第二十六話
2.あの世神様との邂逅
無事に試験が終わり、解放感に包まれていた。
少し上向きになった気分そのままに、家路につく前に寄り道をすることにした。
思った通り鬼灯くん…プラス、蓬くん烏頭くんは教え処に来ることはなく、やはり丸一日フケてしまったようだ。
分かっていたことなので、特に心配することも動揺することもなく試験を受けることができた。風邪を引いたようですと先生に言っておいたけど、心底疑わしそうな目をしていて、日ごろの行いって大切なんだなと切なくなった。人徳という言葉にも考えさせられるものがある。


「そろそろ切らしそうだったよねえ。色々足しとかないと」


物凄くひもじい時は仕方なしに食べていたものだったけど、生活に余裕が出てくれば山菜というのも乙なものになる。
食卓を彩り豊かにしてくれる、しかも山に野原に自生しているため市で対価を払わずとも無償で手に入る、貧乏している者の味方だ。
今も裕福とは程遠いけれど、昔よりは随分生活レベルが上がっていた。
お香ちゃんと別れた小道から真っ直ぐ行って私の足で数十分。
たどり着いた山の裾を浅く掻き分けて探せば、あまり奥まったところまで歩かなくても十分に摘みとれた。


「…あんまり奥まで行っちゃいけないって言われてたっけ」


大人も子供も関係なしに、山中にも暗闇にも入り込むなと言われてる。
それはただ迷ったら危ないからという理由ではなくて、妖怪や神様の領域に入り込むことを善しとしない風潮があるからだ。
人間と鬼と神様と悪魔と妖怪と精霊とその他諸々数えきれないほど。
私の交友関係や目に見える世界は以前よりずっと変わった。
私は人間から鬼もどきになり、様々な種と接するようになったけど、それでもやっぱり神様に近づくのは恐れ多いし妖怪相手だと危険だなと避けて通ったので、それらと邂逅する機会は少ない。
明確に不可侵の線引きがされている訳ではないけど、みんな暗黙の了解のように種族ごとにある程度の距離を作り、日々を暮らしていた。
昔小さい頃、サクヤ姫だの神獣さんだのと心優しいものに出会えたことは僥倖であり、みんながあんなに温厚な訳ではない。
触らぬ神に祟りなしだと避けて通って、それで今まで無難に過ごせていたけれど。

──同じ世界、同じ空間。隔たる壁など存在しない。見て触れられる状態で共存していれば、ずっと無難なままで通すことはできないようだった。


「気に食わない」
「…え…」
「お前の目も、心根も、その声も、弱さも脆さも全部が気に食わない」


──こんな風に目をつけられたくないから、避けて通れとみんなが口を酸っぱくして言っていたのに。
私もそれに倣って気を付けていたつもりだったけど、あんなに些細なことが問題に繋がるとは思わなかったのだ。
目の前にいるひとの赤い瞳が憎しみや怒りに染まっている。その悪意の矛先が向かったのは、ただ立ちすくしか出来ない私の所だった。



始まりはほんの小さなことだった。
薬草と山菜を摘みに山中へ踏み込んでいたとき、木片を見つけた。
折れた枯れ枝などではなく、人工的に削り切りされた長方形の板。ちょうど子供の私が腕いっぱいに抱えられるほどの大きさ。
見渡せばすぐ近くに祠があり、いくつも点々と並んでいるそれ辿っていくと、その先に門構えを見つけた。
現代の神社で見かけるような朱色の立派なものではなかったけど、組まれている木の形状は、神聖なものを彷彿とさせた。
神社みたいなものかな、こんな所にあったんだなあと珍しげに眺めた。
そうういう類の場所だったとしたら、入らない方がいい。
これ以上近づかないようにと踵を返そうとしたとき、突風が吹いて身体のバランスが崩れた。

思いがけず倒れ込み、私は向こう側へと入り込んでしまった。
…さすがにこれが越えてはいけない境界線なんじゃないかと遠目に見ても分かっていたのに。
ただ、さっき見つけた板は繊細な模様が描かれていて、まだ綺麗に艶めいているソレがわざと捨てられたものとは思えなくて。
誰かにとって価値ある大切なものなのだとしたら届けたかった。
こんなに上等なものなんだから、絶対にここの物だと思って、
じゃあ入口にそっと置いて帰ろうと思っていたんだけど。

──べしゃりと倒れ伏したまま、頭上へ降ってくる声たちを身に受け続ける。低い男の声だった。
びりびりと皮膚から芯の方まで震えて、その強大さ、恐ろしさを味わった。


「なにかの思いに生かされてるな?身に余るほどのものを甘受しながら、お前自身の中身はずっと薄っぺらいまま今日に至った」

分かったような口ぶりをするそのひとは、初めて会ったはずなのに、私の何もかもを見透かしているようだった。

「……なにが」
「何もかも感じてないとは言わない、しかしたったそれだけ?"うれしい?"そんなのでは釣り合わない。切望も渇望も何もかもないくせに、なぜお前だった。なぜお前がそこにいる」
「……どういう、意味」
「ほらみろ、少しの自覚もないのは、それがお前にとって取るに足らないことだったからだろう。身の程知らずの罰当たり」


嘲るように歌うように。紡がれる言葉たちは私の皮膚を通って中の方を突き刺し抉っていく。
良心が痛むような心地になる。
私には思い当たる節があったんだろうか。図星を突かれた?
だとしたらなんで言葉の意味が、その意図がまるで理解できないんだろう。
おそらく風を吹かせたのは目の前の彼だ、きっと神様だ。

神様はいつも気まぐれで、それが邪神だろうとなんだろうと、目をつける理由なんてとるにたらないものばかりなんだと皆は言う。
ただ自分の姿をみたから。通りかかったから。面白そうだったから。お腹がすいたから。人恋しいから。
からかうのも助けるのも襲うのも頼むのも求めるのも、実は相手は誰でもよかったりして。
──けれど今の私には"気に食わない"と思わせるだけの明確な何かがあったようだ。

深い理由なんてないのだと、大人の鬼たちからもそう教えられてきた。前の人生で読んだ物語の中の神様にもそういう傾向があった。
それなのに、「罰当たり」とさえ言われる程のものってなんなのか。考えてもわからない。
ぶわりと身の毛が弥立ち、肌が粟立ち、何を考えるよりも前に地を這っている身体がぶるりと芯から震え出す。
本能が危険を察知したのだろうか。これが虫の知らせというやつか。
何かが起こる予感がしていた。
…顔があげられない。恐ろしくて姿をみることができない。


「身に余る、なら取りあげてやろうか」


彼の声色に含まれていた怒はすぐに楽に変わり、嬉しそうな音を響かせた瞬間、私の身体から何かが抜け出していくのがわかった。
力が入らなくなり、起き上がることなんて出来なくなる。
──消えていく。忘れていく。亡くしていく。失ってしまう。

何かを喪失してしまったという強い絶望感と共にぼろぼろ涙が零れて止まらなくなる。
辛うじてまだ持ちあがったままの瞼。見える景色、蛍のような何かがチカチカと瞬いて消えていた。
あれを逃してはならないと思い、手を伸ばして拳の中に収めようとしてもうまく身体が動かない。
焦りでジタバタともがこうとして、それでも上手く行かない無様な姿をケタケタと笑って眺めているようだった。

もう少しで全てなくなってしまう…という瞬間になっても手を緩める様子はなく、
これはからかいでもなく、本気で全て搾り吸い取る気だと悟った。
最後には冗談だと撤回してくれるんじゃないかと甘い期待を抱いていたけど、ついに私の身体に完全に力が入らなくなる。
──身体が抵抗を諦めた。
──と、同時に心が悲鳴を上げた。絶叫した。
身体の代わりに感情が力の限り抗った。
怒りか悲しみか絶望かわからない混ぜこぜの感情が昂ぶって、まだ辛うじて働く喉から零れ落ちていく。


「……やめて」
「やめない」
「なんで!」
「気に食わないから。楽しいから」
「私はたのしくない…っ!」
「お前のことなんてどうでもいい」
「とらないで!」


悲願するも、受け入れられることはない。表面からは怒が失せ楽しそうに笑いつつも、やはりどこか苛立ち神経が昂ぶっている様子の彼は、私を見下ろし奪い取るばかり。


「まだ生きてたい…まだ嫌だ!まだ出来るはずなのに、まだ終わらなくてもよかったのに、私じゃなくてもよかったはずなのに…!」


喉に痛みが走る。焼かれるような刺激が広がるのにも構わず叫び続けた。


「消さないでとらないで奪わないで!私だって皆とおんなじものが欲しかった!」


叫んだ瞬間、私が今奪われているのは命のようなモノであり、魂とでも呼ぶべきものなのだと初めて気が付いた。
おんなじもの。全員ではないけれど、多くの者が当然のように持っているもの。
──そうだ、■■■■という人間は…私はずっと命がほしくてたまらなかった。
最初から期限がついている弱々しい命も、脆い身体も、嫌で悔しくてズルくてたまらなかった。
スタートが平等であるならば、人生の過程や結果がどうなったっていい。
それは持たざる物だった私という人間の極論だ。偏った嘆きだ。
持っていたらきっとどうでもいいなんて思えない。
こんなもしもの話をしたって不毛だって心底分かっていて、それでも私はずっと悲しくて悔しいままなのだ。

その懇願を聞いてテンポよく歌い続けていた男神の口が閉じて、初めて沈黙が下りた。
おねがい、おねがい、やめて、いやだ、とその間も私は呪詛のように、譫言のように呟き続ける。
まだ消えたくないのは、まだやり残したことがあるから。些細な不満や未練の積み重なり。
一度目の頃からそういうのはあったけど、今はここで出会った気のいいヒトたちとまだ過ごしたいという想いも加わった。
月日を重ねるごとに欲張りになっている自分に気が付く。
もういいとは、まだ思えない。

その様を見下ろしていた彼は初めて膝をつき、私をまじまじと間近に眺めた。不思議そうに何か観察しているようだった。
目を凝らして視えないものを見ようとしている。なるほど、と一人納得したように頷くと、彼は結論を下した。


「なら教えろ」
「……なにを」
「お前は薄っぺらではないんだと、永らえるに足る存在なんだと。その根拠を示せ。行動で訴えろ。言葉で表せ。無意識を曝け出せ。全身全霊で証明しろ、納得させろ、全てを尽くせ」
「……」


なぜそんなことを、なんの義理があってと言っても無駄なことくらいもう身をもって知っていた。
なぜ土壇場で心変わりしてくれたのか、惨めに嘆き叫ぶ弱者に温情を与える心を持っていたのか、実際の所はわからないけれど、男神は淡々と不自然に慈悲を与えた。

吸い取られていく感覚はなくなり、力が戻ってくるのがわかる。手を開き、握り、思うままに動くことを確認する。
それと同時に初めて頭をあげた。下手に動いて逆鱗に触れたくなくて、恐ろしくてたまらなくてみれなかったけど、ここまで来くれば躊躇っていても仕方ない。
何をどうやった所で奪われ手のひらで転がされることに変わりはない。
そこには予想に反してとても美しいものがいた。禍々しい声と要求とは正反対の風貌をしていた。


「俺はお前を可哀そうと思わない。俺はお前が気に食わない。特別他とは違っているだけ尚更」
「…じゃあ、なんで」


他とは違う。そうやって特別視される意味はわからなかったけど、それに既視感があった。これと同じような体験をしたことがあると思った。
でも、じゃあ何故?


「…憎いから?楽しいからなの?」
「そう」


髪も肌も着物も白で彩られた男神は、ただ一つその目だけは赤く、それを細めて悪戯をたくらむ子供のように笑い肯定した。
なぜ気に食わない物をこうして永らえさせたのか。
殺そうとしていた心理は受け入れがたいけど、理解はできる。目障りだから耐えがたく排除しようと手をかける。私にも一応納得はできる流れだ。
けれど、いきなり手のひらを返したことは理解ができない。
憎いという気持ちより甚振るのが楽しいという気持ちが上回ったのかと思ったけどそれもおそらく違う。
その二つは彼の中でまるで表裏一体のように存在していて、どちらに比重が傾いているという訳でもないようだ。
その嫌悪と同時に好意的な関心も示されるようになったようだ。何に誘発され突如そうなったのかはわからない。


「何をすればいいの」
「そうだな……じゃあ月に一度、ここへ通え」
「……毎日とか、言わないの」


意外で思わず聞くと、心外だと言わんばかりに首を振った。


「働かねば食えんだろう。食えねば餓えて干からびる。貧乏暇なし、弱いものから他の何を奪えど、時間までは奪わない」


持たざる者の事情をよくわかっているらしい、人を思う彼はやっぱりここの土地神みたいなものなのか。行動だけ見れば人を祟り害すような邪神にしか見えないけど。
私が特別気に食わないのか人間を嫌っているのかわからない。


「…でも、私をさっき殺そうとした」
「消えてしまえば時間も餓えも関係なくなる」
「……」


優しいんだか厳しんだかわかりやしない。
私はへたりこみながら、考えていた。
目をつけられたことはどうしようもない。気に食わないからと殺されようとしたこともどうしようもない。半ば娯楽のために生かされたことも。

じゃあこれからどうしようか。月に一度ここにやってきて、どうやって示したらいいんだろう。そもそも彼の意図が掴み切れていない。
ざわざわと胸の中で不安や恐怖や絶望や焦りが滲んでくる。けれどそれ以上に抗わなければ、どうにかせねばと対抗する強い意志がわいてくる。
俯いて真剣に思い悩む私のどこが琴線に触れたのかしらないが、彼は哄笑した。


「随分甘やかされて生きてきたんだろうけど」
「…?」
「でも俺は甘やかしてはやらない、憐れんではやらない。それを有難く思えばいい」
「…」


よく分からないけど、鞭で叩かれることに感謝するような特殊な感性は持っていない。
しかしこの恐ろしい存在に口応えできるはずもなく、私は沈黙を貫く。
口を開くだけ、最低限を問いかけるだけで精一杯なのに、まさかあなたにはそういう趣味があるの?なんて気安く聞けるはずがない。


「これからお前はどうするだろう、どうなるだろう。どうなって行くんだろう。俺もお前も変わらざるを得ない。楽しみだな」


見物だなと他人事のように言ってこちらに同意を求め笑うけれど、私にとっては他人事ではない。当事者として必死に策を練ろうとしているのに、人の気も知らないで高見の見物。
しかしでも、その口ぶりだとこの件は彼にとっても他人事ではないらしい。
その変化とは私だけではなく、自分のことも含まれているのかと少し意外に感じた。
一方的に責め嫌い、甚振っているだけかと思えば、彼本人にも直接関与する何かがあるようだ。

さっきの痛いほどの殺気のような物はからっと消え去っていて、無邪気に手を振り私を送出した。
約束を反故にされるんじゃないかという危惧はないのか。
境界線の向こうへ押し出されながら考えたけど、容易く相手を縛り付け言うことを聞かせられる、力あるもの側にある余裕なんだろう。
破ったら高見から"罰"を与えればいいんだから。

振り返った時にはもうその社は見えなくなっていて、手に持っていたはずのあの華やかな柄の木の板もない。
…届け物が出来ただけよかったんだよと自分を慰めながら家路についた。
やっぱりあれはあそこの失せ物だったみたいなんだし、それだけでも救われた。
空は暖かい色に染まり、陽が暮れかけていた。

これが、とある神様と穏やかではない交流を持った始まりの日だった。

2018.12.6