻いたことで乱れた袖から覗いた腕も、捲れた着物から覗いた脛も、傷でいっぱいになっている。
その傷ひとつひとつをみて、最後に私の目を見て確信した様子だった。
「目をつけられたんですか」
「…うん」
「なぜ」
「…何故って…不興を買っちゃった…?っていえばいいのかな、あとは気まぐれだったのかも」
「…どこで」
「山の中の社。今までなかったよね?隠されてたのかな。帰りには消えちゃってたし」
「…近寄った?神域に?」
「入らないようにしたけど、届け物があって、そしたら引っ張られて」
「届け物なんて正気ですか?なんで端から逃げ出さなかったんですか」
「な、なんでって言われても…」
からまれたら面倒臭いことになるとは知っていても、届け物を放置することはできなかったし、妖怪神様危ない注意と言われていても、
現代で培っていた神様は基本ありがたい存在なんだという擦り込みが消えなかった。
年末年始にはお参りして一年が無事でありますようにと祈る、守ってほしいと手を合わせる。アレはそういう存在なはず。
実際にここでも危険視されながらもありがたい存在として祀られてもいる。
けれど現代と違って視える視えない、存在する存在しないなど、認識と状況、関係性は明らかに違う。近づけば触れて見えて話せるんだから、みんな極端に祀りながら極端に防衛もしている。
それでも私はどちらの意味でも極端になれなかった。
「あれほど言いましたよね。自衛しなさいと」
「……自衛?」
「あなたは目をつけられやすいからと言いました」
「…いや、でもそれは…」
見るからに弱そうだから、子供だから、変な人に絡まれないようにという意味だと思ってた。
もちろん言われなくても夜道は歩かないし人通りの多い所を歩くしスリには気を付けたし出来るだけ一人にならないようにした。
物騒な場所、時代だし、そういうものから守ってくれる人なんていないし。警察も正義のヒーローも親もいない、護衛なんて雇えるはずがない。
自分らには身一つしかないんだと痛感してる。
きちんとそういうことを分かっていたから、日々無防備にふらついてなんていなかったよと反論しようとしたけど。
「あなたは神に好かれやすい」
「……え」
「いえ、目をつけられやすいと、遊ばれやすいと、忠告したはず」
「…そう、だったの?あれ冗談じゃなくて、全部そういう意味だったの」
「…道理も通じないような輩相手に自衛した所で、何かの拍子に目をつけられるかもしれないなんてわかっていました。そうしたら抗うのは容易くないだろうことも。…でも、そんな自覚さえもしていなかったなんて」
ぎりっと手が再び腕に、肩に食い込んだ。
腹いせに苛立ちをぶつけて発散しているというより、無意識に力がこもっているようだった。
さっきのこともあって、悲鳴を上げても抵抗しても火に油を注ぐようなものかもしれないと思い必死で押し黙る。痛みで息が止まった。
鬼灯くんが、自分より一回りも二回りも大きい鬼相手に喧嘩して圧勝している姿をみたことがある。
喧嘩に強いし力も強いと知っていたし、同世代の子より飛びぬけてるということも理解していた。
そんな彼の力を私なんかに向けられたら、逆に同世代の子よりも頑丈さでは劣っている私は痛めつけられるばかりだった。
腕からたらりと血が滴ったのが視界の端に見えた。爪が皮膚を切ったんだと思う。
幸い布団は汚さなかったようで、岩肌にぱたりと落ちて小さな水たまりを作っていた。
鬼灯くんの説明を聞いて、自分はなんて浅慮だったんだろう今更自覚して落ち込んだ。
そういう自覚があったら、落し物は近づかずどこか目に付きやすい所に置くだけして、即座に山を下っていたかもしれない。そもそも山には入らなかったかも。
好かれやすいと言われるような心当たりは、言われてみればいくつか見つかった。
鬼灯くんはそこから「問題あり。自衛不可欠」と判断を下して忠告してくれていたのに、私はといえばそれに少しも気が付くこともなく、のんびりとほどほどの防犯をするだけで過ごしていた。
事が起ってからじゃ遅い訳で、この食い違いをこのタイミングで知った鬼灯くんがもどかしく思わない訳がない。
ぱたりとまた追いかけるようにして落ちた赤い雫を横目にしながら、私はかけるべき言葉を探していた。
結局、言うべきは謝罪でもなく感謝でもなく泣き言でもなく言い訳でもないとなれば八方塞で、特別なものは何も出て来なくて。
私は鬼灯くんの衝動を黙ってその身に浴びることしか出来なかった。